どうしても勉強に集中できなかったので、爆速で書き上げました。
ライツの研究室に戻ってきたロードは机へ荷物を置き、スマートフォンを取り出した。
ライツもノートパソコンを開き、電源をつける。
「……本当に、そう言ったのかい?」
キーボードを操作しながらライツが尋ねた。
「はい。」
「誰でもいいから、スズカさんとの走りを比較してみろって……。」
「ふむ……。」
ライツはマウスを動かしながら、小さく唸った。
モニターにはサイレンススズカを始め、トウカイテイオーやメジロマックイーン、スペシャルウィークなど、多くのレースで活躍したウマ娘たちの映像が並が並ぶ。
ロードのスマートフォンにも同じように、次々と映像が表示されていった。
ライツはいくつかの映像を見比べると、やがて腕を組んだ。
「しかし……。」
「比較対象としては、条件が揃っていないな。」
ロードが顔を上げる。
「条件、ですか?」
「……ああ、そうか。君はレース戦術そのものを知らないんだったね。」
ロードは首を傾げる。
するとライツは小さく手招きをして、モニターに表示されたレース映像を指差した。
「レースには、大きく四つの基本戦術がある。」
「スタートから先頭を走り、自分のペースでレースを作る『逃げ』。」
「先頭集団で機を窺う『先行』。」
「中団から終盤で勝負を仕掛ける『差し』。」
「後方で息を顰め、一気に前に出る『追込』の四つだ。」
一本ずつ指を伸ばしながら、ロードにも分かるよう簡潔に説明した。
「サイレンススズカは少し特徴的ではあるが、『逃げ』に分類される。」
ライツはスズカの映像を再生する。
スタート直後から先頭へ立ち、そのまま誰にも前を譲らず走り続ける。
「一方で、こちらは……」
テイオーの映像へ切り替わる。彼女が走る位置は先頭ではなく、少し後ろの先頭集団。
「レースによって位置取りが変わる。」
続いてマックイーン、スペシャルウィークの映像を流す。彼女たちもテイオー同様に、先頭集団からの加速だった。
「つまり、戦術が異なる者同士を比較すると、走法以外の要素まで混ざってしまうんだ。」
研究室に静寂が訪れる。
(……じゃあ、何を比較するんだ?)
ロードは心の中で呟いた。
沖野トレーナーが言ったことには必ず意味がある。あの場で適当言うような人じゃない。
ライツは、ロードを落ち着かせるかのように言う。
「些細なことで構わない。気づいたことは全て書き出していこう。」
「二人なら、一人では見落とす違和感も拾えるはずだ。」
・・・・・
気がつけば、映像を見始めてから一時間半ほどが過ぎていた。
ホワイトボードには各ウマ娘の踏み込み方や、加速する際の動作など――思いつく限りの項目が並んでいる。
だが、そのどれもが決定打にはならなかった。
(なかなか難しいアドバイスをもらったものだ……。)
ライツは小さく息を吐く。
彼女は学者であり、トレーナーではない。対象を比較するのは、全員の条件を揃えた時のみだった。
故に、条件の揃わないウマ娘たちをどのように比較すればいいのかもわからなかった。
そして何よりーー
(同じ戦術のウマ娘とも噛み合わない……。)
スズカの戦術は逃げではなく『大逃げ』だ。
レース序盤から圧倒的なペースで後続を突き放し、そのまま誰にも影を踏ませず逃げ切る。
こんな走りをするウマ娘は、後にも先にも彼女しかいないだろう。
「……ロード君、少し休憩しようか。」
ライツがパソコンを閉じ、ロードに言った。
「そうですね……。」
彼も小さく息を吐き、背伸びをする。その表情には、確かに疲労が表れていた。
二人は購買を出て食堂へ向かう。昼間の賑わいは無く、穏やかな時間が流れていた。
窓際の席に向かい合って座る。机の上には購買で買ってきたジュース二本、そして板チョコが一枚。
ライツは包装を開き、板チョコを半分に折った。双方を見比べて大きい方をロードに渡す。
