トレーナーのみなさん、こんにちは。
前回のダイヤちゃんのお話、少し意外な展開だったかもしれません。
ロードとダイヤの距離を縮めることと、ロードがトレセン学園でどのような立ち位置になるのかを描きたくて書いたお話でした。
この先のロードたちの関係を描くうえでも必要なエピソードなので、楽しんでいただければと思います。
「場所を変えるよ、ダイヤ!」
そう言って私とダイヤが向かったのは、トレセン学園の食堂だった。
昼食にはまだ少し早く、広い食堂にはまばらに生徒の姿があるだけ。窓から差し込む柔らかな日差しが、静かな空気を包み込んでいた。
ダイヤは何が始まるのか分からないまま、私の後ろを小走りについてくる。
「ク、クラちゃん……!今から何するの……?」
不安そうな声で私を呼ぶ。
さっきまで泣いていたせいか、その目元はまだ少し赤い。
私はそんなダイヤを見て、小さく笑った。
「言ったでしょ、作戦会議だって。」
不安そうに眉を下げるダイヤ。
私はそんな彼女を安心させるように微笑み、窓際の席に向かった。
「まず一つ目。」
向かい合うように腰を下ろしてから、私は人差し指を一本立てて話す。
「ルベウス君に、ちゃんと謝ること。」
「どんな理由があったとしても、強い言葉をぶつけたのはダイヤだから。」
「……うん。」
ダイヤは静かに頷く。
その返事だけで、自分でもそれは分かっていたんだと伝わってきた。
「そして。」
私はもう一本、指を立てる。
「こっちの方が大事。」
ダイヤの表情が少しだけ引き締まる。
「ルベウス君の話を、最後までちゃんと聞くこと。」
「その上で、自分はどうすればいいかを決めればいい。」
「………。」
ダイヤは何も答えなかった。
ただ、ぱちりと瞬きを繰り返しながら、きょとんと私を見つめている。
……うん、何となくそんな反応をすると思った。
私は思わず苦笑した。
「もしかして、『認めるしかない』って思った?」
瞬間、ダイヤの肩がぴくりと震えた。どうやら図星だったみたい。
「……間違ってたのは、私だもん。」
「ちゃんと謝って、キタちゃんとルベウスさんのことを応援しないと……。」
そう言って俯くダイヤを見て、私は小さく息をついた。
やっぱり。
この子は、自分を責め始めると一直線なんだ。
「ダイヤ。」
私は優しく名前を呼ぶ。
「そうやって答えを急ぐのは、ダイヤの悪いクセだよ。」
「……え?」
ダイヤがゆっくりと顔を上げる。
「ダイヤが間違ってたことと、ルベウス君がキタサンの隣に相応しいかどうかは、全く別のお話。」
「だからね。」
「謝ることはちゃんと謝る。でも、そのあとどうするかはまだ決めなくていい。」
「まずはルベウス君の話を聞いて。」
「自分の目で見て、自分の心で考える。」
私はダイヤの瞳をまっすぐ見つめる。
「それでも認められないって思うなら、それも一つの答えだよ。」
「………。」
ダイヤは目を丸くしたまま、言葉を失っていた。
きっと、そんな選択肢があるなんて、一度も考えたことがなかったんだろう。
「でも……。」
ダイヤが不安そうに口を開いた。
「私は、何を見ればいいの?」
「難しく考えなくていいよ。」
私は少しだけ考えてから、小さく笑う。
「ダイヤが見ればいいのは、一つだけ。」
「ルベウス君が、キタサンの隣に立つ人として、本当に信じられるかどうか。」
少し間が空いて、ダイヤは口を小さく開いた。
「信じられる……?」
「うん。」
私は静かに頷いた。
「表面上で楽しい人なんて、この世界にはいくらでもいる。」
「優しい人、面白い人も、探せばたくさんいるよ。」
「でもね。」
私はダイヤの瞳をまっすぐ見つめる。
「ずっと隣に立ち続ける人は、それだけじゃ務まらない。」
「嬉しい時だけじゃなくて、苦しい時も、悩んだ時も、ちゃんと隣で支え合える存在なのか。」
