トレーナーのみなさん、こんにちは。
くそったれな期末試験がようやく終わりました。
前回のあらすじ
秋川理事長がロードにトゥインクル・シリーズ参加の意思を尋ねた。
「もし、その道が開かれるとしたら。君は――あのターフに立ちたいと思うかい?」
やよいの問いに、ロードはすぐには答えられなかった。
その問いはいつか必ず向き合う日が来ると思っていた。だからこそ、心のどこかで準備もしていた。
それでも。
実際に問い掛けられると、言葉は喉の奥で止まってしまう。
「俺は……。」
ロードは固く拳を握る。その手は、僅かに震えていた。
本当は頷きたい。
本当は目指したい。
彼自身も、これがかつての夢を叶える最後のチャンスなのだと理解していた。
だがそれ以上に、強くロードを縛るものがあった。
それはーー
「俺は…… “ウマ娘” 以前に、“男” なんです……。」
逃げようにも逃げられない事実。
幼い頃から幾度となく突きつけられ、自分自身も受け入れるしかないと信じ込んできた現実だった。
ライツとたづなは、静かにロードを見つめていた。その拳の震えから察するものも多かったが、下手に言葉を述べることもできなかった。
「……俺はこのまま、トレーニング場で走る権利だけをもらえればーー」
「ロード君。」
その時、彼の言葉を遮ったのは、やよい。
彼女はロードの拳から彼の瞳に視線を合わせ、言い放った。
「どうして君は、『男だから』という言葉をそこまで重く背負っているんだい?」
その言葉に、ロードは虚を突かれたかのような顔をした。
はっきり言って、彼女が何を言ってるのか分からなかった。
やよいは小さく微笑み、続ける。
「確かに君が言うように、競技において男女を区別することは大切だ。ましてやヒトの競技では、同性内でも枠組みを作るくらいに安全性と公平性が求められている。」
「しかし、ウマ娘のレースは少し違う。」
「小さな身体のウマ娘と大きな身体のウマ娘が同じターフを駆けるのは、今に始まったことじゃない。速さも、走り方も、それぞれ違う。」
その言葉に、ロードはある映像を思い出していた。
先日、トレーニング場でライツと共に、スズカや他ウマ娘たちの走りを比較していた際のこと。最後方を走っていた小柄なウマ娘が、第三コーナー付近から一気にごぼう抜きして勝利するレースを見た。
それを考えれば、やよいの話していることは間違いではないのかもしれない。
だが、不安は他にもあった。
「……仮にトゥインクルシリーズに出られたとして、『男だから勝てた』なんて言われるのは嫌です。」
積み重ねた努力のうえの勝利であっても、観客に “努力” の部分が伝わるかは別。極端な偏見で自分のことを知った気になられるのは気分が悪い。
しかしやよいの反応は、納得でも同調でもなかった。
「まるで、『自分が勝って当たり前』と言っているように聞こえるが。」
「そ、そんなつもりじゃ……!」
カラン、と氷が揺れ、コップに注がれたオレンジジュースの表面が小さく波打った。
静まり返っていた応接室に、その音だけが妙に大きく響く。
やよいはそんなロードの様子を見て、肩を揺らしながら小さく笑った。
「すまない、少し揶揄ってみただけさ。君がそんな傲慢な性格のウマ娘ではないことくらい、よく分かっているよ。」
そう言われると、反論する理由も見つからない。
ロードは照れ隠しをするように視線を逸らし、小さく息を吐いてから再び椅子へ腰を下ろした。
その様子を、たづなは安堵したような表情で見守り、ライツは腕を組んだまま静かにやよいの動作を見ている。
やよいはカップを手に取り、立ち上る湯気を一度見つめると、ゆっくりとココアを口に含んだ。
甘い香りが彼女の口を満たしたところで、静かに口を開く。
「ロード君の不安も、よく分かるよ。」
穏やかな声だった。
先ほどまでの冗談めいた空気は消え、理事長として、一人の教育者としての表情に戻っている。
「観客の八割がヒトを占める中で、今話した違いに気づく者が何割いるか……私にも分からない。」
ロードは黙って耳を傾ける。
否定されることも、慰められることもない。