「ありがとうございます。」
ロードは感謝を述べると早速一口。
パキッと音が鳴り、口の中には心地よい甘さがゆっくりと広がる。
それでも彼の頭の中では、先ほどまで見ていたレース映像が何度も繰り返されていた。
ロードはチョコを口の中で転がしながら、窓の外へ視線を向ける。
そして眉を寄せ、少し俯いた。
「………。」
その様子に気づいたライツが顔を上げる。
「何か、気になることがあるのかい?」
「……うまく言えないんですけど。」
そんな前置きを挟み、話し始める。
「テイオーさんやマックイーンさんたちの走りは、『全力』って感じがするんです。」
一度言葉を切る。言葉の意味がよく分からず、ライツは首を傾げた。
「……でも、スズカさんは違う。」
ロードは手元の板チョコを見つめながら続ける。
「ずっと先頭を走ってるのに、全然苦しそうに見えないというか。」
「……なんか、すごく涼しそうなんですよね。」
ロードの一言に、ライツはチョコを口へ運ぶ手を止めた。
「それだけのスタミナがあるということだろう。」
「でなければ、あのペースを維持したまま最後まで走ることはできない。」
「………。」
ロードは返事をしない。
手元の板チョコを見つめながら、何かを考えている。
「……納得いっていないようだね。」
「はい。」
ロードは迷いなく返事をした。
「スタミナがあるのは分かるんです。でも、それだけじゃない気がして……。」
ゆっくりと言葉を選ぶように話す。
「ここにいるウマ娘さんたちはみんな一流です。スタミナだって、誰にも負けないくらいあると思います。」
「それでも走りを見ていると……『勝負している』って感じがするんです。」
「勝ちたいって気持ちが、そのまま走りに出ているというか……。」
その時、ある日の光景が脳裏をよぎる。
静かな口調で、それでいて揺るぎない意志を宿した声。
――先頭の景色は、絶対に譲らない。
あの時は、勝利への執念なのだと思っていた。
けれど、今なら少し違って見える。
「……スズカさんは “勝つため” じゃなくて、“先頭の景色を見るため” に走ってるように思うんです。」
その言葉を皮切りに、二人の空間に長い静寂が訪れる。
ロードは「あ」と呟くと、静かに俯いた。
「へ、変ですよね。スズカさんに申し訳ないです……。」
今の彼の言葉は、あたかもスズカが勝利を求めていないかのような言い方だった。本人にしか分からない想いを、自分の解釈だけで語ってしまった。
だが、ライツは――
「いや……興味深い仮説だ。」
「……えっ?」
真剣に考え始めたライツに、ロードは目を丸くした。
「君が言うように、“勝ちたい” と結果を強く意識すれば無意識に力み、動作効率を下げる要因にも十分なり得る。」
「仮に、スズカの根底にあるのものが “先頭の景色を見たい” なのだとしたら、それは結果ではなく目的だ。」
「その思考の違いが、身体の使い方へ影響している可能性はある。」
「じゃあ……!いや、でも……。」
ロードはすぐに首を振った。
「俺も……勝つために走ってるわけじゃありません。」
「 “速く走りたい” 、ただそれだけです。」
「なのに、俺はあんな走りができない……。」
ロードは前髪をかき上げた。
その一言で、先ほどの仮説だけでは説明がつかなくなったからだ。
テーブルに置かれたスマートフォンには、スズカがターフを駆ける映像が流れている。
と、その時。
「……待った。」
ライツの静かな声が、沈黙を破った。
「君の仮説で、一つ気づいたことがある。」
「気づいたこと……ですか?」
「ああ。」
ライツは映像を巻き戻し、スズカの横顔で停止させる。
「君は先ほど『彼女は涼しそうだ』と言った。それはおそらく、単なる表情の話ではない。」
ライツは画面を指差し、言った。
「呼吸だ。」
「……呼吸?」
「正確には、呼吸そのものではないがね。」