「それを見極めるのは、幼馴染のダイヤにしかできないことだと思う。」
「………。」
しばらく沈黙が続く。
やがてダイヤは、小さく唇を動かした。
「……私が、勝手に決めてもいいのかな。」
私は少しだけ目を細めた。
やっぱり、この子は優しい。
だからこそ、自分の気持ちよりも先に、相手のことを考えてしまう。
「ダイヤ。」
私が名前を呼ぶと、ダイヤは少しだけ顔を上げ、目線だけでこちらを見た。
「応援することだけが、友達じゃないよ。」
「……えっ?」
ダイヤは目を丸くしながら、今度はしっかりと顔を上げた。
「本当に幸せになれるって感じたなら、背中を押してあげるべきだと思うよ。」
「でもね――」
私は一度、言葉を切る。
そして、ダイヤの目をまっすぐに見て、伝えた。
「もし、違うって思ったなら。」
「その時は止めるのが、友達の仕事なんだよ。」
その時、ダイヤの瞳に一瞬光がさすのが見えた。
私はその反応を見届けながら、静かに言葉を続ける。
「これは、お節介なんかじゃない。」
「キタサンを大切に思っているからこそ、できることなんだから。」
ダイヤは何も答えなかった。
ただ、じっとテーブルの上を見つめている。
きっと今、この子の中で、“幼馴染として何をするべきか”という答えが少しずつ形になり始めている。
私はそんなダイヤを見ながら、心の中でそっと笑った。
・・・・・
「もしこの先、キタちゃんの隣に立つ時が来たら――」
私は一度、言葉を区切った。
空は茜色から、少しずつ紫色へと移り始めている。その境目に浮かぶ雲が、夕陽を受けて淡く輝いていた。
私は一つ席を空けて座るルベウスさんに顔を向ける。彼の横顔もまた、夕陽に照らされていた。
さっきまで穏やかに話していた彼の表情が、ほんの少しだけ引き締まる。
私は膝の上で手を組んだ。
ここから先は、クラちゃんに言われたから聞くんじゃない。
幼馴染だから、聞かなければならない。
キタちゃんのことをずっと見てきた私だからこそ、自分の目で確かめなければならない。
そう決めた。
「あなたは」
声が僅かに震えそうになる。
それでも、目を逸らさなかった。
「その隣に、立ち続けられますか。」
ルベウスさんは、すぐには答えなかった。
ただ、私の言葉を受け止めるように、静かにこちらを見つめている。
風が吹いた。
芝の匂いを含んだ涼しい風が、私たちの間を通り抜けていく。
私は無意識に、ズボンの裾を握った。
怖い。
これから何を言われるのか。
そして、その答えを聞いた私は、何を思うのか。
分からない。
それでも、もう目を逸らすつもりはなかった。
ルベウスさんはしばらく何かを考えるように視線を落としていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
夕陽を映したその瞳は、まっすぐに私を捉えていた。
「俺は、キタサンの隣に立つつもりはありません。」
「……え?」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
聞き間違いだろうか。
私は今、何を聞いたのだろう。
隣に立つつもりがない。
それはつまり――。
いや、そんなはずはない。
「それは……どういう意味ですか?」
頭で考えるより先に、声が出ていた。
「……もし、立つとしたら。」
ルベウスさんの瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「キタサンの隣ではなく、前に立ちたいんです。」
「………。」
――前?
私の思考が、一瞬止まった。
隣ではなく、前。
それはつまり……。
(……まさか。)
胸の奥が、どくん、と大きく鳴る。
(付き合うとか、そういう話より……さ、さらに先を……!?)
