ブラック・ブレット 贖罪の仮面   作:ジェイソン13

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書くの遅いし、話の進行も遅いのにまた番外編かよ!
はい。番外編です。しかも思った以上に長くなって、前後編になります。
しばらくの間ですが、この寄り道にお付き合い頂ければ幸いです。



番外編:小星常弘という男 前編

 僕は走り続けた。どこかに行く当てがあるわけじゃない。ただ、あの地獄から抜け出したかった。あの地獄から彼女を救いたかった。

 

 でも僕は非力だった。無力だった。すぐに闇は迫って来て、僕たちを飲み込んだ。

 

 僕は諦めかけていた。絶望しかけていた。逃げるために歩みを進める気など既になくしていた。

 

 でも、闇の中から光が出て来た。その光は瞬く間に闇を払った。

 

 開いた景色に見たのはツインテールの赤髪の少女、日本刀を持ったセーラー服の女性、そして、不幸面の男だった。

 

 見返りを求めず、ただ正しさを貫く姿に、本当の民警の姿に憧れた。

 

 その日、僕は“光”を見た。

 

 

 

 目を開くと、見慣れた天井が見えた。クリーム色の壁紙と室内照明。ベッドと本棚、中央の丸テーブルの上にノートパソコンが置かれただけのシンプルな部屋。そこは小星常弘の寝室だった。

 

「またあの日の夢か。最近見るようになったな」

 

 常弘は自分が汗でびっしょりと濡れていることに気付く。肌着は身体に密着しており、寝間着も濡れて色濃くなっていた。時期は6月。本格的な夏の前とはいえ、電気代節約のためにエアコンを切っていたことを後悔した。

 シャワーでも浴びようと思い、寝室を出てリビングに出る。フローリングが陽光に照らされて眩しいリビング。普段から清掃が行き届いていることが窺える。エアコンもついているので、ひんやりとした空気が清涼感を演出する。

 常弘はもう一つのドアに目を向ける。自分のパートナー、那沢朱理の部屋だ。扉はまだ閉まっており、彼女はまだ起きていないと考える。

 キッチンでコップ一杯の水を飲んだ後、脱衣所の扉を開けた。

 たちこめる熱気と湯気、バスタオルを手に取る前のあられもない朱理の姿があった。

 水が滴る長い赤髪と白い肌、仕事柄よく動きバランス良くついた筋肉、16歳という出るところはちゃんと出ている女性らしいスタイルに常弘はつい視線を奪われてしまう。

 

「触ってみる?」

 

 目を細め、明らかに弄ぶ表情で朱理が誘う。

 

「……ごめん」

 

 常弘は一瞬、朱理の誘いに乗りかけたが、理性で必死に抑え、そっと扉を閉じた。

「意気地なし」と朱理がボソッ呟いたのを彼は知らない。

 その後、交代して常弘がシャワーを浴びた。悶々とした気持ちをどうにかしようとして、長時間のシャワーになったのは言うまでもなかった。

 脱衣所から出た時には、既に朱理が朝食を作り終え、常弘が来るのを待っていた。

 

「先に食べてても良かったのに」

「ツネヒロと一緒がいいの。それに今日は学校お休みだし」

 

 朱理の言葉で初めて今日が土曜日であることを知る。民警という仕事上、どうも曜日の感覚がなくなってしまう。

 

「「いただきます」」

 

 2人で朝食を採っていると、朱理が壁掛けカレンダーにつけられた印を見つける。それは仕事の予定がある日につけるマーク。今日が完全に休日だと思っていた朱理にとっては見たくなかったものだ。

 

「今日って、何か仕事あるの?」

「華守さんのマンションで住人が何人か行方不明になってね。その調査だよ。警察は事件性が無いと動いてくれないから」

 

 依頼人の名前を聞いた時、朱理には嫌な予感が過った。

 

「華守さんって……まさか……」

「前の仕事でお世話になったキャバクラの人だよ」

 

 それを聞いた途端、朱理の目は据わった。今にも怒り狂いそうな目で常弘を見ている。

 

「ああ。あの常弘を誘惑した夜の“()”ね」

「いや、そこは“(チョウ)”って言おうよ」

「いいや。蛾だね!」

「どうしてそう頑なに……!お願いだから箸を折らないで!」

「蛾!」

 

 朱理は箸を強く握りしめ、へし折った。

 

