――葛城康平視点
朝の空気は、昨日よりも静かだった。
風が弱まったわけではない。
波の音が遠のいたわけでもない。
ただ、島の一角にあった騒がしさが、抜け落ちていた。
前日まで、浜辺の方角からはCクラスの声が聞こえていた。
笑い声。
騒ぐ声。
試験中とは思えないほど浮ついた音。
他クラスが節約と管理に神経を尖らせる中、彼らだけが別の行事をしているようにすら見えた。
だが、今朝は違う。
静かだった。
静かすぎた。
「葛城さん」
洞窟の入口近くで、町田が足を止めた。
手には、昨晩までの記録をまとめた手帳を持っている。
表情に大きな変化はない。
だが、その声はいつもよりわずかに硬かった。
「報告します」
「ああ」
「浜辺側にいたCクラスの生徒が、ほとんど確認できません」
俺は町田を見る。
「ほとんど、とは」
「見える範囲では、集団としての活動はありません。昨日まで使用していた物資の痕跡は残っていますが、生徒の姿はありません」
「教師側へのリタイア申請は確認できたか」
「直接の確認はまだです。ただ、船の方向へ移動した形跡があります。複数名が夜のうちにまとまって移動した可能性が高いです」
夜のうちに。
一斉に。
俺は視線を浜辺の方向へ向けた。
木々が視界を遮り、直接見ることはできない。
だが、昨日まであったはずの騒がしさが消えていることだけは分かる。
Cクラスがリタイアした。
それも、少人数ではない。
龍園と、一部の役割を持つ生徒を除いて。
そう考えるべきだった。
「全員リタイア!?」
戸塚が近くで声を上げた。
声が大きい。
だが、以前のように周囲へ怒りをぶつける音ではない。
驚きと警戒が混じっている。
「普通そんなことしますか!?残ポイントがそのままクラスの得点になるっていうのに」
「普通ならしない」
俺は答えた。
「だが、龍園ならやる」
戸塚は黙った。
それでも納得できないという顔をしている。
当然だ。
この試験は、残したポイントがそのまま結果につながる。
生存に必要な物資を確保し、無駄を省き、最後までクラスを保たせる。
それが正攻法だ。
Cクラスの行動は、そのすべてを否定している。
だが、正攻法を捨てたからといって、勝負を捨てたとは限らない。
龍園翔は、そういう男だ。
「Cクラスは、残ポイントで戦う気がない」
俺は言った。
戸塚が眉をひそめる。
「じゃあ、何で……」
「リーダー看破だ」
戸塚の表情が固まった。
この試験には、残ポイント以外の得点手段がある。
各クラスのリーダーを当てること。
それが成功すれば得点が入る。
逆に、自分達のリーダーを当てられれば、大きく失点する。
物資の引き渡し時、龍園は他クラスのリーダー候補をこちらへ渡した。
だが、あれは確定情報ではない。
契約書にも、候補情報と明記されている。
つまり、龍園はまだ本命を手放していない。
「龍園は、本当にリタイアしたんですか」
戸塚が問う。
俺はすぐには答えなかった。
そこが最も厄介だった。
Cクラスの大半が消えたとしても、龍園自身が消えたとは限らない。
むしろ、あの男が何もせず島を降りたと考える方が不自然だ。
「分からない」
俺は正直に言った。
「だが、降りたと決めつけるべきではない」
「つまり、まだ島のどこかに……」
「可能性はある」
戸塚が息を呑む。
「ただし、断定はするな。断定した瞬間に、こちらの判断は狭くなる」
「……はい」
戸塚は小さく頷いた。
その返事は、以前よりも少し低い。
怒鳴るような声ではない。
自分の中へ落とし込もうとしている声だった。
白峰は、洞窟の外に立っていた。
Cクラスの方角を見ているわけではない。
むしろ、浜辺とは反対側の木々を見ている。
だが、耳だけがどこか遠くへ向いているような気がした。
「白峰」
「うん」
「今のCクラスを、どう聞く」
白峰は少しだけ目を伏せた。
すぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって長く感じた。
「……降りた人たちの後にしては、変に乾いてる」
戸塚が眉を寄せた。
「乾いてる?」
「うまく言えないけど、諦めた後の重さじゃないと思う」
「諦めた後の重さ……」
「片づけた、に近いのかもしれない」
白峰は言葉を選び直すように、ゆっくり続けた。
「もう使わないものを置いて、必要なものだけ持っていった後みたいな感じ」
戸塚は困惑したように黙る。
俺も、その表現をすぐに理解できたわけではない。
だが、白峰の言いたいことは分かる。
Cクラスのリタイアは、敗北の気配ではない。
龍園の指示に従って、不要な人員を試験の場から下げた。
そういう異常な整理の気配がある。
「全員が降りたんじゃない」
白峰は続けた。
「……たぶん、降りたことにした人がいる」
戸塚が顔を上げる。
「龍園か」
「名前までは聞こえないよ」