ただ、自分の不安を真正面から受け止めてもらえている。
それだけで、胸の奥に張りつめていた何かが少しだけ緩んだ気がした。
「だが、本当に私が言いたいことは――」
やよいはカップを静かにソーサーへ戻す。カチャリ、と陶器が触れ合う澄んだ音。
その音が合図だったかのように、応接室の空気が変わる。
やよいはロードを真っ直ぐ見据える。
その瞳に迷いはなかった。
「やってみないと分からない、ということだ。」
「!」
その一言は、ロードの胸の奥へ真っ直ぐに落ちていった。
思わず息を呑む。
それは決して慰めではなかった。
自分がこれまで、どれほど「分からない未来」を理由に諦めてきたかを突きつけられた気がした。
やよいはロードの表情を見つめながら、静かに続ける。
「皐月賞の舞台を思い出してみてくれ。」
「君はあのレースで、一度でも『自分が勝てる』と考えたかい?」
その問いに、ロードはゆっくりと首を横に振る。
「……勝てません。」
即答だった。
「レース展開も何も知らない自分が勝てるとは……。」
悔しさではない。
それは、自分の現在地を冷静に見つめた末の答えだった。
ライツは小さく目を閉じる。
その評価は正しい。
今のロードがレースへ飛び込めば、技術も経験も圧倒的に足りない。
だが――
「そうだね。」
やよいは優しく頷いた。
「だからこそ、やってみなくては分からないんだ。」
その声色には、否定も同情もなかった。
未来は、誰にも分からない。
だからこそ、挑戦する価値がある。
「加えてだ、ロード君。これは君のチャンスでもあるんだよ。」
ロードは息を呑み、自然と背筋を伸ばした。
「君が過去にトゥインクルシリーズを目指させてもらえなかった理由は、“制度” にある。」
「制度とは、競技者が安全かつ公平に競うためのルールだ。当時の制度では、君の競技参加による安全性と公平性を担保できなかった。」
ロードは黙って聞いていた。
そこに悪意がなかったことは、もう理解している。
自分を排除するためではなく、競技そのものを守るための制度だったと。
「だが――」
やよいは穏やかに微笑む。
「制度は、挑戦する者の可能性を閉ざすために存在するものではない。」
「新しい前例が生まれたとき、制度はその前例を受け止めながら少しずつ形を変えていく。」
その瞬間、ロードはライツ博士との日々を思い出していた。
ロードの走りは、自分と同じ前例のないものだった。
危険だと言われた前傾姿勢。たづなには「怖い」とも言われた。それでも、その走りを捨てることはできなかった。
ライツと共に改良を目指し、何度も失敗を重ね、ようやく形になってきたフォーム。
ロードは一度も歩みを止めようとはしなかった。
「……私の言いたいことは、理解できたかい?」
ロードはゆっくりと顔を上げる。
先ほどまで震えていた拳は、もう静かに膝の上で開かれていた。
胸の奥で、ひとつの答えが形になっていく。
「俺が……」
一度、小さく息を吸う。
「俺が、その前例になればいい。」
その答えにやよいは静かに微笑み、ライツは満足そうに口元を緩め、たづなは胸の前でそっと手を重ねて小さく安堵の息を漏らした。
一方のロードは、胸の奥で何かが変わったのを感じた。
“男だから無理だ。”
そう言い聞かせ続けてきた自分が、初めてその言葉の向こう側を見ようとしている。
だが、決意だけで現実は変わらない。
理想と現実の間には、まだ越えなければならない壁がいくつもある。
ロードは静かに視線を落とした。
握っていた拳はほどけていたが、その指先にはまだ僅かな震えが残っている。
期待よりも、不安の方が大きかった。
もし認められなかったら。
もし周囲から受け入れてもらえなかったら。
もし自分が、誰かの努力や夢を踏みにじる存在になってしまったら。
そんな考えが頭をよぎり、決意しかけた心を再び引き止める。
ロードはゆっくりと顔を上げ、やよいへ問い掛けた。
「……ですが、認めてもらえるでしょうか。」
誰かを疑っているわけではない。自分自身を、まだ信じ切れていないのだ。
