「…………」
「…………」
気まずい。
さすがに路上であれこれ話すという訳にもいかないのでとりあえず私の部屋に上げたものの、お互いテーブルを挟んでの沈黙が重くついそう思ってしまった。
「……えっと、何か飲むか? 大したものは何もないが……」
「……うん。お願い」
耐えきれず少しその場から逃げるのも含めて提案すると、アツコは静かに頷いてくれた。
そそくさと立ち上がり台所にある冷蔵庫を開くと、中にあるのはお茶とお酒で後者の方が多い。というかお茶は二リットルペットボトルに半端に残った分しかない。
「さすがにこれを姫に出すのは……」
つい懐かしい呼び方で言ってしまったぐらいには申し訳ない気持ちになった。
まあコップに入れてしまえば変わらないとは思うが、こう気持ち的にな……。
かと言って今から最寄りのローソンにでも行って何か買ってくる訳にもいかないし……。
「別に気にしなくてもいいのに」
と、ペットボトルと冷蔵庫の中身を見比べていた私の背後からそんな声がした。
気がつくと冷蔵庫の前で悶々としていた私をアツコをじっと私を見つめていた。
「アツコ……いやしかし」
「いいの。サっちゃんと同じモノが飲みたいから。……さすがにお酒は飲めないしね」
「あ、ああ……そう言うなら」
やはり幾分かの申し訳なさを感じながらもお茶をコップ二つに入れアツコに出し、自分も飲む。
飲み慣れている味で喉を潤しながらも、もう少し冷蔵庫の中身を考えようと思った。いくら今日がイレギュラーとは言え少し買い物をサボっていたツケが来たところもあるしな。
そのせいか、なんとなく買って置いていた一つのリンゴをペットボトルのお茶なんかに合わないと分かりつつもきれいに四つに切り分け、互いに一つずつ分けて置くような事もしてしまった。
「……あんなお酒があるなんて、本当に大人になったんだねサっちゃん」
切り分けたリンゴを口にし、少し間をおいてからお茶を少し口にしたところで、アツコが少し寂しげな笑みを浮かべて言って来た。
私と彼女の差にできてしまったどうしようもない差。
そこをアツコは確認し、そしてそれは私にもそれを再認識させる事となった。
「ああ……そうだな。今は三十で、誕生日を迎えれば三十一になる」
「三十歳、かぁ……随分と年の差が出来ちゃったんだね」
「そういうアツコは……全然変わっていないな」
「うん、私はまだ十五だよ。つまり倍の年の差だね」
倍の年の差、というのは案外響くものだ。
かつては二つの差程度だったのが、今では倍、心の中で反芻するたびに言いようのない妙な気分になった。
そんな気持ちが表情に表れていたのか、アツコはフフッと笑った。彼女だって困惑しているだろうに。
「だって私から見たら、まだ三か月ぐらいしか経ってないんだもの。……サっちゃんが、
「…………そうか」
間違いなくこの日本とキヴォトスは別世界だ。
きっとそういう事もあるのだろうとは思っていた。私はそういったSFやファンタジーなどに詳しいわけではないが、時間の流れが違ってどうこうはよく見るネタなのぐらいは知っている。
私とアツコも、きっとそこで大きな差ができてしまったのだ。
「しかし、アツコはどうやってこちらに? そのままこちらに来ているのを見るに、私のように死んで――」
「――うん、向こうで突然
少し食い気味に説明してきたアツコ。
なんとなく、彼女がそこで私の言葉を遮った理由は分かる。
だけれどもそこはあえて追求しないでおいた。無理に現実を整理する事はそれが必要な事だったとしても時として正解になる訳では無い。
それよりもまずは彼女がどうやってこちらに来たのかを知るべきだろう。
「アリウスにある不思議な力、か……。確かにあの時、そんな事も言っていたのは覚えているが」
アリウスがアリウスとして自立できるようになった直前。アリウスに天使が降り立ち、スバルがそれに取り込まれたあのときにアツコが語った話。アリウスという「何か」が起こる土地とロイヤルブラッドにまつわる秘儀、それらに深く関わる忘却されし感情の堆積。
アツコは、それのおかげでこちらに来れたのだと言う。
「うん。……あの日ね、いつも通りバイトに行っていつも通り帰って来ると思ってたサっちゃんが帰ってこなくて。子供を助けて川に飲まれたって知らされて。みんなで必死に探したけど、見つからなくて。……それで、ついには誰もが諦めて」
ぎゅっとアツコがコップの取っ手を強く握ったのが分かった。
視線は俯き茶色に濁った安いお茶の波紋に向かっている。
「ヒヨリもミサキも、スバルもマイアも他のたくさんのアリウス生も、アズサ達やトリニティの子も、ゲヘナの子でサっちゃんに関わった子達も、そしてもちろん先生だってみんな傷ついて。でも前を向いて歩こうとお互い慰め合って励まし合って支え合って協力し合って、なんとか起きた事を飲み込んで進んでいった」
残してきた者達の事について考えなかった訳ではない。
苦楽を共にしたスクワッドのみんなやこれから共に未来を歩いていこうと誓ったスバル達、トリニティで居場所を見つけたアズサと補習授業部、気にかけてくれた桐藤ナギサや尊敬していた便利屋68のメンバー、そして先生。
そんな彼女らが私の事を簡単に振り切れるような薄情な人間ではない事はよく知っている。私がいなくなっても気にしないだろうと方がみんなに失礼だ。
でも……やはり『今の私』にとっては、どうしてもそれらは『前世』の『錠前サオリ』の話であって、今の『常前早織』とは別の人生の話だと、そう区別ができてしまっていた。