白峰は即答した。
「でも、まだ終わってない気がする」
白峰は断定しない。
誰が残っているのか。
どこにいるのか。
何を狙っているのか。
そこまでは言わない。
いや、言えないのだろう。
だが、十分だった。
Cクラスの一斉リタイア。
それは終わりではない。
むしろ、次の段階に入った合図だ。
「葛城」
背後から軽い声がした。
橋本だった。
物資管理側から戻ってきたばかりらしく、手には帳簿代わりの紙を持っている。
表情はいつも通り。
少し笑っている。
その笑い方を、俺は以前よりも意識するようになっていた。
軽い笑い。
いや、軽く見せた笑い。
「Cクラス、派手に消えたらしいな」
「見たのか」
「遠目にな。浜辺が昨日と別物だ。あれ、ほとんど降りたんじゃないの?」
橋本は肩をすくめる。
「ま、龍園らしいっちゃ龍園らしいけど」
俺は橋本を見る。
「驚いていないな」
「え?」
「今の言い方だ」
橋本は一瞬、口を閉じた。
そして笑った。
「いやいや、驚いてるって。普通じゃないだろ、クラスごとほぼリタイアなんて」
「そうだな」
「ただ、龍園ならやりそうってだけだよ」
「なぜそう思う」
「損して得を取るタイプ、って言えばいいのかね。いや、本人は損とも思ってなさそうだけど」
橋本の返事は早い。
いつもなら流していたかもしれない。
だが、今は引っかかる。
白峰が言っていた。
出口を先に決めている。
橋本は、自分の立ち位置を固定されることを嫌う。
どちらにも行けるようにしておく。
そのために、曖昧な言葉を選ぶ。
「橋本」
「何?」
「お前は、龍園の狙いをどう見る」
「リーダー看破だろ」
即答だった。
「候補情報なんて売り物にしてる時点で、最初からそこ狙いじゃん」
戸塚の肩がわずかに動く。
橋本もそれに気づいたのか、遅れて苦笑した。
「……って、普通に考えればな。残ポイントを捨てたなら、そこしかない」
「普通、か」
「何だよ。変な言い方したか?」
「いや」
俺は橋本から視線を外した。
「町田」
「はい」
「橋本と物資管理の確認を続けろ。単独では動かすな」
「分かりました」
「また俺、監視付き?」
橋本が軽く両手を上げた。
「信用ないねえ」
「見える場所に置いているだけだ」
「それ、信用してる奴に言う台詞じゃないだろ」
「そうかもしれないな」
橋本は一瞬だけ目を細めた。
それから、いつもの調子で笑った。
「葛城も言うようになったな」
「試験中だ」
町田が横から言った。
橋本が苦笑する。
「町田までそれかよ」
「必要なことだ」
町田は淡々としている。
必要なことを言う。
必要なことを記録する。
俺の指示を丁寧に受け、同級生には余計な遠慮をしない。
今のAクラスには、その性質が必要だった。
白峰は少し離れた場所で、橋本を見ていた。
いや、見ていたというより、橋本の返事の後に残った間を聞いているようだった。
橋本は白峰を見ない。
見ないようにしている。
それが見えた。
「白峰」
橋本がふいに言った。
「何か言いたそうじゃん」
「うん」
「言うのかよ」
「橋本くんって、困った時ほど笑い方がきれいになるんだね」
橋本の口元がわずかに止まった。
「……それ、褒めてる?」
「違うと思う」
「そこは褒めとけよ」
橋本は笑う。
だが、その笑いは先ほどより少しだけ遅れた。
「俺の笑い方まで記録されんの?」
「必要ならする」
町田が言う。
「町田、そこは乗らなくていいって」
「必要なら、だ」
「必要じゃないだろ」
「判断するのは葛城さんだ」
橋本は肩をすくめた。
「はいはい。怖いねえ、葛城派は」
「橋本」
俺は短く呼んだ。
「軽口で流すな」
橋本は口を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして、笑った。
「了解」
その返事も、早かった。
だが、それ以上は追わない。
今の目的は、橋本を追い詰めることではない。
見える場所に置くことだ。
橋本が完全にこちらへ背を向けるほど、強く縛るべきでもない。
逃げ道をすべて塞げば、逃げる速度が上がる。
ならば、見える範囲で歩かせる。
それが今できる最善だった。
昼前、教師側からCクラスのリタイアが事実であることが伝わった。
人数の詳細までは明かされない。
だが、Cクラスの大半が試験を降りたことは、もはや疑いようがなかった。
Aクラス内にざわめきが広がる。
「本当に降りたのかよ」
「Cクラス、何考えてるんだ」
「龍園もリタイアしたのか?」
「だったら、もうCクラスは終わりじゃないのか?」
楽観の声も混じっていた。
俺はそれを危険だと感じた。
終わった。
勝手に沈んだ。
そう思った瞬間に、龍園の狙いは通りやすくなる。
「静かにしろ」
俺は声を上げた。
ざわめきが止まる。