そんなロードを見つめ、やよいは迷いなく頷く。
「そのために、私たちがいるんだよ。」
理事長として。
研究者として。
そして、彼の可能性を信じる大人として。
この場にいる三人の想いは、一つだった。
やよいはゆっくりとロードの瞳を見つめる。
その瞳に映るのは、“男” という枠組みではない。
一人のウマ娘。
一人の挑戦者。
「……さて。」
柔らかな笑みを浮かべながら、やよいは改めて問い掛ける。
「もう一度問わせてもらうよ、ルベウスロード。」
部屋は静まり返っていた。
誰も口を挟まない。
ロード自身の答えを待つために。
「君は――あのターフに立ちたいと思うかい?」
・・・・・
その問いに――やはりロードはすぐには答えられなかった。
喉の奥が熱い。
何かが込み上げてくる。
けれど、それを言葉にしようとするたび、胸の奥で引っ掛かるものがあった。
幼い日の記憶。
テレビ越しに見たトゥインクル・シリーズ。
憧れを口にした自分。
そして――
『ごめんね。』
困ったように笑った母の顔。
『ごめんな。』
静かに頭を下げた父の姿。
あの二人は何も悪くなかった。
悪いのは誰でもない。
だからこそ。
ロードはずっと、自分に言い聞かせてきた。
男だから仕方がない。
夢を見てはいけない。
そう思えば、みんな楽になれると信じていた。
ロードは唇を強く噛み締める。
震える息を一度だけ飲み込み、ゆっくりとやよいを見る。
目元は赤く滲んでいた。
それでも涙だけは零れない。
いや、零さない。
「……目指したいです。」
声が震える。
それでも、はっきりと続けた。
「俺は……」
一度、喉を鳴らす。
今まで何度も飲み込んできた言葉。
もう、飲み込まない。
「あのターフを目指したいです。」
ロードは深く、深く頭を下げた。
「お願いします。」
震える声だった。
「やります。」
「やらせてください。」
ロードは深く頭を下げた。
理事長室は静まり返る。
その沈黙を破ったのは、やよいではなかった。
『……大きくなったな。』
『ええ。』
どこからともなく聞き覚えのある声が聞こえた。直接ではなく、何らかの機器を通しての声。
その時ーー
ガチャ、と扉が開く音が聞こえた。
ロードは勢いよく振り返る。そこには、一組の男女の姿が。
「父さんに……母さん……?」
思いもよらぬ二人の姿だった。
「な、なんで……。」
「お二人には、別室で聞いてもらっていたんです。」
たづなが、通話中のスマートフォンを見せる。画面に映る名前は『ライト先輩』。
ロードは言葉を失う。
先ほどの声は、やはり父と母の声。
となると、今までの会話も全部……。
「……っ。」
ロードは慌てて目元を擦る。
こんな顔を見られたくないという、ロードの幼い一面が表れていた。
すると、母のライトはゆっくりとロードの下へ歩み寄る。
そして。
何も言わずに、その身体をそっと抱き寄せた。
「……か、母さん?」
幼い頃以来だった。
背中へ回された腕は、あの頃と何も変わらない。
優しくて、温かかった。
一方の父は照れくさそうに笑いながら、ロードの頭へ大きな手を乗せる。
くしゃ、と一度頭を撫でるだけで、何かを言うことはなかった。
「……立派になったね。」
不意に、ライトが言った。
「お母さんね、さっきの『やらせてください』を聞いて、本当に嬉しかった。」
ロードは俯く。
顔を見られたくなかった。
「夢を諦めさせてしまった日……私もお父さんも、ずっと後悔してた。」
その言葉に、ロードの肩が小さく震える。
「でもね。」
母は少し身体を離し、目を合わせた。
「今日からは違う。」
涙を浮かべながら、それでも笑っている。
「たくさん悩んで、たくさん走って、たくさん壁にぶつかりなさい。」
母はロードの頬へそっと手を添えた。
「それでも今度は、お母さんたちが胸を張って送り出すから。」
「……!」
言葉が出ない。
胸がいっぱいだった。
その横へ父が静かに歩み寄る。
相変わらず多くは語らない。
ただ。
ロードの前に立つと、昔と同じように頭へ手を乗せた。
大きく、少しだけ硬い手。
幼い頃、何度も撫でてもらった感触だった。
