最高の幸福を知り、その尽くを奪われることだ。
護衛任務という名の日向家ホームステイ生活が続いたある日、壮助は電話で空子に呼び出された。役所に提出する書類に壮助のハンコが必要らしく、自宅から持って来いとのことだった。100円ショップで買ってテキトーに済ましてと言いたかったが、「義塔」という名字は珍しく、100円ショップでは見つからなかったらしい。
日向家に詩乃を残し、壮助は久々に松崎PGSに顔を出した。事務所には事務員の空子、そして出向中のティナがいた。空子は書類に目を向けており、ティナはノートパソコンで何かしらの業務をしている。
「悪いわね。ハンコなんかで呼び出して」
――と言って空子が壮助に書類を渡す。
「これどうにかならないのか? 面倒くさいんだけど」
「役所に言って頂戴。私だって同じ気持ちなんだから」
ガストレアの出現によって様々な産業が壊滅的ダメージを受けた。その内の一つが林業である。未踏領域に生い茂る木々を見るとむしろ大戦前より資源は豊富になったように思えるが、ガストレアに襲われるというリスクを背負った現代、作業員には民警の護衛をつけることが当たり前となった。木1本切るのに必要な人員が数倍に膨れ上がり人件費が高騰、海外輸入も不可能となったことも重なり、木材や紙の値段も上がっていった。紙の需要を減らすため、聖居も公的書類の電子化や電子書籍の普及に予算を割いているが、聖居の意向とは裏腹に現場では未だに紙でのやりとりが主流となっている。FAXとハンコがオフィスから消えるにはまだまだ時間がかかる。
「そういえば、松崎さんと大角さんは? あとヌイ」
「社長なら用事があって帰ったわよ。ヌイちゃんはその送り迎え。大角くんは相変わらず調べ物でどこかに行ってるわ」
「マジか。もうしばらく大角さんの顔見てねえよ」
「別に見なくたって忘れること無いでしょ。あのゴリマッチョ大明神」
「それもそうだけどさ」
「それより、そっちの調子はどう? 姫君を守る騎士様」
「全然だな。鈴之音ほどの有名人ならストーカーの一人や二人居ると思ってたのに被害も無いし、それらしい人間も見つからないし、今じゃ何の為に自分が呼ばれたのか忘れそうになる。アンタの友達が言ってたようにこれって本当に護衛のフリなんだな……」
「最初からそう言ってるでしょ」
「これ、いつまで続くんだ? 」
「それは――」
壮助の質問に空子が答えようとした途端、彼女のスマホに着信が入る。空子が「ごめんね」と言って電話に出る。答えを聞くタイミングをスマホに邪魔された気分だ。
「あ。もしもし? 店長? ――――え? 納品業者が事故起こしてお酒が届かない? ――――あ~。確かに望月のおじさんウォッカじゃないと機嫌悪くなりますもんね。こっちの仕事は終わったんで来る前に買ってきますよ。代わりに給料弾んでくださいね」
空子は通話を切り、スマホで時間を確認する。多少遅れても店長は咎めないだろうが、遅刻するのは個人的に嫌だった。
「悪いわね。話はまた今度。あ、ティナちゃん。戸締りお願い」
空子はティナに事務所の鍵を投げ渡すとそそくさと出て行った。結局、壮助は答えを貰えず仕舞いだった。
空子が出て行き、バタンと扉が閉まる。静かになった事務所でカタカタとキーボードを叩く音だけが響く。
「室戸先生から貴方へのプレゼントを預かっています」
2人きりになったタイミングでティナが口を開いた。彼女は影に隠れていたアタッシュケースをデスクの上に乗せる。あのマッドサイエンティス・ゾンビドーナツババアからの贈り物と言われ、壮助は咄嗟に鼻を押さえて遠ざかる。麗香に始めて連れられ、救急医療センターで治療された後も壮助は何度か彼女の研究室に足を運んでいるが、毎度、死体がらみの歓迎(嫌がらせ)を受けている。
「安心して下さい。中身は無機物ですから。エクステトラの訓練映像――貴方の斥力フィールドの使い方を室戸先生に見せましたら、『ちょうどいい物がある』と言ってこれを渡してくれました」
壮助は警戒しつつ恐る恐るアタッシュケースを開ける。その中身が何か分かると笑みを浮かべる。他人同然だった自分の命を救い、希望を出さずともお誂え向きの武器を用意してくれた日本最高の頭脳の心遣いに心の中で感謝する。
「護衛のお仕事、楽しそうですね」
ふとティナが微笑しながら語り掛ける。訓練の時のクールさとは打って変わり、母親のような――壮助が幸せそうにしているのを心から喜んでいるような包容力のある表情を見せる。
「何でそう思ったんすか? 」
「初めて会った頃より、貴方の表情が柔らかくなってきました。もう少しまともになれば、女の子が放っておかなくなると思いますよ」
壮助は珍しく自分のことを褒めるティナに気色悪さを感じる。あまつさえ何か裏があるのではないかと勘繰りしてしまう。しかし、先日、蔵人に同じことを言われた手前、彼女の素直な評価と受け取らざるを得なかった。
