夜の静寂の中、パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが響く。
毛布にくるまって規則正しい寝息を立てるロスの寝顔は、昼間の一戦の疲れを忘れさせるほど無防備で、どうしようもなく庇護欲をそそられた。
「よそ見をしている余裕があるの、ルー君?」
「っ、悪い。集中する」
母さんの静かな指摘に、俺は慌てて視線を手のひらに戻した。
現在、絶賛魔力のコントロール修行中だ。
俺の掌の上には、うっすらと青白い魔力の塊が浮かんでいる。
これを細かく編み込み、実体を持たせて一輪の花を咲かせる……というのが母さんから出された課題だった。
「くそっ……まただ!」
ふっと気が緩んだ瞬間、花びらを形作ろうとしていた魔力はボロボロと崩れ落ち、ただの枯れ草のような残骸になって消えてしまった。
これで何度目だ?
魔力をドカンと放出して爆発させる方がよっぽど簡単だ。
こんな繊細な作業、実戦のどこで役に立つって言うんだよ。
わかんねぇけど、母さんが言うなら間違いないんだろうが……クッ!
「ダメだ……攻撃魔術ならもっとイメージしやすいのに、なんでこんなに難しいんだよ」
頭を抱えて落ち込む俺を見て、母さんは呆れるどころか、どこか楽しそうにクスッと笑った。
「破壊するのは簡単よ、ルー君。でもね、無から形あるものを創り出し維持する、この極めて緻密なコントロールができない者に、本当に強大な魔力は扱いきれないわ。……それにね」
母さんはそこで言葉を区切り、焚き火の向こうで眠るロスへと視線を流した。
その横顔には、母親としての厳しさではなく、一人の女性としての、ひどく甘くて懐かしむような色が浮かんでいた。
こんなにも豊かに笑う母さんを見るのは本当に久しぶりだな。
親父が魔王討伐に向かったあの時以来、母さんはどこか作っている笑顔しか見せていなかったし。
「貴方のお父さんは、この花の魔術がとても得意だったのよ」
「親父が?」
意外だ。
悪魔を次々と屠った"壊滅たるバルトロス"が、こんな繊細でちまちました花を咲かせる魔術を得意としていたなんて。
「ええ。ある日、私が目を覚ますとね……私の部屋が、この魔術で作られた満開の花で埋め尽くされていたの! ただの幻じゃない、触ることのできる本物の花で、部屋中がね」
「すげぇ……どんだけ精密な魔力操作と総量があればそんなことができるんだよ。でも、なんでまたそんな事を?」
俺が純粋に感心して尋ねると、母さんは妖艶な笑みを深め、とっておきの秘密を教えるように声を潜めた。
「驚く私にこう言ったのよ……『美しい君には、目覚めてからも美しい景色を最初に見てほしかったんだ』って」
ズドン、と。
俺の頭の中に、雷が落ちたような衝撃が走った。
なんだよ親父、めちゃくちゃカッコいいな……!!
ただ強くて魔物を倒すだけじゃない。
その圧倒的な力と繊細な技術を、愛する女を喜ばせるためだけに行使する。
それこそが本物の強さ、本物の男じゃないか!
俺の中で、父親像がさらに巨大なものへとアップデートされた瞬間だった。
「……親父を越えるってのは、簡単じゃねぇのはわかってたけどさ、実力はもちろんだが男としてもかなわないな」
俺はゆっくりと、毛布で丸くなっているロスを見つめた。
今日、俺の不用意な行動のせいで、あいつには怖い思いをさせてしまった。
普通に考えれば、14歳の少女の水浴びを覗いた俺がとんでもないクソ野郎に見えただろうし、きっと不安な気持ちのまま眠りについたはずだ。
もし、明日あいつが目を覚ました時、枕元に綺麗な花束が置かれていたら?
そして、親父と同じあのセリフを言えたなら?
親父に憧れているロスなら、きっと喜んでもらえるはずだ。
「……やる。俺、絶対にこの魔術を成功させる」
さっきまでの疲労も、投げ出したい気持ちも完全に消え去っていた。
俺の目には、もう成功した未来しか見えていない。親父が母さんを射止めた伝説の魔術と、最強の口説き文句。それを俺がロスに受け継ぐんだ!
「ふふっ、その意気よ、ちょっと気になることもあるし一晩中付き合ってあげるから、しっかりね」
「気になること?」
「少し悪魔の動きが気になっただけよ、だからほらほら、集中しなさいな」
母さんが面白がるように目を細めていることなんて、今の俺にはどうでもよかった。
魔力を練る。
神経を研ぎ澄ませる。
花びらの一枚一枚、葉の葉脈に至るまで、頭の中に明確なビジョンを描き、そこに魔力を流し込んで固定化する。
額から汗が滴り落ち、魔力枯渇による鋭い頭痛がこめかみをガンガンと叩く。
それでも俺は、歯を食いしばって掌の上の光を見つめ続けた。
待ってろよ、ロス。
俺が絶対、お前を守れる男になってみせる。
だから明日の朝、どうかお前のその綺麗な顔で、とびきりの笑顔を見せてくれ!
