稚拙な出来ですが、楽しんで頂けると幸いです。
――葛城康平視点
夜のうちに、契約は成立した。
洞窟から離れた林の奥。
Aクラスの見張りにも、Cクラスの生徒にも、必要以上に人目がつかない場所。
そこで俺は、龍園と再び向かい合った。
今回は口約束ではない。
簡易的なものとはいえ、条件を書き記した紙を用意した。
試験中に交わす契約書など、どこまで有効かは分からない。
学校が認める正式な文書ではない。
だが、互いの条件を明文化する意味はある。
曖昧な言葉を残せば、龍園はそこに後から別の意味を差し込む。
それは避けなければならなかった。
最初に龍園が提示した条件は、あまりにも重かった。
Cクラスは、物資と他クラスのリーダーに関する情報を提供する。
その見返りとして、Aクラスは生徒一人につき毎月二万プライベートポイントを、卒業までCクラスへ支払い続ける。
毎月二万。
生徒全員分。
それを卒業まで。
金額だけの問題ではない。
Aクラスが、Cクラスに支払い続ける。
その事実そのものが、長い鎖になる。
だから俺は、その条件を飲まなかった。
支払いを卒業まで続けることはできない。
そう告げた時、龍園は怒らなかった。
むしろ、楽しげに笑った。
「鎖は短い方が好みか?」
龍園は紙を見下ろし、口角を上げた。
「最初はもっと素直に首を出すと思ったんだがな」
「お前の首輪を受け入れるつもりはない」
「首輪ねえ。言うようになったじゃねえか、葛城」
「卒業までの支払いは飲めない」
「だったら、代わりに何を差し出す?」
「支払い期間を短縮する。その代わり、月額は上げる」
「足りねえな」
龍園は即答した。
「卒業までの支払いを拒むなら、それだけじゃ釣り合わねえ」
「なら、そちらの提供内容も変えればいい」
「あ?」
「物資の量を減らして構わない。不足分はこちらで購入する」
「ククッ」
龍園は低く笑った。
「自分から試験ポイントを削るってか」
「長期的にお前へ支払い続けるよりはましだ」
「随分と思い切ったな。誰かに言われたか?」
「俺が判断した」
「そうかよ」
龍園の目は、俺を見ているようで、その背後を探っているようだった。
白峰の言葉が脳裏をよぎる。
選んだ相手に、思った以上のものを渡してしまうこと。
不快な言葉だった。
だが、あの言葉がなければ、俺はこの条件変更に踏み切るのがもう少し遅れていたかもしれない。
だからこそ、俺は龍園の視線から目を逸らさなかった。
「物資を減らすのはいい」
龍園が言った。
「だが、それでも足りねえ」
「何を求める」
「情報の価値も変える」
「……どういう意味だ」
「卒業までの支払いを飲むなら、こっちは掴んでる情報を相応に出すつもりだった」
龍園は契約書の紙面を指で叩いた。
「だが、お前が鎖を短くするなら、情報も短くなる」
「確定情報ではなくなるということか」
「ああ」
龍園は楽しそうに笑う。
「こっちが掴んだ候補情報だ。精度の保証まではしねえ」
「リーダー情報を餌にして、曖昧な情報を渡すつもりか」
「嫌なら契約しなけりゃいい。物資も情報もなしで、この島を乗り切ればいいだろ」
「……」
「それとも、Aクラス様は物資も欲しい、情報も欲しい、でも代価は軽くしたいってか?」
龍園の声には、挑発が混じっていた。
こちらが引けば、物資は得られない。
かといって、最初の条件を飲めば、Aクラスは卒業までCクラスに縛られる。
どちらにも傷が残る。
なら、選ぶしかない。
「条件を整理する」
俺は言った。
「Cクラスは、物資の一部と、他クラスリーダーに関する候補情報を提供する」
「ああそうだ」
「Aクラスは、その対価として試験後三か月間、生徒一人につき毎月五万プライベートポイントを支払う」
「加えて、物資の不足分はお前らが試験中ポイントで購入する」
「それはこちらの判断だ」
「結果的には同じだろ」
龍園は笑う。
「Aクラスの残ポイントは削れる。俺への支払いも残る。契約書も残る。悪くねえ」
「お前にとっては、だろう」
