ようこそ恋愛至上主義の教室へ   作:GC

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揺れる思い

六月。

フランス校との交流会当日を迎えた。

 

秀知院学園の中庭には、四宮と白銀が中心となって企画した屋台が並び、異国の来賓たちを迎え入れる準備が整っていた。

オレは指定された裏方の配置につき、備品の補充と導線の確保という単調な作業をこなしている。

 

視線の先では、白銀御行がフランス校の校長と生徒代表を前に、歓迎の挨拶を行っている。

彼の表情には、以前のような過剰な強張りはない。

凡人の枠を超えようと努力を重ねる彼の姿勢は評価に値するが、同時にそれは常に折れる危険性を孕んでいた。

だが今の彼は、隣に立つ四宮かぐやの存在を明確に頼りにしている。

 

「――以上の次第で、本校は皆様の来訪を心より歓迎いたします」

 

白銀がスピーチを締めくくると、フランス校の生徒代表である金髪の少女――ベツィーと呼ばれていたか――が、ふと口元に冷笑を浮かべた。

彼女は流暢なフランス語で、白銀に向けて何かを囁いた。

 

その瞬間、白銀の動きが僅かに硬直した。

 

彼の語学力では、その早口で皮肉に満ちたスラング交じりのフランス語を完全に理解することはできなかったのだろう。

 

だが、隣にいた四宮かぐやの反応は違った。

四宮の肩が小さく跳ね、その瞳に冷たい怒りの色が宿る。

彼女の高い能力は、ベツィーの言葉が白銀を侮辱するものであると即座に理解したはずだ。

四宮かぐやという人間は、自身の利益を削ってでも相手の気を引こうとする非合理な感情の持ち主だ。

自分が好意を寄せる対象が不当に貶められた時、彼女の思考は論理を飛び越え、攻撃的な出力へと変換される。

 

四宮が一歩前に出ようとした。

 

その瞬間、白銀が彼女の前にすっと腕を出し、制止した。

 

「四宮。ここは俺が対応する」

 

白銀は日本語で短く告げた後、ベツィーに向き直り、堂々とした態度でフランス語の定型句を返し、スマートに握手を求めた。

挑発に乗らず、あくまで生徒会長としての責務を全うする選択。

 

ベツィーはつまらなそうに肩をすくめ、その手を取った。

四宮の表情が、驚きから、やがて柔らかい安堵へと変化していく。

彼女の視線は完全に白銀一人に向けられていた。

自分が守るべき対象だと見なしていた白銀が、自身の足で立ち、自分を制止して見せたこと。

その事実が、四宮の中で白銀の評価をさらに引き上げ、依存度を深めている。

 

オレの助言を受け入れ、不完全な部分を晒しながらも前に進もうとする白銀の姿が、四宮の感情を強く揺さぶったのだ。

恋愛という変数は、時に人間の能力を著しく低下させるが、条件次第では爆発的な原動力にもなる。

四宮かぐやを、ホワイトルームを根絶やしにするための剣として利用する。

そのための操作手段として、白銀御行という存在はやはり最適だ。

 

「綾小路くん」

 

背後から声をかけられ、オレは振り返る。

多言語対応パンフレットの束を抱えた藤原千花が立っていた。

彼女は自分の感情に忠実であり、論理の外側で動く不確定要素だ。

 

「パンフレットの配布、完了しました! フランスの方々も、私の素晴らしい翻訳センスに感銘を受けていましたよ!」

 

「そうか。お前の語学力が役に立ったな」

 

適当に肯定を与えると、藤原は満足げに笑って足早に去っていった。

彼女をこの作業に隔離したことで、白銀と四宮の間に無用なノイズが入り込む余地は排除された。

計画の障害にも煙幕にもなる彼女の扱いは、現状これが最も効率的だ。

 

交流会は大きな問題もなく進行していく。

夕刻になり、来賓たちが帰路につく頃、オレは片付けの指示を出すために生徒会室へ向かった。

扉の隙間から、室内の様子が僅かに見える。

そこには、疲労の色を浮かべながらも、充実した表情で向かい合う白銀と四宮の姿があった。

 

「四宮。今日は助かった。お前がいなければ、上手く回らなかった」

 

「いえ……私の方こそ。会長の堂々とした対応、とても……立派でした」

 

二人の会話には、以前のような「相手に告白させる」ための無意味な探り合いは少ない。

互いの存在を認め合い、距離を縮めようとする素直な出力がそこにある。

 

オレが介入し、少しの助言と環境の整備を行っただけで、この結果だ。

人間というものは、適切な入力を与えれば容易に出力を変える。

 

オレはその光景を記憶の片隅に記録し、無言で踵を返した。

今はまだ、二人の関係をこれ以上観測する必要はない。

四宮かぐやが白銀御行という一個人に依存し、四宮家という古い支配構造から脱却する兆しを見せていること。

その事実さえ確認できれば、オレの目的は達成されている。

 

 

 

