トレーナーのみなさん、こんにちは。
大谷選手の「憧れるのを、やめましょう」って言葉は、とんでもない名言だなと改めて思いました。
五時間目の授業が始まる頃になると、トレセン学園は不思議なほど静かになる。
廊下を行き交う生徒の姿もなく、窓の外から聞こえてくるのは、小鳥たちの囀りのみ。
そんな静寂に包まれた研究室で、ライツは一人、手を止めていた。
目の前に置かれているのは、これまでのロードのトレーニング記録。
フォーム改造を始めてから、早くも半月が経とうとしている。
結果だけを見れば、これ以上無いほどに順調だった。
踏み込みから解放へ。
余計な力を削ぎ落とし、左足への負荷を抑えながら最大限の推進力を生み出す。
そのフォーム自体は、もはや完成形と言っても過言ではない。
しかし、問題はその先だった。
「………。」
ライツは記録用紙から視線を上げる。
フォームの再現性は高い。
速度も落ちていない。
左足への負荷も、想定の範囲内に収まっている。
それでも。
彼は未だに、動作の一つひとつを意識している。
力を抑えて踏み込み、力を溜め、解放する。
その一連の動作を、頭の中で確認しながら走っているのだ。
ライツは椅子の背に身体を預け、小さく息を吐いた。
当初の計画では、一ヶ月。
転入試験までの三ヶ月のうち、一ヶ月を使って、現在のフォームを無意識下へ移行させる。
それが、今回のフォーム改造における一つの目標だった。
しかし。
「……修正すべきだな。」
ぽつりと呟く。
運動を意識的な制御から無意識的な制御へ移行させるまでに必要な時間には、個人差がある。
すぐに身体へ馴染む者もいれば、長い時間を必要とする者もいる。
だからこそ。
一ヶ月という時間だけを担保に、ロードの身体がこちらの想定通りに変化すると考えるのは危険だった。
このまま無意識化だけに拘れば――。
転入試験までの貴重な時間を、ただ費やしてしまう。
「………。」
ライツは再び記録へ目を落とした。
必要なのは、フォームを捨てることではない。
ここまで積み上げてきたものを崩すことでもない。
むしろ逆だ。
このフォームを維持したまま、今の彼にできることを増やす。
「何か、別の方法を……。」
ライツは一人、思考の海へ沈んでいく。
結局、考えても考えても、答えが出ることはなかった。
(……少し、頭を冷やすとしよう。)
ライツはそう呟くと、研究室を出た。
向かったのは、学園の購買。
何か甘いものでも口にすれば、少しは頭が働くかもしれない。
そんな軽い気持ちだった。
購買に続く廊下を進んでいると、何やら話し声が聞こえてきた。
「――だから、あいつの場合は……。」
「それなら最初の位置取りを――」
見れば、購買近くに用意されたテーブルに、二人のトレーナーが集まっている。
あれは、サイレンススズカの担当をしている沖野トレーナーだ。
もう一人は、学園最強と謳われるチーム『リギル』の東条トレーナーだったか。
どうやらトレーナー同士で何かを話し合っているらしい。
「………。」
ライツは少しだけ考える。
これは、ちょうどいい機会かもしれない。
自分はあくまで研究者だ。
身体の動きや運動学習について考えることはできても、実際にウマ娘をレースへ送り出すことについては、彼らの方が遥かに経験がある。
(……本職の意見も、聞いてみるとしよう。)
ライツは静かに進行方向を変えた。
購買へ向かうはずだった電動車椅子が、少しずつトレーナーたちの方へ進んでいく。
二人の会話の様子を見て、声をかけた。
「こんにちは。」
「あら、ライツ博士。」
「こんにちは。」
ライツの訪問に、二人は体の向きを変える。
「お話の最中悪いが……少し、お時間よろしいかな?」
「もちろんですけど……どうかされましたか?」
「いやなに。」
ライツは小さく笑った。
「少しばかり、トレーナーである君たちに相談したいことがあってね。」
そうしてライツは、事の経緯を話し始める。トレーナーたちは、黙って耳を傾けていた。
「……というワケで、絶賛停滞中でね……。」
ライツがそう締めくくると、二人は思案するように黙り込んだ。
