壊れる前の音を、君は知らない   作:シュユ

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第25話 並ぶ足音

――戸塚弥彦視点

 

 船の中は、妙に静かだった。

 

 いや、正確には静かなわけじゃない。

 

 廊下を歩く生徒の足音はある。

 

 食堂の方からは笑い声も聞こえる。

 

 無人島から戻ってきた連中が、久しぶりのベッドやシャワーに浮かれている声だって、あちこちから響いていた。

 

 それでも、Aクラスの周りだけは違った。

 

 声があるのに沈んでいる。

 

 笑っているのに重い。

 

 誰もはっきりとは言わない。

 

 だけど、全員が分かっていた。

 

 今回の試験で、Aクラスは勝ったわけじゃない。

 

 負けたわけでもない。

 

 ただ、守った。

 

 それだけだった。

 

 廊下ですれ違う他クラスの生徒の視線が、妙に気になった。

 

 以前なら、気にも留めなかった。

 

 Aクラスなのだから、見られて当然だと思っていた。

 

 下位クラスの連中が何を言おうと、葛城さんの方針に従っていれば間違いない。そう信じていた。

 

 だから、声を張った。

 

 だから、強く言った。

 

 Aクラスに逆らうな。

 

 葛城さんの邪魔をするな。

 

 口に出していなくても、俺の声はたぶん、そう聞こえていた。

 

 クラスの外だけじゃない。

 

 Aクラスの中でも、坂柳に近い連中や、中立ぶっている奴らに対して、俺は何度も余計な棘を飛ばしていた。

 

 正しいのは葛城さんだ。

 

 分からない奴らが悪い。

 

 そう思っていた。

 

 でも今になって、その声がどれだけ周りを遠ざけていたのか、少しだけ分かってしまった。

 

「……くそ」

 

 人気の少ない廊下の壁に背を預け、俺は小さく吐き捨てた。

 

 リーダー予想で、Cクラスは俺の名前を書いた。

 

 結果は不正解。

 

 そこだけ見れば成功だった。

 

 龍園の読みを外した。

 

 Aクラスは致命傷を避けた。

 

 葛城さんの判断も、途中で白峰が置いた言葉も、結果だけ見れば間違ってはいなかった。

 

 でも。

 

 俺の中には、勝った感じなんて少しもなかった。

 

 むしろ胸の奥に残っているのは、失敗した時の嫌な音だけだ。

 

 洞窟でカードを扱った時。

 

 葛城さんの近くに立ちすぎた時。

 

 伊吹に見られていたかもしれないと気づいた時。

 

 そして、白峰に言われた時。

 

『隠れるなら、葛城くんの隣は少し近すぎると思う』

 

 思い出すだけで腹が立つ。

 

 何だよ、あいつ。

 

 いつも横から見ているだけのくせに。

 

 はっきり命令するわけでも、責任を取るわけでもないくせに。

 

 それなのに、こっちが一番聞きたくないことだけは、妙に正確に言ってくる。

 

「……偉そうに」

 

 口に出しても、気分は晴れなかった。

 

 悔しい。

 

 それが一番近い。

 

 白峰に言われたことが悔しいんじゃない。

 

 言い返せなかった自分が、悔しかった。

 

「戸塚」

 

 低い声がした。

 

 背筋が伸びる。

 

 顔を上げると、廊下の向こうから葛城さんが歩いてきていた。

 

 無人島にいた時より少し疲れて見える。

 

 けれど、姿勢は崩れていない。

 

 いつもの葛城さんだった。

 

「葛城さん……」

 

「こんなところで何をしている」

 

「いえ、その……少し」

 

「少し、何だ」

 

 言葉に詰まる。

 

 葛城さんの前では、曖昧な返事をしたくなかった。

 

 でも、今の自分の感情をどう説明すればいいのか分からない。

 

「……考えていました」

 

「何をだ」

 

「今回の試験のことです」

 

 葛城さんは俺の前で足を止めた。

 

 腕を組み、じっとこちらを見る。

 

 その視線から逃げるように、俺は一度だけ目を伏せた。

 

「俺は……役に立てたんでしょうか」

 

 聞いてから、情けない質問だと思った。

 

 そんなこと、自分で判断するべきだ。

 

 葛城さんに確認してもらうことじゃない。

 

 それでも、口から出てしまった。

 

 葛城さんはすぐには答えなかった。

 

 船体が小さく揺れる。

 

 廊下の奥で、誰かの笑い声が弾けて、すぐに遠ざかった。

 