東の空が白み始め、森の木々が朝露に濡れて輝き出す頃。
俺の目の前には、不格好ながらも確かな形を保った、淡く光る青い花束が完成していた。
指先は震え、視界はチカチカと火花が散るほど魔力を使い果たした。
頭痛で吐き気がする。
だけど、この達成感はどうだ。
親父が母さんに贈ったのと同じ、愛と技術の結晶を、俺は一晩で形にしたんだ。
「……できた、母さん、見てくれ」
「一晩で出来るようになるなんて……ルー君、本当に、お父さんそっくりのしつこさね」
母さんは驚き、そして呆れていた。
でもどこか満足そうに笑って、焚き火の後始末を始めた。
さあ、あとは主役の目覚めを待つだけだ。
俺はふらつく足取りで、まだ毛布の中で丸まっているロスの枕元へ向かった。
静かな寝息。
長いまつ毛が微かに揺れる。
昨日、俺のせいで怯えさせてしまったあいつに、最高の朝をプレゼントするんだ。
「……ん、……ふぅ……」
やがて、ロスがゆっくりと目を開けた。
寝ぼけ眼で、ぼんやりと周囲を見渡している。視界がはっきりしてきたのか、目の前に跪いている俺と、差し出された光る花束に気づいたようだ。
「お、おはよう……ロス」
「……ん? ……なんだ、ルイサか……朝から、何を……」
ロスはまだ意識が覚醒しきっていないのか、不思議そうに花束を見つめている。
今だ。俺は、徹夜で何度も練習した、おそらく親父ならこんな感じで迫るであろうキメ顔とトーンで、魂を込めて言い放った。
「美しい君には、目覚めてからも美しい景色を最初に見てほしかったんだ」
少しの静寂。
森の鳥のさえずりさえ消えたような、完璧な沈黙が流れた。
ロスの瞳が、みるみるうちに大きく見開かれていく。
頬の赤みは一瞬で引き、顔面が蒼白を通り越して、土気色に変わっていった。
肩がガタガタと激しく震え出し、その細い指先が、俺が贈った花束を指差して空を切る。
ふふん、喜んでくれているみたいだな!
俺は確信した。
あんなに震えるなんて、よっぽど心に響いたに違いない。
親父のやり方は正しかったんだ。
母さんのアドバイスは最強だったんだ!
人を感動させるのって、こっちまで嬉しくなってくるな。
「……ぁ……っ……ぁぁ…………」
ロスの口から、漏れ出たのは歓喜の叫び……ではなく、この世の終わりを告げるような、かすれた呻き声だった。
「……う、嘘だろ……なんで……お前が、それを…………。……やめ……やめろ…………死ぬ……俺が、死ぬ…………っ!!」
ロスは頭を抱え、まるで恐ろしい呪いの言葉でも聞かされたかのように身悶えした。
その目は泳ぎ、視界が定まっていない。
そして、そのまま「う、うぅぅん……」と情けない声を漏らすと、糸が切れた人形のように、バタンと仰向けに倒れ込んでしまった。
「え、ロス!? ロス、大丈夫か!?」
俺は慌ててあいつの肩を揺さぶるが、ロスは白目をむいて完全に意識を失っている。
頬は真っ赤で、全身から力が抜けていた。
「母さん! 大変だ、ロスが嬉倒れた!」
俺の叫び声に、少し離れたところで片付けをしていた母さんが、肩を震わせて堪えきれないといった様子で吹き出した。
「私も同じリアクションだったわ、嬉しくてドキドキが止まらなくて……夢だろうなって思って二度寝したもの」
「そうか……! よかった、頑張った甲斐があったよ」
俺は、意識を失ってぐったりしているロスを、甲斐甲斐しく毛布にくるみ直してやった。
きっと夢の中でも、俺が贈った花束とあの台詞を反芻しているんだろうな。
親父、俺、やったよ。
少しずつだけど、あんたの背中に近づけている気がする。
俺は心地よい疲労感に包まれながら、気を失っている美少女の横で、満足げに拳を握りしめた。
「自分の言葉が……うぅ……止めてくれ……」
眠るロスが目覚めるまで、俺は母さんと荷物をまとめて、軽い朝食を済ました。
そしてロスが目覚めてから焼いたパンと芋を持っていくと。
「あ……あり、がとな」
ロスは顔を赤らめて、目をあわせてくれなくなっていた。
だが、とても可愛いから……よし!