「Cクラスの大半がリタイアしたのは事実だ。だが、龍園が完全に試験を降りたとは限らない」
何人かが顔を見合わせる。
戸塚も黙っている。
「残ポイントでの勝負を捨てた以上、Cクラスが狙うのはリーダー看破だ。物資と共に渡された情報は、あくまで候補にすぎない。龍園が最後まで持っている情報と、こちらへ売った情報が同じだと考えるな」
空気が重くなった。
当然だ。
リーダー情報。
それはAクラスにとって、最も触れられたくない部分だ。
「それから、Aクラスのリーダー情報が漏れていないと考えるな」
戸塚の表情が硬くなる。
俺はその変化を見ながら、言葉を続けた。
「ただし、動揺するな。Cクラスがこの方法を取った以上、彼らにも余裕はない。残った手段が限られているからこそ、極端な行動を取っている」
これは半分、本心だった。
もう半分は、Aクラスの空気を保つための言葉だ。
「水場の見張りは継続。物資管理も継続。橋本と町田は物資側。戸塚は俺と行動する。白峰は、周囲の違和感があれば町田に伝えろ。町田は必要だと判断したものを記録しろ」
「分かりました」
町田が答える。
戸塚も遅れて頷いた。
「はい」
その声は、まだ硬い。
だが、折れてはいない。
白峰がほんのわずかに戸塚を見る。
戸塚はそれに気づいて、眉をひそめた。
「何だよ」
「怒鳴らなかったね」
「……は?」
「少し前なら、たぶんもっと大きい声だった」
「うるせえよ」
「うん」
「そこで頷くな」
戸塚は顔をしかめたが、その声はもう荒れていなかった。
周囲の何人かが、少しだけ息を抜いた。
空気が完全に沈む前に、わずかに戻る。
白峰の言葉は、そういう働きをする時がある。
勝たせるわけではない。
正解を示すわけでもない。
だが、沈みきる前に、誰かの足元へ小さな石を置く。
躓くためではない。
立ち止まるための石だ。
午後になっても、Cクラスの浜辺は静かなままだった。
使用済みの物資。
荒れた砂。
片づけられきっていない痕跡。
それだけが残っている。
普通なら、敗北の残骸に見える。
だが、俺にはそう見えなかった。
あれは捨てた跡ではない。
隠した跡だ。
何を隠したのか。
龍園自身か。
スパイか。
狙いか。
あるいは、そのすべてか。
分からない。
だが、分からないからといって、動かないわけにはいかない。
俺たちは、限られた情報の中で判断し続けるしかない。
「葛城さん」
夕方前、戸塚が俺の隣に来た。
「少しいいですか」
「ああ」
戸塚は周囲を一度見てから、声を落とした。
「俺は……リーダーとして、このままでいいんでしょうか」
「どういう意味だ」
「俺がリーダーだってことは、表に出せません。でも、隠れているだけでもいられない。今日、Cクラスが一気に消えたのを見て……俺が見つかったら終わりだって、改めて分かりました」
戸塚の拳が、わずかに握られている。
「正直、怖いです」
その言葉は、静かだった。
戸塚が自分から弱さを口にする。
それは、今までなら考えにくいことだった。
俺はすぐには答えなかった。
答えを急げば、戸塚はまた俺の言葉の後ろへ隠れる。
だから、少しだけ待った。
「怖いなら、それを覚えておけ」
「え?」
「怖さを消そうとするな。消そうとすれば、声が大きくなる」
戸塚の目が揺れる。
白峰が近くにいた。
こちらを見てはいない。
だが、聞こえている距離だった。
「お前はリーダーだ。隠す必要はある。だが、自分が背負っていることまで忘れるな」
「……はい」
「俺の後ろにいれば安全だと思うな。お前は、俺の後ろにいるだけの人間ではない」
戸塚は唇を噛んだ。
白峰がゆっくりとこちらへ視線を向ける。
そして、静かに言った。
「……少し前に出たね」
戸塚は顔をしかめた。
「また分かりにくいこと言いやがって」
「ごめん」
「謝るな。余計に調子が狂う」
「うん」
「そこで素直に頷くな」
戸塚は小さく息を吐いた。
その声には、まだ怖さがある。
だが、怖さだけではない。
白峰は続けなかった。
余計な言葉を重ねず、そこで止めた。
その沈黙が、戸塚の言葉を急かさずに残した。
夜が近づいていた。
Cクラスの浜辺は、もうほとんど音を持たない。
だが、試験が終わったわけではない。
むしろ、音が消えたことで、龍園の狙いだけが残ったように感じる。
Aクラスは無傷では済まないかもしれない。
リーダーを当てられる可能性はある。
坂柳派は、その結果を利用するだろう。
戸塚は責任を感じる。
橋本はまだ、どこにでも行けるように立っている。
町田は記録を残す。
白峰は、言葉にならない違和感を拾う。
そして俺は、選ばなければならない。
正しい選択かどうかは分からない。
だが、少なくとも、すべてを龍園の思い通りにはさせない。
Cクラスは一夜で消えた。
だが、龍園の気配は濃くなった。
静かになった島の中で、俺はその矛盾を抱えたまま、次の夜を迎えた。