奉心祭、二日目の夕刻。
生徒会本部のテントを出て、オレは人混みの中を歩いていた。
夏の終わりを惜しむような熱気が、まだ校庭に残っている。屋台の匂い、太鼓の音、笑い声。すべてが、オレの計算にとって都合のいい雑音だ。
浴衣姿の生徒たちが、両手にりんご飴や焼きそばを持って行き交う。誰もが、今日という一日の終わりを惜しんでいるように見えた。
オレにとっては、ただの作業日だ。感傷を挟む余地はない。
(キャンプファイヤーの点火まで、あと三十分)
オレは腕時計を確認し、白銀と四宮の巡回ルートを頭の中でなぞった。二人は今、グラウンド周辺の見回りを終え、最後の持ち場――キャンプファイヤー会場の裏手に向かっているはずだ。
石上と藤原は、オレが割り振った裏方の仕事に釘付けにされている。彼らがこの一角に近づく確率は、限りなく低い。
すべての駒は、意図した通りの位置に収まった。
あとは、白銀御行という男が、自分自身の脚で最後の一歩を踏み出せるかどうかだけだ。
*
木々の隙間から、赤々と燃える炎が見えた。
生徒会役員としての最終確認を名目に、オレは会場の外周をゆっくりと歩く。近づきすぎれば、監視していると悟られる。だが、離れすぎれば、想定外の事態に対応できない。
(三十メートル。これが最適な距離だ)
炎を囲む生徒たちの輪の外側、少し離れた木の陰に、白銀御行の姿があった。
その隣に、四宮かぐやが立っている。
新しいスマートフォンを両手で握りしめ、彼女は炎を見つめていた。だが、その視線は時折、隣に立つ男の横顔へと逸れる。
白銀の手には、小さな紙包みが握られていた。
昨日、オレが奉心伝説のパンフレットを見せた時の、彼の思い詰めた顔を思い出す。あれから丸一日、彼はずっとこの瞬間のために、何かを用意していたのだろう。
肩の強張りが、遠目にもわかるほどだった。
(あと一押しだ)
オレは懐から、あらかじめ用意しておいた紙切れを取り出した。生徒会の名簿を装った、ただの白紙だ。
「白銀会長。すみません、名簿の確認をお願いできますか」
わざと平坦な声で呼びかけ、白銀に紙切れを差し出す。
彼は一瞬、鬱陶しそうな顔をした。だが、生徒会長としての義務感が、その苛立ちを上回る。
「……今か。わかった、少し待て」
白銀が紙切れを受け取り、視線を落とした瞬間。
四宮が、小さく肩を落とすのが見えた。
期待して、裏切られた顔。
――計算通りだ。
自分から動けない男に、他人の介入という不確定要素を一度差し挟む。そうすることで、彼の中に、今動かなければ機会は永遠に失われるという焦りを生み出す。
白銀が紙切れを読み終え、顔を上げる。
そこには、もう迷いはなかった。
「悪い。……今日中に、片付けておく」
彼はそう言って、オレに紙切れを突き返した。
そして、四宮の方へと向き直る。
オレは静かに踵を返し、木々の奥へと姿を消した。
これ以上、この場に留まる理由はない。
*
離れた場所から、オレは早坂の気配を感じ取った。
彼女もまた、木陰からこの光景を見守っていたのだろう。
「……結局、最後まで手を貸すんですね」
背後から、抑揚のない声がかけられる。
「効率的な選択をしただけだ」
「かぐや様の緊張が、伝わってきます。あんなお嬢様らしくない顔、初めて見ました」
早坂の声には、隠しきれない感情の揺れがあった。
オレは振り返らずに答える。
「四宮家という檻から出た人間の、最初の呼吸だ。慣れていないだけだろう」
しばらくの沈黙のあと、早坂が口を開いた。
「一つだけ、聞かせてください。……あなたが以前問いかけた、私の役割への満足度」
「答えは出たのか」
「まだ、です。ただ――」
彼女は言葉を切り、炎の方角へと視線を向けた。
「あの顔を見られるなら、この役目も、悪くないと思えました」
それだけ言うと、早坂は静かに闇の中へと消えていった。
*
木の陰に隠れ、オレは最後にもう一度だけ、二人の様子を確認した。
白銀が、紙包みを開いている。
中身までは見えない。だが、四宮の表情が、驚きから、やがて隠しきれない喜びへと変わっていくのは、この距離でも十分に読み取れた。
彼女の指先が、白銀の差し出した何かを、両手でそっと包み込む。
言葉は聞こえない。だが、言葉など不要だった。
四宮の目に浮かんだ涙が、炎の光を受けて一瞬だけ輝く。
これで、十分だ。
オレはそれ以上見届ける必要を感じず、静かにその場を離れた。
*
炎の爆ぜる音が、遠くから響いてくる。
オレは中庭の隅、誰もいない渡り廊下の下に立ち、その音を聞いていた。
歓声が上がった。
生徒たちの拍手と、口笛。何が起きたかを確かめるまでもない。
(成功、ということだろうな)
オレは腕時計に視線を落とし、この場を離れる時刻を計算し始めた。長居は不要だ。目的は達成された。
四宮かぐやという駒は、これで完全にこちら側に転がった。
家という後ろ盾を必要としない、白銀御行という個人への依存。それは、ホワイトルームを内側から破壊するための剣として、十分すぎるほどの強度を持つに至った。
(あとは、この剣をいつ、どう振るうかだけだ)
オレの目的は、あくまで平穏な日常の獲得だ。
四宮かぐやの幸福も、白銀御行の成長も、その過程で生まれた副産物に過ぎない。
そのはずだった。
だが、なぜか、胸の奥に小さな違和感が残っている。
理由を突き止める前に、オレはその感覚を意識の底へと沈めた。
考える必要はない。
平穏のための駒は、また一つ、確実に盤面に収まったのだから。
奉心祭の喧騒を背に、オレは静かに寮への道を歩き始めた。