奉心祭の熱気が去った月曜日、生徒会室にはいつもの静けさが戻っていた。窓の外では、片付けを終えたばかりの校庭が、まだどこか物寂しい空気を残している。廊下ですれ違う生徒たちの話題は、まだ祭りの余韻で持ちきりだった。誰と誰が花火の下で言葉を交わしたか、誰が屋台の列で告白されたか。噂話の大半は、憶測にすぎない。だが、その中に紛れた一件だけは、憶測ではなく事実だった。
出席簿を机に置きながら、オレはこの一週間の予定を頭の中で組み直す。四宮家の使いが動くまで、七日。その間に、生徒会としての公務を最大限に積み上げ、四宮と白銀の二人を人前に出す時間を管理しやすい形に固定しておく必要がある。
「――では、来月の予算案について」
議事を進める白銀の声に、以前とは違う響きがあった。淀みがない。言葉を選ぶ間の空白が、目に見えて短くなっている。隣に座る四宮が、資料をめくる白銀の手元を、ちらりと見やる。目が合うと、彼女は小さく微笑んだ。以前なら、その口元は完璧な仮面のまま動かなかったはずだ。
(表情筋の緊張が緩んでいる。安心と信頼の指標としては十分だ)
オレは資料に視線を落としたまま、その変化を数値として処理する。
「かぐやさん、なんか今日、肌つやよくないですか」
藤原が身を乗り出し、無遠慮に四宮の顔を覗き込む。
「気のせいでしょう」
四宮は素っ気なく答えたが、耳の先が赤くなっていた。手元のスマートフォンを、机の下でそっと握りしめる仕草に、藤原は気づいていない。石上が、隠しきれない疲労の滲む声で呟く。
「会長も副会長も、雰囲気が変わりましたね。……仕事は増えそうですが」
彼の勘は正しい。二人の距離が縮まるほど、周囲の生徒たちの視線は集まる。生徒会という組織の露出が増えれば、業務量も比例して膨らむ。石上にとっては、恋愛成就は純粋な労働時間の増加でしかない。
「石上くん、また辛気臭い顔してる」
「藤原先輩に言われたくないです。今日の議事録、まだ半分も進んでいません」
二人のやり取りを横目に、四宮が席を立ち、資料を棚に戻しに行く。その後ろ姿を、白銀の視線が一瞬だけ追った。すぐに逸れる。だが、その一瞬の動きを見逃すほど、オレの観察は鈍くない。
藤原が声を潜め、隣の石上に耳打ちする。
「ねえ、あの二人、絶対何かあったよね。花火の夜あたりから、空気変わったし」
「詮索は身を滅ぼしますよ、藤原先輩。仕事が増える予感しかしません」
石上の予言は、おそらく数日のうちに現実になる。生徒会という狭い空間の中で、変化は隠しきれるものではない。噂は水面下で広がり、いずれ表沙汰になる。その速度をどこまで制御できるかも、この一週間でオレが管理すべき変数の一つだった。
会議が終わり、各々が部屋を出ていく。オレも席を立とうとしたところで、四宮に呼び止められた。
「綾小路くん」
「なんだ」
「……ありがとうございます。名簿の確認、あの時、地味に助かりました」
礼の言葉に、含みはなかった。オレの介入の意図には、まるで気づいていない。当然だ。気づかれるような介入なら、最初から仕込む価値がない。
「役目を果たしただけだ」
短く返し、オレは部屋を出た。廊下に出たところで、追いかけてきた白銀に呼び止められる。
「綾小路。少し、いいか」
周囲を確認し、声を落として続ける。
「祭りの夜、四宮の見回りルートを組んだのは、お前だろう」
「効率を優先しただけだ。他意はない」
「……そうか」
白銀は、それ以上追及しなかった。ただ、しばらく黙り込んだあと、短く言った。
「四宮と、正式に付き合うことになった」
淡々とした報告だった。だが、その声の底に、隠しきれない安堵と、わずかな照れが滲んでいる。
「そうか」
「お前には、世話になった。名簿の件も、フランス校との交流会の時も、花火の夜のことも」
礼を言われる筋合いはない。すべては、オレの計算の結果に過ぎない。
「礼はいらない。生徒会の業務を円滑にしただけだ」
「……お前は、本当にそう言うんだな」
