トレーナーのみなさん、こんにちは。
スズカは物静かな雰囲気を出してるけど、かなり走りに貪欲なイメージ。
午後の日差しを浴びながら、二人のウマ娘がターフを駆ける。
先頭を走るのは、オレンジ色の長い髪を揺らすウマ娘――サイレンススズカ。
その背中を、黒鹿毛の少女が真っ直ぐ追っていた。
「はぁっ!」
キタサンブラックは一歩、また一歩と距離を詰める。
第四コーナー。身体を内へ傾け、そのまま直線へ飛び出した。
ここからだ。
キタサンは腕を大きく振り、さらに速度を上げる。
差は、あと半バ身。
もう少しで並べる。
(届くッ……!)
その瞬間、キタサンは違和感を覚えた。
もう一歩。
もう一歩と強く踏み込む。
それなのに、どうしてだろう。
さっきまで縮まっていたはずの距離が、少しずつ離れていく。
「え……?」
キタサンは目を見開く。
“スズカさんが加速した” 。
そう理解したのは、差が一バ身ほど開いてからだった。
いつ加速したのか分からない。
気付けば、彼女はさらに前へいた。
まるで風が、静かに前へ流れていくように。
(これが……)
思わず笑みが零れる。
(スズカさんの『大逃げ』……!)
圧倒的な爆発力ではない。
誰にも気付かれないほど滑らかに。
そして、気付いた時にはもう追いつけない。
まさに、『異次元』の走りだった。
二人はそのままゴール板を駆け抜け、ゆっくりと速度を落としていく。
「キタちゃん、お疲れ様!」
テイオーがタオルを差し出した。
「ありがとうございます。」
キタサンは軽く汗を拭き、呼吸を整える。
「……やっぱり届きませんでしたっ!」
キタサンは悔しそうに、しかし笑いながら頭を掻く。
「でも、前より食らいつけてたんじゃねぇか?」
「ええ、ちゃんと伸びてるわ。」
ウオッカとスカーレットが外埒の柵に寄りかかりながら言う。
「タイムも安定しています。この調子ですわ。」
「はい!」
マックイーンの激励に、元気よく返事をするキタサン。その様子を見ていたテイオーがニヤリと笑う。
「皐月賞まであと一週間ですが、自信の程は?」
マイクを持つように、拳をキタサンに向ける。
「緊張してます!でも、それ以上に楽しみです!」
「おーおー、いい顔になったじゃねぇか。」
ゴールドシップが彼女の背中を叩く。
そんなキタサンの言葉に、沖野も穏やかに頷いた。
「この一週間は仕上げだ。無理に何かを変えるつもりはない。」
「今まで積み重ねてきたものを信じよう。」
「はい!」
キタサンは力強く頷いた。
――その時だった。
「お願いします!」
一人のウマ娘が、一直線に駆け寄ってくる。
真紅色の体操服。
黒鹿毛の耳と尻尾。
見覚えのない生徒かと思われた、その正体は――
「……ロードくん!?」
「……ルベウス君!?」
突然のロード襲来に、スピカの面々は驚きの声を上げた。彼の服装が黒ジャージではなく、トレセン学園の体操服だったことも含めて。
だが、キタサンはぱっと表情を明るくする。2日ぶりとは言え、ロードに会えたことが嬉しかった。
しかし。
ロードはキタサンには目もくれず――スズカに視線を向けた。
呼吸を整えながら、真っ直ぐ彼女を見つめる。そして――
「もう一度……もう一度、今の走りを見せてください!」
突然のお願いに、その場の全員が目を丸くした。
スズカは驚いたように瞬きをすると、隣に立つ沖野トレーナーへ視線を向ける。
沖野は小さく頷き、ロードへ向き直った。
「まずは、理由を聞かせてくれ。」
純粋な疑問。
ロードは迷うことなく答えた。
「俺の走りと似たものを感じたんです。」
その一言に、スズカの表情がわずかに変わる。
「似たもの……?」
「はい。」
ロードは頷く。
「でも……何かが違う。あなたは俺に無いものを持っている。」
「だから、もう一度見たいんです。俺が五年後もターフを走るために。」
真っ直ぐな瞳だった。
沖野はその目をしばらく見つめ、小さく笑う。
「なるほど、フォーム改造ってことか。」