「役には立った」

 

 葛城さんはそう言った。

 

 胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 だが、次の言葉で息が詰まった。

 

「だが、未熟だった」

 

「……はい」

 

「お前は前に出すぎた。声も大きい。俺に確認を求める動きも多かった。リーダーを隠すという意味では、危うい場面が何度もあった」

 

 一つ一つの言葉が重い。

 

 でも、反論はできない。

 

 全部、事実だった。

 

「それは島の中だけの話ではない」

 

「……え?」

 

「入学してからのお前の態度も含めてだ」

 

 息が詰まった。

 

 葛城さんは俺から視線を逸らさない。

 

「お前はAクラスであることを、必要以上に前へ出してきた。俺を支持するあまり、他の意見を軽く扱うこともあった。坂柳側の生徒だけではない。他クラスに対してもだ」

 

「俺は……」

 

「Aクラスの誇りを持つことは悪くない。だが、それを振りかざせば、敵を増やす」

 

 反論できなかった。

 

 思い当たることは、いくらでもあった。

 

 Cクラスの連中に向けた目。

 

 Dクラスを下に見ていた言葉。

 

 坂柳に近い生徒たちへ吐いた棘。

 

 その時は間違っていないと思っていた。

 

 俺は葛城さんの側に立っている。

 

 Aクラスを守っている。

 

 だから多少強く言っても構わない。

 

 そう思っていた。

 

 でも、違ったのかもしれない。

 

 俺が守っていたつもりの声は、周りにはただ威張っているように聞こえていたのかもしれない。

 

「すみません」

 

「謝罪を聞きたいわけではない」

 

「でも、俺は……」

 

「戸塚」

 

 名前を呼ばれて、言葉が止まる。

 

 葛城さんの声は厳しかった。

 

 でも、怒鳴っているわけではない。

 

 無人島にいた時と同じ、低くて、硬い声。

 

「お前が俺のために動こうとしたことは分かっている」

 

「はい」

 

「だが、それだけでは足りない」

 

 胸が小さく軋んだ。

 

「俺のため、では駄目なのですか」

 

「駄目だ」

 

 即答だった。

 

 少しだけ息が止まる。

 

 葛城さんは視線を逸らさない。

 

「俺はAクラスを勝たせるために動いている。お前が俺だけを見ている限り、視野は狭くなる」

 

「……」

 

「今回、それが出た」

 

 何も言えなかった。

 

 言われなくても分かっていた。

 

 分かっていたはずなのに、葛城さんの口から聞くと、余計に重かった。

 

「お前は俺の後ろに立とうとしすぎる」

 

「後ろ……」

 

「指示を待ち、確認し、俺の意図を探る。それ自体は悪くない。だが、リーダー候補として扱われる以上、お前自身が判断する場面もある」

 

「俺に、できるでしょうか」

 

「できるかどうかではない」

 

 葛城さんの声が、少しだけ強くなる。

 

「やる必要がある」

 

 廊下の空気が引き締まった気がした。

 

 俺は拳を握る。

 

 悔しい。

 

 怖い。

 

 でも、逃げたいとは思わなかった。

 

「……はい」

 

 喉の奥から、どうにか声を出す。

 

「次は、もっと考えます」

 

「考えるだけでは遅い場面もある」

 

「はい」

 

「声を出す前に、周囲を見ろ。動く前に、誰がそれを見ているかを考えろ」

 

「はい」

 

「そして」

 

 葛城さんは、そこで少しだけ言葉を切った。

 

「俺のためだけに動くな」

 

 その一言は、思ったより深く刺さった。

 

 俺は葛城さんの役に立ちたかった。

 

 葛城さんを支えたかった。

 

 坂柳みたいな奴に主導権を渡したくなかった。

 

 それが間違いだとは、今でも思っていない。

 

 でも。

 

 それだけでは足りない。

 

 今回の試験で、それを嫌というほど思い知らされた。

 

「……分かりました」

 

 俺は顔を上げた。

 

「俺は、Aクラスのことも見ます」

 

 言ってから、自分の声が少し震えていることに気づいた。

 

 それでも、言い直さなかった。

 

 葛城さんはしばらく俺を見ていた。

 

 それから、小さく頷く。

 

「ならいい」

 

 それだけだった。

 

 褒められたわけじゃない。

 

 慰められたわけでもない。

 

 でも、今はそれで十分だった。

 

「葛城さん」

 

「何だ」

 

「今回の試験……本当に、これでよかったんでしょうか」

 

