終宿主 作:学マスオタク
幸いと言うべきか。結論から言えば、秦谷さんの後任と連絡を取ることはできた。
体調を崩しているという旨で電話こそできなかったが、会社に着く頃にはきちんとメッセージの返答がきていた。
ご心配おかけしてすみません。すぐ復帰するので大丈夫です、と。
数回メッセージのラリーを繰り返したが、違和感はなかった。何か隠しているような気配こそあったが、やり取り自体への違和感はない。ただ、なんとなくしこりの残る感覚があった。
文面は彼らしい。理由ももっともらしい。だが、失踪の報が届くにしては、あまりにも違和感がなさすぎる。
しかし俺は、このことをさして気にも留めなかった。というより、それどころではなかった、が正だ。
かつて起きた、担当からの契約解除願い。同じことが、また起きていた。
まるで再放送かのように、同じ流れを繰り返した。社長室に呼び出され、わけもわからない経緯を説明され、何もわからずに引き継ぎ書類をこなす。
幸い、今回も仕事を失うほどではなかった。再度別のアイドルの担当を引き継ぐことになる。社長は、俺の仕事ぶりに一定の評価をしてくれている様子だった。
しかし、一体なぜ契約解除という結果に至ったのか。それだけがわからない。またもや亀の歩みでも──それこそ、一番星のプロデューサーという経歴からすればだが──きちんと自信を持って成果を出せている、と言えるだけの仕事はできていた。
今度も半ば放心状態で帰路につく。
夏場だが曇り空の元、太陽も沈み切った時間帯は涼しく、気持ちも相まって寧ろ寒気を感じるほどである。
そろそろ家に着く。今日はもう、このままシャワーも浴びずに寝てしまいたいほどの疲労感だった。
ふと、人の気配に気づく。いつも会社から帰る頃、この街には人気が全くないだけに、異質な気配だった。
「──秦谷さん」
「まあ。奇遇ですね、プロデューサー」
最早違和感すら覚えまい。かつての担当アイドル、秦谷美鈴だった。
「今日は、なぜこちらに?」
決まり文句だ。本音を言えば、理由などどうでもよかった。どんな理由だとしても、彼女の口から発せられる言葉を否定することなど俺にはできやしないと、わかっていたから。
「さあ。なぜでしょうか」
微笑む秦谷さんの瑞々しくも赤い唇が、真っ赤な三日月を描くように薄く引き延ばされる。
胸の脈動が温度を取り戻していく。指先の感覚が鮮明になり、意識が現実に帰ってくる。地に足のついた感覚。
「いいえ。嘘、ですね」
微笑んだまま、秦谷さんが一歩、また一歩と俺との距離を詰めた。
「あなたに会いたくて──つい、来てしまいました」
俺の眼前で見下ろす秦谷さんの表情は、既に微笑みの色を失っていた。
伏し目がちなその目は風に揺れる前髪で見えず。遂に一寸先まで達すると、容易くへし折れてしまいそうなその白い掌が、俺の胸元にそっと重ねられた。
スーツ越しでも、熱を取り戻した俺の胸元にひんやりとした掌の感触が伝わる。触れられ、意識が集中することで、より一層早鐘を打つ心臓をリアルに感じられた。
「俺に、ですか?」
「はい。あなたはもう、忘れてしまいましたか?」
秦谷さんが顔を上げる。目が合った。その目には、彼女を彼女たらしめる自信の光など一片もなく、夜空のような曇りの色もなく、ただ澄んだ無のみが鎮座していた。
忘れてしまった。何のことなのか、今の俺には検討すらつかない。
言葉すら発せないでいる俺に、一歩下がった秦谷さんはもう一度、彼女らしく淑やかに微笑んだ。
「今週末からは、夏のHIFですよ」
HIF。かつて制した、初星学園最強のアイドルを決める祭典。
三年生となった秦谷さんにとって、最後の大舞台と言っても良い機会だった。HIFは冬にもあるが、その頃には進路を決めて不参加とする三年生も多い。
大事な祭りだ。しかし秦谷さんの言葉で記憶を取り戻した俺の感想は平坦なもので、「もうそんな時期か」と、あくまでも俺には関係ないと。無意識のうちにそう思っていたことを改めて自覚した。かつてはそれを最終目標に奔走したものだが、一度登り切った頂に、俺の心は震えないようだった。
「そう、でしたね。もう、今となっては懐かしく感じますが」
「まあ。まるで、他人事のよう」
秦谷さんが、くすくすと音を立てて笑う。言葉選びを間違えたかとも思ったが、大きく外れてはいなかったようだ。
「先輩がたも卒業して、まりちゃんはユニット部門での参加です。ソロ部門のわたしにとって、そんなHIFは児戯に等しいものですが」
仮にも学内最大の大会を児戯、ときたか。
その傲慢っぷりは、俺が担当していた頃から何も変わらない、秦谷美鈴のままだった。
「それでも、いざHIFを前にすると……、あなたに、会いたくなってしまいました」
緊張などという可愛いものでは、おそらくないだろう。ただ懐かしさに目を細めるように、ここまで来てくれたと言うだけのこと。
傲慢で、言い方は悪いが取り扱いの難しい人だと思っていたが、離れてみるといじらしさを感じるところもあるものだなと、脳内で独りごつ。
「あがっていきますか」
口に出したその言葉に、少し驚く。何か考えて出た言葉ではなかった。
俺も、今一人にはなりたくなかった。誰かと話したい気分だった。その相手が、かつてともに夢を叶えた秦谷さんであるならば、言うことはない。今の俺は、彼女の担当でもない。わざわざ来てくれた彼女を、そのまま追い返すのも忍びない。
人間とは欲求に従った行動を決めた後で言い訳を並べるものだ。一度言葉にしてしまえば、理由などいくらでも後付けできた。
これまで偶然という前提の元に成り立たせていた居心地の良い時間と空間を、今は自分から求めてしまっている。
「はい。ぜひ」
秦谷さんは二つ返事で頷くと、俺の袖元をそっと指先で握った。
今ではもう意識しなくなった小さく控えめな歩幅に合わせて歩き出す。俺の袖を持った秦谷さんはこんなところでも流石と言うべきか、スーツが伸びないように、適切な距離感でぴたりとついてきた。
自宅の鍵を開け、扉を開く。声も合わせず、部屋の中へと歩を進める。
自室の暖かい暗闇が、俺たちを迎え入れた。