壊れる前の音を、君は知らない   作:シュユ

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第24話 報告

――坂柳有栖視点

 

 船室の窓から見える海は、無人島で過ごしていた生徒たちの疲労など知らないように、ただ静かに揺れていました。

 

 波の音は一定です。

 

 強くもなく、弱くもない。

 

 ただ、同じ調子で船体を撫でている。

 

 その規則正しさが、今のAクラスとは対照的で、少しだけ愉快でした。

 

「で、どうだったんですか?」

 

 壁に背を預けた橋本くんが、いつもの軽い調子でそう言いました。

 

 報告に来たはずの本人が、先にこちらへ問いかける。

 

 実に彼らしい。

 

「それを聞きたいのはこちらです。あなたは、私が島にいなかったことをご存じでしょう?」

 

「いやまあ、そうなんすけど」

 

 橋本くんは肩を竦めました。

 

 笑っている。

 

 けれど、その笑いの立ち上がりが、ほんの少し遅い。

 

 普段なら、もっと軽く跳ねるはずの音が、一拍だけ底に触れてから浮いている。

 

 無人島で、何かを見たのでしょう。

 

 それも、単なる勝敗ではない何かを。

 

「葛城くんは?」

 

「まあ、想像通りっすよ。真面目にやって、真面目に削られて、真面目に残った」

 

「負けた、とは言わないのですね」

 

「負けてないわけじゃないっすけど、全部失ったわけでもないんで」

 

 橋本くんが、少しだけ視線を逸らしました。

 

 珍しい反応です。

 

 彼は基本的に、自分の立ち位置を曖昧に保つことに長けている。

 

 誰かを笑いながら観察し、深入りしない。

 

 その彼が、今は言葉を選んでいる。

 

「戸塚くんは?」

 

「折れてないっすね」

 

「意外です」

 

「俺もそう思いました」

 

 橋本くんは苦笑する。

 

 けれど、その苦笑にも、いつもの軽さは戻りきっていませんでした。

 

「最初はまあ、いつも通り葛城さん葛城さんって感じだったんすよ。ミスもしたし、目立ったし、余計なことも言った。正直、リーダー役としては危なかった」

 

「でしょうね」

 

 戸塚弥彦くん。

 

 葛城くんへの忠誠心は強い。

 

 それ自体は扱いやすい性質ですが、同時に視野を狭める。

 

 自分が何を背負っているのかよりも、葛城くんに認められることを優先してしまう。

 

 特別試験では、そこが綻びになる。

 

「でも、最後まで葛城の後ろに隠れたわけじゃなかった」

 

「横に立った、と?」

 

「そうっすね。本人にその自覚があるかは微妙ですけど」

 

 橋本くんは軽く笑う。

 

 今度の笑いは、先ほどより少し自然でした。

 

「町田も変でしたよ」

 

「町田くんが?」

 

「はい。途中からやたら記録取ってたんすよ。誰が何を言ったとか、いつ空気が悪くなったとか。最初はただのメモかと思ったんすけど、違いました」

 

「何が違ったのですか?」

 

「結果じゃなくて……なんつーか、空気の変わるタイミングを拾ってた感じっすね」

 

 橋本くんは、そこで少し顔をしかめました。

 

 自分らしくない表現だと思ったのでしょう。

 

「音、って言えばいいんすかね」

 

 音。

 

 その言葉が、部屋の中に静かに落ちました。

 

 橋本くん自身も、言ってから少し驚いたような顔をしている。

 

 けれど、おそらくその表現が一番近かったのでしょう。

 

 白峰くんの近くにいた者は、時々そういう言い方をするようになる。

 

 表情ではなく、音。

 

 言葉ではなく、間。

 

 理屈ではなく、沈黙の重さ。

 

 彼の周囲では、物事の捉え方が少しずつずれていく。

 

 まるで、静かな旋律が知らないうちに耳に残るように。

 

「白峰くんは、何をしましたか?」

 

 私がそう尋ねると、橋本くんは少し黙りました。

 

 答えに詰まった、というより。

 

 どこから話せばいいのかを迷っている沈黙でした。

 

「何もしてないっすよ」

 

「そうですか」

 

「いや、ほんとに。表に立ったわけでもないし、作戦を全部組んだわけでもない。龍園を真正面から潰したわけでもない。葛城を助けたって感じでもない」

 

「では、なぜあなたは白峰くんの名前を出すのですか?」

 

 橋本くんは、そこでようやく口を閉じました。

 

 笑おうとして、失敗する。

 

 唇の端だけが上がり、声が追いつかない。

 

「……何なんすかね、あいつ」

 

「質問に質問で返すのは、あまり感心しませんね」

 

「姫さんなら分かるかなって思ったんすよ」

 

「残念ですが、私も万能ではありません」

 

