――坂柳有栖視点
船室の窓から見える海は、無人島で過ごしていた生徒たちの疲労など知らないように、ただ静かに揺れていました。
波の音は一定です。
強くもなく、弱くもない。
ただ、同じ調子で船体を撫でている。
その規則正しさが、今のAクラスとは対照的で、少しだけ愉快でした。
「で、どうだったんですか?」
壁に背を預けた橋本くんが、いつもの軽い調子でそう言いました。
報告に来たはずの本人が、先にこちらへ問いかける。
実に彼らしい。
「それを聞きたいのはこちらです。あなたは、私が島にいなかったことをご存じでしょう?」
「いやまあ、そうなんすけど」
橋本くんは肩を竦めました。
笑っている。
けれど、その笑いの立ち上がりが、ほんの少し遅い。
普段なら、もっと軽く跳ねるはずの音が、一拍だけ底に触れてから浮いている。
無人島で、何かを見たのでしょう。
それも、単なる勝敗ではない何かを。
「葛城くんは?」
「まあ、想像通りっすよ。真面目にやって、真面目に削られて、真面目に残った」
「負けた、とは言わないのですね」
「負けてないわけじゃないっすけど、全部失ったわけでもないんで」
橋本くんが、少しだけ視線を逸らしました。
珍しい反応です。
彼は基本的に、自分の立ち位置を曖昧に保つことに長けている。
誰かを笑いながら観察し、深入りしない。
その彼が、今は言葉を選んでいる。
「戸塚くんは?」
「折れてないっすね」
「意外です」
「俺もそう思いました」
橋本くんは苦笑する。
けれど、その苦笑にも、いつもの軽さは戻りきっていませんでした。
「最初はまあ、いつも通り葛城さん葛城さんって感じだったんすよ。ミスもしたし、目立ったし、余計なことも言った。正直、リーダー役としては危なかった」
「でしょうね」
戸塚弥彦くん。
葛城くんへの忠誠心は強い。
それ自体は扱いやすい性質ですが、同時に視野を狭める。
自分が何を背負っているのかよりも、葛城くんに認められることを優先してしまう。
特別試験では、そこが綻びになる。
「でも、最後まで葛城の後ろに隠れたわけじゃなかった」
「横に立った、と?」
「そうっすね。本人にその自覚があるかは微妙ですけど」
橋本くんは軽く笑う。
今度の笑いは、先ほどより少し自然でした。
「町田も変でしたよ」
「町田くんが?」
「はい。途中からやたら記録取ってたんすよ。誰が何を言ったとか、いつ空気が悪くなったとか。最初はただのメモかと思ったんすけど、違いました」
「何が違ったのですか?」
「結果じゃなくて……なんつーか、空気の変わるタイミングを拾ってた感じっすね」
橋本くんは、そこで少し顔をしかめました。
自分らしくない表現だと思ったのでしょう。
「音、って言えばいいんすかね」
音。
その言葉が、部屋の中に静かに落ちました。
橋本くん自身も、言ってから少し驚いたような顔をしている。
けれど、おそらくその表現が一番近かったのでしょう。
白峰くんの近くにいた者は、時々そういう言い方をするようになる。
表情ではなく、音。
言葉ではなく、間。
理屈ではなく、沈黙の重さ。
彼の周囲では、物事の捉え方が少しずつずれていく。
まるで、静かな旋律が知らないうちに耳に残るように。
「白峰くんは、何をしましたか?」
私がそう尋ねると、橋本くんは少し黙りました。
答えに詰まった、というより。
どこから話せばいいのかを迷っている沈黙でした。
「何もしてないっすよ」
「そうですか」
「いや、ほんとに。表に立ったわけでもないし、作戦を全部組んだわけでもない。龍園を真正面から潰したわけでもない。葛城を助けたって感じでもない」
「では、なぜあなたは白峰くんの名前を出すのですか?」
橋本くんは、そこでようやく口を閉じました。
笑おうとして、失敗する。
唇の端だけが上がり、声が追いつかない。
「……何なんすかね、あいつ」
「質問に質問で返すのは、あまり感心しませんね」
「姫さんなら分かるかなって思ったんすよ」
「残念ですが、私も万能ではありません」