 葛城さんの目が少しだけ細くなる。

 

「何が言いたい」

 

「龍園との契約も、俺を囮にする流れも……その、白峰が口を挟んだことも」

 

 俺が囮だった。

 

 俺が目立つことで、龍園の読みを固定した。

 

 それは分かっている。

 

 でも、どこかで引っかかっていた。

 

 自分で動いたというより、誰かの置いた音に足を取られたような気味の悪さがある。

 

「白峰のことか」

 

 葛城さんが言う。

 

 俺は黙って頷いた。

 

「あいつは信用できるんですか」

 

「信用はできる」

 

 意外な返答だった。

 

 けれど、葛城さんはすぐに続ける。

 

「だが、信用しきるべきではない」

 

「……ですよね」

 

「あいつは嘘で陥れる人間ではない。だが、責任まで背負う男でもない」

 

 その言い方は、妙にしっくりきた。

 

 助けられた、と言えば違う。

 

 突き放された、と言うのも違う。

 

 ただ、言われた後で、こっちが勝手に考えてしまう。

 

 それが腹立たしい。

 

 でも、今回、それを無視できなかったのも事実だった。

 

「むかつきますね」

 

 思わず本音が漏れた。

 

 葛城さんがわずかに眉を上げる。

 

「白峰がか」

 

「はい」

 

「それは同感だ」

 

 予想外の返事に、俺は少し目を丸くした。

 

 葛城さんは真面目な顔のまま続ける。

 

「だが、無視はできない」

 

「……はい」

 

 結局、そこに戻る。

 

 白峰は邪魔だ。

 

 曖昧だ。

 

 偉そうに見ているだけに見える。

 

 でも、必要な時だけ妙な言葉を置いていく。

 

 その言葉が、後から耳に残る。

 

 ちょうど今みたいに。

 

 葛城さんが歩き出す。

 

「戻るぞ。まだ整理すべきことがある」

 

「はい!」

 

 返事が少し大きくなった。

 

 葛城さんが横目で見る。

 

 俺は慌てて口を押さえた。

 

「……はい」

 

 声を落として言い直す。

 

 葛城さんは何も言わなかった。

 

 けれど、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。

 

 気のせいかもしれない。

 

 それでも、少しだけ胸が軽くなった。

 

 廊下を進む途中、ラウンジの方から聞き覚えのある声がした。

 

「いやー、姫さんも相変わらず変な伝言するよな」

 

 橋本の声だ。

 

 足が止まる。

 

 葛城さんも一瞬だけ視線を向けた。

 

 ラウンジの一角。

 

 橋本がソファにだらしなく座り、その前に白峰が立っていた。

 

 白峰はいつも通りの顔で、手には紙コップを持っている。

 

 橋本は笑いながら言った。

 

「白峰に伝えとけってさ。『面白い音でした』だと」

 

 何だそれ。

 

 意味が分からない。

 

 白峰はしばらく黙っていた。

 

 それから、小さく笑った。

 

「そっか」

 

「いや、それだけ?」

 

「うん」

 

「姫さんもあんたも、会話の癖が強すぎるんだよな」

 

 橋本が呆れたように笑う。

 

 白峰はそれに何も返さない。

 

 ただ、紙コップに視線を落としていた。

 

 その沈黙が、少しだけ気になった。

 

 あいつは何を考えているのか分からない。

 

 いや、考えているのかどうかすら分からない。

 

 でも今の白峰は、いつもより少しだけ静かに見えた。

 

「戸塚くん」

 

 不意に呼ばれた。

 

 俺は思わず顔をしかめる。

 

「何だよ」

 

 白峰がこちらを見ていた。

 

 橋本も面白そうに俺を見る。

 

 葛城さんは黙っている。

 

 逃げる理由もなく、俺は白峰の方へ歩いた。

 

「何か用か」

 

「ううん」

 

「用がないなら呼ぶなよ」

 

「ごめん」

 

 謝り方が軽い。

 

 やっぱり腹が立つ。

 

 白峰は俺の顔を少し見て、静かに言った。

 

「さっきの返事、少し変わったね」

 

「は?」

 

「葛城くんに返した声」

 

 心臓が嫌な跳ね方をした。

 

 何で聞いてるんだよ。

 

 どこから聞いてた。

 

「盗み聞きかよ」

 

「聞こえただけ」

 

「同じだろ」

 

「そうかも」

 

 白峰は否定しない。

 

 その態度がまた腹立たしい。

 

「で、それが何だよ」

 