まさか。
まさか、そこまで考えて――。
「……サトノダイヤモンドさん?」
「はっ!」
ルベウスさんに呼ばれて、私は全身を揺らす。
前に視線を向ければ、ルベウスさんが覗き込むように私をみていた。
「ご、ごめんなさい。少しびっくりしちゃって……。」
小さく咳払いを挟み、姿勢を直す。
「……ルベウスさんは、強いお方なのですね。」
「まだまだですよ。」
そう言って微笑むルベウスさん。本心なのか、謙遜なのかよく分からない反応。
それでも、一つだけ確信したことがあった。
その瞳に、嘘は無かった。
彼はただ一直線に、私の目を見ながら答えた。
(……敵わないな。)
自分が予想していた以上に、そう思った。
悔しいはずなのに、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
彼なら、キタちゃんの隣に立ってもいい。
……いや。
彼こそが、キタちゃんの隣に立つべき者なんだ。
「ルベウスさんの想いは、十分に伝わりました。」
私は静かに息を吐いた。
胸の奥に残っていた迷いは、もう無い。
ルベウスさんなら大丈夫。
キタちゃんが彼と一緒に歩いていく未来を、私は――。
「間違っていたのは、やはり私だったようです。」
私は小さく微笑み、彼の目をまっすぐ見つめた。
そして、軽く頭を下げる。
「どうか、キタちゃんを幸せにしてあげてください。」
後悔もなく、胸もスッキリしていた。
これで問題は解決した……はずだった。
「……はい?」
――あ、あれ?
返ってきたのは、私が期待していた力強い返事ではなかった。
むしろ、何を言われたのか分からないと言わんばかりの声。
「ど、どうしてそこで『はい』とハッキリ言わないのですか!」
そうツッコむけど、返ってきたのは想定外すぎる言葉だった。
「いや……急に何の話をしているのかなと……。」
「な、何って……!」
思わず身を乗り出す。
「ルベウスさんが言ったんじゃないですか!キタちゃんの前に立ちたいと……!」
すると、ルベウスさんは少し考えるように視線を上へ向けた。
「いやでも……どうしてそれが “キタサンの幸せ” に繋がるんですか?」
時が止まった。
今、なんと?
私の頭の中で、先ほどまで繋がっていたはずの言葉が、一つずつ音を立てて崩れていく。
「……ル、ルベウスさん。」
「はい。」
「あなたは……私のキタちゃんの話を、何の話だと思って聞かれていたのですか?」
恐る恐る尋ねる。
しかしルベウスさんは、少しも迷うことなく答えた。
「 “キタサンのライバルとしてどう在るべきか” ……という話ですよね。」
「……はい?」
今度は私の方が、間の抜けた声を漏らしていた。
ルベウスさんは困ったように眉を下げる。
「……違うんですか?」
「………。」
違う。
違うどころではない。
私は今まで、“キタちゃんとの未来” について話していたつもりで。
ルベウスさんは、ルベウスさんで――。
全く別の話をしていた?
「で、では……。」
私は再び恐る恐る口を開いた。
「私が以前、『認めない』と言ったことについては……どのように解釈を?」
ルベウスさんは少しだけ考えるように眉を寄せる。
「……『ウマ娘だけど男であるヤツが、トレセン学園の転入試験を受けるなんて認めない』……みたいな感じです。」
「………。」
その瞬間。
頭の中で、何かが繋がった。
『俺がどんなウマ娘なのか、ちゃんと見てもらいたかったからです。』
あの言葉。
私はてっきり――。
(……つまり、そういうこと!?)