「うわ、嘘くさ」

 

「ひどいですね」

 

 そう返すと、橋本くんは少しだけ肩の力を抜きました。

 

 冗談を挟める程度には戻っている。

 

 けれど、完全ではない。

 

 無人島で見たものは、まだ彼の中に残っている。

 

「白峰は、葛城の失敗を消したわけじゃないんすよ」

 

「ええ」

 

「戸塚のミスをなかったことにもしてない。町田が記録を取り始めたのも、誰かに命令されたわけじゃない。俺も……まあ、いつも通り見てただけです」

 

「本当に?」

 

「……そこ突っ込みます?」

 

「ええ」

 

 橋本くんは視線を窓の方へ逃がしました。

 

 海面が、午後の光を反射している。

 

 その眩しさに目を細めるようにして、彼は言いました。

 

「笑えなかった場面があったんすよ」

 

「あなたが?」

 

「俺が」

 

 それは、なかなか面白い報告でした。

 

 橋本正義という生徒は、軽さを武器にしています。

 

 深刻な場面でも茶化す。

 

 危険な相手にも近づく。

 

 立場を固定せず、常に逃げ道を残す。

 

 その彼が、笑えなかった。

 

 無人島という場は、彼にも何かを残したらしい。

 

「白峰くんに何か言われましたか?」

 

「直接は、ほとんど。あいつ、こっちに命令するタイプじゃないんで」

 

「でしょうね」

 

「ただ、変なタイミングで一言だけ置いていくんすよ。町田にも、戸塚にも、葛城にも。で、その一言が後から残る」

 

「残響のように?」

 

「あー……そうっすね。そんな感じ」

 

 橋本くんは、自分の言葉がまた白峰くん寄りになっていることに気づいたのか、少し嫌そうな顔をしました。

 

 その反応が可笑しくて、私は小さく笑います。

 

「気に入らないのですか?」

 

「いや、気に入らないっていうか……調子狂うんすよ」

 

「白峰くんが?」

 

「あいつもですけど、あいつの周りにいるやつらが」

 

 橋本くんの声が、少し低くなりました。

 

「葛城は、負けを一人で背負おうとしてた。戸塚は、葛城の役に立とうとして前に出すぎた。町田は、空気が悪くなるたびに黙って見てた。俺は、それを笑って済ませるつもりだった」

 

「過去形ですね」

 

「白峰がいたんすよ」

 

 短い一言。

 

 それだけで、十分でした。

 

 白峰奏。

 

 彼は、盤面の中心には立たない。

 

 誰かの駒として動くことも、誰かを駒として扱うことも、少なくとも今は好んでいないように見える。

 

 勝敗に対しても、葛城くんや龍園くんほどの熱は感じない。

 

 けれど。

 

 誰かの声が硬くなる瞬間。

 

 息が浅くなる瞬間。

 

 沈黙が、ただの沈黙ではなくなる瞬間。

 

 その小さな変化だけは、聞き落とさない。

 

 だから彼の一言は、解決策ではないのに残る。

 

 命令ではないのに、後から響く。

 

 厄介なことに、それは時に盤面そのものよりも深く残る。

 

「葛城くんは、どう受け止めていましたか?」

 

「警戒してましたよ。あいつのこと」

 

「当然でしょうね」

 

「でも、無視はできないって顔でした」

 

「それも当然です」

 

 葛城くんは現実主義者です。

 

 役に立つものを完全には切り捨てられない。

 

 ただし、信用を置ききるほど甘くもない。

 

 白峰くんとの相性は、良いとは言えない。

 

 けれど、悪くもない。

 

 白峰くんの距離感は、葛城くんにとって苛立たしい。

 

 同時に、必要な場面でだけ機能する。

 

 だからこそ余計に扱いづらい。

 

「龍園くんは?」

 

「気づいてますね。たぶん」

 

「白峰くんに?」

 

「はい。あれはもう、次から遊びに来る顔っすよ」

 

「それは困りましたね」

 

「全然困ってなさそうっすけど」

 

「困っていますよ」

 

 私は微笑みながら答えました。

 

 龍園翔。

 

 暴力、脅迫、恐怖。

 

 人の反応を見て支配する男。

 

 彼にとって、白峰くんのような相手は相性が悪いでしょう。

 

 脅しても、怒らせても、怯えさせても、望む音が返ってこない。

 

 けれど、だからこそ興味を持つ。

 

 龍園くんは、反応しない相手を放っておくほど穏やかではありません。

 

「白峰くんは、そのことに気づいていましたか?」

 

「さあ」

 

 橋本くんは曖昧に笑いました。

 

「気づいてるようにも見えたし、どうでもよさそうにも見えました」

 

「らしいですね」

 

「姫さんは、どうするんすか?」

 

「何をです?」

 

「白峰のこと」

 