「はい。」
沖野はスズカへ視線を向ける。
「スズカ、お前はどうする?」
スズカは静かにロードを見た。
ターフを駆ける彼の走りが、脳裏をよぎる。
荒々しく地面を蹴り、一瞬で景色を置き去りにする加速。
恐ろしく、美しい走りだった。
そして何より、走り方はまるで違うのに、自分と同じ景色を見ている気がした。
ロードは――誰よりも速く。
スズカは――誰よりも前へ。
目指すものは少し違う。
でも。
その先にある景色は、きっと同じ。
―― “この場所” だけは、譲らない。
その強い意思が、互いを引き寄せたのだとしたら。
スズカは柔らかく微笑んだ。
「私で良ければ、喜んで。」
「ありがとうございます!」
ロードは深く頭を下げた。
「それと……走っている様子を撮ってもいいですか?」
「ええ、いいわよ。」
やがて二人は並んで歩き始めた。
ロードは何かを尋ね、スズカは短く答える。
その穏やかなやり取りが午後のターフへ溶けていく。
そんな二人の背中を、キタサンはぽかんと見送っていた。
(……ロードくん、すっごく真剣な顔してる。)
あんな表情は、河川敷で二人きりで話した時以来かもしれない。
その一方で。
スズカの横顔にも、小さな笑みが浮かんでいた。
(……あれ?)
普段から穏やかな先輩ではある。
でも。
今の笑顔は、どこか少しだけ違う気がした。
(もしかして……。)
胸の奥が、もやっとする。
キタサンは慌てて首を横へ振った。
「ま、そんな時もあるぜ。」
「ひゃあっ!?」
突然、肩へ腕が回される。
振り向くと、ゴールドシップがニヤニヤ笑っていた。
「ゴ、ゴールドシップさん!?」
「元気出せキタサン。“初恋” ってのはなかなか実らねぇもんだ。」
「なッ、何の話ですか!?」
そこへ、テイオーも割って入る。
「まだ間に合うよ!恋はダービー、競争社会だよ!」
「そ……そんなのじゃないですっ!」
「まぁ、切り替えていこうぜ。」
ウオッカまでもが腕を組みながら頷いた。
「だから違いますってばぁ!」
必死に否定するキタサン。
そんな三人を見て、マックイーンとスカーレットは呆れたようにため息をついた。
「あなたたち……キタサンさんが困っていますわ。」
「すぐ揶揄うんだから。」
真面目な二人は他人のプライベートには距離を置く。
「少しは加減なさってくださいませ。」
「「えー。」」
声を揃えるゴルシとテイオー。ウオッカは肩をすくめて笑っていた。
そんな賑やかなやり取りの隣で。
「………。」
スペシャルウィークだけは笑っていなかった。
歩いていく二人の背中。
そして。
ロードへ向けられる、スズカの柔らかな笑顔。
(……スズカさんって、あんな風に笑うんだ。)
スペは少しだけ目を丸くする。
スズカは、いつも優しく微笑むウマ娘だ。
でも今の笑顔はどこか違う。
心から楽しそうで、まるで新しい何かに出会えたような笑顔だった。
「………。」
ロードと並んで歩く、その後ろ姿を見つめる。
(どんな話をしてるんだろう。)
彼女を笑顔にする話題が、少しだけ気になった。
・・・・・
「そう言えば、名前を聞いてませんでした。」
歩きながら、ロードが少し申し訳なさそうに言った。
「言われてみれば、そうね。」
スズカは小さく微笑む。
彼女は足を止め、ロードに向き合った。
「サイレンススズカ。スズカでいいわ。」
「ルベウスロードです。」
ロードは軽く頭を下げる。
「よろしくお願いします。」
「ええ、よろしく。」
短い挨拶。
けれど、ぎこちなさはなかった。
「では……スズカさんは、あのコーナーの途中からスタートしてください。」
「俺が立っている場所を通り過ぎる少し前から加速するイメージで。」
「分かったわ。」
そう言って二人は一度分かれる。
スズカは第四コーナーへ、ロードはライツの下へ向かった。
「ライツ博士、タブレットを貸してもらってもいいですか。」
「もちろん、自由に使ってくれ。」
ライツは縦置きスタンドからタブレットを取り外し、ロードに手渡す。
