幕間1 なんか無理
――軽井沢恵視点
白峰奏のことを、最初から嫌いだったわけじゃない。
そもそも、嫌いになるほど知らなかった。
Aクラスの男子。
中庭で時々ピアノを弾いている人。
たまに女子が「雰囲気あるよね」とか「王子様っぽい」とか騒いでいる人。
それくらい。
それくらいの認識で終わるはずだった。
「え、ちょっと待って。あれ誰?」
昼休み。
佐藤が急に足を止めた。
あたしは購買で買った飲み物を片手に、面倒くさそうにそっちを見る。
「何、佐藤さん」
「あれ。中庭のピアノ弾いてる人」
つられて視線を向ける。
中庭の端。
特別棟へ続く渡り廊下の近くに置かれたピアノ。
その前に、一人の男子生徒が座っていた。
白いシャツ。
少し風に揺れる髪。
背筋の伸びた座り方。
細い指が鍵盤に触れるたび、昼休みのざわめきの中に、ぽろん、と小さな音が混ざる。
うるさくない。
目立とうとしている感じでもない。
なのに、なぜか耳に残る音だった。
「あれ、Aクラスの白峰くんじゃない?」
松下が言った。
「白峰くん?」
「ほら、たまに中庭で弾いてる人。Aクラスの中でもあんまり喋らないって聞いたことある」
「あー、見たことあるかも。ていうか普通にかっこよくない?」
佐藤が少し声を弾ませる。
それに篠原がすぐ突っ込んだ。
「反応早すぎでしょ」
「だって顔いいじゃん」
「まあ顔はいいけど。王子様っぽいとか言い出したら笑うからね」
「え、ちょっと思った」
「思ったんだ」
篠原が呆れたように笑って、佐藤が「だって雰囲気あるし」と言い返す。
松下は少しだけ白峰を眺めてから、首を傾げた。
「でも、近寄りやすい感じではないよね」
「分かる。なんか話しかけづらそう」
「えー、でも普通に優しそうじゃない?」
みんなが軽く騒ぐ。
あたしも適当に笑った。
こういう時は、合わせておけばいい。
男子の評価。
雰囲気。
顔。
ちょっとした噂。
昼休みの女子の会話なんて、大体そんなものだ。
「軽井沢さんはどう思う?」
佐藤がこっちを見る。
「えー? まあ、雰囲気はあるんじゃない?」
「やっぱり?」
「でもちょっと近寄りがたいかも」
適当に言ったつもりだった。
でも、口に出してから、少しだけ引っかかった。
近寄りがたい。
たぶん、それが一番近い。
冷たいわけじゃない。
感じが悪いわけでもない。
むしろ、あの人は多分、話しかけたら普通に笑うタイプだ。
だけど。
なんか、距離が分からない。
近づいたつもりでも、こっちだけが足を踏み外しそうな感じ。
「ね、近くで聞いてみよ」
佐藤が言った。
「え、行くの?」
篠原が少し笑う。
「別に中庭だし。迷惑ならやめればいいじゃん」
「佐藤さん、そういうとこ行動力あるよね」
松下が苦笑する。
「軽井沢さんも行こ?」
「はいはい」
断る理由もなかった。
というより、ここで「興味ない」と言う方が空気が悪くなる。
あたしは三人に混ざって、中庭の端へ歩いた。
近づくにつれて、音がはっきりする。
静かな曲だった。
曲名は知らない。
クラシックとか、そういうのも全然詳しくない。
ただ、変な音だと思った。
綺麗なのに、楽しそうじゃない。
優しいのに、どこか遠い。
聞いていると、少しだけ胸の奥がざわつく。
嫌な感じ、というほどじゃない。
でも、落ち着かない。
一曲が終わる。
白峰奏は鍵盤から手を離し、こちらを向いた。
目が合った。
その瞬間、なぜか心臓が一拍だけ遅れた。
「こんにちは」
白峰が言った。
声は静かだった。
優しそう。
でも、薄い。
温度がないというより、温度を押しつけてこない声。
「あ、こんにちはー」
佐藤が明るく返す。
「すごいね、ピアノ上手なんだ」
「ありがとう」
「いつもここで弾いてるの?」
「たまに」
「へえ。Aクラスって忙しそうなのに」
「そうでもないよ」
会話は普通に続く。
白峰は嫌な顔もしない。
佐藤の質問にも、短く答える。
篠原が少し茶化すように言った。
「女子が急に来ても平気なんだ?」
「平気だよ」
「慣れてる感じ?」
「どうかな」
「そこ曖昧なんだ」
篠原が笑う。
白峰も少し笑った。
普通。
会話だけなら、本当に普通だった。
松下が少し首を傾げる。
「曲、何弾いてたの?」
「名前はあるけど、あまり有名じゃないと思う」
「へえ。白峰くんって昔からピアノやってるの?」
「うん」
「じゃあ結構長いんだ」
「それなりに」
そこで会話が一度止まる。
変な止まり方だった。
拒絶されたわけじゃない。
無視されたわけでもない。
白峰はちゃんと答えている。
でも、それ以上は踏み込ませない。
名前。
クラス。
ピアノ。
それだけで会話が止まる。
こっちが一歩近づこうとすると、返事だけ置いて少し離れる。
壁があるわけじゃない。
なのに、距離が縮まらない。
変な人。
あたしはそう思った。
「軽井沢さんは?」
不意に、白峰があたしを見た。
「え?」
「さっきから静かだったから」
その一言で、周りの視線があたしに集まる。
最悪。
変なところでこっちに振らないでよ。
「いや、別に。ピアノとか詳しくないし」
軽く笑って返す。
いつもの感じ。