胸の奥が、急に熱くなった。
「えと……違うんですか?」
違う。
何もかも違う。
私が “キタちゃんへの想い” だと思っていた言葉も。
『ここにいてもいいと思ってもらえるように』という覚悟も。
そして――。
『キタサンの隣ではなく、前に立ちたいんです。』
あれも。
全部。
「………。」
私は、ゆっくりと俯いた。
顔が熱い。
今なら、床に穴を掘ってそのまま潜り込めそうだった。
「あの……サトノダイヤモンドさん?」
「………。」
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫では、ありません。」
「え。」
「今すぐ、私をどこかに埋めてください……。」
「なぜ?」
ルベウスさんの困惑した声が聞こえる。
私は耐えられず、両手で顔を覆った。
――恥ずかしい。
あまりにも、恥ずかしすぎる。
今までの私の悩みは、一体何だったのだろうか……。
・・・・・
――それから、少しだけ時間が経った。
顔から火が出そうなほどの羞恥心も、どうにか落ち着いてきた。
私は隣の席との間にある一つ分の空席を見つめながら、ぽつりぽつりと話していた。
「……つまり、私は……。」
何度言葉にしても恥ずかしい。
それでも、ここまで来た以上は誤魔化せない。
「ルベウスさんとキタちゃんが、その……。」
「お、お付き合いするのではないかと、思っていたんです……。」
言ってしまった。
私は思わず俯いた。
隣から、しばらく何の反応も返ってこない。
「………。」
「………。」
恐る恐る顔を上げる。
ルベウスさんは、目を丸くしたままこちらを見ていた。
「そ、それで……キタちゃんの幼馴染である私は、その……二人の関係を認めるべきなのか、と……。」
「………。」
ルベウスさんは黙っている。
やっぱり、変に思われただろうか。
当然だ。
こんなことを、いきなり本人に話すなんて。
「……すみません。」
私は深く頭を下げる。
すると、ルベウスさんは――
「どうして謝るんですか?」
「え?」
「俺は、その……。」
ルベウスさんは少し困ったように頬を掻いた。
「キタサンと付き合うとか、そういうことを考えたことはないのでビックリしましたけど……。」
「う……。」
今度こそ。
私は何も言えなくなった。
「……そう、ですよね。」
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
改めて本人から言われると、羞恥心がもう一度込み上げてくる。
「でも……。」
ルベウスさんが、少しだけ声を柔らかくした。
「サトノダイヤモンドさんが、どうして俺にあんなことを言ったのかは分かりました。」
「……え?」
「キタサンのことを、それだけ大切に思っているんですね。」
その言葉に、私は顔を上げた。
からかわれているわけでもない。
呆れられているわけでもない。
ただ、本当にそう思ったから口にした。
そんな顔だった。
「……はい。」
だから私も、今度は迷わず頷いた。
「キタちゃんは私にとって、とても大切な親友ですから。」
私がそう答えると、ルベウスさんはしばらく考えるように黙り込んでいた。
やがて、何かに気づいたように口を開く。
「一応言っておくんですけど……。俺、誰かと付き合う気はないです。」
「えっ……?」
思わず顔を上げた。
あまりにもあっさりと言われたものだから、聞き間違えたのかと思ってしまう。
「俺が走れるうちは、走ることに集中したいんです。」
ルベウスさんは、さも当たり前のことを話すように言った。
「それに、相手の走りを邪魔するのも嫌ですし。」
「な、なるほど……。」
彼にとって、『走る』という行為は。
他の何かでは、決して埋めることのできないほど大切なものなのだろう。
だからこそ、誰かと付き合うことさえも、今は選ばない。
その考え方は、彼がキタちゃんの前に立とうとしている理由とも、どこか繋がっているような気がした。
「それに、キタサンもきっと、同じことを考えてますよ。」
「………。」
私は、少しだけ黙った。
そして、胸の中で小さく呟く。
(それは、どうだろう……。)
確かにキタちゃんは、走ることが大好きだ。
レースやトレーニングの話をしている時のキタちゃんは本当に楽しそうで、私もそれをよく知っている。
けれど――。
キタちゃんが誰かを好きになることまで、幼馴染の私が否定できるわけじゃない。
むしろ。
ついさっきまで、私はその『誰か』がルベウスさんなのだと思っていたくらいなのだから。
私はそっと、隣に座るルベウスさんを見る。
その表情は、どこまでも真剣だった。
気づけば、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
・・・・・
気がつけば、さっきまで茜色に染まっていた空も、少しずつ青みを増していた。
やがて、トレーニング場を囲む照明が一斉に灯る。
白い照明に照らされた芝生とトラックが、夜の帳の中に浮かび上がった。
もうすぐ、今日という日が終わる。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