「父さん……。」
父はゆっくりと笑う。
「……今更だが、背中を押させてくれ。」
たったそれだけだった。
けれど。
その一言に込められた想いを、ロードは誰より知っている。
もう謝らなくていい。
もう諦めなくていい。
夢を追っていい。
その許しが、その言葉には込められていた。
堪えていたものが、限界を迎える。
「っ……!」
ロードは唇を噛む。
涙だけは見せまいと必死に顔を伏せる。
だが。
一粒。
また一粒。
頬を伝い、床へ落ちていく。
もう止まらなかった。
これまで何年も押し込めてきた悔しさも。
諦めも。
後悔も。
そして、ようやく夢を追うことを許された喜びも。
そのすべてが、静かな涙となって溢れ続けていた。
・・・・・
どれくらいの時間が経っただろうか。
ようやく涙も落ち着き、ロードは小さく息を吐いた。少し赤くなった目元を指先で拭いながら、照れくさそうに俯く。
「……すみません。」
自然と零れた言葉だった。
泣くつもりなんてなかった。
誰かを困らせるつもりもなかった。
それなのに、堪えていた感情は思っていた以上に大きかったらしい。
誰かの前で泣いたのは何年振りだっただろう。思い返そうとしても、すぐには思い出せない。
弱さを見せれば、誰かに心配を掛ける。
そんな思いが、いつの間にか涙を飲み込む癖になっていたのだろう。
だからこそ今、胸の奥は不思議なくらい軽かった。
泣いたはずなのに、むしろ、ずっと抱えていた重荷をようやく下ろせたような感覚だった。
ロードは顔を上げる。
目の前には、誰一人として困った顔をしている人はいない。
自分を挟むように座る両親は嬉しそうに笑い、
やよいは穏やかに微笑み、
たづなは安心したように目を細め、
ライツは腕を組んだまま小さく鼻で笑った。
「……少年らしい顔になったな。」
「え?」
「研究ばかりしている君は、いつも難しい顔をしていた。」
「今の方が、年相応だ。」
その言葉に、ロードは思わず苦笑した。
「……それは、褒めてくれてるんですか?」
「当然さ。」
短いやり取りに、部屋の空気が少しだけ和らぐ。さっきまで張り詰めていた緊張は、もうそこにはなかった。
ロードが落ち着いたのを見届けると、やよいがテーブルの上に一束の書類を置いた。
「さて。」
先ほどまでの柔らかな表情とは少し違う。
そこにいるのは、トレセン学園理事長・秋川やよいだった。
「ここからは、君がトゥインクルシリーズの舞台に立つための “現実” について話そう。」
ロードも自然と表情を引き締める。
「まず、今の君が目指すべきものは一つ。三か月後に行われる、トレセン学園転入試験だ。」
「転入、試験……?」
ロードは疑問符を浮かべる。一方隣に座るライトは、わずかに目を細めた。
「……生徒の中には学園のレベルについていけず、自主退学をする者が毎年数名いる。そうして空いた枠を埋めるための試験だ。」
「そして、今年募集される中等部二年の枠はーー三名。」
ロードは思わず息を呑んだ。
三人。
全国から集まる受験者の中で、その席はたった三つしかない。
……いや。
三つもある、と考えるべきか。
「試験内容は大きく三つ。」
やよいは指を二本立てる。
「一つ目は、筆記試験。」
ペラリとページを捲ると、書類の二枚目には確かに『筆記試験』と書かれていた。
「内容は五教科。国語、数学、理科、社会、英語。」
「加えて、トゥインクルシリーズに参加する競技者として必要な知識であるレースのルール。そして、レースの歴史。」
ロードは静かに資料へ目を落とす。
「五教科については、そこまで心配していない。」
そう、やよいは微笑む。
「ライトさんから進捗は聞いている。」
ロードがライトに視線を向けると、彼女はクスッと笑った。
「成績は常に上位だもんね♪」
彼自身、五教科の心配はそこまでしていない。それよりも問題となるのがーー
「競技知識、だね。」
ロードのレースに関する知識はほぼゼロ。つい先日まで脚質を知らなかったのがその事実を裏付けている。
「教材は後日ご自宅に郵送する。そして、勉強方法だがーー。」