ロードはカメラのアプリを開き、ビデオモードに切り替えた。
「……ロード君、行く前に聞いてもいいかな。」
ふと、ライツがロードに声をかけた。
「多くのウマ娘がいる中で、サイレンススズカを選んだ理由はなんだい?」
ロードは少しだけ考え、静かに口を開いた。
「――スズカさんの加速が、あまりにも滑らかだったからです。」
その答えに、ライツはピクリと耳を揺らした。
彼女は黙って話の続きを待つ。
「俺は左足で一気に力を解放して加速します。だから、どうしても左足に負荷が集中する。」
「でもスズカさんは違いました。」
「俺と同じように力を使っているはずなのに、それを感じさせない。」
ロードはライツの目を真っ直ぐに見た。
「俺が学ぶべきなのは、その使い方なんじゃないかと思ったんです。」
それは、ライツの考えた『右足に役割を与える走り』を正面から否定する言葉。
彼女は少し俯き、小さく息を吐いた。
「……私の考えは、君には合わなかったか。」
ライツは穏やかな口調で尋ねた。
責める響きはない。
ただ、ロードが何を見つけたのかを知りたい。
そんな問いだった。
ロードはタブレットを見つめる。
少しだけ唇を結び、言葉を探す。
「………。」
沈黙が流れる。
やがて、小さく息を吸い込み――
「――はい。」
短く、それでもはっきりと答えた。
心苦しかった。
それでも、この答えだけは偽れなかった。
しばらくの沈黙が流れる。
ライツは静かに目を伏せ、再び小さく息を吐いた。
「……ロード君。」
その声は、不思議なほど穏やかだった。
ロードは思わず顔を上げる。
「研究とは、誰かの答えを正しいと証明することじゃない。」
「より良い答えに辿り着くことだ。」
ライツはゆっくりとロードの方へ向き直る。
その表情に、落胆はなかった。
むしろ、どこか誇らしささえ滲んでいる。
「だから私は、君が私の仮説を捨てたことを少しも残念だとは思わない。」
少しだけ、ロードへ近づく。
「むしろ、その先を見つけてくれたことが嬉しい。」
ロードは思わず目を見開いた。
否定されると思っていた。
少なくとも、落胆はさせてしまうと。
だが、ライツの表情にはそんな色はどこにもない。
そこにあったのは、一人の研究者としての喜びだけだった。
「私が示したのは、一つの可能性に過ぎない。」
「そして君は、その先にある新しい可能性を見つけようとしている。」
ライツは優しく頷く。
「ならば私は、それを全力で応援しよう。」
ロードは言葉を失った。
胸の奥が熱くなる。
自分の答えを否定されなかったこと。
それどころか、背中を押してもらえたこと。
その事実が、何よりも嬉しかった。
何かを伝えなければ。
そう思うのに、感謝も決意も、どんな言葉も今の気持ちには足りない気がした。
「……ライツ博士、俺は――」
言葉が続かない。
何を伝えればいいのか。
感謝なのか、決意なのか。
自分でも分からなかった。
そんなロードを見て、ライツは小さく笑う。
「……少し話し過ぎたね。」
そう言って、第四コーナーで待つスズカへ視線を向けた。
「彼女を待たせてはいけない。」
ロードもつられるように顔を上げる。
ターフの向こうでは、スズカが静かにスタートの準備をしていた。
「今は、君の仮説を確かめよう。」
「……はい!」
・・・・・
ロードは手を上げ、第三と第四コーナーの間に立つスズカに合図を送る。
それに気づいたスズカもまた手を上げ、合図の返答を送る。
録画ボタンをタップし、スズカの姿を捉える。
(……見るのは速さじゃない。加速だ。)
心の中で呟くと同時に、スズカは駆け出した。
一定のリズム。
無駄のないフォーム。
コーナーを抜け、直線に入る。
(まだだ……。)
姿勢。
足の回転。
腕の振り。
どれも切り取っても美しい。だが、自分が知りたいのはそこではない。
ロードは画面越しではなく、その走りを肉眼で見つめた。
その瞬間、景色が静かに動く。
(来た……!)
