――戸塚弥彦視点
船の中は、妙に静かだった。
いや、正確には静かなわけじゃない。
廊下を歩く生徒の足音はある。
食堂の方からは笑い声も聞こえる。
無人島から戻ってきた連中が、久しぶりのベッドやシャワーに浮かれている声だって、あちこちから響いていた。
それでも、Aクラスの周りだけは違った。
声があるのに沈んでいる。
笑っているのに重い。
誰もはっきりとは言わない。
だけど、全員が分かっていた。
今回の試験で、Aクラスは勝ったわけじゃない。
負けたわけでもない。
ただ、守った。
それだけだった。
廊下ですれ違う他クラスの生徒の視線が、妙に気になった。
以前なら、気にも留めなかった。
Aクラスなのだから、見られて当然だと思っていた。
下位クラスの連中が何を言おうと、葛城さんの方針に従っていれば間違いない。そう信じていた。
だから、声を張った。
だから、強く言った。
Aクラスに逆らうな。
葛城さんの邪魔をするな。
口に出していなくても、俺の声はたぶん、そう聞こえていた。
クラスの外だけじゃない。
Aクラスの中でも、坂柳に近い連中や、中立ぶっている奴らに対して、俺は何度も余計な棘を飛ばしていた。
正しいのは葛城さんだ。
分からない奴らが悪い。
そう思っていた。
でも今になって、その声がどれだけ周りを遠ざけていたのか、少しだけ分かってしまった。
「……くそ」
人気の少ない廊下の壁に背を預け、俺は小さく吐き捨てた。
リーダー予想で、Cクラスは俺の名前を書いた。
結果は不正解。
そこだけ見れば成功だった。
龍園の読みを外した。
Aクラスは致命傷を避けた。
葛城さんの判断も、途中で白峰が置いた言葉も、結果だけ見れば間違ってはいなかった。
でも。
俺の中には、勝った感じなんて少しもなかった。
むしろ胸の奥に残っているのは、失敗した時の嫌な音だけだ。
洞窟でカードを扱った時。
葛城さんの近くに立ちすぎた時。
伊吹に見られていたかもしれないと気づいた時。
そして、白峰に言われた時。
『隠れるなら、葛城くんの隣は少し近すぎると思う』
思い出すだけで腹が立つ。
何だよ、あいつ。
いつも横から見ているだけのくせに。
はっきり命令するわけでも、責任を取るわけでもないくせに。
それなのに、こっちが一番聞きたくないことだけは、妙に正確に言ってくる。
「……偉そうに」
口に出しても、気分は晴れなかった。
悔しい。
それが一番近い。
白峰に言われたことが悔しいんじゃない。
言い返せなかった自分が、悔しかった。
「戸塚」
低い声がした。
背筋が伸びる。
顔を上げると、廊下の向こうから葛城さんが歩いてきていた。
無人島にいた時より少し疲れて見える。
けれど、姿勢は崩れていない。
いつもの葛城さんだった。
「葛城さん……」
「こんなところで何をしている」
「いえ、その……少し」
「少し、何だ」
言葉に詰まる。
葛城さんの前では、曖昧な返事をしたくなかった。
でも、今の自分の感情をどう説明すればいいのか分からない。
「……考えていました」
「何をだ」
「今回の試験のことです」
葛城さんは俺の前で足を止めた。
腕を組み、じっとこちらを見る。
その視線から逃げるように、俺は一度だけ目を伏せた。
「俺は……役に立てたんでしょうか」
聞いてから、情けない質問だと思った。
そんなこと、自分で判断するべきだ。
葛城さんに確認してもらうことじゃない。
それでも、口から出てしまった。
葛城さんはすぐには答えなかった。
船体が小さく揺れる。
廊下の奥で、誰かの笑い声が弾けて、すぐに遠ざかった。
「役には立った」
葛城さんはそう言った。
胸の奥が少しだけ軽くなる。
だが、次の言葉で息が詰まった。
「だが、未熟だった」
「……はい」
「お前は前に出すぎた。声も大きい。俺に確認を求める動きも多かった。リーダーを隠すという意味では、危うい場面が何度もあった」
一つ一つの言葉が重い。
でも、反論はできない。
全部、事実だった。
「それは島の中だけの話ではない」
「……え?」
「入学してからのお前の態度も含めてだ」
息が詰まった。
葛城さんは俺から視線を逸らさない。
「お前はAクラスであることを、必要以上に前へ出してきた。俺を支持するあまり、他の意見を軽く扱うこともあった。坂柳側の生徒だけではない。他クラスに対してもだ」
「俺は……」
「Aクラスの誇りを持つことは悪くない。だが、それを振りかざせば、敵を増やす」
反論できなかった。
思い当たることは、いくらでもあった。
Cクラスの連中に向けた目。
Dクラスを下に見ていた言葉。
坂柳に近い生徒たちへ吐いた棘。
その時は間違っていないと思っていた。
俺は葛城さんの側に立っている。
Aクラスを守っている。
だから多少強く言っても構わない。
そう思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