「前より、少し重くなった」

 

 意味が分からない。

 

 でも、何となく分かってしまうのが余計に嫌だった。

 

 白峰の言う“重い”は、悪い意味だけじゃない。

 

 浮ついていない。

 

 誰かに認められたいだけの声じゃない。

 

 そう言われているような気がした。

 

 だから余計に、素直には受け取れない。

 

「偉そうに言うな」

 

「うん」

 

「お前、いつも見てるだけのくせに」

 

「そうだね」

 

「腹立つんだよ」

 

「うん」

 

 何を言っても、白峰の声は乱れない。

 

 怒らない。

 

 反論もしない。

 

 そのくせ、こっちの苛立ちだけが一方的に空回りしている気がして、さらに腹が立つ。

 

「前の戸塚くんの声は、もっと前に出てた」

 

「悪いかよ」

 

「悪いとは言ってない」

 

 白峰は少しだけ間を置いた。

 

「でも、刺さりやすかった」

 

 刺さる。

 

 その言葉に、喉が詰まった。

 

 俺は言い返そうとして、できなかった。

 

 たぶん、それは正しかった。

 

 俺の声は、誰かを従わせるために大きかった。

 

 葛城さんの正しさを信じているつもりで、その正しさを他人に押しつけていた。

 

 だから、敵を作った。

 

 だから、見られていた。

 

 だから、無人島で俺が少し前に出ただけで、龍園にも、伊吹にも、簡単に音を拾われた。

 

「……俺は、葛城さんの役に立つ」

 

 気づけば、そんなことを言っていた。

 

 白峰は黙って聞いている。

 

「でも、それだけじゃ駄目だって言われた」

 

「うん」

 

「だから……次は、Aクラスのことも見て動く」

 

 言葉にすると、少しだけ息が楽になった。

 

 白峰は小さく頷く。

 

「今の声なら、少し痛くない」

 

「お前に認められたいわけじゃない」

 

「知ってる」

 

「本当に分かってんのかよ」

 

「たぶん」

 

 曖昧な返事。

 

 でも、今はそれ以上言う気にならなかった。

 

 橋本が横から笑う。

 

「お前まで変わったな」

 

「うるさい」

 

「前なら白峰に噛みついて終わりだったろ」

 

「う、うるせえ!」

 

 言われて、俺はまた口を押さえた。

 

 橋本が腹を抱えて笑う。

 

 白峰も少しだけ笑っていた。

 

 その笑い方が、いつもより薄く見えなかったのは、俺の気のせいだろうか。

 

「戻るぞ、戸塚」

 

 葛城さんの声がした。

 

 俺はすぐに姿勢を正す。

 

「はい」

 

 今度は、声を抑えた。

 

 葛城さんの後ろへ行こうとして、ふと足が止まる。

 

 後ろ。

 

 いつもなら、迷わずそこに立っていた。

 

 葛城さんの背中の少し後ろ。

 

 指示を聞きやすい場所。

 

 守られているようで、役に立っている気がする場所。

 

 でも。

 

 俺は一歩だけ横に出た。

 

 葛城さんの隣。

 

 完全に並ぶには、まだ少し怖い。

 

 それでも、後ろではなかった。

 

 葛城さんは何も言わない。

 

 白峰も、橋本も、何も言わない。

 

 ただ、廊下を歩く音だけが二つ並んだ。

 

 無人島試験は終わった。

 

 でも、Aクラスの問題は何も終わっていない。

 

 坂柳はまだ船の上で笑っている。

 

 葛城さんの立場も揺らいだままだ。

 

 龍園との契約も残っている。

 

 白峰は相変わらず、何を考えているのか分からない。

 

 それでも。

 

 俺はもう、ただ葛城さんの後ろで声を張るだけではいられない。

 

 以前の俺なら、もっと大きな足音を立てていたと思う。

 

 Aクラスだと示すために。

 

 葛城さんの側にいると示すために。

 

 誰かに舐められないようにするために。

 

 でも今は、それをしたくなかった。

 

 大きく鳴らせばいいわけじゃない。

 

 強く響けば、正しいわけでもない。

 

 葛城さんの隣を歩くなら、まず自分の音くらい自分で抑えられなければならない。

 

 廊下の先へ進む。

 

 葛城さんの足音は重い。

 

 俺の足音は、まだ少し乱れている。

 

 それでも、前よりはましだ。

 

 少なくとも、今は。

 

 誰かを押さえつける音ではなかった。

 

 隠れている音でもなかった。

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