――橋本正義視点
無人島の夜は、思っていたよりも騒がしい。
波の音。
虫の声。
木々のざわめき。
誰かが寝返りを打つ音。
小声で交わされる不満。
昼間は日差しと人の声に紛れていたものが、夜になると妙に近く聞こえる。
まったく、面倒な試験だ。
豪華客船で優雅に過ごせると思ったら、次は無人島生活。
高度育成高等学校という場所は、つくづく性格が悪い。
まあ、それを面白がれる奴が残るのだろう。
そして、面白がれない奴は勝手に疲れていく。
そういう意味では、この試験はかなり分かりやすい。
葛城は、分かりやすく頑張っている。
水と食料を管理し、拠点を押さえ、班を分け、文句を言う奴を抑える。
堅実。
慎重。
真面目。
悪くはない。
悪くはないが、重い。
あいつの指示は正しい。
けれど正しすぎて、周りの呼吸まで合わせようとする。
その横で、戸塚が張り切っている。
葛城さんが言った。
葛城さんの指示だ。
葛城さんは分かっている。
そのたびに、周囲の何人かが少しだけ顔を曇らせる。
戸塚は気づいていない。
いや、気づけるならあいつは戸塚じゃない。
良くも悪くも、分かりやすい奴だ。
だからこそ、扱いやすい。
坂柳がいれば、きっとそう言っただろう。
いや、言わないか。
坂柳なら、もっと綺麗に笑う。
その笑顔の奥で、もう盤面は決まっている。
俺は洞窟から少し離れた木陰に立っていた。
見張りの交代時間まで、まだ少しある。
Aクラスの生徒たちは、それぞれ寝床や荷物の整理に追われている。
葛城は奥で物資表を確認している。
戸塚はその近くで、必要以上に背筋を伸ばしていた。
白峰は――見当たらない。
それが少しだけ気になった。
自分でも、らしくないと思う。
あいつがどこにいようと、本来はどうでもいい。
白峰奏。
Aクラスの中でも、特に扱いづらい存在だ。
葛城派ではない。
坂柳派でもない。
中立と言えば聞こえはいいが、あいつの場合はそれとも違う。
どこにも座っていないのに、なぜかそこにいる。
何かを決めるわけじゃない。
誰かを引っ張るわけでもない。
なのに、時々、場の向きだけが少し変わる。
気味が悪い。
そう思ったのは、たぶん俺だけじゃない。
葛城が龍園との契約内容を変えた。
あれは少し意外だった。
最初の葛城なら、Cクラスから物資を引き出す代わりに、ある程度の継続支払いを飲むと思っていた。
もちろん、葛城は馬鹿じゃない。
無制限に渡すような真似はしないだろう。
それでも、Aクラスの安定のためなら、試験後のポイント支払いをある程度受け入れる可能性は高かった。
坂柳も、そこは読んでいた。
龍園も、そこを狙っていたはずだ。
なのに、葛城は途中で契約の形を変えた。
卒業まで続く長い支払いを拒み、代わりに試験中のポイント消費を増やす方向へ舵を切った。
短期的には損。
長期的には、龍園に握られるものが減る。
らしくないわけではない。
葛城らしいと言えば、かなり葛城らしい。
だが、その判断に至るタイミングが少し早い。
何かが挟まった。
そう考えるのが自然だった。
そして、挟まれるものがあるとすれば、一人しかいない。
白峰。
あいつは、葛城を勝たせたわけじゃない。
具体策を出したわけでもない。
けれど、葛城が自分で判断を変えるだけの何かを置いた。
それが面倒で、邪魔だった。
「橋本」
背後から声がした。
振り返ると、坂柳派の男子が立っていた。
声は低い。
周囲に聞こえないよう注意している。
「少し離れる」
俺は軽く言う。
「見張りの前に水場の方を見てくる。葛城には適当に言っといて」
「分かった」
そいつは短く頷いた。
余計なことは聞かない。
こういう時、坂柳側の連中は便利だ。
必要なことだけを共有する。
感情で騒がない。
葛城派とは違う。
俺は肩を回しながら歩き出した。
足元の土は昼より冷えている。
湿った葉を踏むたびに、小さな音が鳴る。
別に隠密行動をしているわけじゃない。
堂々と歩けばいい。
探索。
水場確認。
見回り。
理由はいくらでも作れる。
無人島では、移動しているだけで怪しく見えることもあれば、何も怪しくないようにも見える。
要は、見せ方だ。
林を抜けると、少し開けた場所に出た。
月明かりが薄く差している。
そこに、Cクラスの生徒が一人立っていた。
龍園本人ではない。
まあ、当然だ。
あいつが毎回直接動く必要はない。
「遅かったな」
「夜の散歩にはちょうどいい時間だろ」