俺が守っていたつもりの声は、周りにはただ威張っているように聞こえていたのかもしれない。
「すみません」
「謝罪を聞きたいわけではない」
「でも、俺は……」
「戸塚」
名前を呼ばれて、言葉が止まる。
葛城さんの声は厳しかった。
でも、怒鳴っているわけではない。
無人島にいた時と同じ、低くて、硬い声。
「お前が俺のために動こうとしたことは分かっている」
「はい」
「だが、それだけでは足りない」
胸が小さく軋んだ。
「俺のため、では駄目なのですか」
「駄目だ」
即答だった。
少しだけ息が止まる。
葛城さんは視線を逸らさない。
「俺はAクラスを勝たせるために動いている。お前が俺だけを見ている限り、視野は狭くなる」
「……」
「今回、それが出た」
何も言えなかった。
言われなくても分かっていた。
分かっていたはずなのに、葛城さんの口から聞くと、余計に重かった。
「お前は俺の後ろに立とうとしすぎる」
「後ろ……」
「指示を待ち、確認し、俺の意図を探る。それ自体は悪くない。だが、リーダー候補として扱われる以上、お前自身が判断する場面もある」
「俺に、できるでしょうか」
「できるかどうかではない」
葛城さんの声が、少しだけ強くなる。
「やる必要がある」
廊下の空気が引き締まった気がした。
俺は拳を握る。
悔しい。
怖い。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「……はい」
喉の奥から、どうにか声を出す。
「次は、もっと考えます」
「考えるだけでは遅い場面もある」
「はい」
「声を出す前に、周囲を見ろ。動く前に、誰がそれを見ているかを考えろ」
「はい」
「そして」
葛城さんは、そこで少しだけ言葉を切った。
「俺のためだけに動くな」
その一言は、思ったより深く刺さった。
俺は葛城さんの役に立ちたかった。
葛城さんを支えたかった。
坂柳みたいな奴に主導権を渡したくなかった。
それが間違いだとは、今でも思っていない。
でも。
それだけでは足りない。
今回の試験で、それを嫌というほど思い知らされた。
「……分かりました」
俺は顔を上げた。
「俺は、Aクラスのことも見ます」
言ってから、自分の声が少し震えていることに気づいた。
それでも、言い直さなかった。
葛城さんはしばらく俺を見ていた。
それから、小さく頷く。
「ならいい」
それだけだった。
褒められたわけじゃない。
慰められたわけでもない。
でも、今はそれで十分だった。
「葛城さん」
「何だ」
「今回の試験……本当に、これでよかったんでしょうか」
葛城さんの目が少しだけ細くなる。
「何が言いたい」
「龍園との契約も、俺を囮にする流れも……その、白峰が口を挟んだことも」
俺が囮だった。
俺が目立つことで、龍園の読みを固定した。
それは分かっている。
でも、どこかで引っかかっていた。
自分で動いたというより、誰かの置いた音に足を取られたような気味の悪さがある。
「白峰のことか」
葛城さんが言う。
俺は黙って頷いた。
「あいつは信用できるんですか」
「信用はできる」
意外な返答だった。
けれど、葛城さんはすぐに続ける。
「だが、信用しきるべきではない」
「……ですよね」
「あいつは嘘で陥れる人間ではない。だが、責任まで背負う男でもない」
その言い方は、妙にしっくりきた。
助けられた、と言えば違う。
突き放された、と言うのも違う。
ただ、言われた後で、こっちが勝手に考えてしまう。
それが腹立たしい。
でも、今回、それを無視できなかったのも事実だった。
「むかつきますね」
思わず本音が漏れた。
葛城さんがわずかに眉を上げる。
「白峰がか」
「はい」
「それは同感だ」
予想外の返事に、俺は少し目を丸くした。
葛城さんは真面目な顔のまま続ける。
「だが、無視はできない」
「……はい」
結局、そこに戻る。
白峰は邪魔だ。
曖昧だ。
偉そうに見ているだけに見える。
でも、必要な時だけ妙な言葉を置いていく。
その言葉が、後から耳に残る。
ちょうど今みたいに。
葛城さんが歩き出す。
「戻るぞ。まだ整理すべきことがある」
「はい!」
返事が少し大きくなった。
葛城さんが横目で見る。
俺は慌てて口を押さえた。
「……はい」
声を落として言い直す。
葛城さんは何も言わなかった。
けれど、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。
それでも、少しだけ胸が軽くなった。
廊下を進む途中、ラウンジの方から聞き覚えのある声がした。
「いやー、姫さんも相変わらず変な伝言するよな」
橋本の声だ。
足が止まる。
葛城さんも一瞬だけ視線を向けた。
ラウンジの一角。
橋本がソファにだらしなく座り、その前に白峰が立っていた。
白峰はいつも通りの顔で、手には紙コップを持っている。
橋本は笑いながら言った。
「白峰に伝えとけってさ。『面白い音でした』だと」