白銀は苦笑し、一礼して四宮を追いかけていった。その背中を見送りながら、オレは胸の内で結果を確定させる。
(フェーズC、完了。四宮かぐやという武器の鍛造は終わった。あとは、これをいつ、どう振るうかという、フェーズDの設計に移るだけだ)
だが、その設計図はまだ白紙のままだった。武器として仕上げることと、実際に振るうことの間には、想定していなかった距離がある。理由を考えかけて、オレはその思考を一度止めた。今、優先すべき変数ではない。
昼休み、生徒会室に戻ると、資料整理をしていた四宮と二人きりになった。好機だ。オレは棚の整理を手伝う体で、さりげなく声をかける。
「生徒会の対外研修で、目上の相手との受け答えを想定した練習をすることがある。今度、時間を取らないか」
「急にどうしたのですか。珍しいですね、綾小路くんがそんなことを言い出すなんて」
「白銀の交渉力に頼りすぎている。副会長として、お前自身の対応力も底上げしておくべきだ」
四宮は少し不思議そうな顔をしたが、断る理由もないと判断したのだろう。頷いた。
「わかりました。お付き合いします」
これで、家令の来訪までに、想定問答を仕込む時間を確保できた。四宮自身は、これが自分の身を守るための布石だとは気づいていない。気づかせる必要もない。
放課後、寮に戻る途中の渡り廊下で、早坂に呼び止められた。いつもの抑揚のない声ではなく、わずかに硬さの混じった声だった。
「少し、いいですか」
「珍しいな。お前から話しかけてくるのは」
「本家から、連絡がありました」
その一言で、オレは足を止めた。
「定期報告に、綻びが出たか」
「いえ……報告自体は、これまで通り通しています。ただ、来週、四宮家の使いが直接、かぐや様の様子を見に来ると」
四宮家が娘の様子を直接確認しに来る。これまでにない動きだ。報告書の内容と、本人の様子との間に、無視できない乖離が生じ始めているということだろう。家という檻から少しずつ離れていく娘の変化を、遠隔の報告書だけでは覆いきれなくなった。それだけの話だ。
「使いの身元は」
「本家付きの家令の一人です。かぐや様の幼少期から、屋敷に出入りしていた人間だと聞いています。誤魔化しの利く相手ではありません」
幼少期から仕える家令。四宮の癖や表情の変化を、他の誰よりも読み慣れている人間ということだ。台本を用意しても、その場凌ぎの演技では見抜かれる可能性が高い。
「対処法は」
「まだ、考えている最中です。使いが訪れるまで、あと七日」
短い。だが、ゼロではない。オレは頭の中で、使いへの対応案を並べ始めた。第一に、生徒会の公務で会長・副会長として多忙を装い、接触時間そのものを最小化する。第二に、四宮自身に家令との会話の主導権を持たせ、動揺を見せない受け答えを事前に練習させる。第三に、白銀との関係を、家にとって有益な人脈として説明できる建前を用意しておく。四宮家の判断基準は、最終的には利益だ。娘の変化が家に損害を与えないと示せれば、追及の手は緩む。どれも単独では決定打に欠けるが、組み合わせれば七日は十分に持ちこたえられる。
「対応の骨子は、後で渡す。お前はかぐやの動揺を最小限に抑えることだけ考えろ」
「……いいんですか。あなたが表立って動けば」
「表立っては動かない。渡すのは、お前が使うための材料だ。使うかどうかも、お前が決めろ」
早坂は一瞬、意外そうな顔をした。これまでのオレなら、対応の全てを自分で組み立て、早坂には駒として動くことだけを求めていたはずだ。今回は違う。判断の余地を、あえて彼女に残した。理由を、オレ自身もまだ言語化できていない。
早坂は、そこで初めて、オレの目を正面から見た。
「かぐや様の今の顔を、あの人たちに壊させるつもりはありません」
迷いのない声だった。以前の、命令に従うだけの人形のような響きは、そこにはもうない。
「随分、変わったな」
「あなたのせいです」
早坂は短くそう言うと、視線をわずかに逸らした。