「お前にとっても悪くねえはずだぜ。卒業までの支払いは避けられるんだからな」
「……」
「短い鎖にしてやったんだ。感謝しろよ」
「鎖であることに変わりはない」
「分かってるじゃねえか」
龍園は口角を上げた。
「短くても鎖は鎖だ。お前らが物資を欲しがった事実は残る。AクラスがCクラスに支払う事実も残る。そこは消えねえ」
「その程度なら許容する」
「その程度、ねえ」
龍園は契約書を指で弾いた。
「本当にそう思ってるなら、後で苦労するぜ」
「物資は契約書の確認後に受け取る」
「ああ。こっちも確認させてもらう。後から文句を言われちゃ面倒だからな」
「面倒を起こすのはお前の方だろう」
「それも含めて契約だろ?」
龍園は最後まで楽しそうだった。
物資はその場で受け渡された。
食料。
飲料。
最低限の衛生用品。
量は多くない。
当初、龍園が提示した長期契約を飲んでいれば、もっと多くの物資を得られたのだろう。
情報も、より確度の高い形で渡されたかもしれない。
だが、俺はそれを選ばなかった。
代わりに、Aクラスは不足分を自前の試験ポイントで補う。
その分、残ポイントは減る。
試験結果にも響く。
それでも、卒業まで龍園に繋がれるよりはいい。
龍園に長く縛られることは避けた。
だが、短期的な損失は受け入れた。
それが、俺の選択だった。
そして翌朝。
洞窟の空気は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
眠りが深かったわけではない。
環境が良くなったわけでもない。
硬い地面。
湿った空気。
虫の気配。
慣れない夜。
その全ては変わっていない。
それでも、追加物資が入ったことで、生徒たちの不安はわずかに薄まっていた。
水と食料がある。
衛生用品も最低限は確保できた。
それだけで、声の重さは少し変わる。
問題は、代償だ。
俺は洞窟の入口近くで、物資表と契約書の写しを見比べていた。
隣には戸塚が立っている。
夜のうちに行った物資交換の詳細を把握させてある。
戸塚は、何度も数字を確認していた。
「葛城さん」
「何だ」
「追加分を反映しました。今日と明日の配給は安定します。水場の使用も含めれば、体調不良者を出す可能性は下げられると思います」
「そうか」
「ただ……」
戸塚は紙を握る手に力を込めた。
「残ポイントは、当初の予定より落ちます」
「分かっている」
「Cクラスから受け取った物資も、思ったより多くありません。これなら、不足分をこちらで買う必要があります」
「ああ」
「それに、契約書の情報欄も……確定ではなく、候補情報と書かれています」
「そうだ」
「つまり、龍園は情報を完全には渡していない」
「当然だ。こちらが条件を変えた以上、向こうも対価を変えてきた」
「……」
戸塚の顔に、不満が浮かぶ。
「だったら、こちらが損をしているだけじゃないんですか」
「そう見えるだろうな」
「実際、そうでは?」
戸塚の声には苛立ちが混じっていた。
だが、昨日までのように感情だけで押し出しているわけではない。
疑問として出している。
俺は少しだけ目を細めた。
「聞いてもいいですか」
戸塚が続ける。
「葛城さんは、点数が下がると分かっていて、あの条件に変えたんですよね」
「そうだ」
「なぜですか」
問い方は拙い。
だが、悪くない。
戸塚は今、俺の判断を盲目的に肯定しようとしていない。
理解しようとしている。
「龍園に長く握られることを避けるためだ」
「長く握られる……」
「最初の条件は、卒業までの支払いだった」
俺は契約書の写しを戸塚へ渡した。
「生徒一人につき毎月二万。金額だけなら、今回の短期支払いより一か月あたりは軽く見えるかもしれない。だが、卒業まで続く」
「……」
「AクラスがCクラスに支払い続けるという事実が残る。支払いが続く限り、その事実は消えない」
「でも、隠せば――」
「隠し続けられる保証はない」
戸塚は黙った。
