中央営業所では、所員が当然のように「先代に確認してくる」と席を立つ。
それが誰なのか、誰も答えない。
所長室の扉には、所長の名札がない。
平成十二年の開設以来、所長の決裁印は、ずっと「田島」だった。
赴任して二ヶ月が経った。
業務の流れには慣れた。客先回り、見積作成、伝票処理。朝礼での唱和も、所訓の七行も八行目も、今では自然に口から出るようになっていた。
私はこの営業所の業務を、ほぼ滞りなくこなせるようになっていた。
ただ、ひとつだけ、慣れないことがあった。
「先代に確認してくる」という言葉だった。
中央営業所では、田島さん以外の所員も、しばしばその言葉を使った。
津田さんが、見積の単価で迷ったときに席を立つ。
「先代に確認してくる」
経理の山岡さんが、伝票の処理方法で迷ったときに席を立つ。
「ちょっと先代に聞いてくる」
そして田島さんも、本社からの問い合わせに答えるときに、
「少々お待ちください。先代に確認します」
と電話越しに言うことがあった。
業務の流れの中で耳に挟むだけだった。気にしなければ、流れていく言葉だった。
ある日、自分の担当する取引先の単価で疑問があり、津田さんに照会した。津田さんは「先代に確認してくる」と席を立ち、十分ほどして戻ってきた。
「単価、据え置きで大丈夫だって」
私は伝票に判を押しながら、何気なく訊いた。
「ありがとうございます。先代って、どなたですか」
津田さんは、自分のデスクに戻っていた。書類から目を上げずに答えた。
「先代は、先代だよ」
「田島さんの、前の所長ですか」
「田島さんの前は田島さんだよ」
津田さんはそれだけ言って、判を押し続けた。
その日の昼休み、私は所長室の前を通った。
所長室の扉は、いつもどおり閉まっていた。田島さんは今、外回りに出ている。室内には誰もいないはずだった。
扉の脇には、小さなプレートがある。これまで何度も通っていたのに、私はその文字を、はじめてちゃんと読んだ。
「所長室」
と書かれていた。
その下に、所長の名前を記したプレートが、本来あるはずだった。中央営業所の他の社員のデスクには、全員、名前のプレートがあった。営業所の正面玄関にも「所長 田島◯◯」と記された名札が立っている。
ところが、所長室の扉の脇には、名札がなかった。
「所長室」とだけ書かれていて、誰の部屋なのかは、書かれていない。
ふと、所訓の六行目を思い出した。
「六、我ら、扉を開かずに在る者なり」
翌週、田島さんから業務指示が出た。
期末の書類整理として、過去十年分の決裁書類を保管庫から取り出し、年度別に再ファイリングして、本社向けの監査対応資料を作成する。──そういう業務だった。
私は保管庫の鍵を借りて、午後の数時間を書類の整理に充てた。
蛍光灯の点滅する保管庫で、年度別のファイルを棚から順に引き抜き、決裁印を確認しては表にチェックを入れていく。判の脇に擦れた赤い印影、紙の縁の褐色の変色、輪ゴムが切れて散らばる紙クリップ──そういう手触りの中で、私は黙々と作業を進めた。
平成三十年度。所長の決裁印は「田島」だった。
平成二十五年度。「田島」。
平成二十年度。「田島」。
平成十五年度。「田島」。
平成十二年度。「田島」。
平成十二年度は、中央営業所の開設年度だった。開設初日の業務日誌に、所長の決裁印が押されていた。
「田島」と読めた。
年度末の業務日誌に、所長の所感が手書きで残されていた。
「本年度をもって退任する。後任は、田島とする」
筆跡は、私の知っている田島さんのものに似ていた。
私はその所感を、監査対応資料のフォーマットに従って転記した。「退任所長:田島/後任所長:田島」。業務として、書類を整え、ファイルを閉じ、表のチェック欄に判を押した。
保管庫を出るときに、棚の埃を払って、鍵をかけた。
午後、田島さんが営業所に戻ってきた。
私は監査対応資料のドラフトを田島さんに渡した。田島さんは中身を一通り確認し、いくつかの箇所に判を押した。
「うん、これで本社に出していい。ありがとう」
田島さんはそう言って、書類を返した。
私はそのまま、訊いた。
「先代って、田島さんのことなんですか」
田島さんは、少し笑った。
「ああ、それは慣習でね」
そう言って、田島さんは資料を脇に置き、立ち上がった。
「じゃあ、所長室に戻るよ」
田島さんは、扉に向かって歩いた。
私はその後ろ姿を見ていた。
田島さんが所長室の扉の前に立つ。次の瞬間、田島さんは扉の向こうにいた。扉は閉まっていた。私の視界は、田島さんが扉を開けて中に入る、というその一連の動作を、捉え損ねていた。
田島さんが扉を開ける瞬間を、私はこれまで一度も見たことがなかった。
そのことに、はじめて気づいた。
夕方、休憩室で津田さんとお茶を飲んでいた。
何気なく、私は訊いた。
「津田さんは、いつから中央営業所に」
「平成十五年からだね」
「田島さんは、その前から所長でしたよね」
「うん。私が来たときには、もう田島さんだったよ」
津田さんはお茶を一口飲んで、湯呑みを置いた。それ以上は、何も言わなかった。
その夜、私は自分のデスクの引き出しを整理していた。
引き出しの奥に、見覚えのない名刺の束があった。輪ゴムで留められて、未開封のまま置かれていた。
私は一枚を抜き取った。
「中央営業所 田島」
と印字されていた。
名刺を裏返した。
「先代より継承」
とだけ、印字されていた。
私はその名刺を、しばらく見ていた。
いつ作ったのか、思い出せなかった。