ようこそ恋愛至上主義の教室へ   作:GC

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空白の地帯

自由を手に入れるための代償は、いつだって高くつく。

特に、あの男——オレの父親の手から逃れようとするなら、なおさらだ。

 

都内でも有数の進学校、秀知院学園。

格式高い校門をくぐりながら、オレは周囲の視線を無機質に受け流していた。

 

この学園は、日本経済を牛耳る『四宮グループ』の聖域だ。

いかに権力を持つオレの父親といえど、経済界の絶対王者である四宮家と正面から衝突するのは得策ではない。

無理にオレを連れ戻そうとすれば、政治的なスキャンダルや経済界からの報復を受けるリスクがある。

互いの勢力が均衡し、牽制し合うことで生まれた、奇妙な空白地帯。

それが、オレがこの学園に編入できた理由だった。

 

二年生の教室。

そこには、独特の空気が流れていた。

血筋、財産、家柄。

目に見えない価値によって、生徒たちの立ち位置が明確に分かれている。

オレに与えられた座席は、窓際の目立たない場所だ。

それでいい。オレの目的は、この学園でひっそりと平穏に過ごすことなのだから。

 

四宮かぐや。

 

四宮家の長女であり、この学園の象徴とも言える存在。

彼女がもし、オレの期待する武器になり得るなら——。

ホワイトルームという組織を根本から破壊するために、オレに真の平穏をもたらす剣として、彼女を利用できるかもしれない。

オレは、その見極めを始めることにした。

 

放課後。

オレは生徒会室の扉の前に立っていた。

 

編入初日に、担任の教師から「生徒会の雑務を手伝ってほしい」という指示を受けたからだ。

おそらくこれも松尾が回した手の一つだろう。

学園の中枢に深く入り込み、観察を行うには、これ以上ない立場だ。

 

扉を叩き、中に入る。

そこには二人の先客がいた。

 

オレの最大の興味である、冷徹な美しさを湛えた黒髪の少女。副会長、四宮かぐや。

そして、鋭い目つきをした金髪の男。生徒会長、白銀御行。

 

「……失礼します。先生に言われて、手伝いに来ました。……綾小路です」

 

オレの挨拶に、二人の視線が重なる。

一瞬の沈黙。

だが、その短い時間の中に、オレは違和感を見つけた。

 

「ああ、君が……。話は聞いている。転校初日から悪いな。あちらの机に古い予算申請書が積んである。それを年度別に仕分けて、不備がないか確認してくれるか。何かわからないことがあったら何でも聞いてくれて構わない」

 

「わかりました」

 

「あと、二年生からの編入ってことは同級生だな。敬語は抜きで構わないぞ」

 

白銀の言葉は、至って事務的だ。

だが、彼の視線は、ほんの数ミリだけ四宮の方へ流れた。

 

「ええ。私も普段から敬語ですし、お気になさらず。今日からよろしくお願いしますね、綾小路くん」

 

オレは指示された席に座り、淡々と作業を開始した。

視線は手元の書類に落としつつ、意識の半分は室内の観察に割く。

人間は、特定の入力を与えれば、特定の出力を出す機械だ。

そう教えられてきた。

 

だが、この二人の間で起きている現象は、その法則から大きく逸脱している。

 

例えば、四宮かぐやが今手に取った茶器。

彼女はそれを、白銀が手を伸ばしやすい位置へ、不自然な角度で置いた。

計算された行動。だが、その目的が業務の効率化ではないことは明白だった。

 

もし効率を求めるなら、自分で注いで出すか、あるいは最初から盆に乗せておけばいい。

わざわざ「相手に取らせる」という手間を発生させている。

 

白銀の方もそうだ。

彼は四宮と目が合うたびに、わずかに呼吸のテンポを乱している。

ペンを握る力、喉を鳴らすタイミング。

それらすべてが、目の前の少女を過剰に意識していることを示していた。

 

(……おかしいな)

 

二人とも、非常に優秀なはずだ。

その一挙手一投足には、相手を出し抜こうとする知略が張り巡らされている。

だが、その知略の使い道が根本から間違っている。

 

本来、四宮かぐやほどの人間であれば、もっと直接的に、もっと効率的に目的を達成できるはずだ。

それなのに、彼女はわざわざ回りくどい策を弄し、白銀に「自分を助けさせる」ための隙をあえて作っている。

自分の利益を削ってまで、相手の反応を伺う。

 

「どうした? 綾小路。何か気になることでもあるのか」

 

白銀が、不審そうにオレを見た。

 

「……いや。……すごいな、と思って。生徒会の仕事って、こんなに速いものなんだな」

 

オレは短く答え、再び資料に目を落とした。

 

非合理的で、無意味で、極めて非効率。

だが、その異常なまでのエネルギー。

オレは、消去法で一つの答えに行き当たった。

 

 

恋愛、か。

 

 

四宮かぐやがホワイトルームを破壊しうるかどうか見極めるためには、この不確定要素を解析する必要がある。

彼女が白銀御行という一個人に強く依存している事実は、彼女の最大の弱点であり、同時に、彼女を動かすための強力なレバーになる。

 

この二人の関係を、オレにとって最も都合の良い形へ導くこと。

四宮家という呪縛から彼女を解き放ち、最高の状態で利用するために。

 

「……面白そうだ」

 

口には出さない。表情にも出さない。

ただ、オレはこの学園での指針を定めた。

 

平穏を求めるために、まずはこの戦いに介入する。

それが、オレがこの学園に来た目的を達成する最短距離だ。

 