ロードは言っていることの意味が分からず、首を傾げる。
それを見たライツはニヤリと笑い、説明を始める。
「呼吸は、その時の身体の状態が最も表れやすい動きなんだ。」
「激しい運動をするほど呼吸は速く浅いものなるし、効率よく身体を使えている時ほど呼吸のリズムは崩れにくい。」
確かに、それはライツの言う通りだ。
だが、ここでロードの脳内にある疑問が浮かぶ。
「でも、それなら……。」
「博士がさっき言った、スタミナの問題じゃないんですか?」
その問いに、ライツは静かに首を横へ振った。
「言っただろう、正確には違うと。」
「今話している呼吸は、速く走るための “技術” ではない。身体から余計な力を抜くための “手段” だ。」
「!」
「息を吐けば身体は自然と脱力する。その状態で左足を踏み出し、必要な瞬間に力を加える。」
「そしてその一連の動きを、無意識で行うんだ。」
ロードは思わず目を見開いた。
「無意識で……?」
「もちろん、今は意識して構わない。」
「呼吸も、左足の使い方も、一つ一つ確認しながら身体へ覚え込ませればいい。」
「だが、それは練習の話であり、レースは別だ。」
ライツは人差し指を立てる。
「位置取り、他のウマ娘との駆け引き、コース取り、仕掛けるタイミング……考えるべきことは山ほどある。」
「その度に『左足』『呼吸』へ意識を向けていては、周囲の変化を見失う。」
ロードは黙って耳を傾ける。
思わず唾を飲み込むと、「ゴクリ」という音がやけに大きく響いた。
「だからこそ、練習で身体に刻み込むんだ。」
「はい……!」
「そして、忘れるな。」
ライツはロードをまっすぐ見据える。
「君が本当に意識しなければならないのは――」
「 “速く走る” という目的だけだ。」
ロードは静かに頷く。
頭の中で散らばっていた仮説が、一つの線として繋がっていく。
次に試すべきことは、もう決まっていた。
・・・・・
ロードが新たな目標を見つけてから、数日が過ぎた。
ライツの理論を基にしたフォーム改善は、試行錯誤の連続だった。それでも、身体の力を抜く感覚は少しずつ掴め始めている。
今日もトレセン学園のトレーニング場で走り終えたロードは、額に浮かんだ汗を拭いながら呼吸を整えていた。
「お疲れ、ルベウス。」
聞き慣れた声に振り返ると、笑顔の沖野トレーナーが立っていた。
「トレーナーさん。どうしたんですか?」
「ちょいと話があってな。」
沖野は腕を組み、にやりと笑う。
「今度の日曜日、キタサンの皐月賞があるのは知ってるだろ? 良かったら一緒に見に行かないか?」
皐月賞。
その言葉に、ロードの耳が揺れた。
ロードはあの日話したように、キタサンが勝つと信じている。しかし、気にならないと言えば嘘になる。
だが、ロードの視線は自然とターフへ向いた。
――走りたい。
今は一分一秒でも多く身体を動かしたい。
ようやく見つけた目標に近づくためにも、この時間を無駄にはしたくなかった。
「……すみません。」
少し申し訳なさそうに口を開く。
「できれば、その日はトレーニングを――」
「行くべきだと思うぞ、ロード君。」
その言葉を遮るように、静かな声が響く。
声の主はライツだった。
「今の君に必要なのは、走ることだけではない。」
ライツはロードの隣まで来ると、穏やかな表情で続けた。
「トップレベルのレースをその目で見られるんだ。なかなか無いチャンスだぞ。」
「……映像なら、いつでも見られます。」
「そうだね。だが、映像では伝わらないものもある。」
ライツは即座に答えた。
「会場の空気、観客の熱気、レース前の緊張感、そして――勝負の舞台に立つウマ娘たちの表情。」
一拍置いて、ロードの目をまっすぐ見つめる。
「それらは、現地でしか学べない。」
「………。」
「君のためにもなるはずだよ。」
その一言に、ロードはしばらく考え込む。