廊下を歩くオレの背中に、鋭い視線が突き刺さるのを感じた。

振り返るまでもない。

曲がり角の影に潜む、早坂愛だ。

彼女はオレの異常性を警戒し、監視を続けている。

だが、彼女自身の中に生まれた役割への疑問が、その行動に迷いを生じさせているのも事実だ。

 

「……いつでも来い。お前の思考が整理された時にな」

 

誰に宛てるでもなく、オレは小さく呟いた。

秀知院学園という空白地帯で、平穏な日常を獲得し、維持する。

そのためには、まだいくつかの駒の配置を調整する必要がある。

オレは一切の感情を交えず、次なる手順の計算を開始した。

 

 

 

 

六月も半ばを過ぎた。

フランス校との交流会という大きな行事を終え、生徒会室には一時的な凪のような時間が訪れていた。

だが、オレの観察からすれば、その静けさは表面的なものに過ぎない。

 

白銀御行と四宮かぐや。

 

二人の間には、以前のような過剰な探り合いは減少しつつあるものの、依然として恋愛という非合理な感情のやり取りが存在している。

 

今日の放課後、生徒会室のテーブルの中央には、高級そうな白い箱が置かれていた。

四宮が持ち込んだものだ。

 

「知り合いのパティシエから、新作のケーキを試食してほしいと頼まれまして。せっかくですから、皆さんでいかがかと思い持参しました」

 

四宮は涼しい顔でそう告げた。

箱が開かれると、中には精巧な細工が施されたショートケーキが三切れ入っていた。

現在、この部屋にいるのはオレと白銀、そして四宮の三人だ。

一見すると、人数分のケーキをただ分けるだけの単純な作業に思える。

 

だが、オレの目は四宮の微細な変化を見逃さない。

彼女の視線は、三切れのケーキのうち、最も苺が大きく、美しい装飾が施された一切れに固定されている。

そして、その一切れをいかにして自然な流れで白銀に選ばせるか。

四宮の思考は、その一点にのみ集中していた。

 

「ほお、美味そうなケーキだな。四宮、わざわざすまない」

 

白銀がケーキを見つめ、生唾を飲み込む。

彼の家計状況を考えれば、このような高級菓子を口にする機会は少ないはずだ。

だが、彼もまた素直に手を伸ばすことはしない。

自分が真っ先に一番良いケーキを選べば、四宮から卑しい人間だと思われるのではないか。

そんな無意味な計算が彼の行動を制限している。

 

「会長からどうぞ。お好きなものを選んでください」

 

四宮が促す。

言葉とは裏腹に、彼女の指先は僅かに震え、呼吸が浅くなっている。

 

もし白銀が彼女の意図を汲み取れず、別のケーキを選んでしまったら。

あるいは、遠慮して最も小さなケーキを選んでしまったら。

四宮かぐやという秀知院を代表する天才が、たかがケーキの分配という事象に対して、これほどのエネルギーを浪費している。

人間の行動原理として、極めて非効率だ。

 

「いや、俺は最後でいい。四宮が持ってきたんだから、まずは四宮から選ぶべきだ」

 

「とんでもない。私はいつでも食べられますから。日頃の感謝の印として、会長に一番美味しいところを召し上がっていただきたいのです」

 

二人の間で、無益な譲り合いが始まる。

相手の利益を優先しているように見せて、その実、相手の好意を確認したいという自己中心的な欲求が根底にある。

 

恋愛とは、ここまで人間の思考を歪めるものなのか。

オレは手元の書類を整理しながら、その非合理な現象を淡々と分析する。

この膠着状態を放置すれば、ケーキの温度が上がり、品質が低下するだけだ。

オレは席を立ち、テーブルへと近づいた。

 

「少し、いいか」

 

オレが声をかけると、二人の視線が同時にこちらを向いた。

 

「綾小路、どうした?」

 

「オレが切り分けてもいいか」

 

「あ、ああ。構わないが……」

 

オレは紙皿を三枚用意し、ケーキを取り分ける。

その際、四宮が最も注視していた、装飾の美しい一番大きなケーキを、躊躇なく白銀の皿に置いた。

残りの二つをオレと四宮の皿に分ける。

 

「白銀は最近、交流会の事後処理で消費カロリーが多いはずだ。糖分を多めに摂取するのが合理的だろう」

 

オレが淡々と事実を告げると、白銀は少し驚いたような顔をした後、安堵の息を吐いた。

 

「そうだな。……ありがたく一番大きいのを貰うとするよ。四宮も、ありがとうな」

 

白銀がケーキを口に運ぶ。

その瞬間、四宮の強張っていた肩の力が抜け、彼女の唇に隠しきれない柔らかな笑みが浮かんだ。

 

彼女の目的は、自分が一番良いものを食べることではない。

白銀が美味しそうにケーキを食べる姿を見ること、ただそれだけのために、膨大な思考を巡らせていたのだ。

 