 

 

 

 

 

 

 東京エリアの住宅地が密集する区画。そこに立ち並ぶマンションの一つに常弘たちはいた。何の変哲もない6階建てエレベーター付きのマンション。築年数はそれほど経っておらず、周囲のマンションと比較すれば新築感が味わえる。

 そこが今日の小星常弘と那沢朱理の仕事場だった。常弘は仕事の時は常にスーツ姿でいる。民警の仕事に服装規定はなく、我堂民間警備会社でも例外ではない。皆がそれぞれ自由な格好をしているが、常弘はいつもスーツを着ていた。その理由について、常弘は「一応、仕事だからね」と言っていたが、朱理には分かっていた。常弘がスーツ姿なのは、あの日自分を救ってくれた民警の真似をしているだけなのだと。

 2人は、エントランスホールにある管理人室へと向かった。そこで管理人の中年女性に事情を話し、中へ通してもらう。

 エントランスホールで、件の依頼人、華守彩女が待っていた。染められた明るいアッシュブラウンの髪に薄いメイク。1着1000円ぐらいの安物のTシャツにチノパンという気の抜けた格好であり、夜の蝶として働く姿とは裏腹に私生活は素朴であることが窺える。夜の蝶として働く派手な姿とのギャップが大きく、一瞬、彼女が依頼人の華守彩女であると理解するのに数秒かかった。

 

「来るのが早いねぇ。ツネちゃん。もしかしてお姉さんに会いたくて来ちゃった?」

 

 まるで幼馴染か彼女のように彩女は常弘の腕に抱き付いた。仕事で数多くの客を魅了してきた豊満な胸が常弘の腕に当てられる。朱理という彼女がいるとはいえ、未成年には手を出さず我慢している常弘にとって、それは劇薬だった。

 

「あ、当たってますよ?」

「当ててるの。仕事じゃ絶対にやらないんだから、感謝しなさい」

 

 朱理が2人の間に割り込み、無理やり常弘と彩女を引き離す。そして、さっきまで彩女に抱き付かれていた腕に今度は自分で抱き付いた。「私の方が大きい。気持ち良い。柔らかい」と主張したいのか16歳の成長中の胸を押し当て、常弘の所有権を主張するために彩女を睨みつけた。

 美女と美少女の奪い合いに挟まれた常弘は顔を赤くし、戸惑うしかなかった。

 

「なぁ。その古いラノベアニメみたいなラブコメはいつまで続くんだ?」

 

 しょうもないラブコメを終わらせたのは、ドスの効いた少年の声だった。

 声がした方向を振り向くと、そこには睨みつける不良少年とクールでポーカーフェイスな少女が立っていた。

 金髪メッシュの頭、髑髏マークのある派手なTシャツ、楽器ケースを背負っている姿は、どこかのパンクロックかメタルバンドの人間ではないかと思わせる。

 対して、隣にいる少女は黒いショートパンツに白いTシャツ、その上に半袖のデニムジャケットという快活な格好だったが、服装とは裏腹に彼女の動作は機械的で訓練を受けた兵士のようだった。

 

「松崎民間警備会社の森高詩乃です。こっちは義搭壮助。遅くなって申し訳ありませんでした」

 

 同じ現場に2組の民警ペアがいることは珍しい話じゃない。出現したガストレアの討伐報酬を巡って同じ現場に複数の民警ペアが現れ、獲物を奪い合うといった構図はよくあることだ。しかし、今回は行方不明事件の調査。誰かに依頼されてから動く仕事でもう一組の民警ペア、しかも違う会社の人間がいるのは珍しかった。

 

「ごめんね~。店長が変に気を利かせちゃって、知り合いの会社にも同じ依頼を出しちゃったんだ。報酬は別々に出すから一緒に仲良く、ね?」

 

 彩女が両手を合わせて常弘に謝る。と同時に壮助と詩乃の民警ペアと仲良く仕事するようお願いする。

「僕は構いませんよ」と常弘は快諾する。

 

「チッ……そういう事情かよ。せいぜい足手纏いになんじゃね――え゛っ!!」

 

 ――と悪態を吐いた。その瞬間、不良少年の足に激痛が走る。

 