「うわ、嘘くさ」
「ひどいですね」
そう返すと、橋本くんは少しだけ肩の力を抜きました。
冗談を挟める程度には戻っている。
けれど、完全ではない。
無人島で見たものは、まだ彼の中に残っている。
「白峰は、葛城の失敗を消したわけじゃないんすよ」
「ええ」
「戸塚のミスをなかったことにもしてない。町田が記録を取り始めたのも、誰かに命令されたわけじゃない。俺も……まあ、いつも通り見てただけです」
「本当に?」
「……そこ突っ込みます?」
「ええ」
橋本くんは視線を窓の方へ逃がしました。
海面が、午後の光を反射している。
その眩しさに目を細めるようにして、彼は言いました。
「笑えなかった場面があったんすよ」
「あなたが?」
「俺が」
それは、なかなか面白い報告でした。
橋本正義という生徒は、軽さを武器にしています。
深刻な場面でも茶化す。
危険な相手にも近づく。
立場を固定せず、常に逃げ道を残す。
その彼が、笑えなかった。
無人島という場は、彼にも何かを残したらしい。
「白峰くんに何か言われましたか?」
「直接は、ほとんど。あいつ、こっちに命令するタイプじゃないんで」
「でしょうね」
「ただ、変なタイミングで一言だけ置いていくんすよ。町田にも、戸塚にも、葛城にも。で、その一言が後から残る」
「残響のように?」
「あー……そうっすね。そんな感じ」
橋本くんは、自分の言葉がまた白峰くん寄りになっていることに気づいたのか、少し嫌そうな顔をしました。
その反応が可笑しくて、私は小さく笑います。
「気に入らないのですか?」
「いや、気に入らないっていうか……調子狂うんすよ」
「白峰くんが?」
「あいつもですけど、あいつの周りにいるやつらが」
橋本くんの声が、少し低くなりました。
「葛城は、負けを一人で背負おうとしてた。戸塚は、葛城の役に立とうとして前に出すぎた。町田は、空気が悪くなるたびに黙って見てた。俺は、それを笑って済ませるつもりだった」
「過去形ですね」
「白峰がいたんすよ」
短い一言。
それだけで、十分でした。
白峰奏。
彼は、盤面の中心には立たない。
誰かの駒として動くことも、誰かを駒として扱うことも、少なくとも今は好んでいないように見える。
勝敗に対しても、葛城くんや龍園くんほどの熱は感じない。
けれど。
誰かの声が硬くなる瞬間。
息が浅くなる瞬間。
沈黙が、ただの沈黙ではなくなる瞬間。
その小さな変化だけは、聞き落とさない。
だから彼の一言は、解決策ではないのに残る。
命令ではないのに、後から響く。
厄介なことに、それは時に盤面そのものよりも深く残る。
「葛城くんは、どう受け止めていましたか?」
「警戒してましたよ。あいつのこと」
「当然でしょうね」
「でも、無視はできないって顔でした」
「それも当然です」
葛城くんは現実主義者です。
役に立つものを完全には切り捨てられない。
ただし、信用を置ききるほど甘くもない。
白峰くんとの相性は、良いとは言えない。
けれど、悪くもない。
白峰くんの距離感は、葛城くんにとって苛立たしい。
同時に、必要な場面でだけ機能する。
だからこそ余計に扱いづらい。
「龍園くんは?」
「気づいてますね。たぶん」
「白峰くんに?」
「はい。あれはもう、次から遊びに来る顔っすよ」
「それは困りましたね」
「全然困ってなさそうっすけど」
「困っていますよ」
私は微笑みながら答えました。
龍園翔。
暴力、脅迫、恐怖。
人の反応を見て支配する男。
彼にとって、白峰くんのような相手は相性が悪いでしょう。
脅しても、怒らせても、怯えさせても、望む音が返ってこない。
けれど、だからこそ興味を持つ。
龍園くんは、反応しない相手を放っておくほど穏やかではありません。
「白峰くんは、そのことに気づいていましたか?」
「さあ」
橋本くんは曖昧に笑いました。
「気づいてるようにも見えたし、どうでもよさそうにも見えました」
「らしいですね」
「姫さんは、どうするんすか?」