私は、隣に座るルベウスさんへ顔を向けた。
「はい。」
優しく、穏やかな声。
私は一度だけ息を整える。
今度は、キタちゃんのことではない。
私が知りたいのは――。
「……怖く、ないんですか?」
「……?」
ルベウスさんが、不思議そうにこちらを見る。
「あなたが、ウマ娘でありながら男であること。」
「そして……そのあなたが、トレセン学園の転入試験を受けようとしていることが……。」
言い終えて、私は静かにその横顔を見つめる。
きっと、怖くなんてないのだろう。
だってルベウスさんは、私が「認めない」と言った翌日も、何事もなかったかのようにトレーニング場へ来ていた。
それどころか、私に挨拶までしてきた。
拒絶されても、自分から歩み寄ることができる。
そんな強靭な心を持っているウマ娘なのだから。
きっと、何も恐れてはいないのだと。
そう思っていた。
「怖いですよ。」
「…………え?」
予想とは正反対の答えに、思わず声が漏れた。
ルベウスさんは、ターフへ視線を向けたまま続ける。
「これからどうなるのかなんて、俺にも分かりません。」
「俺のことを、変な目で見る人もいると思います。」
「もしかしたら、俺が走ることそのものを否定する人だっているかもしれない。」
淡々とした言葉。
けれど、その声には確かな重みがあった。
「……それでも。」
そこで、ルベウスさんは一度言葉を止める。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「誰かに言われて夢を諦めるようなことは、もうしたくないんです。」
「………。」
私は、その言葉を胸の中で何度も繰り返した。
怖くないわけじゃない。
ただ、怖くても前へ進むことを選んでいる。
それは、きっと――。
「……私も、同じかもしれません。」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
ルベウスさんが、こちらへ顔を向ける。
「私にも、叶えたい夢があります。」
「夢?」
「はい。」
私は膝の上に置いた手を、そっと握った。
「『サトノ家のウマ娘は、GⅠに勝てない。』」
それは、いつから言われ始めたのかも分からない。
誰が言い出したのかも、いつからそう呼ばれるようになったのかも知らない。
ただ、長い間。
サトノ家には、そんなジンクスが付きまとっていた。
「誰が言い始めたのかも分からない、そんな噂です。」
「でも……私は、それを終わらせたい。」
私は顔を上げる。
「サトノ家のウマ娘として、GⅠで勝利する。」
「それが、私の夢なんです。」
ルベウスさんは何も言わなかった。
ただ、静かに私の話を聞いていた。
しばらくして――。
「……なんだか似てますね、俺たち。」
ルベウスさんが、ぽつりと呟いた。
「誰が決めたのかも分からないものに、『無理だ』って言われて。」
「それを、自分の力でひっくり返そうとしてる。」
そう言って、ルベウスさんは笑った。
その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥が軽くなる。
「……ふふっ。」
私も、思わず笑ってしまった。
「そうですね。」
夕暮れはもう終わり、トレーニング場には夜の照明が灯っている。
ほんの少し前まで、私はこの人のことを「キタちゃんの隣に立つかもしれない人」として見ていた。
でも、今は違う。
彼もまた、私と同じように――。
誰かに決められた運命を、自分の手で変えようとしている。
二人で顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑った。
・・・・・
気づけば、空はすっかり暗くなっていた。
トレーニング場を照らしていた照明も、いつの間にか夜の色に馴染んでいる。
「……そろそろ、帰りましょうか。」
「そうですね。」
私たちは席を立った。
観客席から出口へ向かう階段を、並んでゆっくりと下りていく。
さっきまであれほど緊張していたのが、嘘みたいだった。
話したことは、決して軽いものではなかった。
それでも今は、不思議と心が穏やかだった。
出口まで辿り着く。
「それじゃあ、俺はライツ博士のところに行かなきゃなので。」
ルベウスさんがこちらを向いた。
「さようなら、サトノダイヤモンドさん。」
「………。」
その呼び方に、私は少しだけ立ち止まった。
今日これだけ話して、改めて仲良くなれたと思ったからこそ。
ほんの少しだけ――距離があるような気がした。
「……あ、あの!」
私は少し迷った。
けれど、分かったことがある。
彼とは、もう少しだけ近いところで話してみたい。
「これから私を呼ぶ時は……ダイヤって呼んでほしいです。」
そう口にしたはいいものの、だんだん恥ずかしくなってきた。
「いや、その、フルネームでさん付けだと、距離があるように感じて……。」
自分でも分かるくらい、頬が熱くなっていく。
「私も、これからはロードくんって呼びますから……!」
「………。」
「……あ。」
瞬間、私は思わず口元を手で覆った。
(……どうして、わざわざ下の名前を……?)