 原因はパートナーの詩乃だった。壮助の態度を諫めるために足を踏んづけた――が、思った以上にパワーを出してしまったようだ。詩乃が壮助の足を踏んだ衝撃でエントランスの大理石の床にヒビが入り、壮助は苦痛に顔を歪ませていた。

 

「ちょ……おま……ちょっとは自分の体重を考え――ゲフッ!」

 

 鳩尾に重い一撃が入った。壮助は完全に沈黙し、振り返って詩乃が一礼する。

 

「すみません。五月蠅いのは静かにさせましたので、話を進めましょう」

 

 常弘と朱理は絶句していた。確かに常弘のことをモヤシと言ったり、女の子に体重の話をしたり、そもそも敵しか作らないような悪態をとり続けたりした壮助の自業自得なのだが、イニシエーターの力で殴って気絶させるのはやり過ぎではないかと思った。

 

「と、とりあえず、自己紹介をしようか。僕は我堂民間警備会社の小星常弘。こっちは相棒の那沢朱理だ。よろしく」

「よろしくお願いします」

 

 常弘が手を出し、詩乃が握手する。朱理は、このパワフルガールが握力で常弘の手を潰てしまうんじゃないかと心配したが、幸いそれは杞憂となった。

 

「まさか、噂のルーキーに会えるとは思わなかったよ」

「噂のルーキー?」

「あれ?知らないの?このあたりの民警の間じゃ有名な話だよ。9000番台の大物ルーキーが入ったって。まぁ、そこの義搭くんに関しては民警になる前から悪い噂が絶えない人だったから余計にね」

 

 常弘をぐいっと押し退けて、朱理が詩乃の前に出る。

 

「一つや二つどころの話じゃないわよ。語りつくしたら1週間はかかるぐらいそいつの暴虐エピソードはあるんだから。中学の入学初日に3年の先輩に喧嘩を売って病院送りにしたとか、民警と喧嘩してプロモーターもイニシエーターもボコボコにして廃業させたとか、道場破りが日課で師範と弟子を再起不能にするまで戦い続けるとか、猟奇プレイが好きだとか、ヤクザの鉄砲玉に雇われたけど制御不能すぎて裏社会でも厄介者扱いされているとか、自分の母親を殺して父親に罪をなすりつけたとか、語りつくせないくらい色々あるんだから。悪い事言わないわ。すぐにペアを解消して、別のプロモーターを探しなさい。ウチの待機組にだってこいつよりマシな人間はたくさんいるんだから」

 

 朱理は義搭壮助という人間が民警をやっていることが許せなかった。彼にまつわる噂を聞くだけでもその人間性は分かる。イニシエーターがどんな目に遭っているのかも想像に難くない。そんな奴が自分と同じ民警を名乗っていることが許せなかった。

 

「……そうですか」

「随分と反応が薄いわね」

「他のエリアからの流れ者とはいえ、私の彼の悪い噂はよく耳にします。注意と警告を兼ねて、今の貴方のような人達によく聞かされますので。でも私は彼と組んで2ヶ月経っていますし、組んでからずっと同じ屋根の下で過ごしてきました。だから噂のどれが事実でどれが虚構なのかは判断できます。彼が暴力的でトラブルメーカーなのを知った上で私は彼のイニシエーターを続けていますのでご心配なく。私に新しいプロモーターの紹介は不要です」

 

 礼儀正しく頭を下げる詩乃。彼女の一変しない壮助への信頼に朱理は何も言い返せなかった。これ以上は何を言っても無駄だし、もしかすると義搭壮助には噂と違う部分があるのかもしれないという一抹の希望を抱えることにした。

 

「あの~民警さん民警さん」

 

 会話から外れていた彩女が声をかける。彼女の声で3人は、今日は仕事のためにここに来たのだとはっと思い出した。

 

「そこの少年、ずっと息してないんだけど大丈夫?」

 

 彩女が指をさす先には、白目を剥き、泡を吹いて倒れている壮助の姿があった。顔色も生きている人間のそれではなかった。

 常弘と朱理は騒然としたが、詩乃はいつものことのように倒れている壮助に近づいた。

 

「大丈夫です。また叩けば起きますから」

「いやいや!そんな壊れたブラウン管テレビじゃないんだから!」

「心臓マッサージをちょっと強くしたようなものですから」

 

 そう言って、詩乃は拳を高く振り上げた。目を赤く光らせて、彼女の腕の筋繊維が一気に収縮し、血管が浮かび上がる。

 

「それ確実にハートブレイクするマッサージだから!」

 

 

 

 

 

 ドスン!!

