住み慣れた疎開都市テイテオを離れるのに、少しも抵抗感がなかったと言えば嘘になる。
だが特に親しい友達もおらず、唯一の家族であった母さんも俺とロスに同行すると決まった以上、留まる理由は安全性ぐらいだった。
兵士と巨大な壁で守られた場所の外に出るって事は、これまでのような平和とさようならするって事だ。
だがそれも……。
「えーっと、ここからだと……」
「地図が逆ですよ、ロスさん」
「これでわかるからいいんです!」
悪魔を一撃で屠り、親父と共に戦っていたであろうロス。
蛇の魔術師と呼ばれ、かつてレイア様の元で修行をしていた母、シアコトル。
この二人の側にいる方が、あの壁の内側にいるよりも安全なのは間違いない。
母さんは荷物をいくつかまとめて、予想よりも早く出発ができるようになったが……。
「そういや、準備めちゃくちゃ早かったけどさ……うちってそんなに大切な物無かったっけ?」
「なに言ってんの? いつ悪魔に攻められて、逃げる事になるかわかんないんだから、こういう準備は当たり前でしょ?」
どうやら、平和ボケしていたのは俺だけだったらしい。
テイテオの街を出て、初めての野営。
森の夜は恐ろしく、風で葉が揺れて音を立て、遠くで聞こえる獣か悪魔かわからない鳴き声も加わり、俺は神経を尖らせていた。
こんな状況で……母さんは普段通りだし、ロスも大して変わった様子を見せないし。
親父も……こんな状況なんて日常茶飯事だっただろうから、きっとイビキをかいて眠っていただろう。
「少し休みなさい、ルイサ」
「あれ、もう交代の時間だっけ?」
「そうよ、ご飯作ってあるからさっさと食べて、水浴びだけ忘れずに……あ、歯も磨くのよ」
「わかってるっての!」
夜の時間は見張りと休息を交代でとって、近くの川で水浴びと食事をすることになっている。
しかしまぁ、野宿だと言うのに母さんは家にいる時と変わらずだな……。
「壁の向こう側は悪魔に支配された場所だから危険って聞いてたけど……案外遭遇しないもんだな」
母さんやロスは野宿に慣れていて、こういう生活に慣れているみたいだから、もしかしたら安全な道を選んでくれているだけかもしれないけどね。
つーか……こう座って、母さんが守ってくれると思うと頭がボーッとしてくる。
魔力を使って、体を動かして。
この魔力だけじゃなくて、体の疲れは初めての実戦で体も強ばっていた証拠だろう。
「いっけね……寝るところだったわ」
俺は今日初めての本格的な戦闘の興奮と、魔力を銃に吸い取られた疲労で、頭が少しぼんやりしていたらしい。
水筒の水を汲みに行こうと立ち上がった時、今が"誰の時間"なのかを完全に忘れていた。
木々の隙間を抜け、川辺に出る。
さらさらと流れる水の音に混じって、微かに水面を叩く音が聞こえた。
「……あ」
月明かりが差し込む川の淀み。そこに、一人の少女がいた。
月の光を吸い込んだような、透き通るような白髪。それが濡れて、華奢な背中や細い肩に張り付いている。
普段はぶかぶかの服に隠されていてわからなかったが、水滴を弾くその白い肌は、間違いなく年頃の女の子のものだった。
だがその腹部や背中には無数の傷があり、ただ美しいだけでなく、彼女が俺の憧れた親父のような悪魔に立ち向かう"英雄"だということを表している。
そして、俺が知っているどんな同年代の女子よりも、いやどんな女性よりも……無防備で、綺麗だった。
「綺麗だ……」
悪い事だとわかっていた。
だが、もっと見たいという気持ちと"男"としての本能は押さえきる事ができず、前に進んだその時。
パキッとした、踏んだ小枝の音が広がっていった。
そして、もちろんそれは白髪の少女、ロスの耳に届いて、ハッと肩を揺らして振り返ろうとする。
「あっ」
「おう、ルイサか! ちょうど良かった、背中を……」
「な、何も見てませんからーッ!」
「なんだアイツ……あ、ああ、そうだったな……」
俺は慌てて目を逸らし、転がるようにしてその場から逃げ出した。
足がもつれそうになりながら、野営地の焚き火まで戻り、ドサッと腰を下ろす。
心臓がうるさい。
さっき悪魔の巨大な口を向けられた時よりも、ずっと激しくバクバクと鳴っている。
「……ルー君。随分と顔が真っ赤ね」
背後から、氷のように冷たい声がした。
振り返ると、焚き火の影から母さんが立ち上がるところだった。
足元には、シュルシュルと舌を出す数匹の蛇が這い回っている。
「か、母さん!?いや、これは、その……走ったから……つーか見張りの時間だろ!?」
「蛇を配置してきたから大丈夫よ、それで、何で嘘ついたの?」
「嘘なんて俺は」
「蛇を配置してる時にね、貴方が時間を間違えて川に行ったの見たんだけど……あの子の無防備な姿を見て、あてられちゃったんだと思ったんだけど」
「それは……はい、ごめんなさい」
母さんの目は笑っていなかった。
全てを見透かすような、鋭い捕食者の目だ。俺の初恋めいた動揺なんて、一瞬で見抜かれてしまったらしい。
「言っておくけれど、あの女はやめなさい、あれは我が家にとっての猛毒よ? あの白髪の小娘は、ただの使いっ走りじゃないし、あいつの奥底には私の大切なものを奪いかねない"何か"がある。……貴方の人生をめちゃくちゃにするわ」
母さんは本気で俺を心配し、そしてロスを警戒している。
だからこそ、俺も自分の覚悟を伝えなきゃいけないと思った。
ただ惚れた腫れたのフワフワした感情じゃないってことを。
「……母さん、母さんがロスを警戒してるのはわかる、でも、だからこそ俺がロスを恋人にすればいいんだ」
「は……?」
母さんが、心底理解できないという顔をした。
俺は焚き火を見つめながら、パチパチと鳴る音に書き消されないように言葉を絞り出す。
怖いけど言うんだ、言わなきゃダメだ!
