終宿主 作:学マスオタク
それからというもの、たまの帰り道に秦谷さんが現れると、また益体もない会話をするようになった。
秘め事をするような罪悪感に、帰り道を少しずらした日もあった。だが、その日も秦谷さんは立っていた。
その日、彼女のほうから夕食を持ちかけられた。
「いえ。今日は、やめておきましょう」
不思議とこの住宅街は、いつも人の気配がない。
誰に見られているわけでもないと思ったが、警戒しておくに越したことはないだろうと思った。そしてそれ以上に、大前提として、俺は自室というプライベート空間に人がいることが、あまり得意ではない。
断りを入れると、秦谷さんは驚くほど素直に従ってくれて、俺もほっと胸を撫で下ろした。そして帰る秦谷さんの後ろ姿を見送りながら、
ほんの少しだけ、撫で下ろした胸がちくりと痛む。
仕事のほうに目を向ければ調子は悪くなく、新たに担当として持ったアイドルたちも、かつての失敗を糧に、ペースこそ遅いが比較的順調と言って差し支えない道を用意できている。
しかし思いの外、達成感、充足感といったものは薄かった。言葉にするとすれば、「こんなものか」が一番近いだろうか。
理想と現実で、ほんの少し感覚がズレていることを感じていた。
そしてまた、薄暗い夜に秦谷さんと出会う。特に約束をしているわけではなく、私用携帯を手に取ることが減ってきていた。話をして、家に帰り、シャワーを浴びて、眠る。その繰り返し。
一日一日が過ぎる速度が速まった気がする。プロデューサーとして良くも悪くもこなれてきた感覚もあってか、毎日の感触と記憶が平坦になりつつあった。
そうして日常を過ごす、またとある日の朝。半開きの眼を擦りながらスマートフォンを開くと、懐かしい名前からの着信履歴が届いていた。根尾あさり先生だ。
昨夜かかってきていたようだが、どうやら俺は電話に気づかなかったらしい。近頃は仕事用携帯ばかり触っているから、プライベート用のスマートフォンは半ば休日専用機と化してきていた。
突然何の用だろうか。卒業前に連絡先こそ交換し、卒業したての頃は近況報告の名目で俺のことを気にかけてくれていたが、ここ最近は連絡をとりあうこともなかった。
時計は六時四十五分を指している。真面目な先生のことだから、おそらくもう起きているだろうとあたりをつけて折り返しの電話をかける。
案の定、三コールが鳴り終える前に電話が繋がった。
「おはようございます、あさり先生」
「おはようございます。……色々、積もる話もありますが、早速ですみません。昨日の電話の件ですよね?」
「はい。朝早くからの折り返しで、恐縮ですが」
電話の向こう側で、息を呑む気配がする。
「……、秦谷さんの後任、きちんと連絡は取り合っていますか?」
「? はい。最近は連絡できていませんでしたが、順調と聞いています」
言われてみれば、と脳内によぎるのは、学生時代可愛がっていた後輩の姿。
俺と違って明るく愛想が良いタイプ。少々丁寧さに欠けるところはあるが、人懐っこく、明るくも騒がしすぎない彼ならば秦谷さんとのコミュニケーションも問題はないだろうし、実力や成績的にも申し分ないだろうと考えて後任を託した。
もちろん、引き継ぎ直後は秦谷さんがレッスンに出ない相談をはじめ、懐かしい悩みだなと目を細めながらも密に情報のやり取りは行なっていたものだが、ほんの数ヶ月前を境に相談の連絡は途切れており、俺も気にしていなかった。
あさり先生と彼については何度か話したことがある。もちろん本人を交えて話したことも。
秦谷さんの後任選びには、それだけ気を遣ったのだ。初星学園は、必ずしもプロデューサーをつけなければいけないと決まっているわけでは決してない。しかし、立つ鳥跡を濁すというのは自分のポリシーにも反するし、初星学園ではプロデューサーがつくことで受けられる恩恵も多い。
最初は一対一で相談していたが、気づけば後輩本人が合流して三者面談に。最終的には秦谷さん本人に隠れてあさり先生の元へ行っていたことがバレ、やましいことをしていない証明として同席させることで四者面談に至ったことも、今となっては懐かしい。
そんな事情から、当然あさり先生は秦谷さんの現プロデューサーについても当然面識はあり詳しいはずである。
その彼について突然の電話で話題を振ってくる。当然、話題は悪い方だろう。
秦谷さんと彼のことだから、大方ライブの日に月村さん絡みで多少揉めたとか、他のアイドルと喋っていただの新たな担当を持とうとして揉めただの、そんな話だろうとたかを括っていた。
「──実は彼、先日から行方不明なんです」
どうやら俺に賭けの才能はないらしい。あさり先生の言葉は、寝起きの頭を覚醒させるのに十分すぎた。
最後に連絡がきていたのは、二ヶ月ほど前。
あさり先生へ言ったように、最近はプロデュースもコミュニケーションも順調で、悩みはないと言っていた。
それでも、二年間共に過ごしてきた担当アイドルを託して、二ヶ月もその近況が気にならなかったのはなぜなのか。
その答えは、難解なようですぐに見つかった。
ちょうど連絡が途切れたのは、秦谷さんと再会を果たした時期と重なっていた。
彼女自身からも特にそのことに言及はなく、記憶にある姿と特に違和感もなかったからだ。
だから俺は、彼からきた順調という言葉を鵜呑みにし、気に留めてもいなかった。
再会を果たしたあの日の情景が、急速に蘇る。秦谷さんはあの日、手ぶらだった。アイスを買いに来た、と言っていたのに。
想像したくもない幾つもの可能性が、頭に浮かんでは消えていく。そんなわけがない。可能性を否定する理由を探したくて仕方がない。
「すみませんあさり先生。失礼します」
「え?」
返事も待たずに電話を切り、トークアプリの履歴を遡る。
悲しいかな、普段から連絡を取り合う友人もそう多くはない。私用スマホを少しスライドさせると、すぐに彼のトーク履歴が見つかった。
最後に俺が送ったチャットを最後に、連絡はない。アプリ上に表示される既読の字を見ながら、ほんの数瞬思いとどまるが、断ち切って通話をかける。反応はなかった。
あいつは少なくとも、無責任に仕事を投げ出すようなタイプではない。それだけは確信を持って言い切れる。
衝動に駆られて初星の寮まで走り出したくなる気持ちをグッと堪えた。今日は俺にとっても大事な、新たな担当アイドルのライブがある。こちらも、無責任に投げ出すわけにはいかない。仕事は山積みだった。
仕方ないと割り切って彼にメッセージを送る。最近連絡ないけど大丈夫か、というシンプルな問いかけを投げて、一旦仕事に頭を切り替える。
着慣れたスーツに身を包んで家を出た。
心にかかったモヤを表現するように、暗い暗い、曇り空が印象的な日だった。