 

「グヴォォア!!!!」

 

 

 壮助は血反吐を吐きながら目が覚めた。

 その日、常弘と朱理は噂のルーキーペアのパワーバランスを知った。

 詩乃と組み続けて、義搭壮助は生きていけるのか、逆に心配になった。

 

 

 

 

 壮助の目が覚めた後、4人の民警たちは彩女に連れられて、マンションの最上階である6階に案内された。彼女の手には大家から預かったマスターキーが握られており、彼女がそれだけ事件に詳しく、かつ信頼されている人間であることが窺える。

 

「事件の始まりは、ここ605号室の角谷さん。サラリーマン一人暮らし。一週間前から会社を無断欠勤。財布も携帯電話も全部置いたまま行方不明になったわ」

「社会から逃げたくなったんじゃね?」

 

「次が4日前。真下の505号室の平川さん。女子大生一人暮らし。ご両親が顔を見せに来たんだけど、一切連絡なし。マスターキーで開けたら、テーブルの上に遺書、風呂場に塩素系洗剤と酸性洗剤があったわ。硫化水素自殺をしようとしていたみたいだけど、硫化水素は発生していなかったし、彼女の遺体はどこにもなかった」

「気が変わって未踏査領域で自殺したんじゃね?」

 

「2日前に601号室の伏見さん。サラリーマン。家族はいるけど、平日は会社の近くにあるこのマンションで寝泊まりしていて、よく浮気相手を部屋に連れ込んでいたわ。不審に思った奥さんが訪ねたら、浮気の証拠を置いたまま旦那さんは姿を消したそうよ」

「浮気がバレたから逃げたんじゃね?」

 

「そして昨日、401号室の神崎くん。一人暮らしの高校生。幼馴染が訪ねて来たら姿を消していたそうよ。生徒会長(ツンデレ)やお嬢様(デレデレ)、学校の先生(クーデレ)や後輩(ヤンデレ)、先輩(ヤンキーデレ)や謎の美少女(不思議系)も居場所を知らなくて、みんなで必死に探してるわ」

「またどこかでヒロイン拾って、世界を救うために戦ってるんじゃね?」

 

「警察には通報したんですか?」と常弘が尋ねる。

 

「その都度、警察には通報したわ。だけど、調書を取るだけだったわ。事件性が無いと動いてくれないのよ」

「本当に仕事しねえな。警察」

「多分、警察の人は壮助と同じことを言ってたと思うよ」

 

 彩女が最初の行方不明者の部屋、605号室に案内した。マスターキーを差し込み、部屋の扉を開ける。

 

「ここが最初の行方不明者、角谷さんの部屋。ご両親の許可は取ったわ。存分に調べてちょうだい」

 

 彩女に促され、常弘と壮助が部屋に入った。部屋は行方不明当日のまま保存されており、特に荒らされることも掃除されることもなかった。

 常弘はまず貴重品を確認する。財布や携帯電話、預金通帳は両親が預かったそうだが、それ以外の高価なもの、ノートパソコンや時計はそのまま置かれていた。壮助は家具や壁の傷を見るが、特に争った形跡はなかった。

 

「強盗ではなさそうだね」

「争った形跡もない。血痕もない。トイレと風呂も異常なし」

 

 すんなりと役割分担ができ、業務報告を交わせることに常弘は驚いた。出会ってから悪態しか吐いていなかった壮助が真面目に仕事をしている。その姿はそこらの不良とは違う、真剣な民警の姿があった。詩乃がペアを解消しない理由、彼らが上位10%以内の9000番台である理由が垣間見えた。

 ふと常弘は朱理と詩乃が鼻を押さえて、部屋の中に入ろうとしないことに気付いた。

 

「あれ?どうしたんだい?朱理」

「2人とも気付かない?この部屋、変な匂いがするんだけど」

 

 朱理に言われて、2人も部屋の匂いを嗅いでみる。確かに朱理の言う通り、部屋にはかすかだが異臭が漂っていた。何かが腐ったような臭いだ。人間よりも感覚器官が優れている呪われた子供たちだからこそ気付けたことだった。

 異臭の源を探そうと壮助が冷蔵庫の中を見る。特に食材は入っておらず、冷蔵庫の中に腐った何かが入っていた形跡もなかった。

 

