終宿主 作:学マスオタク
【終宿主】 :寄生虫の生活環において、生殖が行われる最終的な寄生先。またこれに対する概念として、発育を行う期間の寄生先として中間宿主が存在する。
目を覚ます。できるだけ物音を立てないように上半身を起こして、視線であたりを一周した。
枕元に置かれた二台のスマートフォン。社用のものと、もう購入してから五年は経過したであろう、時代に取り残された旧式の、プライベート用のもの。
旧式を手に取ると、通知上に複数の着信履歴が表示されている。六桁のパスコードを打ち込んだ。無機質な液晶上では、パスコードが違う旨が告げられている。
思い当たる数字の羅列を何度か打ち込んでは拒絶され、パスコードのロックがかかった。
小さく嘆息をもらすと、スマートフォンを丁寧に枕元へ戻す。今更それに感情を動かされることもない、毎朝のルーティーン。
ドアがノックされた。俺の返事を待たずに、扉が開く。
「まあ、早起きですね。おはようございます、プロデューサー」
「……おはようございます」
ジャストサイズよりかは二回りほど大きいパーカーに身を包んだ彼女は、するりとベッドまで足を運ぶと、慣れた手つきで俺の足元の拘束具を解除した。
きつく縛られた足元の痺れに覚える嫌悪感と、解放された喜びで感情が二分される。
月曜日の朝。クリーニング明けのスーツに身を包み、着替えた彼女と共に、家を出た。
朝の眩しさに目を細めていると、左手がひやりとした感覚に包まれる。暖かいのにとてもつめたい、彼女の右手。目線を向ければ、眩しさではなく──満足そうに目を細める彼女の微笑み。
人の気配がない閑静な住宅街で、俺たちの鳴らす足音だけが、耳に残っていた。
はじまりは、小さな違和感だった。
初星学園卒業後、組み敷かれたレールの上を歩くように100プロへ就職した俺は、学内での実績を買われ、入社と同時に複数名のアイドルのプロデュースを担当し、忙しくも充実した日々を送っていた。
新卒として社会の歯車を回し始めてようやく一ヶ月が過ぎた頃。両肩に充足感と色濃い疲労がのしかかったまま、やや肌寒さの残る薄暗い帰路を歩いてると、見慣れた人影を見つけたのである。
高級住宅が並んでいるわけでも、かと言って年季の入った物件が並んでいるわけでもない、なんの変哲もない住宅街。
その人影は、学生時代に毎日見ていた制服に身を包み、春の夜風に揺られるスカートを手先で抑えたまま、何を見るわけでもなく……ただ、夜空のある一点を見上げていた。
彼女の視線の先が気になり、俺も習って同じ方角を見上げてみる。揺蕩う雲の向こう側から、ほんの僅かな月明かりが視認できる。なんの変哲もない、夜の曇り空。
視線を落とすと、彼女と目が合った。どうやら、俺に気づいて既にこちらを見ていたらしい。
目が合うと、彼女は真顔に貼り付けたような笑みをその唇に浮かべた。俺の知る笑顔とはどこか違うような、それでいて、視界と脳は見慣れたものであると認識しているような、そんな笑顔。
秦谷美鈴。かつて初星学園在籍時に担当していたアイドルの姿だ。
「秦谷さん……、お久しぶりです。どうしたんですか。まさかこんな時間に、こんなところでお会いするとは」
「まあ、こんなところ、だなんて……滅多なことを言うものでは、ありませんよ」
今度は上機嫌に、くすくすと控えめに音を立てて笑う。
秦谷さんの姿を直接見るのは、実に二ヶ月ぶりほどだった。
現在は高校三年生になる彼女と学園卒業の時期がズレた俺は、かつて彼女の担当を後輩に引き継ぎ済みだった。当時の秦谷さんはこちらの想定よりよほど素直に担当の引き継ぎを受け入れ、肩透かしだと思ったことをよく覚えている。
あまり過剰に情がうつってもいけないと考えた俺は、あえて秦谷さんの通りそうな学内の教室などを避けて行動していたが、引き継ぎ後、俺の卒業式に挨拶にも来てもらえなかったことが、学園生活における僅かな心残りであった。
自惚れでなければ、学友のプロデューサーとその担当アイドルたちより深く親愛を築いていたと自認していた俺は、柄にもなく彼女が見送りにきてくれることを期待していたのである。共に卒業する学友と秦谷さんに囲まれ、「一番星」が卒業を見送ってくれるという事実を揶揄われながら、そんな幸せな学舎に後ろ髪を引かれつつも、新たな夢を追うため卒業する──なんとなく、俺の卒業とはそういうものだと思っていた。
だが、現実として彼女は卒業式の日に姿を表さなかった。ぽかぽかとした春の陽気が差し込む、秦谷さんの好きな昼下がりの気候。過程は違えども、想像した通り後ろ髪を引かれる思いで、俺は初星学園を去っていた。
「学園からはさほど遠くもありませんが、あまり寮生が通るような場所ではありませんので」
「そうでもありませんよ。このあたりには、まりちゃんの好きな限定アイスが売っているコンビニがあるんです」
ふむ、と俺は得心を得て頷く。確かにこの近くには、近頃めっきり見なくなった某マイナーなコンビニチェーンが今もその息遣いを残していた。そのアイスを買いに行く途中だと言うことなのだろう。
久々に会ったものの、想定より会話に気まずさは感じなかった。もっと積もる話も出てくるかとは思ったし、卒業や引き継ぎの件への言及もあるかと思っていたのだが……それは、俺の一方的なエゴでしかなかったのかもしれない。
彼女の俺に対する感情は思っていたより冷めたもので、あくまで一学友が彼女のもとを離れ、卒業するという些事に過ぎなかったのだろうか。感情に浸ってしまいがちなイベントでこそあるが、なるほど今生の別れでもあるまいと。
「そうですか。……しかし、この時間に一人では、少々不用心ですね。送っていきましょう」
天川というこの土地は、アイドル養成学校である初星学園を構えるだけあってか、特にガラの悪い地域ではない。人通りも少ないどころか、このようなすっかり夜更けの時間に通行人を見たことはないのだが、それでも女性──それもアイドルが歩くにあたり、用心するに越したことはないだろう。
初星の寮を出ても天川を出なかった俺は、土地勘もあり彼女の指すコンビニの位置も把握している。時間も時間だ。本音を言えばさっさと帰って眠りにつかなければ明日の仕事に差し支えるなという思いもあったが、彼女を前にしてはそれこそ些事であった。
しかし、俺の申し出に対して秦谷さんは僅かに首を振る。先ほどと同じ、貼り付けたような笑顔を浮かべながら。
「いえ、大丈夫ですよ。目的は、もう果たしましたから」
そう言って、返す俺の言葉も待たずに秦谷さんはその身を翻した。
「また、お会いしましょう」
初星学園の方向へ歩き出す彼女の後ろ姿を、呆然と見送る。
そうだ、確かに彼女は、俺の見送ったあの時の後ろ姿は、手ぶらのままだった。