壊れる前の音を、君は知らない   作:シュユ

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第3話 優しい避難所

―― 一之瀬帆波視点

 

 疲れているつもりはなかった。

 

 少なくとも、自分ではそう思っていた。

 

 クラスの中心に立つ以上、多少の悩みや負担は当たり前だ。

 みんなの前で弱音なんて吐いていられないし、私が不安そうにしていたら、余計に空気も悪くなる。

 

 だから、いつも通り笑っていた。

 

 いつも通り話して。

 いつも通り気を配って。

 いつも通り、みんなの前に立って。

 

「……はぁ」

 

 気がつけば、ため息が漏れていた。

 

 夕方の中庭。

 人通りの少ないベンチの前で、私は慌てて口元を押さえる。

 

 だめだなぁ、私。

 

 こんなところ、誰かに見られたら心配をかけちゃうのに。

 

 そう思った時だった。

 

 ぽろん、と。

 

 静かな音が耳に届いた。

 

 顔を上げると、中庭の端にあるグランドピアノの前に、一人の男子生徒が座っていた。

 

 白峰奏くん。

 

 Aクラスの生徒だ。

 

 廊下ですれ違ったことはある。

 特別試験の説明会で見かけたこともある。

 

 でも、ちゃんと話したことはほとんどなかった。

 

 ただ――。

 

 綺麗な人だな、という印象だけは、よく覚えている。

 

 夕日を背に、鍵盤へ指を落とす横顔は、なんだか校内の風景から少しだけ浮いて見えた。

 同じ制服を着て、同じ学校にいるはずなのに、そこだけ切り取られた別の場所みたいだった。

 

 私は邪魔しないように、その場を離れようとして――。

 

「座れば?」

 

 不意に声をかけられ、足を止めた。

 

「え?」

 

「逃げなくても平気だよ」

 

 振り返った白峰くんは、くすりと笑っている。

 

 見られてたんだ。

 

 少し恥ずかしくなって、私は曖昧に笑った。

 

「ご、ごめんね。邪魔しちゃったかなって」

 

「してない」

 

 短い返事。

 

 でも、不思議と冷たくは聞こえなかった。

 

 促されるまま、私は少し離れたベンチへ腰掛ける。

 

 白峰くんはそれ以上何も言わず、またピアノを弾き始めた。

 

 静かな旋律だった。

 

 曲名は分からない。

 でも、どこか落ち着く音だった。

 

 強く励ますわけでもない。

 元気づけようとしているわけでもない。

 

 ただ、そこに流れているだけ。

 

 しばらくその音を聞いているうちに、張っていた肩の力が少しずつ抜けていくのが分かった。

 

 こんなふうに、何もしない時間って久しぶりかもしれない。

 

 誰かの相談を聞くわけでもなく。

 予定を確認するわけでもなく。

 次に何をするべきかを考えるわけでもなく。

 

 ただ、座っている。

 

 それだけなのに、少しだけ息がしやすくなった気がした。

 

 一曲が終わる。

 

 白峰くんは鍵盤に手を置いたまま、こちらを見ないで言った。

 

「大変そうだね」

 

 どきりとした。

 

「……顔に出てた?」

 

「少し」

 

 そんなに分かりやすかったかな。

 

 私は苦笑しながら、視線を落とす。

 

「やっぱり、隠せてなかったかぁ」

 

「隠す必要あるの?」

 

「え?」

 

「疲れてるのに」

 

 あまりにも自然に言われて、一瞬返事に詰まった。

 

 隠す必要。

 

 そんなの、考えたこともなかった。

 

 だって、私が弱ったら、みんなが心配する。

 みんなに余計な負担をかける。

 クラスの雰囲気だって、沈むかもしれない。

 

 だから元気でいなきゃいけない。

 

 笑っていなきゃいけない。

 

 それが当然だと思っていた。

 

「……みんなに、心配かけたくないから」

 

 小さく答えると、白峰くんは「そっか」とだけ言った。

 

 否定も肯定もしない。

 

 ただ、受け取るだけ。

 

 その反応が妙に心地よくて、私はぽつぽつと言葉を続けてしまった。

 

「私ね、クラスのみんなのこと好きなんだ」

 

「うん」

 

「だから、なるべくみんなが嫌な思いをしないようにしたいし、困ってたら助けたいし……」

 

「うん」

 

「でも最近、ちょっと空回りしてる気もしてて」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 こんなこと、ほとんど初対面みたいな相手に話すつもりじゃなかったのに。

 

 慌てて笑って誤魔化そうとする。

 

「ご、ごめん! 急にこんな話――」

 

「一之瀬さん」

 

 名前を呼ばれ、言葉が止まる。

 

 白峰くんは、ようやくこちらを向いた。

 

 穏やかな目だった。

 

 優しい、と思う。

 

 でも同時に、その奥には妙に静かなものがあった。

 踏み込んでくるわけではないのに、こちらが隠したものの近くまで、音もなく近づいてくるような感じ。

 

「君は優しいね」

 

「……」

 

 素直にそう言われると、少し照れる。

 

 けれど次の言葉で、胸がひやりとした。

 

「でも、優しい人って時々、自分の息が浅くなってることに気づかない」

 

 息を呑む。

 

 何も言えなかった。

 

 図星だったから。

 

 自分では気づかないふりをしていた部分を、急に目の前へ置かれた気がした。

 

 白峰くんは責めるような言い方をしたわけじゃない。

 声も静かで、表情も変わらない。

 

 それなのに。

 

 どうしてこんなに、聞かれていたような気分になるんだろう。

 

「……そう、聞こえる?」

 

 ようやく絞り出した声に、白峰くんは少しだけ笑った。

 

「少し」

 

 またその返しだ。

 

 なのに嫌じゃない。

 

 むしろ、変に取り繕わなくていい気がしてしまう。

 

 私は小さく息を吐いた。

 

「白峰くんって、不思議だね」

 

「よく言われる」

 

「なんか……安心するのに、ちょっと怖い」

 

 そう言うと、彼は珍しくきょとんとした顔をしたあと、くすっと笑った。

 

「それは困るな」

 

 本当に困っているようには見えない。

 

 夕方の風が吹き、木の葉を揺らす。

 

 白峰くんはまた鍵盤へ向き直った。

 

「少し休むといいよ」

 

「え?」

 

「一之瀬さんが倒れたら、困る人が多そうだから」

 

 その言い方は、気遣っているようでいて、どこか他人事だった。

 

 でも、不思議とその距離感がありがたかった。

 

 励まされるでもなく。

 同情されるでもなく。

 無理に事情を聞かれるわけでもない。

 

 ただ、そこに座っていていい場所だけを置かれたような感覚。

 

 私はベンチにもたれ、小さく笑った。

 

「……うん。もう少しだけ、ここにいていい?」

 

「どうぞ」

 

 再び、ピアノの音が流れ始める。

 

 目を閉じると、少しだけ心が軽くなった気がした。

 

 明日になれば、またいつも通り笑うと思う。

 

 みんなの前に立って、声をかけて、困っている人がいれば手を伸ばす。

 それはきっと変わらない。

 

 でも今だけは、何もしなくていい。

 

 そう思えるだけで、胸の奥にあった固いものが少しだけほどけた。

 

 白峰奏。

 

 優しい人。

 

 たぶん、すごく。

 

 でも。

 

 あの人の前では、大丈夫って言葉が少しだけ軽くなってしまう。

 

 そんな気がした。

 

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