走りたい気持ちは変わらない。
だが、それ以上に――ライツの言葉には、これまで何度も自分を前へ進ませてくれた重みがあった。
ロードは小さく息を吐くと、沖野へ向き直る。
「……分かりました。」
そして、静かに頷く。
「トレーナーさん、お願いします。」
「おう、任せろ!」
こうしてロードは、生まれて初めてレース場へ向かうことになったのだった。
・・・・・
チームスピカと共にロードがやって来たのは、数々の名勝負が繰り広げられてきたレースの舞台――中山レース場。
帽子のバイザーを少し持ち上げ、巨大なスタンドを見上げたロードは思わず息を呑む。
「ここが、レース場……。」
テレビや映像では何度も見てきた舞台。
それでも、実際に目の前へ立つと、その存在感はまるで別物だった。
大勢の観客が行き交い、あちこちから聞こえる歓声やアナウンス。
レースはまだ始まっていないというのに、会場全体が熱気を帯びていのが伝わって来た。
「にししっ! 中の方がもっとすごいんだよ!」
隣で得意げに胸を張るテイオーが笑う。
「ファンファーレが鳴った瞬間なんて、鳥肌ものだから!」
ロードは再びスタンドを見上げる。
ここで、数え切れないほどの夢が叶い、そして散っていったのだろう。
そんな場所へ、キタサンは今から挑む。
「それじゃあ、そろそろ行くか。」
「はい!」
沖野がキタサンに声をかけて、彼女は元気よく返事をした。
いつもと変わらない明るい笑顔。
しかし、その瞳には大舞台へ挑む者だけが持つ静かな覚悟が宿っている。
「一着だぞ、キタサン!」
「負けたらバンジージャンプの刑な!」
「バカ!余計なプレッシャーかけてどーするのよ!」
「キタサンらしく走ってきてね!」
「楽しんできてください。」
「いつも通りで大丈夫ですよ!」
「キタサンなら、必ず勝てるわ。」
それぞれの言葉に、キタサンは何度も笑顔で頷いた。
「ありがとうございます!」
やがて全員の視線が、一人の少年へ集まる。
「さぁ、ロード君は?」
テイオーがどこかニヤけながら問いかける。その言葉に、キタサンは少しだけ肩を跳ねさせた。
ロードは少しだけ考え、静かに口を開いた。
「……信じてる。」
たった、それだけ。
勝てとも、頑張れとも言わなかった。
一瞬だけ、キタサンの目が大きく見開かれる。
だが次の瞬間には、いつもの太陽のような笑顔が戻っていた。
「うんっ!」
その一言だけで十分だった。
「行ってきます!」
深く一礼すると、キタサンは沖野と共に選手控え室へ向かっていく。
その背中を、ロードたちは静かに見送った。
今日、このターフでどんな結末が待っているのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
・・・・・
パドックでキタサンのパフォーマンスを見届けたロードたちは急いで会場へ向かった。
すでにスタンドは大勢の観客で埋め尽くされ、レース開始を今か今かと待ちわびる熱気に包まれている。
何とか最前列を確保した一行は、眼前に広がる緑のターフを見つめた。
天候は快晴。雲ひとつない青空の下、芝は陽の光を浴びて鮮やかな緑色に輝いている。
まさに、絶好のレース日和だった。
少し振り返れば、スタンドを埋め尽くす観客。誰もがこの一戦を待ち望んでいる。
ざわめきは途切れることなく、耳に届く歓声や話し声が自然と鼓動を速めていく。
(……すごい。)
映像では何度も見た景色。
だが、その場に立って初めて分かる。
この熱気も、この緊張感も、この空気も、画面越しでは決して伝わらない。
ロードは無意識のうちに拳を握っていた。
「どうですか? 初めてのレース場は。」
ふと、隣に立っていたマックイーンが尋ねた。
ロードは数秒言葉を整理し、答える。
「……まだ始まってもいないのに、こんなにも熱いんですね。」
「ええ。」