最初に口を開いたのは、沖野だった。
「しっかり見てたワケじゃないですけど……スズカの走りは、ちゃんと取り入れられていたと思います。」
「ええ。」
東条も頷く。
「全体的に、力が抜けているように思いました。」
「最初は『論外だ』とぶった斬っていたおハナさんが、『少しはマシになった』と言うくらいでしたからね。」
「そっ、それは今関係ないでしょう!?」
ニヤリと笑う沖野に、東条が即座に噛みつく。
穏やかそうに思っていた彼女の反応に、ライツは目を丸くする。
東条はハッと我に帰り、一つ咳払いをしてから改めてライツへ向き直った。
「しかし、ライツ博士。」
「無意識で加速できるようにさせる理由は、いったい……?」
その疑問に、ライツは少しだけ目を細めた。
「彼は今、レース展開や駆け引きを勉強している最中。思考のリソースはなるべくそちらに割いてやるべきだと思ったんだ。」
「思考の……リソース。」
東条が呟く。
「走り方を意識しながら、レース展開まで考える。だが、それでは彼が本来使えるはずの思考まで奪ってしまう。」
「だから、走ることを無意識に任せられる状態まで持っていきたかった。」
「なるほど……。」
東条が納得したように頷く。
一方、沖野はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「気持ちは分かります、ライツ博士。」
沖野が座る体勢を整えて、話し始めた。
「ルベウスは、普通のウマ娘とは事情が違う。」
「だからこそ、少しでも余計なことを考えなくて済むようにしてやりたい。そういうことでしょう?」
「ああ。」
ライツは迷いなく頷いた。
ロードの走りは、ここまで来た。
踏み込み。
荷重。
そして、解放。
その一連の動作は、もうほとんど完成している。
ならば、あとはそれを身体に刻み込めばいい。
そう考えていた。
――少なくとも、今までは。
「……ですが。」
沖野の声が、静かに響く。
「少し、ルベウスに求めすぎたのかもしれませんね。」
ライツの瞳が、僅かに揺れた。
「求めすぎた……?」
「はい。」
沖野は頷く。
「フォームを完成させて、無意識で走れるようにして、そのうえでレースの駆け引きまで覚えさせる。」
「それを、三ヶ月で全部やろうとしてるんでしょう?」
ライツは何も答えなかった。
ただ、膝の上に置かれた手が、ほんの少しだけ動く。
「……しかし。」
ようやく口を開く。
「フォームそのものは仕上がっている。それを完全なものにするためには――」
「それですよ、ライツ博士。」
沖野はライツをまっすぐ見た。
「博士はフォームを『完成させる』ことを考えてる。」
「でも、ルベウスが三ヶ月後に必要なのは、本当に『完成した走り』なのでしょうか?」
「………。」
その言葉に。
ライツは初めて、答えを返せなかった。
その沈黙の中、静かに声を挟んだのは東条だった。
「私は、博士の考えが間違っているわけではないと思います。」
「東条君……。」
「むしろ、理に適っていると思います。」
東条はライツの方へ身体を向ける。
「博士が予測している通り、走りの動作を無意識に任せられるようになれば、彼はレース展開や駆け引きに、より多くの意識を割けるようになる。」
「それは、彼にとって大きな武器になるでしょう。」
ライツは静かに頷いた。
「ですが……。」
東条はそこで、一度言葉を切った。
「問題は、それを『今、この瞬間に完成させなければならないのか』ということです。」
「………。」
ライツの瞳が僅かに揺れる。
「無意識化には時間が必要です。それを一ヶ月という期限に当てはめること自体が、間違いだったのかもしれません。」
「だからこそ。」
東条は穏やかに続けた。
「今のルベウス君にできることを、別に探してみても良いのではないでしょうか。」
「………。」
ライツは黙ったまま、膝の上の記録用紙へ目を落とした。
フォームは、確かに完成へ近づいている。
ならば。
このフォームを完成させることだけが、今やるべきことなのだろうか。
「……なるほど。」
ライツは小さく呟いた。
フォームは、ほぼ完成している。