これまでが『ルベウスさん』だったのだから、『ルベウス君』と呼べばいいのに。
どうして私は、わざわざ――。
そんな私の困惑など知る由もなく、ルベウスさんは穏やかに笑った。
「分かった。」
そして。
「改めてよろしく、ダイヤ。」
「――――ッ!?」
心臓が、大きく跳ねた。
顔が一気に熱くなる。
「な、なな……!」
何なの。
今の。
ただ名前を呼ばれただけなのに。
どうして、こんなに――。
どくん、どくん、と心臓がうるさい。
「ダイヤ?」
「……っ!」
また呼ばれた。
もう駄目だ。
わけが分からない。
「そ、それじゃあ……!」
私は勢いよく頭を下げた。
「さようならっ!」
私は返事を待つこともなく、駆け出した。
その場から逃げるようにトレーニング場を後にする。
背中にルベウスさんの視線を感じる。
けれど、振り返ることなんてできなかった。
学園の門の前まで逃げてきて、ようやく立ち止まった。
胸に手を当てる。
心臓は、まだ全然静まってくれない。
――今日まで。
私はずっと、ルベウスさんのことを「キタちゃんの隣に立つかもしれない人」として見ていた。
けれど。
今は、もう違う。
私たちは、夢を追う者同士。
誰かに決められた “ジンクス” 覆そうとしている者同士。
「……ロードくん。」
周りに誰もいないことを確認し、もう一度彼の名前を口にしてみる。
その名前を呼ぶと、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
不思議と――『ルベウスさん』よりも、呼びやすい気がした。
・・・・・
翌日、日曜日のトレセン学園は、昨日よりも比較的静かだった。
朝のトレーニングを終えた私は、キタちゃんと並んで廊下を歩いていた。
「ねえ、ダイヤちゃん。」
「なぁに?」
「昨日クラちゃんから聞いたんだけど、ロードくんと何か話してたんだよね?」
「……っ。」
思わず足が止まりそうになる。
「うん、少しだけだけど。」
「ふぅん。」
キタちゃんは少し考えるように顔を上に向けて、尋ねた。
「聞いてもいいのかわからないけど……どんな話してたの?」
昨日のことを思い出す。
自分の間違いを認めて、ルベウスさんと話して。
想定外すぎるすれ違いがあって、ジンクスを破るという共通点があることを知って。
そして――。
(……ロードくん。)
そう心の中で呼んだだけで、なぜか少しだけ頬が熱くなった。
「……ダイヤちゃん?」
「な、何でもないよ!」
「?」
慌てて誤魔化す。
その時だった。
「あっ。」
前方から、見慣れた姿が歩いてくる。
キタちゃんもすぐに気づいた。
「あっ、ロードくん!」
キタちゃんが手を振る。
向こうもこちらに気づいたらしい。
「キタサン。それにーー」
そこで、ロード君が一瞬だけ言葉を止めた。
そして。
「ダイヤも。」
「――はいっ。」
名前を呼ばれた瞬間、胸が小さく跳ねた。
「おはようございます、ロードくん。」
「うん。おはよう、ダイヤ。」
自然なやり取り。
けれど。
「………。」
隣から、何やら視線を感じる。
「えっと……キタちゃん?」
「むむ……。」
「……?」
キタちゃんは頬を少しだけ膨らませて、私とロードくんを交互に見ていた。
「……ダイヤちゃん。」
「は、はい。」
なぜかは分からないけど、自然と敬語になってしまう。
「いつの間に、そんなに仲良くなったの?」
「えっ!?」
思わず、声が裏返った。
「だって昨日まで『ルベウスさん』って呼んでたよね?」
「そ、それは……!」
言葉に詰まる。
確かに。
昨日までは、ずっとそう呼んでいた。
なのに今は――。
「昨日話終わった後に、ダイヤが『そう呼んで欲しい』って言ってきたから。」