 部屋の中が、少し静かになりました。

 

 波の音が遠く聞こえる。

 

 廊下を歩く生徒の足音。

 

 船内放送のかすかな残響。

 

 そのどれもが、妙に整って聞こえる。

 

 整いすぎた音は、時に退屈です。

 

 けれど今、Aクラスには別の音が混じり始めている。

 

 葛城くんの硬い音。

 

 戸塚くんの前のめりな音。

 

 町田くんの記録する音。

 

 橋本くんの、わずかに遅れた笑い。

 

 そして。

 

 そのどれにも属さない、白峰くんの静かな音。

 

「どうもしませんよ」

 

 私はそう答えました。

 

 橋本くんが眉を上げる。

 

「意外っすね」

 

「今は、です」

 

「あー、やっぱそういうこと」

 

「彼はまだ、盤上に上がるつもりがありません。無理に引きずり出そうとしても、あまり美しくないでしょう」

 

「美しさ基準なんすね」

 

「ええ。大切なことです」

 

 私は杖に指を添え、窓の外を見ました。

 

 海の向こうに、無人島はもう見えない。

 

 けれど、そこで鳴った音は消えていない。

 

 Aクラスは勝ったわけではありません。

 

 葛城くんの支配力は揺らいだ。

 

 戸塚くんの未熟さも露呈した。

 

 橋本くんも、いつものようには笑えなかった。

 

 それでも。

 

 壊れきらなかった。

 

 誰かが折れそうになる音を、ただの失敗として流さなかった者がいた。

 

 それは点数には現れない。

 

 順位にも、試験結果にも残らない。

 

 けれど、クラスの奥底には確かに残る。

 

「橋本くん」

 

「はい?」

 

「あなた、少し変わりましたね」

 

「え、俺っすか?」

 

「ええ」

 

「いやいや、気のせいっすよ。俺はいつも通りですって」

 

 そう言って、橋本くんは笑いました。

 

 今度の笑いは、ほとんど普段通り。

 

 けれど完全ではない。

 

 ほんの少しだけ、音が重い。

 

 本人は気づいていないでしょう。

 

 あるいは、気づかないふりをしている。

 

「そういうことにしておきましょう」

 

「なんか怖いなあ」

 

「怖がる必要はありません。私はただ、観察しているだけです」

 

「それが怖いんですけど」

 

 橋本くんは苦笑して、壁から背を離しました。

 

「じゃ、俺はそろそろ戻ります。まだ色々ざわついてるんで」

 

「ええ。ご苦労様でした」

 

 彼が扉へ向かう。

 

 その背中に、私は一つだけ声をかけました。

 

「橋本くん」

 

「何すか?」

 

「次に白峰くんと話す機会があれば、伝えてください」

 

「何を?」

 

 私は少しだけ考えました。

 

 言葉は、盤上に置く駒と同じです。

 

 置き方を間違えれば、相手は動かない。

 

 あるいは、こちらの意図とは違う形で動く。

 

 だから、今置くべき言葉は一つだけでいい。

 

「面白い音でした、と」

 

 橋本くんは一瞬、変な顔をしました。

 

 それから、呆れたように笑います。

 

「絶対伝わんないっすよ、それ」

 

「伝わりますよ。彼なら」

 

「……まあ、白峰なら分かりそうなのが嫌ですね」

 

 そう言い残して、橋本くんは部屋を出ていきました。

 

 扉が閉まる。

 

 足音が遠ざかる。

 

 部屋にはまた、波の音だけが戻ってきました。

 

 私は窓の外を見つめます。

 

 無人島試験は終わりました。

 

 ですが、終わったのは試験だけ。

 

 そこで浮かび上がったものは、これからのAクラスに残る。

 

 葛城くんの硬さ。

 

 戸塚くんの未熟さ。

 

 橋本くんの軽さの奥。

 

 そして白峰くんという、盤上に上がらない駒。

 

 いいえ。

 

 駒と呼ぶには、少し違いますね。

 

 彼はまだ、自分から進もうとはしない。

 

 勝とうとも、奪おうともしていない。

 

 けれど、誰かの音が不自然に沈んだ時だけ、そこに小さな一音を置く。

 

 その音で、盤面の勝敗が大きく変わるとは限りません。

 

 けれど、盤上に残る傷の形は変わる。

 

 それは、私にとって無視できない変化です。

 

「白峰くん」

 

 誰もいない部屋で、その名を口にする。

 

 波の音に混じって、かすかに消える。

 

 私は自然と口元を緩めていました。

 

「やはり、あなたは面白い」

 

 次に同じような音が鳴る時、彼はどこに立つのか。

 

 誰の沈黙を拾うのか。

 

 そして、どこまで傍観者でいられるのか。

 

 確認する楽しみが、一つ増えました。

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