だからこそ。
その先をどうするべきなのか。
自分なら、答えを出せると思っていた。
研究者として。
これまで積み重ねてきた知識と経験を使えば、きっと別の方法を見つけられる。
――そうでなければならない。
「………。」
しかし。
ライツはふと、手元の時計へ目を向けた。
時間は、止まってくれない。
転入試験まで二ヶ月半。
そして、自分が定めた無意識化の期限までは、もう半月ほどしか残されていない。
「………。」
ライツは、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、沖野と東条。
どちらも、自分より遥かに多くのウマ娘をレースへ送り出してきたトレーナーだ。
本来なら。
これは、ロードの担当になった自分が答えを探すべき問題だろう。
研究者として、それが当然だ。
けれど――。
「君たちなら、どうする?」
「え……。」
沖野が目を丸くする。
東条も、僅かに目を見開いた。
そんか二人の反応に、ライツは苦笑した。
「……本来ならば、私自身が答えを模索するべきなのだろう。」
そこで一度、言葉を切る。
「だが……彼には時間がない。」
「………。」
沖野の表情から、笑みが消えた。
「ロード君は、これから自分の夢を追いかける。」
「そのための最初の関門が、夏にある。」
「ならば私は、自分のくだらない意地のために、残りの時間を使わせたくない。」
ライツは二人をまっすぐに見つめる。
「どうか、教えてほしい。」
「今のロード君に、どのようなトレーニングをさせるべきなのかを。」
そして彼女は、深く頭を下げる。
研究者としてではなく、誰かをレースへ送り出す者としての答えを、ライツは求めていた。
・・・・・
沖野と東条との話を終えたライツは、研究室へ向かう。
二人と話したことで、今のロードに必要なことは何か――。その輪郭が、少しずつ見えてきた。
無意識で走れるようにすること。それは、決して間違った目標ではない。
しかし、それだけに固執する必要もない。
今のロードに必要なのは “完成された走り” ではなく、“三ヶ月後の彼に繋がる走り” なのかもしれない。
「………。」
ライツは思考を巡らせながら、研究室へと向かった。
扉を開けた――その瞬間。
「ひゃ!?」
目の前に人影があった。
思わず声を上げ、ライツの身体がびくりと跳ねる。
そこに立っていたのは――。
「……ロ、ロード君?」
「はい。」
ロードが、きょとんとした顔で立っていた。
その様子を見るに、ちょうど今来たらしい。
「お、驚かせないでくれ!」
「すみません。」
ライツは胸を撫で下ろす。
「それにしても……随分早かったね。」
「え?」
「ほら、普段はもう少し遅いだろう?」
そう言ったところで、ロードが少し不思議そうに首を傾げた。
「今日は午後放課だって、昨日言いませんでした?」
「………。」
ライツの動きが止まった。
「……そうだったね。」
「大丈夫ですか?」
「いや……完全に忘れていたよ。」
思い返してみれば、お昼からずっとロードのトレーニングについて考えていた。そしてつい先ほどまでは、沖野と東条との話に夢中になっていた。
すっかり記憶から抜け落ちていたらしい。
「お疲れですか?」
「いや、疲れているわけではないんだ。」
ライツは小さく首を振った。
「ただ……少し、考え事をしていてね。」
「考え事、ですか。」
「ああ。」
ライツはロードを見る。
その表情はいつもと変わらない。
けれど、つい先ほどまで自分が考えていたことを思い返すと、自然と表情が引き締まった。
今までのトレーニングが間違っていたわけではない。
むしろ、ここまでの成果は十分に出ている。
だからこそ――。
「……ロード君。」
「はい?」
ロードが振り返る。
ライツは一度だけ息を吐いた。
沖野と東条から聞いた言葉。
そして、研究室へ戻るまでの間に考え続けたこと。
まだ自分の中でも整理しきれてはいない。
それでも。
今の彼に伝えなければならないことがある。
「少し、大事な話がある。」
「……大事な話?」
「ああ。」
ライツはロードをまっすぐ見つめた。