「龍園は、契約そのものを武器にできる。こちらが支払い続ければ、Aクラス内にも疑念が残る。なぜCクラスへポイントを渡しているのか。誰が決めたのか。何のためだったのか」
「それが、葛城さんへの批判になる」
「そうだ」
「でも、今回の条件でも批判されます」
「当然だ」
俺は紙を畳んだ。
「三か月間の高額支払い。試験中ポイントの追加消費。情報の精度低下。どれも軽くない」
「だったら……」
戸塚は言いかけて、口を閉じた。
感情で言葉を押し出す寸前で、踏みとどまった。
昨日までなら、そのまま言っていただろう。
葛城さんが不利になる必要はありません。
龍園なんかに譲る必要はありません。
あるいは逆に、Aクラスの点数を守るべきです、と。
だが、今の戸塚は言葉を探している。
俺は待った。
「……どちらを選んでも、傷は残るんですね」
「ああ」
「だから、長い傷より、短い傷を選んだ」
「そうだ」
戸塚は黙り込んだ。
完全に理解しているわけではないだろう。
だが、それでいい。
すぐに理解できるほど単純な判断ではない。
俺自身、これが正解だと断言できるわけではない。
短期的には不利。
長期的にも、本当に正しかったかは後にならなければ分からない。
だが、選ぶしかない。
龍園に卒業まで繋がれるか。
今この場で点数を削り、短い支払いを受け入れるか。
俺は後者を選んだ。
「葛城さん」
「何だ」
「納得しきれたわけじゃありません」
「そうか」
「でも……考えます」
戸塚はそう言った。
その声は小さい。
だが、葛城の名前を借りた声ではなかった。
戸塚自身が、戸塚自身の中から出した声だった。
「俺の判断を無理に正しいと思う必要はない」
「はい」
「だが、お前はリーダーだ。表向きの指揮は俺が執るが、お前がただ俺の後ろに立っていればいいわけではない」
「……はい」
「考えろ。俺の判断が正しいのか。間違っているのか。間違っているなら、どこが間違っているのか」
戸塚は一度、強く頷いた。
「分かりました」
その返事には、まだ頼りなさが残る。
だが、昨日までの勢いだけの返事とは違った。
俺は洞窟の奥へ視線を向けた。
生徒たちは少しずつ起き始めている。
今日の配給を待つ者。
水場へ向かう準備をする者。
物資の量を見て安心したように息を吐く者。
その一方で、契約書の存在を知る者は少ない。
俺は全員に詳細を伝えるつもりはなかった。
だが、方針は説明する必要がある。
隠しすぎれば、疑念になる。
出しすぎれば、混乱になる。
その線を見誤れば、Aクラスは内側から崩れる。
「戸塚」
「はい」
「全体へ方針を伝える。班の管理者を集めろ」
「分かりました!」
戸塚が動き出す。
その背中を見送りながら、俺は契約書の写しをもう一度見下ろした。
龍園の署名。
俺の署名。
三か月間の高額支払い。
物資量の制限。
情報は確定ではなく候補。
短く切った鎖。
それでも、鎖であることに変わりはない。
しばらくして、洞窟内に各班の代表が集まった。
葛城派。
坂柳派。
どちらにも明確に属さない者。
あえて混ぜた。
昨日までなら、重要な役割は葛城側で固めた方が効率的だと考えたかもしれない。
だが、それでは不満が見えない場所に溜まる。
見える場所に置く。
それが今の俺の判断だった。
「昨日、Cクラスと物資交換を行った」
俺がそう言うと、数人の表情が動いた。
当然だ。
完全に隠しておくより、先にこちらから伝えた方がいい。
「交換した物資は、水、食料、最低限の衛生用品だ。今日と明日の配給を安定させるために使用する」
「対価は?」
坂柳派の生徒が聞いた。
声は静かだったが、探る響きがある。
「プライベートポイントと、試験中ポイントの消費だ」
「試験後も支払いが続くんですか?」
「三か月だけだ」
洞窟内の空気が少し動いた。
「三か月でも、支払いは残るんですよね」
「ああ」
「金額は?」
「軽くはない」
「詳しくは言えないんですか」
「今は必要な範囲だけを伝える」
坂柳派の生徒の目が細くなる。
不満は大いにあるだろう。
だが、全てをここで明かすわけにはいかない。