「お母さんに、任せなさいっ。」
そう言ってライトは、拳を胸にぽんと当てた。
「ライトさんはターフの上だけでなく、机の上でも上位の成績だったと聞く。たくさん教えてもらうといい。」
そして、やよいは二本目の指を立てた。
「二つ目、実技試験。」
その一言だけで、部屋の空気が変わる。
「距離は
それだけだった。
だが、ここにもまた多くの問題が生じていた。
「……一本勝負ってことですか。」
「ああ。」
やよいは迷いなく答える。
「どんなにトレーニングを積み重ねようとも、走るのはたった一回。その重圧の中で、いかに己の実力を引き出せるかがカギだ。」
それは、『自分こそがトレセン学園生徒に相応しいと証明しろ』という意味。
しかし、ロードのフォームはまだ完成していない。加えてレース経験がないロードには、集団の中でどう走るべきかという感覚もない。
圧倒的に不利――いや、まだスタートラインにすら立てていない状態だった。
「実技についてはこれまで通り私が担当する。」
思考を遮るように、ライツが言う。その声からは、彼女の強い決意を感じた。
「一か月以内にフォームを完成させ、残りの二か月は実践を踏まえたトレーニングを行う。」
「筆記を含めてかなりハードな三ヶ月になるが、できるかい?」
ライツの問いに、ロードは笑みを浮かべ、力強く答えた。
「はい!」
二人のやりとりが終わったのを確認して、やよいは書類を一枚捲った。
「最後に、面接試験だ。」
「面接……。」
やよいは静かに頷く。
「試験官は私やたづな君ではなく、学園の教員が複数名で担当する。」
ロードは少しだけ目を細める。
やよいは続けた。
「私から伝えるのは『ルベウスロードが男のウマ娘である』という事実のみ。それ以外の経緯や君の努力は、一切共有しない。」
「そのすべてを知らない状態で、君を評価してもらう。」
部屋は静まり返る。
しかし、ロードは笑っていた。
「その方が、俺は嬉しいです。」
その場にいた全員がロードを見る。
ロードは真っ直ぐ前を見据えたまま続けた。
「何も知らない先生たちが俺を見て、その上で『この学園で学ぶ資格がある』と認めてもらえるのなら。」
「その時初めて、俺は合格したと言えると思います。」
やよいは一瞬だけ目を丸くし、口元を緩めた。
ライツは小さく拍手を送り、たづなは思わず口元へ手を添えた。
そしてロードの両親もまた、息子が初めて見せる一面に目を見張っていた。
「私たちが支援できるのは、スタートラインまでだ。」
「その先は君自身の言葉で。」
「君自身の走りで。」
「そして、君自身の実力で。」
「正々堂々、門をくぐってきてほしい。」
ロードはゆっくりと頷いた。
その表情に、もう迷いはない。
「分かりました。」
「必ず、自分の力で合格を勝ち取ります。」
それは誰かへの宣言ではない。
自分自身への誓いであり、この場にいる五人との約束だった。
三ヶ月
長いようで、短い三か月。
夢を諦めた少年は、今、その夢を自らの脚で掴みに行こうとしていた。
・・・・・
ロードの力強い返事に、部屋の空気は少しだけ和らいでいた。この場にいる誰もが、これから始まる三か月へ思いを巡らせていた。
しかし、その中に浮かない表情をしている者が一人。それは、やよいだった。
彼女は理事長として、どうしても彼に伝えなければならないことが残っていた。
「……最後に一つだけ、話させてほしい。」
その声には、先ほどまでとは違う静かな重みがあった。
「ロード君。君には、忘れてほしくないことがある。」
その言葉に、ロードはサッと姿勢を正す。
過去にも彼女が真面目な雰囲気を出すことはあったが、ここまで強いものは初めてだった。
「……今年の中等部二年の募集枠は三名。だが、本来ならこの枠は存在しない。」
部屋が静まり返る。
やよいの言葉にライトは目をわずかに細め、ライツは静かに腕を組んだ。
「その席が生まれたのは、在籍していた生徒たちがそれぞれ悩み、苦しみ、そして自ら退学という決断を下したからだ。」
部屋が静まり返る。
誰も言葉を挟まない。
「誰一人として、軽い気持ちで学園を去った子はいない。」