スズカが、加速した。
ロードは確かにそう認識した。
だが。
腕の振りは変わらない。
姿勢もほとんど変わらない。
足の回転は速くなっているが、それは加速した”結果”に過ぎない。
つまるところ――
(分からなかった……!)
加速の始まりが見えなかった。
気付いた時には、彼女はもう一段上の速度へ乗っていた。
ロードは無言のまま録画を止め、スズカへ視線を向ける。
ゴールした彼女は、空を見上げていた。
その表情はとても気持ちよさそうで、走ることそのものを楽しんでいるように見えた。
そんな彼女に、ロードは拳を強く握りーー笑った。
(絶対に、見つけてみせる……!)
“分からない”では終わらせない。そんな決意を、ロードは胸に刻むのだった。
・・・・・
ロードはタブレットをライツへ返し、ゴール近くのスズカの下へ駆け寄る。
「スズカさん。」
スズカは振り返り、穏やかに微笑んだ。
「何か見つかった?」
ロードは少しだけ考え、首を横に振る。
「……いいえ。」
「一度見ただけでは、分かりませんでした。」
悔しそうな表情。
だが、その目は決して曇っていなかった。
「でも。」
ロードは真っ直ぐスズカを見た。
「一つだけ、確信できたことがあります。」
スズカは静かに耳を傾ける。
「俺が探している答えは、間違いなくスズカさんの走りの中にある。」
「だからーーもう少しだけ、追いかけさせてください。」
スズカは一瞬だけ目を丸くした。
そして、ふっと微笑む。
「それはいつか、私を追い越すという意味かしら?」
ロードはきょとんとする。
そんな発想は、まるでなかった。
「……そういう捉え方もあるんですね。」
思わず笑みがこぼれる。
スズカも優しく笑った。
「追いかけられることには慣れてるわ。」
その瞳が、まっすぐロードを見つめる。
「でも。」
一歩だけ前へ出る。
「先頭の景色は、絶対に譲らない。」
穏やかな口調。
なのに、その言葉には圧倒的な自信が宿っていた。
ロードは少し驚いたあと、小さく笑う。
「……そういうことにします。」
その笑みは挑発ではない。
どこか嬉しそうだった。
「その時の俺は、他の誰よりも速くなっています。」
ロードもスズカを真っ直ぐ見返す。
そして、二人は静かに笑い合う。
交わした言葉は少ない。
それでも。
互いの”譲れないもの”だけは、はっきりと伝わっていた。
「ありがとうございました。」
ロードは改めて頭を下げる。
「こちらこそ。」
スズカは穏やかに微笑んだ。
「次は、一緒に走りましょう。」
「はい。」
二人は軽く会釈を交わし、それぞれ歩き出そうとする。
と、その時。
「あ、そうだ。ロード君。」
スズカが思い出したように振り返り、ロードを呼び止めた。
ロードは足を止め、スズカへ顔を向ける。
「トレーニングが終わった後にでも、キタさんに挨拶してあげて。」
「…………なぜに?」
ロードの顔は、本気で分からないという顔だった。
「さっきは話せなかったでしょう?」
「それは……そうですけど……。」
ロードは少し考える。
「でも、キタサンも忙しいでしょうし。俺のことで時間を取らせるのも悪いですから。」
その返事を聞いて、スズカは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そして、ふっと目を細める。
「……本当に、走ることが好きなのね。」
「え?」
その一言に、ロードは再びきょとんとする。
スズカは小さく微笑むだけで、それ以上は何も説明しなかった。
少しだけ間を置いて、静かに口を開く。
「キタさんは来週、初めてGⅠレースを走るの。」
「皐月賞。クラシック三冠の初戦よ。」
「……そうなんですか。」
「ええ。」
スズカは穏やかに頷く。
「初めてのG I レースは特別だから、不安とか期待とか、たくさんの気持ちがあると思う。
「だから……ロード君。」
「少しだけでも、キタさんとお話してあげて。」
その言葉には、不思議な重みがあった。
ロードは何も言わず、スズカの横顔を見つめる。
彼女もまた、幾度となく大舞台を駆け抜けてきたウマ娘。その一言一言が経験から紡がれていることは、ロードにも伝わっていた。
・・・・・
スズカと別れたロードはライツと共に研究室に戻った。パソコンにタブレットを接続し、モニターに先ほど撮った映像を映す。
再生。
停止。
巻き戻し。
再び再生。
スズカの姿が画面の中を滑るように駆けていく。
「……ここか?」
ちょうど速度が変わったように見えた瞬間。
だが、一コマずつ送り直しても答えは見つからない。
足が地面へ触れる。
蹴り出す。
身体が前へ進む。
どれも、ごく自然な動きだった。
「違う……。」
ロードは小さく呟く。
もう一度巻き戻す。
今度は左足だけを追う。
一コマ。
また一コマ。
指先が画面を滑っていく。
「……ここでもない。」
踏み込んでいる。
それは間違いない。
だが。
(強く踏んでいない……?)