「どこが一番臭う?」

「入ってすぐ」

 

 常弘は部屋の奥から玄関を見る。玄関かその付近で臭いを発するものはないか見渡すと、玄関の近くにあるキッチン、そこの排水溝が臭いの源だと考えた。

 常弘はキッチンに立った。確かに臭いはここが一番きつくなっている。見た目ではモデルルームのように清潔さが保たれているが、何かが腐った臭いで清潔感が失われている。常弘は排水溝の中を覗いて臭いを嗅ぐ。確かに酷い臭いはするが、排水溝の奥からではなく、どこか別のところから臭いが漂っている感じがした。

 常弘は蛇口に手を掛けた。水そのものが悪くなっているんじゃないかと思ったからだ。蛇口を捻ろうとしたが、錆びているのか、全く動かなかった。両手をかけて、更に体重もかけるが一向に動く気配が無い。

 常弘の奇行に壮助が気付いてキッチンに近づいた。

 

「何やってんだよ。蛇口くらい……うわ!これくっそかてぇ!!」

 

 壮助も両手をかけて、体重もかけて蛇口を動かそうとするが、一向に動かなかった。

 最終的に2人で同じ方向に体重をかけて蛇口を動かそうとしたが、それでも動かなかった。

 

「どいてください。私が開けますから」

 

 蛇口に敗北した常弘と壮助を押し退けて、詩乃が片手を添えて、蛇口を回した。力む素振りは無く、傍から見れば少女が普通に蛇口を開けた光景にしか見えないだろう。しかし、その一瞬で詩乃は腕の全筋肉を収縮させ、呪われた子供たちの中でも群を抜いたパワーを一瞬で引き出した。

 蛇口は回った……というより、壊れた。詩乃のパワーに耐え切れず、鉄製の蛇口をぐにゃりと折れ曲がり、ぼっきりと折れてしまった。

 キッチンが赤く染まった。

 蛇口があった場所から、水道から赤い液体と柔らかい何かがドボドボと流れ出てくる。異臭は更に強烈になり、普通の人間である壮助と常弘も鼻を押さえてしまうほど酷くなった。見慣れた赤い液体と柔らかい物体、そこからボトリと人間の人差し指が落ちて来た。その瞬間、常弘と壮助は理解した。“水道管の中に人肉が詰まっていたということに”

 

「華守さん!ここの水道!どこに繋がってますか!?」

 

 常弘の声に彩女が一瞬怯んだ。

 

「ど、どこって、地下の公共水道よ。他のマンションと同じだわ」

「他には!?」

「緊急用として、屋上の貯水タンクに繋いで水を使うこともあるわ」

「貯水タンクか!」

 

 壮助は玄関にいる朱理と彩女を押し退けて屋上に繋がる階段を駆け上がる。詩乃もそれに付いて行った。数秒後には屋上を封鎖するために閉じっぱなしにしていた防火扉が破壊される音が聞こえた。

 

「え?何?どういうこと?」

「ツネヒロ。どういうことなの?」

 

 何が何だか分からず動揺する朱理と彩女に常弘が近づく。

 

「緊急事態です。ここにガストレアが潜伏しています。すぐにマンションと周辺住民の避難、警察への通報をお願いします。それと自衛隊の防疫部隊のチェックが入るまで、ここの水は飲まないで下さい」

 

 そう一方的に告げると常弘は朱理の手を引いて屋上への階段を昇って行った。

 

「ねえ?どういうこと?」

「行方不明者はみんなガストレアに食べられていた。おそらく蛇かタコ、対象を丸呑みして溶解させて捕食する生物の因子を持ったガストレアだ。奴は屋上の貯水タンクに潜んでいて、タンクと繋がっている緊急用の水道管を伝って触手か何かで住民を食べていたんだ。あの血肉は奴の食べ残しだ」

 

 屋上に繋がる扉が見えた。壮助と詩乃はそれぞれの武器を持ち、扉に隠れて貯水タンクの様子を見ていた。訓練された兵士のように詩乃はハンドサインを送り、常弘と朱理に隠れて貯水タンクを見るように指示する。

 常弘が貯水タンクを見ると、タンクの下部に拳3~4個分の大穴が開いていた。水が漏れている様子は無く、穴から触手のようなものがチロチロと見える。

 