マックイーンは優雅に頷く。
「ですが、まだ序章ですわ。」
「……?」
ロードが首を傾げた、その時だった。
『出走ウマ娘の入場です。』
場内アナウンスが響く。
それを合図にしたかのように、スタンドの熱気が一段と増した。
歓声は大きくなり、あちこちから出走するウマ娘たちの名前が飛び交う。
ロードは自然とターフへ視線を向けた。
一人、また一人と、出走ウマ娘たちが姿を現す。
それぞれが異なる衣装を身にまとい、堂々と歩みを進めていく。
勝負服。
G Iレースに挑むウマ娘だけに許された特別な衣装だと言うことは、ロードも薄らと知っていた。
だが――。
「………。」
ロードの視線が、あるウマ娘で止まる。
黒と赤を基調とした勝負服。
その正体は、キタサンブラックだった。
力強さと華やかさを兼ね備えたその装いを身にまとい、キタサンは真っ直ぐ前だけを見据えて歩いていた。
歓声に飲まれることもなく。
気負うこともなく。
ただ静かに、大舞台へ向かう。
パドックで見た彼女は、いつものキタサンブラックだった。
仲間と笑い、周囲へ手を振る、親しみやすい彼女。
だが、今そこにいるのは――
「綺麗だ……。」
思わず漏れたその一言に、テイオーたちが反射的にロードを見た。
「い、今なんて……?」
「あ、いえ。普段のキタサンも綺麗なんですけど……。」
刹那、空気が止まった。
「「「「 ………!?」」」」
スペシャルウィークは目を丸くし、ウオッカ、スカーレット、ゴールドシップは思わず口を半開きにする。
あの冷静なスズカでさえも、小さく目を瞬かせた。
ロードだけがその沈黙の意味を理解していない。それどころか、気づくことなくもう一度、キタサンへ視線を向ける。
「ああやって胸を張って歩いている姿が、すごく綺麗だなって。」
一瞬、言葉を探すように間を置き、続けた。
「あれが、レースに挑むキタサンブラックなんですね。」
その言葉を聞いて、テイオーは大きく息を吐く。
「なーんだ、そういうことかぁ。」
「びっくりした……。」
「最初の一言だけ聞いたらマジで勘違いするって……。」
ほとんどが冷静さを取り戻している中、マックイーンは穏やかに微笑んだ。
「勝負服は、ウマ娘にとっての『誇りの象徴』ですもの。」
「きっとその想いも含めて、あなたには美しく見えたのでしょう。」
ロードは静かに頷く。
胸の鼓動は、さっきよりも少しだけ速くなっていた。
出走ウマ娘たちが次々とゲートへ収まり、静寂がレース場を包み込む。
先ほどまで鳴り止まなかったざわめきも、不思議なほど小さくなっていた。
誰もが、この瞬間を待っている。
ロードは無意識のうちに息を止めていた。
ターフに立つ全員が、今まさに同じ夢へ向かおうとしている。
――この中から、勝者は一人。
そう思った瞬間。
澄み渡る青空へ向かって、金管楽器の音色が高らかに響き渡る。
力強く。
それでいて、どこか気高く。
まるで、この舞台へ挑む十五人を祝福するかのような旋律。
ロードは思わず目を見開いた。
神々しい。
ただの音楽ではない。
これから始まる一戦がどれほど特別なものなのか。その意味を、この旋律そのものが語っているようだった。
演奏が終わった、次の瞬間だった。
地鳴りのような歓声がスタンドを揺らす。
何万人もの観客が一斉に声を上げ、その熱気が波となってロードの全身を包み込んだ。
思わず肩が震える。
胸の鼓動が、一気に速くなる。
耳ではなく、身体全体で歓声を浴びているようだった。
「これが……。」
小さく漏れたその言葉は、歓声に飲み込まれて誰にも届かない。
映像では何度も見てきた。
それでも、この音も、この震えも、この高揚感も。
ここに立って初めて知った。
ロードは知らず知らずのうちに、胸の前で拳を強く握り締めていた。
やがて、再び静寂が訪れる。
張り詰めた空気が、ターフ全体を支配する。
そして――
ガコンッ!