ロードは眉をひそめる。
(いや、そんなはずない。)
速く走るには、強い踏み込みが必要だ。
それは、自分が走り続けて辿り着いた答え。
それを疑うことは、自分の走りそのものを疑うことに等しい。
ならば。
スズカもどこかで、必ず強く踏み込んでいる。
そうでなければ説明がつかない。
「……どこだ。」
画面を止める。
拡大する。
また一コマ送る。
何度見ても。
何度止めても。
その一歩だけが見つからない。
「…………。」
ロードは深く息を吐き、背もたれへ身体を預けた。
スズカの走りは、確かにそこに映っている。
なのに。
自分が求める答えだけが、映っていなかった。
と、その時。研究室にふわりとコーヒーの香りが漂う。
「探し物は見つからないかい?」
振り返ると、ライツが二つのマグカップを手に立っていた。
一つをロードの机へ静かに置く。
淹れられていたのはミルクココアだった。
「ありがとうございます。」
ロードは礼を言うものの、視線はすぐにモニターへ戻る。
「……何度見ても分からないんです。」
「加速は間違いなくしています。でも、そのきっかけになる一歩が見つからない。」
ライツは隣へ立ち、映像へ目を向ける。
しばらく無言で眺めたあと、小さく口を開いた。
「ロード君。」
「はい。」
「君は今、何を探している?」
質問の意図が読めず僅かに首を傾げるが、ロードはすぐに答えた。
「加速のための第一歩です。」
ライツは小さく頷く。
「なるほど。」
それだけ言うと、コーヒーを一口飲んだ。
「研究ではね、答えが見つからない時ほど、自分が何を前提に考えているのかを疑うことがある。」
ロードは眉をひそめる。
「前提……。」
「君は ”あるはずだ” と思って探している。」
ライツは穏やかに微笑む。
「だがそれは、本当に ”ある” のだろうか?」
「………。」
ロードはもう一度、モニターへ視線を向けた。
止まった映像の中で、スズカは静かに前を見据えている。
(俺は。)
今まで何を見ていた?
何を信じていた?
何を “当たり前” だと思っていた?
(強く踏み込むから、速く走れる。)
それは、自分が何年もかけて辿り着いた答え。
だから疑わなかった。
いや……疑おうともしなかった。
ロードはゆっくりと目を閉じる。
ライツと初めて出会った日のことが、ふと脳裏をよぎる。
“生まれ変わる”。
そう誓った。
だが、それはただ走り方を変えることじゃない。
考え方も生まれ変わらなければならない。
だとしたら。
(俺はまだ、生まれ変われていない。)
答えを探しているつもりで、結局は自分の答えの中だけを探していた。
ロードは目を開き、画面の中のスズカをもう一度見つめる。
(一つの考えに、囚われるな。)
それは誰かの言葉ではない。
自分自身へ向けた、新しい誓いだった。
・・・・・
ロードはゆっくりとモニターから目を離す。
結局、何度見返しても答えは見つからなかった。それでも、不思議と焦りはなかった。
今日一日で得たものは、決して少なくない。
「ロード君。」
「はい。」
ライツに呼ばれ、ロードは彼女へと顔を向ける。
「動画のデータを君の端末へ送っておくよ。家でも、何度でも見返せるようにね。」
「ありがとうございます。」
ロードはスマートフォンを取り出す。
間もなく通知音が鳴り、スズカの走りを収めた動画が届いた。
「これで、いつでも研究できますね。」
ロードは小さく笑う。
ライツも穏やかに笑みを返した。
「答えは急いで見つけるものじゃない。」
「今日見つからなかったものは、明日見つかるかもしれないし、一週間後かもしれない。」
「大切なのは、考えることをやめないことだ。」
ロードは静かに頷く。