「君の、これからのトレーニングについてだ。」
ライツとロードは研究室の奥にあるソファへ移動し、向かい合うように腰を下ろす。
ロードは何かを察したのか、いつになく真剣な表情を浮かべていた。
「まずは、ここまでのトレーニングを振り返ろう。」
「はい。」
ライツは手元の記録に目を落とした。
「フォームの改造を始めてから、君の走りは大きく変わった。」
「踏み込みの際に余計な力を使わず、荷重を適切に受け止め、そこから解放する。」
「以前よりも左足への負担を抑えながら、十分な推進力を生み出せるようになっている。」
ロードは黙って頷く。
ライツは記録用紙をそっと閉じた。
「前にも言ったが、フォームそのものについては完成に近い。」
そこで一度、言葉を切る。
「しかし。」
ライツの声が、少しだけ低くなった。
「一つだけ、当初の予定通りに進んでいないことがある。」
「……無意識化、ですね。」
「そうだ。」
ロードが僅かに目を伏せる。
「踏み込みから解放までの動作を、意識せずに行う。それを、一ヶ月以内の目標としてきた。」
「だが……なかなか上手くいかない。」
ロードは頷いた。
「だから――。」
ほんの一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「無意識で走るためのトレーニングを、中止しようと思う。」
刹那、ロードの目が見開かれた。
「中止……ですか?」
「ああ。」
「つまり……俺には無理だと?」
「いや、それは違う。」
ライツは即座に否定した。
「君にできないと言っているわけではない。むしろ逆だ。」
ライツはロードの目を見つめる。
「無意識で動かせるようになることは、確かに大きな武器になる。」
「だが、それがどれだけの時間で身につくかは誰にも分からない。」
「………。」
ロードは黙って耳を傾けている。
「故に私は、“走りを完成させる”のではなく、“実技試験に必要な走り”に的を絞ることにした。」
ライツはそこで顔を上げた。
「……これからは実践を見据えたトレーニングを?」
「それはそうなんだが……。」
ライツは僅かに眉を上げる。
「君が考える実践とは、ライバルとの駆け引きやレース展開の読み合いだろう?」
「はい……。」
ロードは少し考えてから頷いた。きっと、これまで勉強してきた競馬の知識を思い返しているのだろう。
レースでは、ただ速く走ればいいわけではない。
相手の位置。
全体のペース。
ゴールまでの距離。
仕掛けるタイミング。
様々な要素を見極めながら、自分の走りを変えていかなければならない。
「レース展開は、その日のターフの状態や天候によって大きく変化する。」
ライツは淡々と続ける。
「トレーニングで身につけたパターンが通用するかは、実際に走ってみなければ分からない。」
その言葉に、ロードは口を噤んだ。
迷いとも取れる表情。今の自分では勝てないということは、自分でも理解できているようだった。
ライツは頬を緩ませ、続ける。
「だから私は、それらを必要としない走りを教えようと思う。」
ロードの目が僅かに見開かれる。
「必要としない……?」
「ああ。」
ライツは頷いた。
「君が今、最も集中すべきなのは、自分の走りだ。」
ロードはしばらく黙って考える。
そして、何かに気づいたように顔を上げた。
「……それって、つまり――」
「ああ。」
ライツは静かに頷く。
「周りを気にせず先頭を突き進む――『逃げ』だ。」
・・・・・
「みんな、速いな……。」
1600mのスタート地点。目の前を駆け抜けていくウマ娘たちを見ながら、ロードは呟く。
ライツとの協議を終えたロードは、向正面の内埒側で、自分が走る番を待っていた。
今日ほど「午後放課でよかった」と思ったことはない。研究室に着いたのは13時半くらいだが、今後の計画を話し合っているうちに時間は流れ、トレーニング場に出てきたのは16時だった。
これで普段通り来ていたら、今日は走らずに帰宅する羽目になっただろう。
ロードは静かに目を瞑る。
頭の中で、ライツの言葉を思い出していた。
『今日意識してほしいことは、大きく三つだ。』