勢いよくゲートが開く。
十五人のウマ娘が、一斉に飛び出した。
・・・・・
「ルベウス君!ウイニングライブ始まりますよ!」
スペがこちらに振り返り、満面の笑みで手を振る。
「せっかく来たんだから見なきゃ損だぞ!」
「そうよ。ライブまで含めてレースだもの。」
ウオッカとスズカも穏やかに微笑む。
だが、ロードは小さく首を横に振った。
「……すみません。少し、外の空気を吸ってきます。」
「えぇー!?もったいねぇぞ!」
ロードは軽く頭を下げると、そのまま一人、スタンドの外へと歩き出した。
歓声は壁一枚隔てただけで遠くなり、代わりに夜風が頬を撫でる。
「……はぁ。」
深く息を吐く。
それでも胸の鼓動は、まだ速いままだった。
目を閉じれば、鮮明に蘇る。
高らかに響いたファンファーレ。
張り詰めた静寂。
ゲートが開く衝撃。
大地を揺らす歓声。
そして、芝の上を駆け抜ける十五人の背中。
「………。」
忘れられない。
少し前の出来事なのに、まるで何年も前から憧れていた景色だったかのように、胸に焼き付いて離れない。
ロードはゆっくりと、自分の右手を見る。
いつの間にか強く握り締めていた拳は、まだわずかに震えていた。
(あそこを走ったら……。)
不意に浮かんだ考えに、ロードは息を呑む。
(いや……。)
すぐに首を振る。
そんな資格はない。
あそこは、自分とは無縁の世界だ。
自分は研究をして、速く、長く走れるフォームと身体を作ればいい。
走りが完成した暁には、トレセン学園の生徒と競い合う。
それだけで十分なはずだった。
それなのに。
脳裏から離れない。
芝を蹴る音。
歓声。
風を切る十五人の姿。
(……立ってみたい。)
その想いが胸の奥で小さく零れた瞬間、ロードは強く目を閉じた。
(忘れろ。)
(また期待したら……。)
幼い日の記憶が胸を締め付ける。
“男の子だから。”
たったそれだけの理由で届かなかった夢。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
期待して、否定されるくらいなら。
最初から夢なんて見ない方がいい。
そう思ってきた。
そう決めてきた。
それなのに――
今日見たあの景色は。
その決意を、簡単に揺るがしてしまった。
ロードはゆっくりと空を見上げる。
高く聳える外壁の向こうに、歓声に包まれていたターフがある。
「………。」
言葉にはできなかった。
けれど胸の奥では、誰にも聞こえない小さな声が、確かに叫んでいた。
――いつか、あの場所を走ってみたい、と。
・・・・・
ウイニングライブが終わり、観客も少しずつ帰路につき始める。
ロードは待ち合わせ場所の近くで静かに立っていた。
「おーい、ルベウス。」
聞き慣れた声に振り返る。
沖野トレーナーを先頭に、チームスピカの面々がこちらへ歩いてきていた。
「少しは落ち着いたか?」
「……はい。」
短い返事。
それだけで十分だった。
「それならよかった。」
沖野はそれ以上何も聞かなかった。
ロードが今、何を感じているのか。
それは本人が一番整理しきれていないだろうと分かっていたからだ。
「ロードくん!」
明るい声とともにキタサンが駆け寄ってくる。
「お待たせしました!」
「いや……。」
ロードは静かに首を振る。
「……お疲れ様、キタサン。」
「へへっ、ありがとう!」
いつもの笑顔。
だが、そう長く続かなかった。
ふっとキタサンの視線が落ち、握り締められた拳に少しだけ力が入る。
「……でも。」
小さく漏れた声。