明るく、軽く。
少しだけ上から。
そうしておけば、大抵の相手はそれ以上踏み込んでこない。
「でも、すごいとは思うよ? こういうの弾ける人って普通に尊敬するし」
「ありがとう」
「うん」
それで終わり。
終わったはずだった。
なのに、白峰は少しだけ間を置いた。
「軽井沢さんは、空気を止めないんだね」
「……は?」
思わず変な声が出た。
佐藤がきょとんとする。
「それ、褒めてるの?」
「うん」
白峰は鍵盤に視線を落とした。
「会話が止まりそうになると、すぐ軽くしてくれるから」
「何それ」
あたしは笑った。
笑えた。
たぶん、ちゃんと笑えていたと思う。
「白峰くんって変なとこ褒めるね」
「よく言われる」
「でしょーね」
いつもの調子で流す。
ここで気にしたら負けだ。
意味なんてない。
Aクラスの変な男子が、変な褒め方をしただけ。
それだけ。
なのに。
喉の奥が少しだけ詰まった。
空気を止めない。
その言葉が、変に残る。
あたしはただ、いつも通りに返しただけだ。
沈黙が変になる前に、笑って流しただけ。
それだけなのに。
「別に、詳しくないなら詳しくないでいいと思うよ」
白峰は、責めるでもなく言った。
「聴いてるだけでも変じゃないし」
本当に、ただそれだけだった。
長い説教でもない。
意味深な忠告でもない。
なのに、妙に耳の奥に残る。
詳しくないなら、詳しくないでいい。
合わせなくてもいい。
そう言われたみたいで、少しだけ息が浅くなった。
「別に合わせてないし」
声が、ほんの少し硬くなった。
自分でも分かった。
だからすぐに笑顔を足す。
「てか、そんな真面目に聞いてないから。ごめんね?」
「ううん」
白峰は否定しない。
怒りもしない。
ただ、あたしの声を聞いたみたいに、ほんの少しだけ黙った。
その沈黙が、嫌だった。
責められているわけじゃない。
見下されているわけでもない。
なのに、なんか嫌。
あたしが笑って誤魔化した部分だけ、そこに置きっぱなしにされたみたいで。
「じゃ、私たちそろそろ行こっか」
あたしは先に言った。
「え、もう?」
佐藤が少し残念そうにする。
「次、購買混むし」
「あー、たしかに」
「佐藤さん、目的忘れてたでしょ」
篠原が呆れたように言う。
「忘れてないし」
「完全に白峰くん見てたじゃん」
「見てないって」
「見てたよ」
松下が小さく笑う。
女子たちが動き出す。
白峰は引き止めなかった。
ただ、軽く手を振った。
「またね」
「うん、またねー」
佐藤たちは普通に返す。
あたしも笑って手を振った。
「またね、白峰くん」
ちゃんと言えた。
普通に言えた。
何もおかしくなかった。
はずなのに。
背中を向けた瞬間、息が少しだけ浅くなった。
中庭を離れても、ピアノの音はまだ聞こえていた。
さっきより少し小さく。
でも、妙に耳に残る。
「白峰くん、なんか不思議だったね」
佐藤が言う。
「分かる。あんまり喋んないけど、感じ悪くはないよね」
篠原が頷いた。
「でも会話続けるの難しくない? 全部ふわっと返される感じ」
「そこがいいんじゃん。ミステリアスっていうか」
「佐藤さん、完全に顔で判断してるでしょ」
「顔も大事でしょ」
「まあ否定はしないけど」
二人が軽く笑う。
松下だけが、少しだけあたしを見た。
「軽井沢さん、大丈夫?」
「え、何が?」
「いや。ちょっといつもより静かだったから」
「は? 別に普通だし」
「ならいいけど」
松下はそれ以上言わなかった。
こういうところ、松下はちょっと鋭い。
面倒くさいと言えば面倒くさい。
でも、嫌な感じではない。
ただ今は、気づかれたくなかった。
「てか、急にあんなこと言われたら誰でも反応困るでしょ」
あたしは笑って言う。
「空気を止めないって何? 意味分かんないし」
「白峰くん、独特だよね」
佐藤が笑う。
「でも悪い人ではなさそうじゃない?」
「そうかもね」
口ではそう言った。
実際、悪い人ではなさそうだった。
優しそうではある。
人当たりも悪くない。
怒鳴ったり、脅したり、強引に踏み込んできたりもしない。
むしろ、褒められたのかもしれない。
場を明るくできる、とか。
会話を止めない、とか。
普通なら、悪い意味にはならない。
それなのに。
あたしは、あの人が少し苦手だと思った。
笑顔が効かない。
声を明るくしても、どこかで軽さを拾われる。
こっちが隠したいものを暴くわけじゃない。
でも、隠した時の息だけ聞かれているような気がする。
それが、どうしようもなく落ち着かなかった。
「軽井沢さん?」
「ん?」
「顔、変だよ」
佐藤に言われて、あたしはすぐ笑った。
「は? 変じゃないし」
「ほんと?」
「ほんとほんと。ちょっと眠いだけ」
笑って返す。
今度はちゃんと、いつもの声で。
たぶん。
たぶん、そうだったと思う。
だけど、その日の昼休み。
白峰奏という名前は、あたしの中に妙な形で残った。
嫌いじゃない。
怖い、ってほどでもない。
でも、次に近くへ来られたら困る。
理由は分からない。
分からないけど、確かにそう思った。
なんか無理。
あたしは、心の中でそう決めた。