継承業務   作:yami_craft

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継承業務──会社が、村になる話。

中央営業所では、所員が当然のように「先代に確認してくる」と席を立つ。
それが誰なのか、誰も答えない。
所長室の扉には、所長の名札がない。

平成十二年の開設以来、所長の決裁印は、ずっと「田島」だった。


#03「先代」

赴任して二ヶ月が経った。

業務の流れには慣れた。客先回り、見積作成、伝票処理。朝礼での唱和も、所訓の七行も八行目も、今では自然に口から出るようになっていた。

私はこの営業所の業務を、ほぼ滞りなくこなせるようになっていた。

ただ、ひとつだけ、慣れないことがあった。

「先代に確認してくる」という言葉だった。

 

中央営業所では、田島さん以外の所員も、しばしばその言葉を使った。

津田さんが、見積の単価で迷ったときに席を立つ。

「先代に確認してくる」

経理の山岡さんが、伝票の処理方法で迷ったときに席を立つ。

「ちょっと先代に聞いてくる」

そして田島さんも、本社からの問い合わせに答えるときに、

「少々お待ちください。先代に確認します」

と電話越しに言うことがあった。

業務の流れの中で耳に挟むだけだった。気にしなければ、流れていく言葉だった。

ある日、自分の担当する取引先の単価で疑問があり、津田さんに照会した。津田さんは「先代に確認してくる」と席を立ち、十分ほどして戻ってきた。

「単価、据え置きで大丈夫だって」

私は伝票に判を押しながら、何気なく訊いた。

「ありがとうございます。先代って、どなたですか」

津田さんは、自分のデスクに戻っていた。書類から目を上げずに答えた。

「先代は、先代だよ」

「田島さんの、前の所長ですか」

「田島さんの前は田島さんだよ」

津田さんはそれだけ言って、判を押し続けた。

 

その日の昼休み、私は所長室の前を通った。

所長室の扉は、いつもどおり閉まっていた。田島さんは今、外回りに出ている。室内には誰もいないはずだった。

扉の脇には、小さなプレートがある。これまで何度も通っていたのに、私はその文字を、はじめてちゃんと読んだ。

「所長室」

と書かれていた。

その下に、所長の名前を記したプレートが、本来あるはずだった。中央営業所の他の社員のデスクには、全員、名前のプレートがあった。営業所の正面玄関にも「所長 田島◯◯」と記された名札が立っている。

ところが、所長室の扉の脇には、名札がなかった。

「所長室」とだけ書かれていて、誰の部屋なのかは、書かれていない。

ふと、所訓の六行目を思い出した。

「六、我ら、扉を開かずに在る者なり」

 

翌週、田島さんから業務指示が出た。

期末の書類整理として、過去十年分の決裁書類を保管庫から取り出し、年度別に再ファイリングして、本社向けの監査対応資料を作成する。──そういう業務だった。

私は保管庫の鍵を借りて、午後の数時間を書類の整理に充てた。

蛍光灯の点滅する保管庫で、年度別のファイルを棚から順に引き抜き、決裁印を確認しては表にチェックを入れていく。判の脇に擦れた赤い印影、紙の縁の褐色の変色、輪ゴムが切れて散らばる紙クリップ──そういう手触りの中で、私は黙々と作業を進めた。

平成三十年度。所長の決裁印は「田島」だった。

平成二十五年度。「田島」。

平成二十年度。「田島」。

平成十五年度。「田島」。

平成十二年度。「田島」。

平成十二年度は、中央営業所の開設年度だった。開設初日の業務日誌に、所長の決裁印が押されていた。

「田島」と読めた。

年度末の業務日誌に、所長の所感が手書きで残されていた。

「本年度をもって退任する。後任は、田島とする」

筆跡は、私の知っている田島さんのものに似ていた。

私はその所感を、監査対応資料のフォーマットに従って転記した。「退任所長:田島/後任所長:田島」。業務として、書類を整え、ファイルを閉じ、表のチェック欄に判を押した。

保管庫を出るときに、棚の埃を払って、鍵をかけた。

 

午後、田島さんが営業所に戻ってきた。

私は監査対応資料のドラフトを田島さんに渡した。田島さんは中身を一通り確認し、いくつかの箇所に判を押した。

「うん、これで本社に出していい。ありがとう」

田島さんはそう言って、書類を返した。

私はそのまま、訊いた。

「先代って、田島さんのことなんですか」

田島さんは、少し笑った。

「ああ、それは慣習でね」

そう言って、田島さんは資料を脇に置き、立ち上がった。

「じゃあ、所長室に戻るよ」

田島さんは、扉に向かって歩いた。

私はその後ろ姿を見ていた。

田島さんが所長室の扉の前に立つ。次の瞬間、田島さんは扉の向こうにいた。扉は閉まっていた。私の視界は、田島さんが扉を開けて中に入る、というその一連の動作を、捉え損ねていた。

田島さんが扉を開ける瞬間を、私はこれまで一度も見たことがなかった。

そのことに、はじめて気づいた。

 

夕方、休憩室で津田さんとお茶を飲んでいた。

何気なく、私は訊いた。

「津田さんは、いつから中央営業所に」

「平成十五年からだね」

「田島さんは、その前から所長でしたよね」

「うん。私が来たときには、もう田島さんだったよ」

津田さんはお茶を一口飲んで、湯呑みを置いた。それ以上は、何も言わなかった。

 

その夜、私は自分のデスクの引き出しを整理していた。

引き出しの奥に、見覚えのない名刺の束があった。輪ゴムで留められて、未開封のまま置かれていた。

私は一枚を抜き取った。

「中央営業所 田島」

と印字されていた。

名刺を裏返した。

「先代より継承」

とだけ、印字されていた。

私はその名刺を、しばらく見ていた。

いつ作ったのか、思い出せなかった。

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