俺は軽く返す。
相手は無愛想にこちらを見る。
こういうタイプは苦手じゃない。
話が短く済む。
「確認だ」
相手が言った。
「Aクラスのリーダー」
「さあね」
俺は笑う。
「いきなり核心かよ。もう少し世間話しようぜ」
「龍園さんが聞いている」
「あっそ」
龍園さん、ね。
CクラスはCクラスで、分かりやすい。
支配と恐怖。
それで回るなら、それも一つの形だ。
「葛城じゃない」
俺は短く言った。
相手の目がわずかに動く。
「じゃあ誰だ」
「戸塚」
名前を出した瞬間、自分でも少し可笑しくなった。
葛城の隣で吠えている犬。
龍園の言い方を借りれば、そんなところだろう。
「確定か」
「さあな。俺は見たものしか言ってない」
「見たもの?」
「洞窟の占有。カードの動き。葛城の不自然な立ち回り。戸塚の位置。あとは、まあ……あいつの分かりやすさ」
完全な証拠を渡す必要はない。
龍園が欲しいのは確信に近づく材料だ。
その材料としては十分だろう。
「葛城は?」
「表向きの指揮役。実際、指揮してるのも葛城だ」
「契約は?」
「条件を変えた」
相手の眉が動いた。
「変えた?」
「長すぎる契約は飲まない。卒業まで引っ張られるのを嫌がった」
「龍園さんの条件を拒んだのか」
「完全にじゃない。物資は受ける。対価も払う。ただし、短くする。試験の中でできるだけ処理するつもりらしい」
相手は黙った。
それだけで、龍園にとって期待通りではなかったことが分かる。
「入れ知恵か」
「葛城が自分で考えたんだろ」
俺は笑って言った。
「まあ、誰かが横から何か言った可能性はあるけどな」
「誰だ」
「さあね」
そこまでは言わない。
白峰の名を出すのは簡単だ。
だが、今ここで白峰を龍園に強く意識させすぎるのは少し早い。
いや、もう意識しているか。
龍園なら、薄々気づいていてもおかしくない。
ただ、こちらから余計な札を渡す必要はない。
「橋本」
相手が低く言った。
「龍園さんは、曖昧な情報を好まない」
「へえ」
「隠していることがあるなら――」
「脅しは龍園本人にやらせろよ。お前がやると安い」
相手の表情が険しくなる。
俺は肩をすくめた。
「情報は渡した。リーダーは戸塚。契約の条件を変更。葛城は警戒してる。これで十分だろ」
「……」
「それにさ」
俺は少しだけ声を落とす。
「葛城が警戒してるってことは、こっちも下手に動けないってことだ。Aクラス内で変に目立てば、俺が疑われる」
「それはお前の都合だろ」
「そう。俺の都合。大事だろ?」
相手は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
龍園へどう伝えるかは相手次第。
その後、龍園がどう動くかは龍園次第。
俺の仕事は、必要なものを必要な分だけ流すことだ。
全部を渡す必要はない。
坂柳の指示も、そういうものだった。
葛城を削る。
だが、今すぐ崩し切る必要はない。
葛城派が弱り、坂柳側の優位が強まる。
それでいい。
俺は踵を返した。
「もう行くのか」
「夜の散歩は長いと怪しまれるからな」
軽く手を振り、林の中へ戻る。
背後の気配が遠ざかる。
足音を殺すつもりはない。
むしろ、普通に歩く。
普通でいることが、一番怪しくない。
俺はいつも通りに戻る。
軽く。
薄く。
何も持っていないように。
何も置いてきていないように。
「橋本くん」
木々の間から、声がした。
足が止まる。
白峰がいた。
木の幹に片手を添え、月明かりの薄い場所に立っている。
顔はよく見えない。
だが、その声だけははっきり聞こえた。
「うわ、びっくりした」
俺は笑う。
「何? こんなところで肝試し?」
「ううん」
「じゃあ迷子? 白峰って、夜の森とか似合うよな。なんか幽霊っぽいし」
「そうかな」
「褒めてる褒めてる」
「たぶん、褒めてないね」
「バレた?」
いつもの調子で返す。
白峰は怒らない。
笑いもしない。
ただ、こちらを見ている。
その視線が面倒だった。
「見回り?」
「そう。水場の方。葛城に頼まれてさ」
「葛城くんに?」
「いや、正確には自主的に。Aクラスのためにね」
「そっか」
白峰は頷いた。
それだけ。
問い詰めない。
疑っているとも言わない。
だが、その沈黙が妙に長い。
「何か言いたそうじゃん」
俺は笑ったまま言う。
「言えば?」
「今日は、少し足音が軽いね」
「何それ。褒めてる?」