自分の利益を削り、他者の喜ぶ姿に価値を見出す。

それはオレがホワイトルームで学んだ論理には存在しない、不可解な行動原理だ。

だが、理解できなくとも、現象として観測し、利用することはできる。

四宮かぐやのこの強烈な感情は、彼女自身を操作するための確実な引き金となる。

 

「綾小路くんも、遠慮せずに召し上がってくださいね」

 

四宮が、いつもより僅かに高い声でオレに言う。

彼女のオレに対する警戒心は消えていない。

だが、結果として自分の目的を達成してくれたオレの行動を、彼女は有益な支援として処理したようだ。

 

これでいい。

目立たず平穏を装いながら、彼女にとって都合の良い環境を構築し続ける。

それが、四宮かぐやを四宮家の支配から脱却させるための第一歩だ。

 

 

 

 

その日の夕方。

生徒会室を後にしたオレは、人気の少ない旧校舎の裏手へと足を向けた。

一定の距離を保ちながら、正確な歩法でオレを尾行してくる気配がある。

 

早坂愛だ。

 

彼女は四宮の護衛として、オレの存在を監視し続けている。

だが、以前彼女の中に植え付けた疑問の種は、確実に彼女の思考を鈍らせていた。

オレは立ち止まり、背後を振り返る。

夕闇の中、木立の影から早坂が姿を現した。

普段の軽薄な態度は完全に消え去り、その目は冷たく澄んでいる。

 

「……今日は随分と、直接的な誘導をしましたね」

 

早坂が低い声で問いかけてくる。

ケーキの分配の件を言っているのだろう。

 

「合理的な判断を下しただけだ。彼らの無意味な膠着状態は、生徒会の業務効率を低下させる」

 

「嘘ですね。あなたは、かぐや様と会長の関係を、意図的に加速させようとしている。本当に何が目的ですか」

 

早坂は一歩、オレへと近づく。

彼女の警戒心は最高潮に達しているが、同時に、どう行動すべきか迷っているのがわかる。

彼女は四宮家の命令で動く使用人でありながら、四宮かぐやという一個人を大切に思っている。

その矛盾が、彼女の足を引っ張っているのだ。

 

「早坂。お前は、四宮かぐやの現状をどう見ている」

 

オレは質問で返す。

早坂は眉をひそめた。

 

「どういう意味ですか」

 

「四宮かぐやは優秀だ。だが、白銀御行という一個人に強く依存している。そして、四宮家という檻の中にいる限り、彼女はその感情を貫くことはできない」

 

オレの言葉に、早坂の肩が僅かに揺れた。

彼女が最も恐れ、同時に最も心を痛めている事実を突かれたからだ。

 

「オレは、彼女が自立するための環境を整えているだけだ。四宮家という支配構造を破壊し、彼女が自身の意志で選択できる状況を作る。それが、結果的にオレの平穏に繋がる」

 

「……四宮家を、破壊する? あなた一人で、そんなことができるとでも本気で思っているんですか」

 

早坂の声には、嘲笑ではなく、純粋な戦慄が混じっていた。

オレという得体の知れない存在が、四宮という巨大な権力に対して一切の恐怖を抱いていないことを感じ取ったのだろう。

 

「可能かどうかは問題ではない。やるか、やらないかだ。そして、お前はどうするつもりだ、早坂」

 

「お前はいつまで、四宮家の監視役という役割を演じ続けるつもりだ」

 

「……っ」

 

オレの追及に、早坂は息を呑んだ。

 

「お前が真に四宮かぐやを守りたいのなら、四宮家に正確な報告を上げることは彼女の首を絞める行為だ。お前はすでに、その矛盾に気づいているはずだ」

 

彼女の行動原理は、四宮家への忠誠ではなく、四宮かぐやへの個人的な感情に傾きつつある。

オレはそこを利用する。

 

「オレを敵視するのも自由だ。だが、四宮かぐやが檻から抜け出すためには、外部からの力が必要になる。お前が彼女の幸せを願うのなら、オレの行動を黙認し、時には利用する方が合理的だ」

 

早坂は強く唇を噛み締め、俯いた。

彼女の中で、役割としての自分と、感情を持つ一人の人間としての自分が激しく衝突している。

論理で武装した彼女の心を折るには、この事実の突きつけだけで十分だ。

 

「……あなたのことは、まだ信用していません」

 

長い沈黙の後、早坂は絞り出すように言った。

 

「ですが……かぐや様が、本当に笑えるようになるのなら。私は……」

 

言葉の先を飲み込み、彼女は背を向けて立ち去った。

その足取りには、以前のような冷徹さはなく、ただ重い決意だけが滲んでいた。

早坂愛という防壁は、これで無力化できた。

 

むしろ、状況次第では四宮家への偽装報告を行うための有用な手段として機能するだろう。

 

四宮かぐや、白銀御行、そして早坂愛。

 

彼らの感情という非合理な変数を計算式に組み込み、オレにとって最適な出力を導き出す。

ホワイトルームを破壊するための剣を磨き上げる準備は、着実に整いつつある。

オレは暗くなり始めた空を見上げ、静かに帰路についた。

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