 

 

秀知院学園生徒会。この部屋は、日本という国家の縮図だ。

会長の白銀御行は、凄まじい努力によって凡才という定義を塗り替え続けているらしい。

対する副会長の四宮かぐやは、血筋と教育によって完成された至高の駒。

 

だが、オレの目から見れば、現在の四宮かぐやは錆びついた名刀に等しい。

 

(……非効率だ。あまりに非効率すぎる)

 

手元の予算申請書を仕分けながら、オレは隣の席で繰り広げられる茶番を脳内でシミュレートする。

今、白銀が偶然を装って、四宮の手元にある資料を覗き込もうとした。

それに対し、四宮は拒絶を演じながらも、瞳の奥ではもっと踏み込んでこいという期待を隠せていない。

 

彼女はホワイトルームが目指した一つの到達点に近いスペックを持っている。

冷徹な判断力、広範な知識、そして目的のためには手段を選ばない非情さ。

本気の彼女であれば、四宮グループの資産と権力を動かし、オレの父親の政治基盤を物理的に破壊することすら可能だろう。

 

だが、現在の彼女は、恋愛という名のバグによって暴走している。

白銀御行という一人の少年に認められたい、告白させたいという矮小な欲求。

そのために彼女は、本来持つべき実力の8割を、この不毛な駆け引きに浪費していた。

 

「綾小路くん、少しよろしいかしら?」

 

鈴の鳴るような、だが氷のように冷たい声。四宮かぐやがこちらを向いた。

その瞳には、編入生に対する純粋な好奇心ではなく、自分のテリトリーに入り込んだ異物を排除すべきか否かを見定める鋭い光が宿っている。

 

「……何か、オレに用か?」

 

「あなたの仕事の速さ、少し異常だわ。この量の資料、本来なら会計の石上くんが数時間かけてやるはずのものよ。それをあなたは、わずか30分で正確に終わらせている」

 

彼女の指摘は正確だ。

だが、オレは表情を動かさない。

 

「……いや。ただ、こういう単純作業は嫌いじゃないだけだ。……特別な知識も、必要ないしな」

 

「そう……。だとしたら、随分と有能な手駒が手に入ったものね。この学園で、あなたが何を求めているのかは知らないけれど」

 

探り。

彼女はオレを、父親の刺客か、あるいはそれと同等の脅威だと直感的に警戒している。

さすがは、四宮家の教育を受けた怪物だ。

 

「求めているのは、卒業までを、誰にも邪魔されずに過ごすこと。それだけだ」

 

オレは事実を告げた。

ただし、その邪魔者の中に、彼女の父親や、オレの父親が含まれていることは伏せて。

 

「……そう、面白くない答えですね。でも、その有能さは本物のようです。転入初日から生徒会の手伝いなんてどういうことなのか分からなかったけど、納得しました。有効活用させてもらいますね」

 

四宮は不敵な笑みを浮かべ、再び白銀との戦場へ戻っていった。

 

彼女はまだ気づいていない。

オレが彼女を利用しようとしていることに。

そして、彼女が抱えるその恋心こそが、オレが彼女を最高の剣へと改造するための、最大の取っ掛かりになることに。

 

 

 

放課後の廊下。

オレは一人で校門へ向かっていた。

背後に、一切の足音を消した気配を感じる。

 

……なるほど。確かに普通の高校に、こんな歩き方をする生徒はいない。

ホワイトルームの教官たちのような、淀みのない洗練された気配だ。

 

「……何か、オレに用か?」

 

オレが足を止めずに問いかけると、背後の気配がわずかに揺れた。

次の瞬間、オレの隣にギャル風の装いをした少女が、わざとらしいほど軽い足取りで並んで歩き始める。

 

「へぇ、気づいてたんだ。君、意外と耳が良いんだね。それとも……勘?」

 

「……さあな。ただ、視線が痛かっただけだ」

 

オレは彼女を見ない。

松尾からもらったデータだけは知っていた。彼女は早坂愛。四宮かぐやの側近であり、この学園で最も演じることに長けた人間。

彼女が今纏っている『ギャル』という皮も、精巧に作られた仮面の一つに過ぎないのだろう。

 

「君、ただの編入生じゃないよね?編入初日から生徒会の手伝いなんて、普通じゃないよ」

 

「光栄だな。だが、オレはただの平穏を望む生徒だ」

 

「……単刀直入に聞きます。あなた、どこの差し金ですか?」

 

彼女の声音から、先ほどまでの軽薄なギャルの響きが消えた。

鋭く、冷徹な。それが彼女の本性の一部だろう。

 

「何のことだ?」

 

オレは足を止め、初めて彼女の目を見た。

そこには、自分と同じ「役割を強制された人間」特有の、深い疲弊の色があった。

 

「……一つ聞くが、お前は今の役割に満足しているのか?」

 

「……質問の意味がわかりませんが」

 

「そうか。なら、いつか意味がわかる時が来るかもしれないな」

 

それ以上は何も言わず、オレは再び歩き出す。

 

今の彼女に契約を持ちかけても、罠だと判断されるのが落ちだ。

まずは、彼女の中に疑問という名の小さな種を植えればいい。

 

「……待ちなさい。あなた、何を知って——」

 

「さあな。ただの独り言だ」

 

背後で、彼女が鋭い視線でこちらを射抜いているのを感じる。

 

今はこれでいい。

四宮かぐやを完成させるために、その最も近くにいる彼女がどう動くべきか。

それを彼女自身に『考えさせる』ことが、最初のステップだ。

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