「ロスが親父をどう思ってるかは知らないけど、俺が彼女を落として、俺の隣に繋ぎ止めておけば……彼女がどこかで親父をたぶらかしたり、母さんを悲しませるような真似は絶対にできないだろ?」
「ルー君、それは……」
「俺がロスを守る、そして、母さんのことも俺が守るんだ! 俺が親父より強くなって、全部丸く収めてみせるよ」
自分で言いながら、むちゃくちゃな理屈だとは思ったが、不思議と本心を全部話すことができた。
俺の言葉が本心だと理解してくれたのか、母さんは黙り込んで、じっと俺を見ている。
風が木々に当たって、暗い雰囲気の中でさらに不気味な音が響く。
怒られるか、蛇で縛り上げられるか。
そう身構えていたが、母さんの瞳からはスッと怒りの色が消えていた。
代わりに浮かんだのは、ひどく懐かしむような、そして呆れたような色だった。
「……貴方、本当にお父さんに似てきたわね」
母さんがポツリと呟いた。
「親父に?」
「ええ、ワガママで言い出したら聞かなくて、強引に人の事まで背負い込もうとする……本当にそっくりよ」
俺の身勝手な優しさと、強引に全てを背負い込もうとする姿勢に、かつてこの大陸の為に立ち上がり、本物の誰もが認める英雄である"壊滅たるバルトロス"の姿を重ねてしまったらしい。
「でも俺は親父を超えてみせる!」
「……はぁ、こりゃダメね」
「ダメって……言っとくけど、隠し子だったとしても俺はロスを恋人にするからな」
「それは色々問題あるから……意味不明な理論と頑固さ、本当に似なくていい所だけそっくりになって……止められないとわかったら、放置するのも危険よね」
母さんは深いため息をつくと、足元の蛇たちを霧散させた。
そして、母親としての厳格な顔を捨て、一人の"女"としての妖艶で計算高い笑みを浮かべた。
「わかったわ、そこまで言うなら、お母さんが全面協力してあげる! でもねルー君、あの手の"憧れの人の影を追っている女"は、ただ真っ直ぐぶつかるだけじゃ絶対に落ちないわ」
「えっ……協力してくれるの?」
「ええ、言っても聞かないでしょうし、ルー君がロスを口説けば確かに上手くいくのも事実だし……これからの道中、貴方とあの子が二人きりになれるように、うまく配慮してあげるわ! その代わり、私が教える通りにやりなさいよ? 一番確実な"お父さんがお母さんを口説いた方法"を教えてあげるから」
母さんの言葉に、驚きつつ感謝して、俺は首を縦に振った。
だが、両親の恋愛のやり取りについて聞かされるのは勘弁してほしい。
だがここで頷かなければ、きっと母さんは了承しないだろう。
「ところでロスちゃん、水浴び終わったの?」
「うぇ!? あ、うん……大丈夫だから」
木陰からロスが現れた。
なぜか顔面は真っ青で、ガタガタと小刻みに震えながらもじもじとしている。
そりゃ……さっき水浴びを覗いたようなもんだし、俺の顔が見づらいよなぁ……。
それにしても、あんなに震えるほど恥ずかしかったのか。
本当に悪い事をしてしまったな。
「これは夢……夢だよな……だっておかしいだろ、こんなの……」
ああ、ロスが俺に覗かれた事に怯えている。
明日の朝一で謝らないと。