「ロードくん、あんなに信じてくれてたのに……。」
唇を噛み締める。
「負けちゃった……。」
その声は、さっきまでの明るさとは違っていた。
キタサンの結果は三着。勝利を目指して走ったからこそ、その差は誰よりも本人が痛感していた。
悔しさ、申し訳なさ、応援に応えられなかったという自責。
そして――ロードに勝つ姿を見せられなかった後悔。
ロードは静かにキタサンを見る。
しばらく沈黙が流れた。
やがて、小さく口を開く。
「……次は、キタサンが勝つんだろ?」
キタサンはゆっくり顔を上げた。
「え……?」
ロードは真っ直ぐキタサンを見つめる。
「勝っても負けても、それは自分が走った結果。」
「そう言ったのは、キタサンだ。」
あの日、二人で歩いていた時に交わした言葉。
余計なことは考えず、ただ自分の走りを信じること。
そう言ってくれたのは、目の前の少女だった。
「だから、俺は今回の結果で何かを変えるつもりはない。」
「キタサンが『次こそ勝つ』と言うなら俺は――」
一拍置いて、穏やかに笑う。
「信じる以外しないよ。」
その一言に、キタサンは目を見開いた。
胸の奥が熱くなる。
涙が込み上げそうになるのを、必死に堪える。
「……うん!」
小さく頷く。
その返事には、さっきまでの迷いはなかった。
「ありがとう、ロードくん……!」
その笑顔は、さっきまで無理に作っていたものとは違っていた。
少し涙で滲みながらも、心の底からこぼれた笑顔だった。
その時だった。
「あ、そうだ!」
テイオーが思い出したように手を叩く。
「ねぇねぇキタちゃん。ルベウス君ね、レース前にキタちゃんのこと『綺麗だ』って言ってたんだよ!」
「えっ。」
キタサンの耳がぴくりと立つ。
「えぇぇぇぇぇっ!?」
顔がみるみる赤く染まっていく。
「ちょ、ちょっとテイオーさん!?」
「ほんとだよ!ね、みんな!」
テイオーは悪戯っぽく笑う。
それに感化されたゴールドシップたちも、うんうんと力強く頷いた。
「しかも『普段のキタサンも綺麗なんですけど』って!」
「わぁぁぁぁぁっ!?」
キタサンは慌てて両手で顔を隠すが、尻尾はぶんぶんと音を鳴らして振れている。
「そ、そんな……私なんて……!」
乙女な反応を見せるキタサンだが、当の本人は首を傾げるだけだった。
「いや……事実ですし。」
一瞬。
全員が固まる。
「「「「えぇぇぇぇぇっ!?」」」」
「ぶっは!最高かよルベウス!!」
ゴールドシップが思わず笑い転げる。
「ル、ルベウス君!追撃しちゃダメでしょ!」
「いや、だから……。」
ロードは何か言おうとしたが、無意味と察したのか、やめた。
ただ見たままを言葉にしただけ。キタサンが慌てるのはまだしも、周りはなぜそんな反応をするのか。
スズカはふっと優しく微笑み、
「ルベウス君らしいわね。」
マックイーンも頷く。
「ええ。」
「ルベウスさんは、キタサンさんを一人のウマ娘として見ていたのでしょう。」
「勝負に向かう姿が美しい――これ以上の賛辞はありませんわ。」
ようやくキタサンも事情を理解し、胸に手を当てて小さく息を吐く。
「そ、そういう意味だったんですね……。」
それでも頬の赤みは消えない。
「……ありがとう、ロードくん。」
少し照れくさそうに笑うキタサンを見て、ロードも小さく頷いた。
・・・・・
皐月賞から二日。
放課後を告げるチャイムが鳴り終わると、ロードはいつものようにトレセン学園へ向かっていた。
風が制服の裾を揺らす。
大通りの桜はすでに散ってしまい、青々とした葉を伸ばしている。