「何をです?」
「白峰のこと」
部屋の中が、少し静かになりました。
波の音が遠く聞こえる。
廊下を歩く生徒の足音。
船内放送のかすかな残響。
そのどれもが、妙に整って聞こえる。
整いすぎた音は、時に退屈です。
けれど今、Aクラスには別の音が混じり始めている。
葛城くんの硬い音。
戸塚くんの前のめりな音。
町田くんの記録する音。
橋本くんの、わずかに遅れた笑い。
そして。
そのどれにも属さない、白峰くんの静かな音。
「どうもしませんよ」
私はそう答えました。
橋本くんが眉を上げる。
「意外っすね」
「今は、です」
「あー、やっぱそういうこと」
「彼はまだ、盤上に上がるつもりがありません。無理に引きずり出そうとしても、あまり美しくないでしょう」
「美しさ基準なんすね」
「ええ。大切なことです」
私は杖に指を添え、窓の外を見ました。
海の向こうに、無人島はもう見えない。
けれど、そこで鳴った音は消えていない。
Aクラスは勝ったわけではありません。
葛城くんの支配力は揺らいだ。
戸塚くんの未熟さも露呈した。
橋本くんも、いつものようには笑えなかった。
それでも。
壊れきらなかった。
誰かが折れそうになる音を、ただの失敗として流さなかった者がいた。
それは点数には現れない。
順位にも、試験結果にも残らない。
けれど、クラスの奥底には確かに残る。
「橋本くん」
「はい?」
「あなた、少し変わりましたね」
「え、俺っすか?」
「ええ」
「いやいや、気のせいっすよ。俺はいつも通りですって」
そう言って、橋本くんは笑いました。
今度の笑いは、ほとんど普段通り。
けれど完全ではない。
ほんの少しだけ、音が重い。
本人は気づいていないでしょう。
あるいは、気づかないふりをしている。
「そういうことにしておきましょう」
「なんか怖いなあ」
「怖がる必要はありません。私はただ、観察しているだけです」
「それが怖いんですけど」
橋本くんは苦笑して、壁から背を離しました。
「じゃ、俺はそろそろ戻ります。まだ色々ざわついてるんで」
「ええ。ご苦労様でした」
彼が扉へ向かう。
その背中に、私は一つだけ声をかけました。
「橋本くん」
「何すか?」
「次に白峰くんと話す機会があれば、伝えてください」
「何を?」
私は少しだけ考えました。
言葉は、盤上に置く駒と同じです。
置き方を間違えれば、相手は動かない。
あるいは、こちらの意図とは違う形で動く。
だから、今置くべき言葉は一つだけでいい。
「面白い音でした、と」
橋本くんは一瞬、変な顔をしました。
それから、呆れたように笑います。
「絶対伝わんないっすよ、それ」
「伝わりますよ。彼なら」
「……まあ、白峰なら分かりそうなのが嫌ですね」
そう言い残して、橋本くんは部屋を出ていきました。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
部屋にはまた、波の音だけが戻ってきました。
私は窓の外を見つめます。
無人島試験は終わりました。
ですが、終わったのは試験だけ。
そこで浮かび上がったものは、これからのAクラスに残る。
葛城くんの硬さ。
戸塚くんの未熟さ。
橋本くんの軽さの奥。
そして白峰くんという、盤上に上がらない駒。
いいえ。
駒と呼ぶには、少し違いますね。
彼はまだ、自分から進もうとはしない。
勝とうとも、奪おうともしていない。
けれど、誰かの音が不自然に沈んだ時だけ、そこに小さな一音を置く。
その音で、盤面の勝敗が大きく変わるとは限りません。
けれど、盤上に残る傷の形は変わる。
それは、私にとって無視できない変化です。
「白峰くん」
誰もいない部屋で、その名を口にする。
波の音に混じって、かすかに消える。
私は自然と口元を緩めていました。
「やはり、あなたは面白い」
次に同じような音が鳴る時、彼はどこに立つのか。
誰の沈黙を拾うのか。
そして、どこまで傍観者でいられるのか。
確認する楽しみが、一つ増えました。