「もし家令に、これまでの嘘を見抜かれたらどうなる」
「役目を解かれるだけです。それだけなら、安いものです」
「それだけで済むと思うか」
早坂は一瞬、沈黙した。四宮家という組織の中で、当主の意に反した使用人がどう扱われるか、オレよりも彼女の方がよく知っているはずだ。
「……済まないでしょうね。それでも、今更、引き返す気はありません」
そう言い残し、早坂は一礼して足早に去っていった。その背中を見送りながら、オレは彼女の役割が、静かに書き換わっていく過程を思う。四宮家の駒から、四宮かぐや個人の盾へ。皮肉なことに、それもまた、オレが仕込んだ変化の一つだった。同時に、その盾が折れた時の代償を、彼女自身がまだ正確に見積もれていないことも、オレは把握していた。
自室に戻り、オレは窓の外を見た。四宮家の使いが動く。想定していなかった変数ではない。だが、想定より早い。この程度の揺らぎは、計算の範囲内だと自分に言い聞かせながら、机の上の携帯端末に視線を移す。
着信の履歴が一件。登録していない番号からだった。留守番電話に、短いメッセージが残されている。再生ボタンを押すと、聞き覚えのない、抑揚を欠いた男の声が流れ出した。
「――お坊ちゃまの居場所は、把握しています。ただし、それを本家に伝えるかどうかは、まだ決めておりません」
それだけで、通話は切れた。
父の周辺にいる何者かだ。声に覚えはないが、口ぶりから、白の施設に近い立場の人間であることは間違いない。ホワイトルームでは、情報の断片だけを与え、相手に不安を計算させることで従順さを引き出す手法を、教官たちが日常的に使っていた。今の一件も、同じ型だ。所在を知っていると告げるだけで、脅す言葉は一つもない。それでも、聞いた人間の内側に恐怖を植え付けるには十分だった。
政治的な均衡が崩れかけている、ということか。四宮家の経済的な支配力と、父の政治的な影響力。二つの均衡の上に、オレの避難所は成り立っている。その均衡のどちらか一方が揺らげば、この学園は、いつまでもオレを匿ってはくれない。連絡の主が本当に父の意を汲んでいるのか、それとも独断で探りを入れてきた末端の人間に過ぎないのか、現時点では判別がつかない。
考えられる可能性は三つある。一つ、父自身が方針を変え、直接オレの回収に動き始めた。二つ、四宮家との経済的な対立が何らかの理由で緩み、政治側が強気に出られる余地が生まれた。三つ、ホワイトルーム側が父を通さず、独自にオレの所在を確認しに来ている。どの可能性であっても、共通する結論は一つだ。この学園という避難所の耐用年数は、確実に減り始めている。
オレはすぐに、この学園への編入を仲介した松尾に短い連絡を入れた。内容は一つだけ。父の陣営に、最近何らかの動きがなかったか。返答はすぐには来ないだろう。だが、種を蒔いておくことに意味はある。加えて、早坂に渡す対応の骨子を、今夜のうちに文書としてまとめておくことにした。四宮家の使いへの対策と、父側の接触という二つの変数は、本来は別々の問題だ。だが、対応に割ける時間と人員は共通している。どちらか一方に手を抜けば、もう一方が破綻する。優先順位をつけるのではなく、両方を同時に、最小限のコストで処理する設計が要る。
四宮の変化。早坂の変化。そして今、外部からの接触。三つの綻びは、まだそれぞれ独立した事象に見える。だが、独立していると断定する根拠もない。すべてを繋げて見るべきか、それとも過剰反応か。判断するには、情報が足りない。
窓の外で、風に揺れる木の枝が、影を落としていた。
胸の奥の違和感は、まだ消えていない。原因の特定は後回しにしたはずだった。だが今、それが別の何かと繋がりかけている気がした。四宮を武器に変えた夜、確かに何かを得た。だが、同じ夜に、何かを失ってもいる気がする。その正体を言葉にする前に、オレはその感覚を再び意識の底へ沈めた。
気のせいだ、と結論づける。
状況は、また少し、複雑になった。