契約内容の詳細を広げれば、それ自体が龍園の餌になる。
「ただし、支払いは短期で完結する。AクラスがCクラスに長く握られる形は避けた」
「でも、その代わり試験中のポイントが減りますよね」
「そうだ」
「結果に響くのでは?」
「可能性はある」
ざわめきが広がる。
俺は声を荒げなかった。
「今回の判断は、短期的な点数よりも、長期的なリスクを避けるためのものだ」
「それは葛城くんの判断ですか」
「ああ」
「坂柳さんなら、別の判断をしたかもしれませんね」
その言葉に、戸塚の肩が動いた。
顔が険しくなる。
だが、声は出さなかった。
俺はそちらを一瞥し、すぐに発言者へ視線を戻す。
「そうかもしれない」
洞窟内が静まった。
否定しなかったことが意外だったのだろう。
「だが、今この場で指揮を執っているのは俺だ。この判断の責任は俺が負う」
「……」
「不満があるなら、記録しておけ。試験後、判断材料にすればいい。だが今は、決まった方針のもとで動く」
その場の空気が重くなる。
だが、昨日のような刺々しい反発ではない。
不満はある。
疑念もある。
しかし、隠していたものを暴かれた時のような揺れではない。
最初から見える位置に置いた。
それだけでも違う。
「今日以降、配給は昨日より調整する。水分補給と休憩は班ごとに管理しろ。体調不良者を出すな」
生徒たちが頷く。
「物資管理には複数人を置く。葛城派、坂柳派で固めることはしない。互いに記録を確認しろ」
戸塚がわずかに表情を引き締めた。
不満はあるだろう。
それでも、今は口を挟まない。
それでいい。
「それと、Cクラスから得たリーダー情報については、確定情報として扱わない」
数人の視線がこちらへ向いた。
「候補情報だ。使う場合も、必ずこちらで裏を取る」
「情報まで確定じゃないんですか?」
「そうだ」
「それで支払うんですか?」
「支払いは、物資と情報の両方に対する対価だ。ただし、こちらも情報を鵜呑みにはしない」
不満の色が濃くなる。
当然だ。
物資は少ない。
支払いは残る。
情報は確定ではない。
数字だけを見れば、得とは言い切れない。
だが、卒業までの支払いを避けたという意味は、今この場の全員には伝わらない。
それでも、ここで説明しすぎれば別の火種になる。
「以上だ。各班、動け」
生徒たちは散っていく。
小さな声が洞窟内に残る。
Cクラスと契約したらしい。
三か月だけらしい。
でも金額は高いらしい。
ポイントは減る。
情報も確定ではない。
葛城が責任を負うと言った。
坂柳ならどうしただろう。
それらの声を、俺は聞き流した。
すべてを止めることはできない。
不満を消すこともできない。
なら、管理できる場所に置くしかない。
「葛城さん」
戸塚が隣へ戻ってきた。
「何だ」
「さっき……坂柳の名前を出されて、正直、腹が立ちました」
「だろうな」
「でも、言い返しませんでした」
「見ていた」
「言い返した方がよかったですか」
「いや」
戸塚は少しだけ息を吐いた。
「俺だったら、昨日までならたぶん怒鳴ってました」
「だろうな」
「……否定しないんですね」
「事実だ」
「はい」
戸塚は苦い顔をした。
「でも、怒鳴ったら、また葛城さんの敵を増やすだけ……いや」
戸塚は言い直すように口を閉じた。
「違いますね。葛城さんの敵とかじゃなくて、俺が周りを押し返すことになる」
俺は戸塚を見る。
戸塚は少し気まずそうに視線を逸らした。
「白峰に言われたこと、まだ腹立ってますけど」
「そうか」
「でも、少し分かりました」
「何が」
「俺が葛城さんのために言っているつもりでも、相手にはそう聞こえないことがあるって」
戸塚の声はまだ硬い。
だが、自分の言葉だった。
白峰の言葉をただなぞっているのではない。
戸塚自身の中で噛み砕こうとしている。
「分かったなら、次に活かせ」
「はい」
その時、洞窟の入口付近から声がした。
「今のは、少し戸塚くんの声だったね」
白峰だった。
いつからそこにいたのか分からない。