『一つ。君がレースを引っ張るイメージを持つこと。』
『二つ。自分の走りに集中すること。』
『そして三つ目。自分のペースを維持しつつ、最後の直線で加速できる余力を残すこと。』
ロードはゆっくりと息を吐いた。
考えることはたったの三つ。
けれど、これまでの自分にはなかった考え方だった。
難しいことは考えない。
まずは、前へ出る。
自分より前に誰もいない場所へ。
そこから、自分の走りを作っていく。
やがて最後の集団がコーナーを駆け抜けていった。内埒の柵を潜り、ターフに立つ。
軽く跳躍し、芝の感触を確かめる。
そして、ゴール地点に向けて手を振った。
そこで待っているライツが、白い旗を振って返事をする。それを確認したロードは、長く息を吐く。
刹那――。
ロードは左足で踏み込み、勢いよく飛び出した。
スタート直後、ロードは前へ出る。
並走者は誰もいないが、映像で見た後続の動きをイメージする。
ターフを踏むたびに、身体が前へ運ばれていく。
ロードは一気に速度を上げながら、長く続く直線を駆け抜けていく。
風が頬を撫でる。
周囲の景色が、後ろへ流れていく。
ペース配分なんて分からない。
どれくらいの速度なら最後まで持つのかも、まだ知らない。
それでも、ライツに言われた通り自分の走りだけを見続ける。
やがてコースが緩やかに左へ曲がり始めた。
第三コーナー。
ロードは速度を落とさない。
身体の軸をやや左に傾け、淡々と前へ進む。
けれど、頭の片隅にはライツから言われた三つ目の言葉が残っていた。
『最後の直線で、もう一度加速する。』
だから、まだ全力ではない。
ここで力を使い切らない。
第四コーナー。
曲線が終わりに近づくにつれて、視界の先が少しずつ開けていく。
その先に見えたのは――最後の直線。
体の軸が再び真っ直ぐになった瞬間、ロードはこれまでのトレーニングを思い出した。
左足を接地。
深く息を吐く。
左足以外を脱力。
流れるように上半身を前傾。
左膝が伸び始める、その瞬間。
勢いよく、力を解放する。
何度も何度も繰り返した動き。
その切り替えは――。
驚くほど、滑らかだった。
「……っ!」
残していた力を、一気に前へ放つ。
速度が上がる。
ゴールが近づいてくるのが分かる。
ロードは、ただ前だけを見ていた。
・・・・・
ロードがゴール板を駆け抜けたと同時に、ライツはストップウォッチを止めた。
「………。」
表示された数字を見つめる。
しばらくの間、何も言わなかった。
一度ロードを見て、再び視線をストップウォッチに向ける。
そして、彼女は小さく笑った。
「君は……伝説にでもなるつもりか?」
ぽつりと、そんな言葉が漏れる。
そしてライツは、もう一度ストップウォッチへ目を落とした。
そのタイムは、1分38秒4。
平均と比べれば決して速いタイムではない。
だが――。
今日が初めての1600m。ペース配分すら知らず、スタートからゴールまでを通して走るのも初めての挑戦。
それでも、最後まで大きく崩れることなく走り切った。
そして何より、第四コーナーからの加速。
(やはり、ライトさんの血を引いている。)
ライツはロードを見つめる。
底がしれないポテンシャルを秘めた存在。
このタイムが、今日の彼の限界なのか。
それとも――。
「さて……どこまで伸びるつもりなのかな。」
ライツの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
やがて、ロードが戻ってきた。息の上がり方はやや控えめに見える。
「初めてスタートからゴールまで走ったわけだが、どうだった?」
「少し、抑えすぎました。」
ライツの問いに、ロードはスポーツドリンクを喉に流しながら答えた。
「体力的には、まだ出せる。」
その返答に、ライツは思わず苦笑した。
求めていた答えとは少し違った。
だが、自分の身体にどれだけ余力が残っていたのかを即座に判断できるあたり、ロードが自分の走りと向き合っていることは十分に伝わってくる。
「その調子だよ。自分のペースを見つける方法は、反復練習しかないからね。」
と、その時だった。