「夢を諦めた子もいる。」
「別の道を選んだ子もいる。」
「それぞれが、自分の人生と向き合った末の決断だった。」
ロードは黙って話を聞いていた。
その席の向こうに、自分の知らない誰かの人生がある。そう考えるだけで、その「三」という数字が、さっきまでとはまるで違う重さを持ち始める。
やよいは静かにロードを見つめた。
「だから。」
「君は、その席を “空いていた席” だとは思わないでほしい。」
やよいの声がわずかに大きくなる。
ロードは無意識に拳を握った。
「誰かが悩み抜き、誰かのために残した席だ。」
「その重みだけは、決して忘れないでほしい。」
・・・・・
ガチャン、と扉が閉まる。
ロードとライツは、トレーニングのために一足先に理事長室を後にした。
廊下には静かな空気が流れていた。少し前まで胸を締め付けていた重さは、もうない。
代わりにあるのは、三か月という期限だけだった。
ライツは電動車椅子をゆっくりと進めながら、小さく笑う。
「……とても有意義な話だったね。」
「はい。」
ロードは迷いなく頷いた。
「夢を追う覚悟もできましたし、これから何をすべきかもはっきりしました。」
「そうか。」
ライツは満足そうに目を細める。
しばらく二人は並んで廊下を進む。
すると、不意にライツが口を開いた。
「……実はね、ロード君。」
「私も、席を空け渡した側のウマ娘なんだ。」
その言葉の意味を、ロードはすぐには理解できなかった。
席を空け渡した。
その一言が胸の中で繰り返され――
「……え。」
思わずライツを見る。
ライツは前を向いたまま、どこか懐かしそうに微笑んでいた。
「トレセン学園の生徒だった私は、G1で勝利することを目指していた。」
「だが……G1出場どころか未勝利が続き、焦った私は練習量だけを増やした。」
「休むことも忘れ、『もっと走らなければ』と自分を追い込み続けた。」
ロードは静かに耳を傾ける。
「その結果が……この脚だ。」
ライツは自らの動かない脚へ、軽く視線を落とした。
自由に動かない脚。それは彼女が何より雄弁に語る “過去” だった。
少しだけ沈黙が流れる。
だが、ライツの表情に後悔はなかった。
「席を空ける側の苦悩は、私もよく知っている。」
その言葉だけは、どこか重かった。
「夢を終わらせる決断が、どれほど苦しいか。」
「……いや、“夢を別の形へ託す決断” と言った方が正しいかな。」
するとライツは、何かを思いついたかのように小さく笑った。
「もしかすると私をここへ呼んだ理由の一つに、それがあったのかもしれないね。」
ロードは目を見開く。
理事長室で語られた “席の重み” 。
その言葉を一番理解していたのは、目の前にいるライツだった。
「……まあ。」
ライツは小さく肩をすくめた。
「私としては、君が考えたフォームの理論を証明してくれる方がよほど楽しみだがね。」
一瞬で研究者の顔へ戻る。
ロードは思わず笑ってしまう。
「結局、そこなんですね。」
「当然さ。」
そのやり取りで、二人には自然と笑顔が浮かんでいた。
「さて、感傷に浸るのはこのくらいにしておこう。」
そう言ってライツは電動車椅子を再発進させた。
「まずは一か月以内にフォームを完成させる。」
「残りの二か月で、実戦形式のトレーニングだ。」
ロードも自然と表情を引き締める。
「はい。」
「……できない、とは言わせないぞ?」
その声音には、少しだけ意地の悪い響きが混じっていた。
ロードも思わず笑みを浮かべる。
「もちろんです。」
「一度提唱した以上、途中で『やっぱり違いました』なんて格好悪い真似はできません。」
ライツは満足そうに頷く。
「結構。」
「なら、その理論が正しいことをターフで証明してみせたまえ。」
「はい。」
ロードは力強く頷いた。
「必ず、証明してみせます。」
二人は視線を交わし、小さく笑う。
誰にも聞こえないスタートの号砲は、すでに鳴っていた。
つづく
というわけで『転入試験編』開幕です。
変に長尺にならないように頑張ります。
どうか再試になりませんよーに。
では、また次回。