木々は早くも、新たな季節を迎えようとしていた。
やがてトレセン学園の正門が見えてくる。
「ロード君。」
ふと、聞き慣れた声に足を止めた。
「たづなさん?」
門の傍には、たづなが静かに立っていた。
いつもの穏やかな笑み。だが、その笑みの奥にはどこか張り詰めた空気があった。
「お待ちしていました。」
「……俺をですか?」
「はい。」
たづなは小さく頷く。
「秋川理事長がお待ちです。」
思わぬ言葉に、ロードはわずかに目を瞬かせた。
「どうぞ、こちらへ。」
理由は聞かなかった。たづなの表情を見れば、軽い用件ではないことくらいは分かる。
ロードは静かに頷き、その後に続いた。
放課後の校舎には、トレーニングに向かうウマ娘たちの明るい声が響いている。
その喧騒とは対照的に、二人の間に会話はなかった。
長い廊下を進み、階段を上る。
やがて、一枚の重厚な扉の前でたづなが足を止めた。
コンコン。
「失礼します。」
たづなが扉を開く。
ロードも一礼して部屋へ入った。
「失礼します。」
「待っていたよ、ロード君。」
部屋の中央では、やよいが穏やかな笑みを浮かべていた。
しかし、その表情はどこか神妙だった。
そして、その隣には。
「ライツ博士まで……?」
電動車椅子に腰掛けたライツ博士が、静かにロードを見つめていた。
研究室で会う時とは違う。
二人とも、どこか改まった雰囲気を纏っている。
「とりあえず、そちらのソファに座ってくれ。」
そう促され、ロードはやよいと向かい合うように腰を下ろした。
「ロード君は、オレンジジュースでよかったですか?」
「あ、はい。」
不意を突くようなたづなの質問に、ロードは困惑しつつも答えた。
机の上には二人分の紅茶が用意されている。立ち上る湯気だけが、静かな部屋にゆっくりと溶けていく。
あまりにも静かな理事長室。
部屋の奥からはトクトクと、ジュースが注がれる音が聞こえて来た。
たづながオレンジジュースを机の上にそっと置く。ロードは小さく頭を下げて、感謝の意を示した。
やがて、やよいが静かに息をつく。
「……ロード君。」
その声に、ロードは姿勢を正した。
「本当なら、この話はもう少し早く君にするべきだった。」
静かな口調だった。
責めるでもなく、迷うでもなく。
ただ、一つの決断を伝えるように。
「だけど私は、ライツ博士と共に走りを研究し、少しずつ前へ進んでいく君を見ていた。」
「その時間を、私たちの都合で乱したくはなかったんだ。」
やよいは一度ライツへ視線を向ける。
彼女が静かに頷いたのを見て、やよいは続けた。
「彼女から『フォーム改造は一段落した』と聞いた。」
「これまではフォームを研究するだけで精一杯だったようだが、今は、他のことを考える余裕が少しずつ生まれてきたように思う。」
やよいは一度言葉を切り、静かにロードを見つめた。
「そして何より――君の瞳だ。」
「皐月賞を見終えた君を見て、ライツ博士と私は同じことを感じた。」
「あの日を境に、君の瞳に宿る熱意は以前よりもずっと強くなった、と。」
「君自身は、まだ気付いていないのかもしれない。だけど、私たちにはそう見えたんだ。」
「だから、今の君になら、この質問をしてもいいと思った。」
ロードは何も言わない。
ただ、やよいの言葉を待つ。
やよいは真っ直ぐロードを見据え、静かに問いかけた。
「もし、その道が開かれるとしたら。」
「君は――あのターフに立ちたいと思うかい?」
つづく
これにてフォーム改造編は完結。次回から新章開幕です。
しばらくは勉強に集中します。
では、また次回。