「なかなか良い走りをするじゃないですか。」
聞き覚えのある声に、ライツが振り返る。
そこに立っていたのは――
「トレーナーさんに、スズカさん。」
「こんにちは。」
スズカが小さく頭を下げる。
ライツは少しだけ目を丸くしながら尋ねた。
「二人とも、どうしてここへ?」
そんな問いに、沖野は後頭部に手を当てながら、スズカは柔らかな笑みを浮かべながら答える。
「ルベウスがどんな走りをするのか、気になってしまいまして。」
「私は、ルベウス君が逃げの走りを目指すって聞いたから、余計に。」
その言葉に、ライツは小さく笑った。
「そういうことなら、仕方がないね。」
すると。
「おーい!」
さらに後ろから、別の声が響いた。
今度は一人や二人ではない。
テイオーを先頭に、スピカのメンバーがこちらへ向かって歩いてくる。
「こんにちは!」
「来たぜー、ルベウス!」
「久しぶりね!」
「お元気そうで何よりですわ。」
気さくに声をかけるスペ、ウオッカ、スカーレット、マックイーン。
その少し後ろでは、ゴールドシップがキタサンの肩に腕を回していた。
「おらキタサン、何黙ってんだよ。挨拶くらいしろよ。」
「ゴ、ゴルシさんのせいですよっ!」
「あー? なんでアタシのせいなんだよ。」
「いい加減キタサンへのダル絡みはやめなさい。」
呆れたようなスカーレットの一言が飛ぶ。
スピカの面々が集合する様子を見たライツは、すぐに察した。
「……ここに来た目的は、彼の走りを見るだけではなさそうだ。」
彼女がそう言うと、沖野はニヤリと笑った。
「逃げを学ぶのなら、追いかけられる気分を知ることも大切ですから。」
そして、ロードへ視線を向ける。
「ってなわけで、ルベウス。」
「 “本物のレース” ってのを体験してみないか?」
ロードは、集まったスピカのメンバーへ視線を向けた。
逃げる。
それは、ただ前を走ればいいというものではない。
後ろには、自分を捕まえようとする誰かがいる。
その存在があるからこそ、自分がどこまでペースを維持できるのか。
どこまでなら余力を残せるのか。
そして――最後に、どれだけ速く走れば逃げ切れるのか。
それを知ることができる。
しかし。
ライツの表情は、沖野とは対照的だった。
ライツは、ターフの上にいるロードと、目の前に並ぶスピカのメンバーを見比べる。
「……その気持ちは、とてもありがたい。」
ライツは静かに口を開いた。
「君たちが彼のために時間を割いてくれることも、実戦の機会を与えてくれることも。」
「だが……。」
一度、言葉を切る。
ロードはまだ、己のペースすら十分に理解していない。そんな状態で本番さながらの走りをしろと言われても、無茶な話だ。
何より、それが彼の向上心を削ぐ結果になってしまったら――。
「やらせてください、博士。」
思考に割り込んできたロードの声は、静かだった。
「……ロード君。」
「今の俺は、何も知らない素人かもしれません。」
ロードは自分の手を握る。
そして、顔を上げた。
一瞬だけ、スピカの面々を見る。
「でも、だからこそ、目指す場所が見えている方がいいと思うんです。」
「………。」
ライツは黙ってロードを見つめた。
その瞳はあまりにも真っ直ぐで、強がりを言っているようにはとても見えなかった。
いや、むしろ――
「……彼女たちに勝つつもりなのかい?」
ライツの問いに、ロードは少しだけ考えた。
そして――。
「今は無理でも、いつか必ず。」
その言葉に、ライツは目を細めた。
大言壮語ではない。
今すぐ勝てると思っているわけでもない。
ただ、目の前にいるウマ娘たちを「届かない存在」と決めつけているわけでもない。
いつか、そこへ辿り着く。
そのために今、自分が何をすべきなのかを考えている。
「……そうか。」
ライツの口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
「なら、私が止める理由はないな。」
その瞳には、静かな炎が灯っていた。
つづく
ロード君の成長宣言が出たところで、次回は模擬レースです。なるべく巻いていきたい(2回目)。
では、また。