何だそれ。
意味が分からない。
白峰はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「そっか」
「いや、それだけ?」
「うん」
「姫さんもあんたも、会話の癖が強すぎるんだよな」
橋本が呆れたように笑う。
白峰はそれに何も返さない。
ただ、紙コップに視線を落としていた。
その沈黙が、少しだけ気になった。
あいつは何を考えているのか分からない。
いや、考えているのかどうかすら分からない。
でも今の白峰は、いつもより少しだけ静かに見えた。
「戸塚くん」
不意に呼ばれた。
俺は思わず顔をしかめる。
「何だよ」
白峰がこちらを見ていた。
橋本も面白そうに俺を見る。
葛城さんは黙っている。
逃げる理由もなく、俺は白峰の方へ歩いた。
「何か用か」
「ううん」
「用がないなら呼ぶなよ」
「ごめん」
謝り方が軽い。
やっぱり腹が立つ。
白峰は俺の顔を少し見て、静かに言った。
「さっきの返事、少し変わったね」
「は?」
「葛城くんに返した声」
心臓が嫌な跳ね方をした。
何で聞いてるんだよ。
どこから聞いてた。
「盗み聞きかよ」
「聞こえただけ」
「同じだろ」
「そうかも」
白峰は否定しない。
その態度がまた腹立たしい。
「で、それが何だよ」
「前より、少し重くなった」
意味が分からない。
でも、何となく分かってしまうのが余計に嫌だった。
白峰の言う“重い”は、悪い意味だけじゃない。
浮ついていない。
誰かに認められたいだけの声じゃない。
そう言われているような気がした。
だから余計に、素直には受け取れない。
「偉そうに言うな」
「うん」
「お前、いつも見てるだけのくせに」
「そうだね」
「腹立つんだよ」
「うん」
何を言っても、白峰の声は乱れない。
怒らない。
反論もしない。
そのくせ、こっちの苛立ちだけが一方的に空回りしている気がして、さらに腹が立つ。
「前の戸塚くんの声は、もっと前に出てた」
「悪いかよ」
「悪いとは言ってない」
白峰は少しだけ間を置いた。
「でも、刺さりやすかった」
刺さる。
その言葉に、喉が詰まった。
俺は言い返そうとして、できなかった。
たぶん、それは正しかった。
俺の声は、誰かを従わせるために大きかった。
葛城さんの正しさを信じているつもりで、その正しさを他人に押しつけていた。
だから、敵を作った。
だから、見られていた。
だから、無人島で俺が少し前に出ただけで、龍園にも、伊吹にも、簡単に音を拾われた。
「……俺は、葛城さんの役に立つ」
気づけば、そんなことを言っていた。
白峰は黙って聞いている。
「でも、それだけじゃ駄目だって言われた」
「うん」
「だから……次は、Aクラスのことも見て動く」
言葉にすると、少しだけ息が楽になった。
白峰は小さく頷く。
「今の声なら、少し痛くない」
「お前に認められたいわけじゃない」
「知ってる」
「本当に分かってんのかよ」
「たぶん」
曖昧な返事。
でも、今はそれ以上言う気にならなかった。
橋本が横から笑う。
「お前まで変わったな」
「うるさい」
「前なら白峰に噛みついて終わりだったろ」
「う、うるせえ!」
言われて、俺はまた口を押さえた。
橋本が腹を抱えて笑う。
白峰も少しだけ笑っていた。
その笑い方が、いつもより薄く見えなかったのは、俺の気のせいだろうか。
「戻るぞ、戸塚」
葛城さんの声がした。
俺はすぐに姿勢を正す。
「はい」
今度は、声を抑えた。
葛城さんの後ろへ行こうとして、ふと足が止まる。
後ろ。
いつもなら、迷わずそこに立っていた。
葛城さんの背中の少し後ろ。
指示を聞きやすい場所。
守られているようで、役に立っている気がする場所。
でも。
俺は一歩だけ横に出た。
葛城さんの隣。
完全に並ぶには、まだ少し怖い。
それでも、後ろではなかった。
葛城さんは何も言わない。
白峰も、橋本も、何も言わない。
ただ、廊下を歩く音だけが二つ並んだ。
無人島試験は終わった。
でも、Aクラスの問題は何も終わっていない。
坂柳はまだ船の上で笑っている。
葛城さんの立場も揺らいだままだ。
龍園との契約も残っている。
白峰は相変わらず、何を考えているのか分からない。
それでも。
俺はもう、ただ葛城さんの後ろで声を張るだけではいられない。
以前の俺なら、もっと大きな足音を立てていたと思う。
Aクラスだと示すために。
葛城さんの側にいると示すために。
誰かに舐められないようにするために。
でも今は、それをしたくなかった。
大きく鳴らせばいいわけじゃない。
強く響けば、正しいわけでもない。
葛城さんの隣を歩くなら、まず自分の音くらい自分で抑えられなければならない。
廊下の先へ進む。
葛城さんの足音は重い。
俺の足音は、まだ少し乱れている。
それでも、前よりはましだ。
少なくとも、今は。
誰かを押さえつける音ではなかった。
隠れている音でもなかった。