我ながら冷たい判断ではあると思う。でも、あの日両親が私が目を覚ましたのをあんな喜んでくれた姿を見てからはもう、そうとしかならなくなったのだ。
「でも私はどうしてもサっちゃんがまだ帰って来るんじゃないかって、今にでも扉を開けて『ただいま』って言ってくれるんじゃないかって、そんな気がしてならなかったの。そんなことを思いながら過ごしていたある日、教室の外が眩しくなったと思ったら、電車の中にいたんだよね」
「電車?」
「うん。いつの間にか乗っていて、窓の外は真っ暗なんだけどその中でぼうっと明るいすすきの野原やブルーやオレンジに光る標識、輝くりんどうの花が咲き誇っていて、それらがみんな穏やかな乳白色に煌めく川の流れと一体になっている……そんな印象を抱く夢の中みたいな風景が流れ行く、不思議な電車。そんな電車にぼやっと乗っているといつしか駅に停車して、降りてみると……この世界にいたの」
なんとも不思議な話だったが、アツコの言う通りそれこそアリウスという土地が起こした事象なのだろう。
堆積していった様々な負の感情がやがて力を持つようになった土地、アリウス。
それがきっと、アツコの私への未練を引き金にこういった事態を引き起こしたのだ。
「なるほど……アツコのヘイローがないのもその力という訳か」
彼女の頭の上にはヘイローが見えない。
近づいて顔を見るまで気づかなかったのもそれが原因の一つだ。恐らくそういった改変もその世界を渡る力によって起きたのだと思った。
「え? あるけど……サっちゃん、もしかして見えてない?」
「は? ……ああ、そうだな。私には、アツコのヘイローは今見えていない」
「そっか……本当に、別の世界の人になっちゃったんだね、サっちゃん」
どうやら見えていなかったのは私だけで、アツコには今でも自分のヘイローはあるらしい。
またもどうしようもない断絶を感じた瞬間だった。
「……すまない、アツコ」
「もう、なんでサっちゃんが謝るの?」
いつか母に言われたのと同じ言葉。でも、そこにある意味合いも状況もまるで違う。
ここで謝ったのはかつての私の死の事であり、それはアツコも分かっているのだから。
「いや、私があそこで……濁流に飲まれなければ、お前にそんな顔はさせなかったと思ってな」
一瞬「死ななければ」という言葉を口にしようとして飲み込み、言い直した。
アツコが本当に私への未練で来たならば、先程も考えたようにそれはいつかはっきりさせるところではあるがもっとゆっくりとやっていくべきだ。
思春期の子供というのは焦り急ぐものだが、大人としてはじっくりゆっくりと対応してやらねばいけない。
もどがしいがそうやって我慢強くやっていくのが必要なのだ。
「そんなことないよ……助かった子も言ってたよ。『本当に感謝している。まるで王子様みたいだった』って」
「『王子様』か……随分と買いかぶられたものだな」
本当に王子様ならお姫様への隣にいてハッピーエンドを迎えさせてやるのが筋だろう。
でも私はお姫様を置いて旅立ってしまった。これでは王子様失格である。
「そうかな、私はやっぱりサっちゃんは王子様だと思うよ」
「からかわないでくれ。そんなガラじゃない」
「もう、そういうところは変わってないんだから。……ねぇ、今度はサっちゃんが教えてよ。サっちゃんが歩んできた三十年を。今、どんな風なのかを」
アツコは少し立ち上がって座っていた位置をズラし、私の隣に寄り添いその手を私の手の上に重ねて言って来た。
私は彼女の手の上に更に自分のもう片方の手を重ね、頷く。
「分かった。……そうだな、私が生まれたのはここよりも西側、東京の……ああ、東京というのはキヴォトス流で言えば学園自治区に近いかな。ともかく賑わっている中心部よりも落ち着いた外側の方で――」
こうして私は『常前早織』として歩んだ人生を彼女に語って聞かせた。
優しいが抜けているところも多いおっとりとした母と、不器用で口数は少ないが間違いなく家族愛に溢れていた父の事。
小学一年生のときに記憶を取り戻し、『常前早織』として生きる事を決意した事。
年の離れた弟と妹が一人ずついて、関係も良好な事。
中学高校大学でそれぞれ今でも仲良くしている友人が何人かいる事。
その中の特に付き合いの長い一人がなかなかのオタクで少なからず影響を受けてきた事。
高校から大学にかけて何度か告白されたが、最初から断ったり試しに付き合ってみたがうまくいかずに終わってこの年になった事。
あのアウトロービーチで見せたDJとしての音楽の趣味は未だに残っている事。
そして、今は高校教師として働いている、そんな事をとりとめもなく、思いついたそばから話していった。
アツコはそれに「うん、うん」と静かに隣で相槌を打つだけだった。
そうして一通り話すと、アツコは静かに顔をこちらに向けてきた。あるのは、私の知っている柔らかな彼女の笑顔だ。
「そうなんだ……今、サっちゃんって先生なんだ……。うん……いろいろと違うけれど、やっぱり、サっちゃんは、サっちゃんだよ」
アツコは先程よりも落ち着き柔らかな声で言った後、頭をそっと私の肩に置いた。
彼女の頭をそっと片手で撫でてやる私。でも、その彼女の言葉に私はイエスともノーとも答えることができなかった。
我ながら、ズルい大人だなと思ってしまった。
「ねぇサっちゃん……しばらく、ここにいていい?」
囁くような声で私に聞いてくる彼女。
「ああ、もちろんだ。帰る手立てが見つかるまでは、一緒にいよう」
私はそれに小声で返す。
お互い、目を向けていたのはそれぞれの顔ではなく、何もない乳白色の壁だった。