「大当たりだぜ。さっさと得物を出しな」

 

 常弘はホルスターからSIG SAUER P250を抜き、ドロウする。

 常弘の武器を見た後、壮助は朱理を見た。彼女の得物はバラニウム製の短刀と常弘と同じSIG SAUER P250だ。このペアの装備は民警の中でも軽装備、必要最低限といったものだった。

 

「住民の避難、何分かかりそうだ?」

「10分もあれば……と言いたいところだけど、ガストレアは待ってくれそうにないよ」

 

 壮助は、常弘のハンドサインに従ってガストレアの方を見る。さきほどとは違いタンクの穴から見える触手の動きがより激しくなっていることに気付いた。どうやら、住民が避難し始めたことで自分の餌が逃げていることに気付いたようだ。

 

「それじゃあ、ちゃっちゃと片付けるか」

 

 壮助は貯水タンクに向けて司馬XM08AGの銃口を向けた。常弘と朱理も銃を向ける。

 

「タイミングを合わせるぞ。3……2……1……ゼロ!!」

 

 壮助のライフル、常弘と朱理の拳銃が一気に火を噴いた。フルオート射撃で5.56mmバラニウム弾が叩きこまれ、34発の9×19mmバラニウム弾がそれに続く。貯水タンクは瞬く間にハチの巣になり、衝撃でガストレアの触手が四方八方に暴れ回る。タンクからはガストレア特有の紫色の体液が噴き出す。

 

「詩乃!」「朱理!」

 

 弾倉を撃ち尽くしたところで、イニシエーター組が近接武器を持って突撃する。

 

 

 

 ヴモ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!

 

 

 ガストレアが唸り声をあげた。蛇の頭部がついた触手が次々とタンクを突き破り、銃撃でなんとか原形を留めていたタンクは崩壊した。ガストレアの姿が白日の下に晒された。

 一目見て分かるのはヘビとタコを混合させたステージⅢガストレアということだった。ガストレアは数メートルの巨大なタコの姿をしていたが、その表皮はヘビのように鱗に包まれており、20本以上はある触手の先端にはヘビの頭部のような器官がついていたが、先ほどの銃撃によって数本は失われていた。おそらく感覚器官と捕食口を兼ねたものだ。北欧伝承のクラーケン、ギリシャ神話のヒュドラを合体させたような姿がそこにあった。

 ガストレアが触手を朱理と詩乃に向けて撃ちだした。先端のヘビの頭部が開き、猛毒の牙を向けて襲い掛かる。時速150kmで向かうヘビの群れ、人間では対応しきれない数とスピードの怪物に2人の少女が立ち向かった。

 最初に突撃してきた触手を朱理は間一髪のところで軽々とかわす――と同時に逆手に持った短刀の刃を蛇に当て、その相対速度で触手を真っ二つに切断する。すかさず2本目、3本目を拳銃で迎撃。4本目と5本目も汗一つかかずに回避していき、離れれば銃撃で、自分に近づいた瞬間に短刀で切り裂いていく。その戦い方は「蝶の様に舞い、蜂の様に刺す」の手本のようなものだった。

 詩乃は最初に突撃してきた触手を回避せず、槍で受け止めた。蛇の頭は槍に食らいつき、そのまま巨体で詩乃を押さえつける。その隙に2本目、3本目が両サイドから詩乃めがけて毒牙を向けた。詩乃はそれに気付いていて、尚且つそれをピンチとは思っていなかった。彼女は自分の身体を槍ごと回転させ、槍に食らいつく1本目の触手を捻じ切った。槍に食らいついた1本目の頭を引きはがす。

 

 天童式神槍術一の型三番 逆子黒天風(さかごこくてんふう)

 

 向かってくる2本目をボクシングのアッパーのように槍で下から叩き上げ――

 

 天童流神槍術一の型八番 崩崖花迷子(ほうがいはなめいし)

 

 逆子黒天風で突き上げた力を利用し、反対方向から来る3本目を槍で床に叩きつけた。コンクリート製の屋上が弾け飛び、頭部は原形を留めないほどの衝撃を受けていた。

 ガストレアが残った触手で身体を動かし、屋上から飛び上がる。その巨体はマンションの駐車場に落下し、停まっている車を何台か押し潰した。

 

「逃がすか!!」

 