「ロ、ロードくん!?」
再び、声が裏返った。
「恥ずかしいから、言わないでほしかったのに……!」
「ごめん。次から気をつける。」
「もう遅いですよっ!」
顔が熱い。
昨日の別れ際のことを思い出して、余計に恥ずかしくなってくる。
そんな私たちを、キタちゃんはじっと見つめていた。
「………。」
さっきまでの笑顔は、どこへやら。
頬を少し膨らませて、私とロードくんを交互に見ている。
「むむむ……!」
「キタサン?」
ロードくんが、不思議そうに首を傾げる。
けれど、キタちゃんはそんな彼を見上げると――。
「なんでもない!」
ぷい、と顔を逸らした。
「……?」
ロードくんはますます分からないといった様子で首を傾げる。
私はそんなキタちゃんを見て、こちらも首を傾げた。
「キタちゃん……?」
「なんでもないってば。」
「でも……。」
「ほんとに、なんでもないから!」
そう言いながらも、頬はまだ膨らんだまま。
どう見ても「なんでもない」顔ではない。
ロードくんはそんなキタちゃんをしばらく眺めていたけれど、やがて何かを思い出したようにスマホの画面へ目を落とした。
「あ。」
「どうしましたか?」
「今から勉強だから、もう行くね。」
「あ……。」
思わず声が漏れる。
けれど、すぐに笑顔を作った。
「が、頑張ってください!」
「ありがとう。」
ロードくんはいつもの穏やかな笑顔を浮かべる。
そして、そのまま私たちの横を通り過ぎていった。
「………。」
キタちゃんが、じっとその背中を見つめている。
「……キタちゃん?」
私が声をかけると、キタちゃんはジトっと私を見た。
「……絶対負けないから。」
「へぇっ!?」
突然の言葉に、思わず素っ頓狂な声が出た。
「ちがっ……! 私はそんなつもりは少しもなくて……!」
慌てて両手を振りながら釈明する。
「ほ、本当に違うから! 昨日、ロードくんとお話ししたのは、その……!」
「ふふっ!」
「……え?」
突然、キタちゃんが吹き出した。
目元を細め、口元を押さえながら、くすくすと笑っている。
「もう、ダイヤちゃんってば。」
「……キタちゃん?」
「冗談だよ、冗談!」
「じょ、冗談……?」
「うん!」
そう言って、キタちゃんは楽しそうに笑った。
「ダイヤちゃんがそんなに慌てるとは思わなかったけど。」
「だ、だって……!」
私は胸を押さえる。
心臓がまだ、ばくばくと鳴っている。
「……もう、キタちゃん!」
「あははっ!ごめんごめん。」
そう言って笑うキタちゃんは、ゆっくりと歩き出した。
見せてくれた笑顔は、いつもと何も変わらない。
だけど――。
私は知っている。
キタちゃんが、本当に何も思っていない時の笑い方。
そして、何かを胸の奥に隠している時の笑い方。
幼い頃からずっと隣にいた私には、それくらい分かる。
だから。
さっきの「絶対負けない」は――。
きっと、冗談なんかじゃない。
私は拳を握り、小さく息を吐いた。
「……キタちゃん。」
「ん?」
キタちゃんは足を止めて振り返る。
私は、いつものように笑った。
「私は、キタちゃんの味方だよ。」
「……!」
キタちゃんの目が、ほんの少しだけ見開かれる。
けれど、それも一瞬。
「……うん。」
やがて、キタちゃんは少しだけ目を細めて笑った。
「ありがと、ダイヤちゃん。」
「どういたしまして。」
私も笑い返す。
――これでいい。
私は、キタちゃんの味方。
それだけは、これからも変わらない。
この先、何が起こったとしても。
つづく
次回からはまたトレーニングの様子を書いていきます。なるべく巻いていきたい。
恋愛がメインの話は、状況をみて書いていきたいと思ってます。
では、また。