「ううん」
即答された。
ひどいな、と返そうとして、少しだけ遅れた。
白峰は続ける。
「何かを置いてきたみたいに聞こえた」
夜の空気が、一瞬だけ静かになる。
虫の声が遠くなった気がした。
何かを置いてきた。
それは比喩だ。
たぶん、こいつ自身も確信して言っているわけじゃない。
具体的に何を見たのか。
誰と話していたのか。
何を渡したのか。
そこまでは分かっていないはずだ。
分かっているなら、もっと違う言い方をする。
けれど、何かがあったことだけは拾っている。
それが気持ち悪い。
「白峰さ」
俺は笑顔を崩さずに言う。
「そういうこと女子に言ったら、普通に嫌われるぜ?」
「橋本くんは女子じゃないよ」
「そこじゃないんだよなあ」
「うん。知ってる」
白峰は淡々としている。
冗談が通じていないわけじゃない。
通じた上で、流している。
それもまた面倒だ。
「で? 俺が何を置いてきたって?」
「分からない」
「分からないのに言うの?」
「うん」
「それ、結構失礼じゃない?」
「そうかもしれない」
白峰は否定しない。
「でも、橋本くんが戻ってくる時の感じが、少し変だったから」
「変ねえ」
「いつもより軽かった」
「軽いのはいつもだろ。俺の長所じゃん」
「うん。いつもの軽さは、もっと楽そう」
白峰は少し考えるように、視線を足元へ落とした。
「今のは、軽くしてる感じだった」
笑えた。
いや、笑うしかなかった。
「白峰ってさ、たまにめちゃくちゃ失礼だよな」
「ごめんね」
「謝るの早いな」
「失礼かもしれないとは思ったから」
「じゃあ言わなきゃいいじゃん」
「言わない方がいいこともあると思う」
「今回は?」
「分からない」
「分からないのに言うんだな」
「うん」
白峰は顔を上げる。
その表情は相変わらず穏やかだった。
「橋本くんが、軽いままどこかに行きそうだったから」
「どこかって?」
「分からない」
「またそれか」
「うん」
俺は肩をすくめる。
この会話は厄介だ。
白峰は何も断定しない。
だから否定もしづらい。
問い詰めてくるなら、かわしようがある。
証拠を出せと言えばいい。
何が言いたいのか聞けばいい。
だが、白峰は答えを持っていない。
ただ違和感だけを置いてくる。
それが一番面倒だった。
「白峰」
「うん」
「お前、葛城の味方なの?」
「Aクラスではあるよ」
「そういう話じゃなくて」
「葛城くんを勝たせたいかってこと?」
「まあ、そんな感じ」
白峰は少し黙る。
木々の隙間から見える月が、薄く雲に隠れ始める。
「勝つために動く人は、もういると思う」
「それ、葛城にも言った?」
「うん」
「あいつ、嫌な顔しただろ」
「してた」
「だろうな」
少しだけ楽しくなる。
葛城の表情が目に浮かぶ。
白峰の曖昧な言葉に眉をひそめる葛城。
それでも無視しきれない葛城。
あれはあれで面白い。
「じゃあ、お前は何してるわけ?」
俺は尋ねる。
「勝たせる気がないなら、何のためにそんなこと言うんだよ」
「選ぶ前に、少し立ち止まれる場所を置いてる」
「……何それ」
「そういう感じ」
「分かりづら」
「よく言われる」
「直す気は?」
「できるならしてる」
その言い方に、少しだけ笑ってしまう。
不思議な奴だ。
底が見えないようで、妙に不器用でもある。
普通ならもっと上手くやる。
自分の言葉が通じにくいと分かっているなら、分かりやすく言えばいい。
でも白峰は、たぶんそれができない。
感じたものを、そのまま渡すと不自然になる。
だから言葉を選ぶ。
選んだ結果、余計に曖昧になる。
不器用なのか、計算なのか。
その境目が見えない。
「じゃあ、俺にも立ち止まれって?」
「橋本くんは、立ち止まるの苦手そうだね」
「ひど」
「少しでも止まったら、軽くいられなくなるから」
白峰の声は静かだった。
笑っていた口元が、少しだけ止まる。
「……何それ。俺、そんなキャラじゃないんだけど」
「うん」
「うんって」
「橋本くんは、重そうに見せないのが上手いと思う」
言われた瞬間、胸の奥に細い針が入ったような気がした。
不快だ。
非常に不快だ。
こいつは何も知らない。
坂柳とのやり取りも。
Aクラス内での立場も。
葛城をどう見ているかも。
俺が何を見て選んでいるかも。
何も知らないくせに、声の端だけを拾ってくる。
だから不快なんだ。
「白峰ってさー」
俺は笑う。
「友達少ないだろ」
