七日は、思ったよりも早く過ぎた。
早坂に渡した対応の骨子は、彼女自身の判断で本家への報告に組み込まれ、滞りなく機能した。四宮と白銀の接触機会は表向き維持されながらも、家令の視線に晒される時間は最小限に抑え込まれている。
一方、四宮本人には、対応の骨子の存在そのものを明かしていない。彼女が知っているのは、「生徒会の対外研修」という建前で持ちかけた、目上の相手との受け答えの練習だけだ。放課後の空き時間を使ったその練習で、オレは想定問答を雑談に紛らせながら、四宮に繰り返し口に出させた。最初こそ言葉に詰まる場面もあったが、三日目には表情の揺れをほとんど見せなくなっていた。四宮自身は、これが台本の刷り込みだとは、最後まで気づいていない。
準備は整った。あとは、本番でそれがどこまで機能するかを見るだけだ。
松尾からの返答は、あの日以来まだ届いていない。父の陣営に動きがあったかという問いに沈黙が続いているのは、情報がないのか、情報を精査しているのか、判断がつかない。督促する余地はない。焦って動けば、逆にこちらの動揺を伝えることになる。
家令が訪れたのは、放課後の応接室だった。
年齢は六十前後。仕立ての良い黒の背広を、崩れなく着こなしている。物腰は丁寧だが、その奥に張り付いた観察の鋭さは、素人の目でも感じ取れるほどだった。名簿の確認という名目で同席したオレを一瞥した時の視線には、値踏みに似た冷たさがあった。
「お久しぶりでございます、お嬢様」
「ええ、お元気そうで何よりです」
四宮の応対に、乱れはなかった。声の高さ、間の取り方、姿勢。すべてが、想定した通りの範囲に収まっている。
(合格点だ)
オレは生徒会役員としての立場を装い、部屋の隅で書類仕事に徹していた。存在感を消しながら、視界の端で二人のやり取りを追う。
「学園生活は、順調でいらっしゃいますか」
「ええ。生徒会の業務にも慣れてきたところです」
「それは何より。……ところで、最近スマートフォンを新調されたと伺いましたが」
核心への一歩が、あまりに自然な流れで差し込まれた。四宮の肩に、ごく僅かな強張りが走る。だが、次の瞬間には消えていた。
「生徒会の連絡が煩雑になったもので。旧型では対応しきれなくなりましたから」
用意しておいた回答の一つだった。事実の一部を利用し、本質を隠す。四宮はそれを、淀みなく口にした。
家令は小さく頷いたが、その目はまだ四宮の表情から離れていない。
「なるほど。……失礼ながら、お嬢様の雰囲気が、以前とは少し違って見えます。何か、心境の変化でも」
これが本題だ。オレは筆記具を握る手を止めずに、二人の距離を目測する。想定問答の第三案。白銀との関係を、家にとって有益な人脈として説明する布石は、まだ切っていない。切るのは、これ以上追及された場合の最終手段だ。
「学業に集中できる環境が整ってきただけです。それだけのことかと」
「そうですか」
家令は、それ以上踏み込まなかった。だが、納得したわけでもないだろう。踏み込まないことそのものが、次の観察機会を残すための判断だ。
沈黙が落ちたところで、家令の視線が、部屋の隅に控える早坂へと向いた。
「早坂。お嬢様の日々の様子について、改めて聞かせてもらえるか」
「はい」
早坂の声に、乱れはなかった。だが、オレにはわかる。彼女の指先が、スカートの生地をほんの一瞬だけ強く握った。
「かぐや様は、生徒会の役目に真摯に取り組んでいらっしゃいます。周囲からの信頼も厚く、白銀会長との連携も円滑です。スマートフォンの件も、業務効率化の一環と理解しております」
嘘は、事実の器に注がれていた。真実の輪郭をなぞりながら、核心だけをすり替える。彼女の演技は、オレが仕込んだどの想定問答よりも自然だった。
家令は、早坂の顔をしばらく見つめた。
「……そうか。お前がそう言うなら、間違いはないのだろうね」
その一言に、早坂の肩から、目に見えない重さが抜け落ちるのがわかった。
だが、家令の視線は、そこで早坂から離れなかった。
「早坂。お前は、四宮家に仕えて長い。……お嬢様のためになるかどうか、その判断は、お前自身の中でどうつけているのだね」
問いの矛先が変わった。想定していた質問の外側だ。早坂の呼吸が、一瞬だけ止まる。
「……かぐや様の幸福が、私の判断基準のすべてです」
「四宮家への忠誠は」
「かぐや様への忠誠と、矛盾しない範囲で」
正直すぎる答えだった。だが、その正直さこそが、逆に嘘を覆い隠す盾になっている。家令は、しばらく黙り込んだ。
「……面白い答えだ。以前のお前なら、そんな返し方はしなかった」
早坂は、何も答えなかった。答える必要のない沈黙だった。
家令の視線が、そこで初めてオレへと移った。
「そちらの生徒さんは」
「生徒会役員です。書類の整理を手伝ってもらっています」
四宮が先に答えた。想定していた通りの対応だ。オレの存在に、必要以上の意味を持たせない。
「編入生の、綾小路と申します」
オレは短く名乗り、軽く頭を下げた。表情も声も、平坦さを崩さない。
家令は、しばらくオレを見つめた。値踏みするような、値踏みそのものを隠す気もない視線だった。
「……熱心な生徒さんですね。お嬢様のために、色々と骨を折っているのではありませんか」
質問の形をした、探りだった。
「役目を果たしているだけです。副会長を助けるのも、生徒会役員の仕事のうちですから」