戸塚はすぐに眉を吊り上げた。
「お前、また聞いてたのかよ!」
「少しだけ」
「少しだけって何だよ!」
「最後の方だけ」
「余計悪いだろ!」
戸塚の声が上がる。
だが、昨日までのような尖りは少し弱い。
白峰は首を傾げる。
「怒ってる声は、分かりやすいね」
「うるせえよ!」
「戸塚」
俺が制すると、戸塚はすぐに口を閉じた。
「……すみません」
白峰はそれ以上、戸塚を揺らすようなことは言わなかった。
代わりに、俺へ視線を向ける。
「物資、入ったんだね」
「ああ」
「少なかった?」
「分かるのか」
「みんな、安心してるけど、葛城くんの声は軽くなってないから」
「……」
戸塚がまた顔をしかめる。
「相変わらず意味分かんねえな」
「うん」
「認めるなよ!」
白峰は戸塚を見て、わずかに目元を緩めた。
笑ったのかどうか、判別しづらい程度の変化だった。
「白峰」
「うん」
「水場の様子は」
「東側に他クラスの足跡が増えてる。三人か四人。荷物を持っていた人もいると思う」
「どこのクラスだ」
「断定はできない。でも、歩き方はまとまってなかった」
「Cクラスか」
「可能性はある」
龍園がこちらの水場を探っている可能性は高い。
契約で物資を渡したからといって、龍園がこちらを攻めない理由にはならない。
むしろ、契約の形が変わった分、別のところで取り返しに来る可能性がある。
「戸塚」
「はい」
「水場の見張りを二名追加しろ。坂柳派からも一名入れる」
「……はい」
一瞬、不満が顔に出た。
だが、戸塚は飲み込んだ。
「それと、橋本を水場周辺の確認に入れる」
「橋本を、ですか?」
「ああ。ただし単独では動かすな」
「分かりました。誰をつけますか」
「白峰と、もう一人」
白峰がこちらを見る。
「僕も?」
「そうだ。単独行動は禁止だと言ったはずだ」
「分かった」
「本当に分かっているのか」
「たぶん」
「……」
いつもの返答だった。
信用はできない。
だが、白峰を橋本の近くに置く意味はある。
橋本は自由に動かせば軽く動く。
縛りすぎれば、こちらから見えない場所で動く。
なら、見える場所へ置く。
白峰と一緒なら、少なくとも何か違和感があれば拾う可能性がある。
確証はない。
だが、今はそれで十分だ。
「橋本には俺から伝える」
「はい」
戸塚が頷く。
白峰は何も言わない。
ただ、洞窟の外へ視線を向けた。
朝の光が差し込み、白峰の横顔を薄く照らす。
「葛城くん」
「何だ」
「短くしたんだね」
俺は一瞬、返事に詰まった。
契約のことを言っているのだろう。
鎖。
龍園との繋がり。
白峰はその言葉を使わなかった。
だが、意味は分かった。
「そうだ」
「でも、重くもなった」
「……ああ」
否定できなかった。
短くした鎖は、軽くなったわけではない。
月額は上がった。
物資は減った。
情報は確定ではなくなった。
その分、Aクラスは自前で多くを補わなければならない。
「それでも、葛城くんが持つって決めたんだね」
「そうだ」
「そっか」
「それだけか」
「うん」
「何か言いたいなら言え」
白峰は少しだけ首を振った。
「選んだ後に、僕が言うことじゃないと思う」
「……」
「ただ、昨日よりは自分で持ってる感じがした」
それだけ言って、白峰は歩き出した。
洞窟の外へ。
水場の方へ。
戸塚はその背中を睨みながら、小さく呟いた。
「本当に分かりづらい奴だな」
「同感だ」
「葛城さんもそう思うんですね」
「思う」
戸塚は少しだけ笑いかけ、すぐに表情を引き締めた。
笑うことに慣れていないような、不器用な変化だった。
午前中、Aクラスは新しい方針で動き始めた。
水場の見張りを増やす。
配給を調整する。
物資管理に派閥を混ぜる。
橋本の動きを見える場所へ置く。
契約によって得た物資は、確かにクラスの空気を落ち着かせた。
だが、同時に数字は悪化した。
Aクラスの残ポイントは、当初の計画より少ない。
このままいけば、試験結果に影響する。
勝利からは遠ざかったかもしれない。