 壮助と常弘の援護射撃を受けながら、詩乃と朱理も飛び降りた。ここは6階建てマンションの屋上だが、呪われた子供たちの身体能力と丈夫さであれば、何ら問題の無い高さである。

 ガストレアが銃撃を受けながらも上に向けて触手を伸ばし、鞭のようにしならせて空中で身動きがとれない朱理と詩乃を弾き飛ばした。朱理はガストレアから少し離れたところにある車に激突し、詩乃も隣家の前に停まる引っ越し業者の4トントラックにぶつかり、横転させる。

 

「朱理!!」

 

 常弘は朱理を助けに行こうと背後の階段につま先を向ける。しかし、一瞬だけ止まった。朱理を助けに行くということは援護射撃を止めるということだ。朱理を助けるために行けば、持ち場を放棄することになる。悩んでしまった。朱理を大切に想う気持ちと、民警としての気持ちが彼の中で同じ天秤にかけられていた。

 

「弾切れならさっさと補充しに行け。まだ下の車とかに積んでんだろ?」

 

 壮助の言葉が常弘の背中を押した。彼が本当に弾切れだと思っているのか、常弘の想いを知っての計らいなのか、真意は分からなかったが、常弘の悩みは消えた。

 朱理は衝撃で一瞬気を失ったが、全身に響く激痛で目が覚めた。瞼を開け、真っ暗だった視界に光を入れる。自分は屋外にいたはずだったが、思った以上にその視野は暗かった。周囲を見て、状況を整理する。気を失うまで自分が何をして、何をされたのか思い出す。ここは車の中。自分は後部座席で横たわっていた。しかし、それはいつもの常弘の車でもなければ、会社の車でもない。知らない車の後部座席。車内には粉砕されたリアウィンドウの破片が散らばり、ガラスを失ったリアウィンドウからは生暖かい風が吹いてくる。

 全身に突き刺さったガラス、全身に響く打撲の痛みで朱理は思い出した。自分はガストレアと戦っていて、ここに飛ばされて来たのだと――そして、戦いはまだ終わっていないことも。

 身体が上手くいうことを聞いてくれない。どこを動かしても激痛が走り、脳を痺れさせる中で朱理は何とかドアをぶち破り、外に身を乗り出した。

 道路に頭をうちつけ、全身を地面に委ねた。それくらい彼女の身体は限界になっていた。ぼやけた視界の中に数秒か数分か、それくらい前にいたマンションとガストレアの姿が辛うじて見えた。ガストレアの姿がどんどん大きくなっていく。触手をうねらせながら、こっちに近づいて来る。しかし、逃げるだけの体力が彼女には残されていなかった。

 那沢朱理は弱者であることを自覚している。自分はイニシエーターの中でも弱い方だ。モデルとなった動物も持っている能力も戦闘向きじゃない。侵食率の低さに比例して、呪われた子供としての基礎能力も治癒能力も低い。今も民警として生きていけるのは、常弘の機転とバックアップ、我堂民間警備会社での鍛練の賜物だ。――でも、そんな日々も今日で終わりだった。

 

「助……けて。ツネ……ヒロ……」

 

 這って逃げようとする中で、常弘との記憶が走馬灯のように蘇る。思い出すのは、あの鉱山でのこと、あの地獄の中で彼と出会い、彼と過ごし、共に逃げて掴んだ幸せの日々。そして、生きていればいずれ掴めたかもしれない幸せ。

 嫌だ。死にたくない。まだツネヒロと一緒にいたい。

 

 

 

 

「止ぉぉぉぉぉぉぉぉぉまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 

 

 

 

 その時、4トントラックが飛んだ。“詩乃に”放り投げられた21世紀の鋼鉄の猛牛は横に回転しながら宙を舞い、その巨体でガストレアを押し潰した。

 タイミングを合わせて屋上から壮助がライフルに取り付けた対戦車擲弾を放つ。それは完全に動きを封じられたガストレアに直撃し、鱗の表皮を貫通。肉を抉りながら内部まで弾頭は潜り込んだ。

 

「伏せろ!!!」

 

 ドン!と鈍い音がなった。衝撃波が周囲に拡散し、それに続いてガストレアの肉片と体液が周囲にまき散らされる。不気味な紫色に違わず、肉片や体液からは腐臭が漂い、駐車場一帯を汚染していった。