今日だけで、自分の常識はいくつも揺さぶられた。
“右足を使う”という仮説。
スズカの滑らかな加速。
そして――
自分の前提すら、疑うという考え方。
どれも昨日までの自分にはなかったものだった。
「ライツ博士。」
ロードは真っ直ぐ彼女を見つめる。
「俺、必ず生まれ変わってみせます。」
その言葉に迷いはない。
ライツは静かに目を細め、優しく頷いた。
「楽しみにしているよ。」
「君だけの答えへ辿り着く、その日をね。」
ロードは深く一礼すると、研究室を後にした。
夕暮れの廊下を歩く。
校舎にはトレーニングを終えた生徒たちの笑い声が響き、窓の外では茜色の空が静かに広がっていた。
(腹減ったし、早く帰ろう。)
そう思った、その時だった。
『トレーニングが終わった後にでも、キタさんに挨拶してあげて。』
ふと、スズカの言葉が脳裏をよぎる。
「………。」
ロードは立ち止まる。
少しの間考えた後、生徒玄関に向かうのだった。
・・・・・
「それじゃ、今日の鍵担当はキタサンなー。」
ゴールドシップが鞄を肩へ担ぎ、部室の扉へ向かう。
「戸締まり頼んだぞー。」
「お願いしますわ。」
マックイーンも荷物を持って立ち上がる。
「また明日!」
テイオーが元気よく手を振る。
「はい! お疲れ様でした!」
キタサンは笑顔で頭を下げ、スピカのみんなを見送った。
部室の扉が閉まり、賑やかだった室内は一気に静けさを取り戻す。
窓の外では夕陽が西へ傾き、オレンジ色の光が床へ長く差し込んでいた。
「……よし。」
小さく呟き、キタサンは部屋の片付けを始める。
机の上を整理し、出しっぱなしになっていた丸椅子を机へ戻す。
窓が少しだけ開いていたことに気づき、そっと閉める。
ガラス越しには、夕焼け色に染まったターフが見えていた。
「あと、一週間かぁ……。」
思わず漏れた独り言。
皐月賞。
初めて挑むG1レース。
胸が高鳴る。
もちろん、不安もある。
それでも今は、その全てをひっくるめて楽しみだった。
(ちゃんと仕上がってきてる。)
今日の並走も悪くなかった。
まだスズカには届かない。
でも、以前より確かに差は縮まっている。
沖野トレーナーの言葉を思い出す。
『今まで積み重ねてきたものを信じよう。』
「……うん。」
自然と頷きがこぼれた。
その時、不意に昼間の出来事が脳裏をよぎる。
真紅色の体操服。
息を切らしながら駆け寄ってきたロード。
『もう一度、今の走りを見せてください!』
思わず笑みがこぼれる。
「すごい必死だったなぁ。」
……でも。
一言も話せなかった。
自分へ声を掛けることもなく、ロードはスズカと一緒に行ってしまった。
「……ま、いっか。」
少しだけ寂しかった。
けれど、それ以上に。
(あんな真剣な顔、初めて見たな。)
ロードが何かを掴もうともがいていることだけは、よく分かった。
「私も、負けてられない!」
両頬を軽く叩き、気持ちを切り替える。
部室をもう一度見回し、忘れ物がないことを確認する。
「よし!」
照明を消し、部室の外へ出る。
カチャン。
鍵を閉める音が、静かな校舎に反射した。
手の中の鍵を握り、振り返る。
刹那、キタサンは目を見開いた。
そこには、一人のウマ娘の姿。
夕陽を背にして立つその姿は逆光で表情までは見えない。
だが、黒鹿毛の髪と尻尾が揺れた瞬間、誰なのかはすぐに分かった。
「ロードくん……。」
「うん。お疲れ様、キタサン。」
驚きと戸惑いが入り混じる。
なぜここにいるのか、全く分からない。
それなのに、胸の奥が少しだけ温かくなるのを、キタサンは止められなかった。
つづく
ゴルシも「その固定観念 木っ端微塵に」って歌ってますからね。
頑張れ、ロード君。
では、また次回。