それでも、龍園に卒業まで握られることは避けた。
この判断が正しかったかどうかは、今は分からない。
だが、俺が選んだ。
その事実だけは、龍園にも、坂柳にも、誰にも渡すつもりはない。
昼前。
橋本がこちらへ歩いてきた。
いつものように軽い顔をしている。
「葛城、俺を水場に回すって?」
「ああ」
「戸塚に監視されるのかと思ったけど、白峰つきなんだって?」
「不満か」
「いやいや。あいつといると退屈しなさそうだし」
橋本は笑った。
その笑いは軽い。
だが、昨日より少しだけ丁寧に見えた。
「単独行動は認めない」
「はいはい」
「それと、余計な接触は避けろ」
「余計な接触って?」
「言わなければ分からないか」
「怖いなあ」
橋本は肩をすくめる。
「了解。Aクラスのために、真面目に働きますよ」
「期待はしていない」
「ひど」
「だから監視をつける」
「正直だねえ」
橋本は笑いながら去っていく。
その背中を見ていると、白峰が少し遅れてその後を追った。
橋本が何かを言う。
白峰が短く返す。
会話の内容は聞こえない。
だが、橋本の歩幅が一瞬だけ変わった。
白峰が何かを言ったのだろう。
相変わらず、あいつは足元に小さな石を置いていく。足元を見てしまう石を。
午後に入り、Aクラスの動きは安定してきた。
配給への不満は完全には消えていない。
点数への不安も残っている。
坂柳派の中には、葛城の判断を疑う者もいる。
だが、少なくとも昨日のように表面で火花が散ることは減った。
その代わり、別の緊張が生まれている。
契約。
ポイント。
水場。
橋本。
龍園。
坂柳。
どれも見えないところで繋がっている。
俺はその全てを完全に把握できているわけではない。
それでも、進むしかない。
夕方、戸塚が物資表を抱えて戻ってきた。
「葛城さん」
「何だ」
「追加分を反映しました。予定より消費は増えましたけど、明日までは安定します」
「そうか」
「……点数は、落ちます」
「分かっている」
「でも」
戸塚は一度、言葉を切った。
「昨日より、文句は減ってます」
「そうか」
「はい」
戸塚は少しだけ迷ってから続けた。
「俺、まだ全部は分かってません。でも……葛城さんが何を守ろうとしてるのか、少しだけ分かった気がします」
「何を守ろうとしていると思う」
「Aクラスです」
戸塚はすぐに答えた。
そして、少しだけ考える。
「でも、点数だけじゃなくて……後で、誰かに握られないことも」
俺は戸塚を見た。
戸塚は目を逸らさなかった。
未熟だ。
理解も浅い。
だが、昨日までとは違う。
「なら、忘れるな」
「はい」
「Aクラスを守るということは、葛城派を守ることではない」
戸塚の顔がわずかに強張る。
「……はい」
「俺を守ることでもない」
「それは……」
「戸塚」
「……はい」
「考えろと言ったはずだ」
戸塚は唇を結んだ。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
その声は、まだ弱い。
だが、確かに戸塚自身のものだった。
夜が近づく。
島の空気がまた重くなる。
Aクラスは今日を乗り切った。
だが、勝利に近づいたとは言えない。
むしろ、数字だけなら遠ざかったかもしれない。
それでも、昨日より少しだけ、自分たちの足元を見ている。
俺は洞窟の入口に立ち、外の闇を見つめた。
龍園との鎖は短くした。
だが、軽くなったわけではない。
三か月分の高額な支払い。
少ない物資。
精度を保証されない情報。
そして、Aクラスの残ポイントの減少。
橋本の足音も、まだ軽い。
坂柳の影も、船の上からこちらへ伸びている。
そして、戸塚はようやく自分の声を探し始めた。
勝つには遅いかもしれない。
だが、遅すぎるとはまだ決まっていない。
短い鎖。
それは自由ではない。
だが、卒業まで繋がれるよりはましだ。
たとえその選択が、Aクラスの点数を削るとしても。
俺は自分で選んだ。
その事実だけは、龍園にも、坂柳にも、誰にも渡すつもりはなかった。