終宿主 作:学マスオタク
一度線を超えてしまえば、心理的なハードルは驚くほど低くなる。もう後戻りはできなかった。
会社へ行く。新たな担当アイドルと仕事をする。家へ帰る。彼女の用意した食事を口にする。
会社へ行く。仕事をする。家へ帰る。秦谷さんがいて、また、夜の時間をともに過ごす。眠ることが好きな彼女に合わせて、就寝時間が早くなった。
会社へ行く。今度もまた、契約解除の申し出があった。担当アイドルの顔より先に、帰宅後の部屋が脳裏に浮かんだ。
ただの文字列にしか見えなくなった書類にサインをし、引き継ぎ業務をこなし、家へ帰る。秦谷さんと過ごす。
そうしているうちに、自室には秦谷さんの私物が増えてきた。最初は調理器具。イヤホン、アイロンにヘアスプレー、メイク道具。色違いの歯ブラシ。ベランダに干された、まだ見慣れない生乾きのTシャツ。彼女の生活の痕跡が増え、俺の部屋と彼女の境界線が曖昧になってくる。
会社での俺は、もはや腫れ物扱いだった。それはそうだろう。何人もアイドルを担当しては契約解除を申し出られ、うだつのあがらない日々だ。その理由も分からず、明確に問題行動を起こしているわけでもないからクビにもできまい。
もはや、仕事へのモチベーションも失いつつあった。アイドル関連のニュースも、意図的に避け始めた。
この数ヶ月で目にしたニュースは、秦谷さんが再度一番星の座についたというネット記事のみだ。秦谷さんの口からそれに触れられることはなかったので、俺も特に言及はしなかった。
家に帰ると、日程はまちまちだが秦谷さんが待っていた。俺たちは、特に約束もしていなかったし、お互いに学内や会社での話は全くと言って良いほどしなかった。
世間話やお互いの過去の話、初星学園での思い出話に花を咲かせているだけで、その時だけ俺は、一番星を担当する敏腕プロデューサーと呼ばれた頃の俺に戻れたような万能感を取り戻していた。
仕事の昼休み、誰と話すわけでもなく一人で弁当を食べていると思うことがある。
誰しもが子どもの頃には、両手で抱えきれないほどの才能と夢を持っていた。
成長するにつれて現実を知って、気づけば両手に持っていたものは指の隙間から抜けていって。今ではその手に残った最後の細い可能性を、大事に大事に握りしめている。
楽しくないなら、プロデュースに才能がないならやめれば良いのに。そう思いながらも、あの頃の万能感と楽しさが今も色褪せずに生活の一部に残る今、俺は最後の踏ん切りがつかずにいた。
今辞めれば、きっと秦谷さんと過ごす時間の中で、僅かに取り戻せるかつての自分も見失ってしまうだろう。
俺はいつしか家に帰る時、秦谷さんがいることを前提に考えるようになっていた。いない日は、食事もとらずに眠るだけ。
そうして、おおよそ人としての生活感を失いつつあるまたとある日のことだった。
「君には、来月から別のアイドルを担当してもらうことになった」
「そう、ですか」
今度は朝ではなく、定時を過ぎた後の呼び出しだった。
さして興味もなかった。仕事自体ただ生きるために従事するものでしかなくなっていたし、どうせ誰と組んでも結果はあがらず、契約解除となることは目に見えていたから。
淡々とした様子で、社長は続ける。
「今度は、アイドル側から直々の指名だ。君を担当プロデューサーに指名する、とね」
「私をですか? 一体、誰が」
担当アイドルや一部同僚の他に話す相手などいないこの会社で、わざわざ俺をプロデューサーに指名してくるアイドルに心当たりなどあるはずがなかった。
「一番星だよ」
そう言って、社長は視線を俺の目から横にずらした。つられて同じ方を向くと、デスク上に置いてあるカレンダーと目が合う。
日付は、三月五日を指していた。来月は四月。
とくん、と胸が跳ねた。目の前に釣り糸を垂らされたように、甘い誘惑の匂いがした。
心臓の鼓動にあわせるように、呼吸が浅くなる。薄くエアコンが効いているせいだろうか。喉がかわいて、うまく言葉が出てこない。
「現一番星の秦谷美鈴。来月から我が社所属のアイドルとなる。君には、彼女のプロデュースを任せたい」
秦谷さんが、やってくる。そしてまた、俺の担当アイドルになる。
その名前を聞いた瞬間、左手につめたい感触を錯覚した。
嬉しい気持ちは当然ある。心のロウソクに、小さな灯火がついたようだった。
一方で、秦谷さんと俺の現状の話は、未だに全くしていない。腫れ物扱いの俺を見せることは憚られる。彼女は俺といた頃と何も変わらず傲慢なままで、一番星の称号を手にしてきたと言うのに。
横に俺が、いなくても。
「わかりました。ぜひもないお話です。よろしくお願いいたします」
それでも、選択肢はなかった。俺は再び、秦谷美鈴とともに歩く。
かつての自分を取り戻す、最後のチャンスだと思った。手に握った、可能性という最後のか細い糸。
俺は彼女に縋り付くことで、社会での立ち位置を確立しようとしていた。
「だ、そうだ。入ってきたまえ」
社長がそう手を招くと、社長室の扉が開く。
見慣れた制服に身を包んだ、秦谷美鈴が入室した。
当然のように俺の隣にふわりと腰をかけると、改めて社長へと向き直る。
「わたしの願いを聞き入れてくださって、ありがとうございます」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
先ほど社長は、秦谷さんが俺を指名したと言っていた。秦谷さんはプロの舞台でも、相方に俺を選択している。
力不足かもしれない。社会人一年目が何を語るかと言われてしまうかもしれないが、俺はもっとやれると信じていた。彼女にも、もっと良い相方がいるかもしれない。
それでも秦谷美鈴は、俺を選んだ。他の誰でもない、俺を。
「社長にも、後悔はさせませんから。少しだけ、お待ちくださいね」
秦谷さんの視線に気づいて、横に視線を落とす。目が合った。
その瞬間、ぐにゃりと血色の良い唇が狐を描く。
目は笑っていない。近頃見ていなかった──笑顔だけをそのまま無感情の上から貼り付けたような、そんな微笑み。
「わたしの担当は、あなた以外ありえません」
光の灯っていない目。太陽さえも飲み込んでしまいそうな、深い深い、黒。
「また一緒に、のんびりと。高いところからあくびをしましょうね。プロデューサー」
スーツの上から、全身を悪寒が包み込む。
目の前にいるはずの社長の表情は、もう見えなかった。