「先生も悪ガキの俺より良い子ちゃんの俺の方が好みだったりする? 」
「その二択であれば、良い子ちゃんの貴方の方が好みですね。蓮太郎さんを前にすればどちらも虫けら同然ですが」
「この蓮太郎至上主義者め」
壮助はシニカルな笑みを浮かべる。
「それはそうと、貴方が楽しく仕事している間、こっちで蓮太郎さんの現状ついて調べてみました」
「『調べた』ってどうやって? 」
「禁則事項です♪」
ティナがウィンクしながら、人差し指を自分の口に当てる。普段のクールな彼女の言動からは考えられない程、あざとくわざとらしい仕草だ。しかし、壮助は「可愛い」とも「美しい」とも思わなかった。それどころか、何故か特訓時代の記憶が呼び起こされ、思考が「恐怖」に上塗りされていく。
義搭壮助にとってティナ・スプラウトとは恐怖であり、恐怖とはティナ・スプラウトのことである。
「うわっ。ティナ先生の頭が壊れた。何すかそれ? 」
「え? 涼宮ハルヒの憂鬱をご存知ない? 貴方それでも日本人ですか? 」
「知らねえッスよ。なにそれ? 昔の漫画? アニメ? 」
「えぇ……本気で言ってるんですか……? 」
まさか、壮助がかの有名なライトノベルシリーズを知らないことにティナは脱力する。彼から見れば、ティナの「禁則事項です」は頭のおかしい発言にしか見えなかっただろう。懇親のパロディネタが通じず滑ることほど恥ずかしいものはない。
ティナは咳払いし、何事も無かったかのように話を進める。
「冗談はさておくとして、貴方には話しておきます。私のプロモーターがアメリカの巨大民警産業複合体“サーリッシュ”の会長であるオッティーリア・サーリッシュであることは以前話したと思います」
「なんか大物過ぎて、今でも現実感が全然無いんすけどね」
「現実感があっても無くても信じて下さい。今となっては余所者の私が聖居内部の情報を仕入れられるのは彼女のお陰なんですから」
ファーストコンタクトは最悪だったものの、蓮太郎達と共に数々の功績を挙げて東京エリアの存続に助力し、聖天子が直々に会いに行くほどの関係を持ったティナでも聖居内部に探りを入れ、情報を得るのは難しいらしい。機密情報を扱う機関としては正しいが、かつてのイニシエーターに情報を開示しない聖居の対応に壮助は秘密主義や冷たさを感じる。
「で、どうやって情報を仕入れて来たんすか? 」
「オッティさんのコネです。仕事柄、アメリカの
映画でしか聞いたことが無い組織の名前が出て来たことに壮助は唖然とする。ティナのIP序列やこれまでの功績からそれが見栄や嘘ということは無いだろう。自分が知らない間に事が大きくなっていくことに一抹の不安を感じる。同時に相変わらずスパイに弱い自国の現状に辟易する。
「で、何か情報はあったんすか? 」
「ええ。それはもう色々と。まず蓮太郎さんの居場所ですが、貴方が面会した施設に彼はもういません。警備に当たっていた警察と自衛隊も撤退。施設そのものが放棄されています」
「どういうことだよ? 移送されたってことか? どこに? 」
「聖居です」
あまりにも予想外過ぎる回答に壮助は愕然とする。周囲の音が聞こえなくなり、時間が止まったように錯覚する。
ティナの回答を頭の中で整理する。「蓮太郎が聖居に移送された」この一文だけで既に混乱する。聖居は東京エリアの政治中枢であると同時に聖天子の住まいでもある。東京エリアにガストレアをけしかけて数百億円規模の経済損失を生み出し、聖居への直接攻撃も画策したテロリストを自分と同じ屋根の下に置く聖天子の意図が分からない。肝が据わっているというレベルではない。仮に聖天子が許可したとしても警察や自衛隊がその状態を容認するとは思えない。
「現在、里見事件の捜査権は聖室護衛隊が握っています。自衛隊も公安警察も捜査から締め出され、これまでの捜査資料も全て接収されたそうです」
「おいおい。メチャクチャ過ぎるだろ」
あまりの事態に壮助は敬語が崩れる。
「私も驚きました。確かに聖天子様はこの国のトップですし、最近は強権的な手段を取る面も出てきました。ですが、これほどの超法規的措置を政治中枢で罷り通らせるとは……。この状況は聖天子様の独断だけではなく、おそらく閣僚や議会も黙認している状態だと思います。CIAからの情報では聖居にいくつかの家具、男性用の衣服や生活用品が持ち込まれたともあります。少なくともそこで生活させる気のようです」
ティナがCIA経由で手に入れた情報はこれで以上だった。CIAもその先のことは知らないのか、それとも今までの貸しでも教えられるのはここまでということだろう。サーリッシュとの関係悪化は向こうも望んではおらず、この情報が嘘ということは無いだろう。
「そんなことして、聖居は何が目的なんすか? 一つ屋根の下で国家元首とテロリストの許されざるラブラブチュッチュ生活でもするんすか? 」
ドンッ! !