 朱理は、治癒能力がなんとかはたらいて意識が保てるようになった。身体も回復し、再生する細胞に押し出される形で身体からポロポロとガラス片が落ちていく。何とか立ち上がれるようになるまで回復し、車に手をつきながら立ち上がった。

 立ち上がって、もう一度戦場を見渡す。ひしゃげた4トントラックと爆殺されたガストレア、その光景を見た朱理は“勝った”とは思わなかった。それどころか、噂のルーキーペアの実力に慄いていた。

 

「これが……序列9000番台……。強者の世界」

 

 4トントラックを持ち上げて放り投げるパワー、街中でグレネードを使う大胆さとイニシエーターの背後からフルオート射撃で援護し全弾命中させる精密さ。それはどちらも常弘と朱理にはないものだった。

 

「朱理!」

 

 息を切らし、大汗をかきながら常弘が駆け寄った。今にも過呼吸で倒れそうな様子で彼女の肩につかみかかる。

 

「大丈夫か?ケガは?侵食は?」

「もう大丈夫だよ。ツネヒロ。私は赤目なんだから」

 

 朱理の言う通り、彼女はもう大丈夫だった。身体には傷一つなかった。しかし、彼女の服の破損や血痕がケガの凄まじさを物語っていた。

 

「そ、そうか……」

 

 常弘はそれで安心した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういう演技をした。例え嘘でも朱理にはそう見せたかった。

 本当は不安で仕方が無かった。今でも臓物が捻じ切れそうな思いでいっぱいだ。

 どれだけ酷いケガをしても朱理は“大丈夫”としか答えない。実際に呪われた子供たちの再生能力で“大丈夫”になってしまうんだから。だけど、大丈夫になる前は?再生能力があるとはいえ、彼女は16歳の少女だ。全身に神経は通っているし、痛覚もある。熱いものは熱いし、冷たいものは冷たい、痛いものは痛いと感じられる。脳が許容できる痛みの限界点も人間と同じだ。もし許容値を越える痛みを受ければ、脳が焼き切れる。身体は治っても彼女の心は壊れてしまう。呪われた子供なんて、人間と大して変わりない。

 あの日、民警になると決めたのは僕だった。“僕だけ”だった。そこに朱理の意見や意思は無く、彼女は僕について来た。だからこそ悩んでいる。惚れた弱みにつけ込んで“彼”のような正義を貫く民警になりたいという僕の我儘に、彼女を巻き込んでいるんじゃないかと。

 

 

 

 

 僕は、あの時迷ってしまった。

 

 朱理を助けるべきか、民警としての役目を果たすべきか。

 

 彼女が普通の人らしく生きる道を選ぶべきか、民警としての道を歩むべきか。

 

 天秤は今でも揺れ動いている。

 

 

 これは、僕が天秤を壊した日の物語

 




世界観コラム

呪われた子供たちへの差別意識 東京エリア編

世界各地で蔓延し続けている呪われた子供たちへの差別意識。それはエリア毎に特色があり、差別が人々の感情的なものに留まっているものもあれば、法律で明らかに呪われた子供たちを非人間として扱っているエリアもある。逆に貴重な戦力として、優遇しているエリアもある。
東京エリアでは、創設からガストレア新法発足に至るまで呪われた子供たちに関する法律が作られていなかった。これは「呪われた子供たちに対する特別な法律を作ると、彼女たちを“人間とは別の何か”として扱うことになる」という初代聖天子の考えに基づいてのものであり、呪われた子供たちの処遇についてはグレーゾーン状態を維持していた。しかし、ガストレアへの恐怖と失われた世代の怒りの矛先が呪われた子供たちに向けられるようになると、差別意識は個人の感情から社会構造にまで蔓延するようになり、呪われた子供=ガストレアという図式が成立してしまった。
そのことを憂慮した三代目聖天子(現在の聖天子)は6年前にガストレア新法を発足し、呪われた子供たちの人権を法律で明確に保障し、聖居直轄の教育機関を設けることで呪われた子供たちの社会復帰にも努めた。しかし、リンカーンの奴隷解放宣言から175年後の現在でも黒人への差別がなくならないように、法律が変わったところで人々の呪われた子供たちへの差別意識は解消されず、以前より緩和されたとはいえ公民問わず差別は未だに続いている。

“無垢な世代のガストレア戦争”に終わりは見えていない。

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