「多くはないね」
「だろうな。そういうこと言ってたら増えねえよ」
「うん」
「だから『うん』じゃなくてさ」
俺は軽く息を吐く。
「俺は別に、楽しい方に行ってるだけ。重いのは葛城とか戸塚とか、そういう真面目な奴らだろ」
「そうかもしれないね」
「だろ?」
「でも、楽しい方に行く時も、選んではいると思う」
「……」
「軽い人が、何も持ってないわけじゃないから」
その言葉に、昼間の葛城の顔がふと浮かんだ。
あいつは重い。
とにかく重い。
Aクラスを背負う。
派閥を背負う。
結果を背負う。
責任を背負う。
俺には無理だ。
無理というより、やりたくない。
だから軽くいる。
笑って、流して、どちらにも寄れるようにしておく。
それが俺のやり方だ。
坂柳に乗るのも。
葛城を茶化すのも。
龍園へ情報を流すのも。
全部、俺がそう選んでいる。
白峰に言われるまでもない。
「これって説教?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
「戻る前に、少しだけ言っておこうと思った」
「何を?」
「今日の足音、あまり長く続けない方がいいと思う」
「……」
「戻る時に、戻れなくなりそうだから」
白峰はそれだけ言うと、少し横にずれた。
道を開けたのだと気づく。
止める気はないらしい。
問い詰める気もない。
葛城に告げ口する様子もない。
ただ、言葉だけを置いていく。
選ぶのはお前だとでも言うように。
「白峰」
「うん」
「お前、ほんとムカつくな」
「ごめん」
「謝るのもムカつく」
俺は小さく笑った。
今度の笑いは、少しだけ自然だったかもしれない。
「まあ、忠告として受け取っとくぜ」
「うん」
「でも俺は、俺のやり方でやるから」
「それでいいと思うよ」
「軽いな」
「橋本くんほどじゃないよ」
「言うじゃん」
そう返して、俺は白峰の横を通り過ぎた。
背中に視線を感じる。
振り返らない。
振り返れば、何かを認めたような気がする。
林を抜けると、洞窟の明かりが見えてきた。
Aクラスの拠点。
葛城の作った秩序。
戸塚の大きな声。
坂柳のいない空席。
そして、その空席から伸びている見えない糸。
俺はその糸の上を、軽く歩いている。
そのはずだった。
洞窟に戻ると、戸塚がこちらを見つけた。
「橋本、お前どこ行ってたんだよ」
「水場の確認。いやー、夜の森って怖いね」
「ふざけるな。勝手に動くなよ」
「はいはい。葛城には報告しとくって」
「葛城さんだろ」
「細かいなあ」
「お前はいつも――」
「戸塚」
奥から葛城の声が飛んだ。
戸塚はすぐに姿勢を正す。
「はい!」
「今は口論する時間ではない。物資表を持ってこい」
「分かりました!」
戸塚は俺を睨んでから、葛城の方へ向かった。
相変わらず分かりやすい。
けれど、少しだけ変わった気もする。
白峰に何か言われてから、あいつは怒鳴る前に一拍置くようになった。
ほんの少し。
気づかない奴は気づかない程度。
でも、変化は変化だ。
面倒なことをしてくれる。
俺は洞窟の壁に背を預けた。
葛城が物資表を見ている。
戸塚がその隣で説明している。
白峰は、少し遅れて戻ってきた。
こちらを見ることはなかった。
それが逆に気になる。
あいつは何もしていない顔で、場の端に座る。
何もしていない。
そう見える。
けれど、実際には少しずつ誰かの足元に
躓くほどではない。
進む方向を変えるほどでもない。
ただ、一瞬だけ足元を見るための石。
葛城も、戸塚も、俺も。
たぶん、その石を一度は見てしまった。
まったく、本当に面倒だ。
夜が深くなる。
生徒たちの声が少しずつ小さくなっていく。
俺は目を閉じた。
眠るつもりはない。
まだ、考えることがある。
龍園には戸塚の名が渡った。
葛城の契約変更も伝わった。
坂柳には、後で報告する必要がある。
葛城は削れる。
戸塚も揺れる。
Aクラスは少しずつ、坂柳の望む形に近づいていく。
そのはずだ。
なのに、どこかで音がずれている。
白峰がいる。
それだけで、折れるはずのものが少し違う角度で曲がる。
俺は薄く笑った。
軽く。いつも通りに。
だが、白峰の言葉が耳の奥に残っていた。
今日の足音、あまり長く続けない方がいいと思う。
戻る時に、戻れなくなりそうだから。
余計なお世話だ。
そう思った。
思ったはずなのに、なぜかその夜、俺は自分の足音を何度も思い出していた。