ティナがオフィスデスクを叩いた。その衝撃でノートパソコンとマグカップが浮き上がる。
「もしそうなったら、今度は私が東京エリアを滅ぼす番です。マザードローンが復旧したら、数千機のソルジャードローンを引き連れ、
あまりにも顔が真剣過ぎて、彼女なら本当にやりかねないと思った。
「というアメリカンジョークは置いといて」
――今のは絶対ジョークって顔じゃねえよ。ガチだったよ。
「昔の蓮太郎さんに戻って欲しいと思っているのは聖天子様も同じだと思います。ただ、それ以外に何かしらの意図があると感じるんです。それがとても恐ろしいことなんじゃないかと、何となくそう思ってしまうんです」
ティナは目を伏せ、どこかアンニュイな表情で物思いにふける。こうして見ると彼女もまだ16歳の少女だと思い知らされる。
「当面の目的はそこっすね」
「え? 」
「先生の言う通り、聖天子は何か恐ろしいことに利用しようとしているかもしれないし、もしかするとそれは杞憂かもしれない。どちらにせよ主導権は向こうが握っているんだ。俺達が里見の為に国家反逆者になる覚悟でも決めない限りそれは変わらない。だったら、今できるのは聖天子を見極めることだ。目的が俺達と同じなのか、それとも違うのか。もし違う目的があったとして、それは止めるべきなのか否か」
あまりにも消極的な目的だったが、ティナはそれにコクリと頷いた。
蓮太郎を「昔のように戻す」と言っている2人だが、どうやって戻すのか、彼をどうすることが最終目標なのか、具体的なプランは出せていない。「今の状況は良くない」という認識だけが2人を繋ぎ止め、動かしている。
今の蓮太郎の立場はテロリストだ。拘束され、収容されて然るべき立場にあり、裁判にかけられれば死刑か終身刑になるのは確実な立場だ。憎しみだけで突き進み、既に後戻りできないところまで走り抜けてしまった彼に法の裁き以外の道を示そうとするなら、東京エリアの法そのものと敵対しなければならない。今の2人にそこまでの覚悟は無い。蓮太郎のためにそれ以外の全てを投げ捨てられるほど、“それ以外の全て”は軽くは無く、仮に投げ捨てたとしても蓮太郎本人の意思が伴わなければ意味が無い。
法の壁、心の壁は今でも大きく立ちはだかっている。
「聖天子様を見極めるとして、どうするつもりですか? 事が起きるまでずっと外から指を咥えて聖居を眺めているつもりもないでしょう? 」
ティナは壮助がそこで終わる人間では無いと思っていた。ただ機械化兵士の力を手に入れたヤンキー民警だと思っていた彼にいつの間にか期待している。
「聖天子を動かす情報が欲しい。蓮太郎が俺と面会するために自分の背後の組織の情報を使って聖天子を動かしたように、今度は俺達がネタを手に入れて聖天子を動かす」
「そうなりますと、里見事件で蓮太郎さんに協力した組織の情報ですか。CIA経由でどこまで情報が掴めるか分からないですね」
「いや、それだと駄目っすね。あいつが提供したネタと被る可能性があるし、向こうもそれを元に調査を進めているとしたら、情報の価値が保証できない」
「だったら、どうするつもりですか? 」
「聖天子にとって不都合な情報、スキャンダルっすよ」
壮助が悪辣な笑みを浮かべる。日向家の生活で真っ当な人間になっていた彼の表情は崩れ去り、その所作はスクリーンの向こう側に映る悪党のようだった。
「そう簡単にいきますかね。彼女は身持ちが堅いですから」
「別に聖天子本人じゃなくても良いっすよ。閣僚でも良いし、補佐官でもいいし、かつて後ろ盾だった天童家でもいい。誰にだって汚点はある。ティナ先生。清廉潔白ほど現実に存在しない言葉は無いんすよ」
なんて悲しい言葉を吐くのだろうかとティナは壮助を憐れむが、かつて暗殺者だった自分に否定出来る材料など無く、何も言い返すことが出来なかった。
*
ティナと話し終え、壮助が日向家に帰ったのは夜7時のことだった。大学の用事で帰りが遅い勇志を除き、5人が食卓を囲む。その後は寝る時間までリビングでテレビやゲームをして時間を潰し、夜11時にはそれぞれの部屋に行き、布団に潜った。
壮助と詩乃は少し間を空けて布団を敷いており、2人で日向家の和室の天井を眺める。これが当然の光景となって何日が経っただろうか、布団と自分達の荷物と掛け軸しかない部屋だがもう何年も使っている様な気分になる。