「そう。……結構なことです」
家令はそれ以上追及せず、視線を四宮へと戻した。だが、部屋を出る直前、もう一度だけオレの方を一瞥した。その一瞬の視線に、単なる編入生への興味以上のものが混じっていたのを、オレは見逃さなかった。
(覚えられたか)
想定の範囲内だが、望ましい結果ではない。オレの存在が、家令の記憶に一つの符号として刻まれた。次に何かを調べる際、その符号が起点になる可能性は、ゼロではない。
家令が席を立ったのは、それから間もなくのことだった。
「今日は、お時間をいただきありがとうございました。本家には、良いご報告ができそうです」
「わざわざ、ありがとうございます」
四宮が立ち上がり、丁寧に一礼する。その所作に、崩れは最後まで見られなかった。
家令は扉の前で一度足を止め、四宮を振り返った。
「お嬢様。……人は、変わる時がございます。それ自体は、悪いことではありません」
「……」
「ただ、変わる理由が何であるかは、いずれ本家も知ることになるでしょう。その時、お嬢様ご自身の言葉で、それを語れるように」
それだけ言い残し、家令は部屋を出ていった。
四宮は、しばらくその場に立ち尽くしていた。オレは書類を片付けるふりをしながら、彼女の背中を観察する。
「……綾小路くん」
「なんだ」
「今の、聞いていましたか」
「聞こえていた」
四宮は振り返らないまま、小さく息を吐いた。
「変わる理由を、いずれ自分の言葉で。……あの方、全部わかった上で、あえて聞かなかったんだと思います」
その読みは正しい。核心を突く質問を用意していながら、あえて踏み込まずに引いた。証拠を摑む前に相手を追い詰めれば、警戒だけを固めさせる結果になる。家令はそれを理解した上で、種を蒔いて去った。
「怖いのか」
「……少しだけ。でも」
四宮はそこで初めて振り返り、オレを見た。その表情に、以前のような完璧な仮面の名残はなかった。
「今は、それでいいと思っています。理由を聞かれたら、いつか自分の言葉で答えられるようにしておけばいいだけですから」
想定していた回答の範囲を、四宮は自分の意思で超えた。台本通りに動く駒であれば、扱いはずっと単純だった。だが、単純さと引き換えに、早坂の時と同じ種類の余白が、また一つ増えたことになる。台本を渡した側として、その逸脱を歓迎すべきか、警戒すべきか、オレはまだ結論を出していない。
(合格、ではあるが、完全な安全圏には届いていない)
家令の最後の一言は、警告に近い。核心を摑んではいないが、いずれ摑む日が来ることを、あの男は織り込んでいる。四宮家の判断基準が利益である以上、いずれ何らかの形で、白銀との関係が家にとっての利益として説明可能かどうかを問われる日が来る。今日はまだ、その日ではなかっただけだ。
応接室を出た廊下で、早坂がオレの隣に並んだ。
「……綺麗事を言ったつもりはありません。でも、少し驚きました。自分の口から、あんな答えが出てくるとは」
「予定にない返答だったな」
「あなたの想定問答には、なかった質問でしたから」
想定していなかった変数に、彼女は自力で対応した。それは、オレが仕込んだ台本の外側で、彼女自身の判断が機能した証拠でもある。
「悪くない結果だ」
「褒めているんですか」
「事実を述べているだけだ」
早坂は、小さく息を吐いた。
「今日でわかりました。……本家は、まだかぐや様を諦めていません。今日の視察は、最初の一歩に過ぎない」
その読みは、おそらく正しい。家令の去り際の言葉が、オレの中で反響していた。変わる理由を、いずれ本人の言葉で語れるように。それは、四宮の変化そのものを咎める言葉ではなく、変化の先にある選択を見届けようとする、静かな圧力だった。
早坂と別れ、自室に戻る途中、携帯端末に一件の着信履歴が残っているのに気づいた。松尾からだ。折り返すと、短い応答があった。
「――お父上の陣営に、目立った動きはありません。ただし、先日の番号の発信元は、まだ特定できていません」
「継続して調べろ」
「承知しました」
通話はそれで終わった。手がかりは増えないまま、警戒だけが積み上がっていく。
窓の外を見ると、日はすでに傾いていた。七日間で用意した防壁は、想定通りに機能した。だが、それはあくまで、最初の一手に対する応答に過ぎない。四宮家、早坂、外部からの接触。三つの綻びのうち、一つだけが今日、一時的に塞がれた。残り二つは、まだ手つかずのままだ。
机の上に広げた自分用の記録を、オレは静かに見直す。四宮家の視察は、今後も不定期に続くと見るべきだ。次の視察までに、白銀との関係を「家にとっての利益」として説明できる材料を、もう一段具体化しておく必要がある。生徒会長という白銀の立場そのものが、すでにその材料の一つになり得る。あとは、それをどのタイミングで、どういう形で家令の耳に入れるかという設計だけだ。
家令にオレの顔を覚えられたことも、悪い変数だとは言い切れない。監視対象が増えれば、四宮本人への注視はその分だけ分散する。危険と機会は、常に一つの事実の裏表だ。
そこまで考えて、胸の奥に、あの夜からずっと居座っている違和感が、また微かに疼いた。
(……これも、計算の一部として処理すればいい)
そう結論づけて、オレはその感覚に蓋をした。理由を突き止める作業は、今はまだ、優先順位の低いところに置いておく。
状況は、また一つ、次の局面へと進んだだけだった。