「そういえば、今日は3人で何してたんだ? 」
「プールに行ってた」
詩乃の一言で壮助は3人の水着姿を思い浮かべる。以前、ショッピングモールに買いに行ったあの水着を着たのだろう。どうして自分が居ない間にこの世の天国みたいなイベントが発生したんだと運命を呪うが、自分が居ない間だからこそプールに遊びに行くという選択が出来たのだろうと冷静に考える。
「楽しかったか? 」
「うん。焼きそば美味しかった」
「お前、食い物のことばっかだな。それ以外の感想は無いのかよ」
「鈴音が流れるプールに流されて一回行方不明になった」
「なんだそれ」
「あとウォータースライダーで勢いが付き過ぎて鈴音と美樹の水着が吹っ飛んだ」
「ちょっとそこのところ詳しく」
「教えてあげない」
「何だよ。ケチ」
「壮助には私がいるから十分でしょ」
「あのな。詩乃、いくらカレーが大好きだからって1日3食ずっとカレー食ってたら、たまにはラーメンや寿司が食べたくなるだろ」
「その話って、私がカレーってことだよね? 」
「……」
「私のこと大好きなんだ」
「ぐーぐー」
「寝た振りしても無駄だよ。壮助が本当に寝ている時の呼吸は覚えてるから」
「何その無駄な記憶力。キモい」
「ほら。起きてた」
「チッ……」
壮助が舌打ちすると、何かツボに入ったのか詩乃が口から「ふふっ」と笑い声を漏らし、彼女を包む布団が小刻みに揺れる。しばらくすると布団の揺れが無くなり、彼女の深呼吸する音が聞こえた。
「壮助。家族って楽しいね」
「どこの家もこうって訳じゃねえけどな。まぁ、でも、楽しいのは否定しないよ」
壮助は詩乃の生い立ちについて本人から「物心ついた頃には孤児だった。両親の顔も名前も知らない」と聞かされている。“家族”というものを知らない彼女にとって、日向家で過ごした日々はいい経験になったと感じる。
壮助は苦虫を嚙み潰したような顔をしながら、スマホ画面を指で叩いて行く。
詩乃は画面の明かりを鬱陶しく思いながらも壮助は何をしているんだろうと気にかける。しかし、画面をのぞき込む前に彼女のスマホに通知が入った。目の前にいる壮助からのメッセージが届いていた。
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そうすけ
< 計画通り、あの手を使う。この仕事、明日で終わりにする 23:20
そうすけ
< 心の準備しておいてくれ 23:21
そうすけ
< お別れの準備は出来てるか? 23:25
そうすけ
< この家で暮らすのも明日で最後になるんだぞ 23:26
そうすけ
< どういう意味だ?
そうすけ
< ああ。そうだったな 23:45
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壮助はスマホの画面を伏せると掛布団を引っ張り、頭まで覆う。
――依頼人と請負人。ビジネスの関係。そこに感情なんて無い。仕事が滞らないようにそう演技しているだけ。……多分、そう思っているのは俺だけだ。鈴音も美樹も恵美子おばさんも勇志おじさんも、あの人達の優しさは嘘じゃない。
多分、怖いんだ。
ここの生活に慣れてしまったら……
俺はもうクソガキチンピラ民警じゃいられなくなる。
もう銃を撃てなくなるかもしれない。
引き金を引くことに躊躇いが出るかもしれない。
人を撃てなくなるかもしれない。
もしかしたら、暴力を振るうことすら出来なくなるかもしれない。
こんな温かい生活を知ってしまったら、俺にはもう何も残らない。
暴力装置でなくなった義搭壮助に価値なんて無い。
畜生……幸せなんて知りたくなかった。知らないままでいたかった。
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詩乃
< 壮助 0:05
詩乃
< どんな選択でも私は否定しない。 0:06
詩乃
< 壮助の選択と、その先の結果を嘘にしない為に
私はやるべきことをやるだけだから。 0:08
詩乃
< ただ、これだけは覚えていて。
行き着く先が地獄でも私の居場所は壮助の隣だから。 0:12
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頑張ってLINE風にしてみたけど、みんな分かっただろうか……
次回 「スズネと鈴音と鈴之音」 前編