トレーナーのみなさん、こんにちは。
スピカのトレーナーさんの苗字は、中の人である「沖野」です。
『男のウマ娘』。
それは長い間、ただの仮説でしかなかった。
ウマ耳や尻尾、そして人を超えた脚力。それらは“ウマ娘”特有の特徴であり、同時に女性だけに現れるものだと考えられていた。
だからこそ時折、学会や研究機関では様々な仮説が語られていた。
――もし、ウマ娘と同じ特徴を持つ“男性”が生まれたなら。
身体構造はどうなるのか。
ウマ娘との脚力の差は。
走る距離の適性は。
だが、それらはどれも仮説の域を出ない。
研究者たちにとっても、それは研究の休憩中に、コーヒーと共に嗜む程度の議論だった。
――少なくとも、“彼”が生まれるまでは。
世界初の“男のウマ娘”誕生は、レース界だけでなく、医学界やスポーツ界までも巻き込む騒ぎとなった。
研究者たちは彼へ強い興味を示した。
だが同時に、世間は戸惑った。
もし彼がターフへ立った時、その結果に誰が責任を持つのか。前例の存在しない競技者を、誰が“安全”だと証明するのか。
そして結局――その答えを出せる者は、最後まで現れなかった。
「ルベウス……!?」
テイオーが小さく呟く。
その響きには覚えがあった。
というより、レース界にいるウマ娘で知らない者の方が少なかった。
「まさか、あなたのお母様は……!」
マックイーンが目を見開く。
そして――
「「「 ルベウスライトさん!?」」」
全員の声が、見事に重なった。
ルベウスライト。
その名を知らないウマ娘は、ほとんどいない。
クラシック三冠。
天皇賞・春秋連覇。
有馬記念制覇。
ただ記録を並べるだけでも、彼女が“伝説”と呼ばれる理由には十分だった。
だが、本当に恐ろしかったのはそこではない。
彼女は、“負け方”を知らなかった。
彼女の走りは美しく、誰よりも速く、それでいて乱れない。
無駄のないフォーム。
淀みのない呼吸。
そして何より、彼女はどんな時でも笑顔だった。
限界を超える終盤でも。
誰も追いつけない独走の中でも。
まるで、“走る”という行為そのものに愛されているかのように。
「す、すごい……! あのルベウスライトさんの息子さんだったなんて……!」
「あんなに速いのも頷けるね!」
「確かに目元とか、少し似てるかも……!」
空気が一気に騒がしくなる。
キタサンも、テイオーも、マックイーンたちも。
さっきまで目の前を走っていた“黒いウマ娘”ではなく、“ルベウスライトの息子”としてロードを見始めていた。
だが――
「うるさいな……。」
ロードの口から発せられたのは、とても低く、冷たい声だった。
たったそれだけで、場の空気が凍りつく。
ロードは帽子を深く被り直し、露骨に視線を逸らした。
「俺に構う暇があるなら、トレーニングでもしてたらどうだ。」
「え……。」
キタサンが目を瞬かせる。
「な、仲良くなる流れだったじゃねぇか……。」
ゴールドシップが、小さく肩を落とした。
「勘違いすんな。」
彼の声に、感情はほとんど乗っていない。そこにあったのは、強い拒絶だった。
「俺が正体を明かしたのは、そこのトレーナーが男かって聞いてきたからだ。」
「もう用がないなら、俺は帰る。」
ロードはそれだけを言い、踵を返す。
スピカのメンバーにも全く興味がないようで、すぐにでもこの場を離れたいという気持ちが分かりやすく現れていた。
「ま、待ってくれ!」
立ち去ろうとしたロードを、トレーナーが慌てて呼び止める。
しかし、ロードは立ち止まらない。トレーナーの方は振り返るどころか、話を聞こうともしていない。
「ルベウスロード!あの走り方はもうやめるんだ!」
スピカメンバーですらあまり聞いたことのない、トレーナーの荒々しい声。その言葉一つで、辺りの空気が変わった。
ロードも思わず足を止める。振り返ることはなかったが、足を止めた時点で十分だった。
トレーナーは基本的にウマ娘の走りを変えさせるような判断はしない。そのウマ娘の走りを見て、戦法を変える考えを持っている。
だが、すれ違いざまに見たロードの走りは、あまりにも危険に映った。一人のトレーナーとして、すぐにでもロードを止めなければならないと判断したのだ。
「これは……“速い”とか、“才能がある”とか、そういう話じゃない。限界を無視して走り続ければ、いつか取り返しがつかなくなる。」
トレーナーの声は低かった。
そして、少し間を開けてから、静かに宣告する。
「最悪――二度と走れなくなる。」
それは決して脅しではない。無理を続ければ、いつか本当に取り返しがつかなくなる。
そんな未来を止めるための、警告だった。
「………。」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて。
「……それは、良いことを聞けた。」
ロードは小さく呟く。
まるで、独り言のような声だった。
彼は帽子の鍔を押さえたまま、静かに続ける。
「1日でも早く壊れてくれた方が、楽だ。」
その言葉に、誰もが耳を疑った。
まるで、ずっと前からそう決めていたかのような口ぶり。
「…………は?」
最初に反応したのはウオッカだった。
言葉の意味を理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよアンタ……!」
スカーレットの声も、どこか信じられないものを見るようだった。
「なんで、そんな……。」
キタサンが小さく呟く。
ロードは何も答えない。
まるで何事もなかったかのように、階段を降りていく。
その姿が、余計にキタサンの胸をざわつかせた。
「どうして……どうしてそんなこと言うんですか!」
ロードの足は止まらない。
振り返ることもない。
「この世界には、走りたくても走れないウマ娘だっているんですよ!」
彼女の声は、悔しさを押し殺すような声だった。
「なのに、壊れてもいいなんて――!」
「……そいつらは。」
ロードはほんの少しだけ振り返る。
風が吹き、足元の桜の花弁を静かに転がした。
「少なくとも、“夢を追う場所”に立っていたはずだ。」
彼の声に怒りはなかった。
ただ、どうしようもない諦めだけが滲んでいた。
「俺は……」
何かを言いかけて、言葉が止まる。目の前のウマ娘たちに聞こえないように、小さく舌打ちをした。
「……とにかく、もう俺に話しかけるな。」
言葉になりきれなかったその想いは、誰へ向けたものだったのか。それは、スピカの誰にも分からない。
ただ一つだけ。
彼が、自分たちとはまるで違う景色を見てきたのだということは、痛いほど伝わってきた。
ロードは再び歩き出す。
今度こそ、誰も呼び止められなかった。
夕暮れの土手を、黒い背中が遠ざかっていく。
その姿を、キタサンたちはただ黙って見つめることしかできなかった。
・・・・・
空がオレンジ色に染まる頃。ロードは市内を走るバスの後部座席に揺られていた。
黒いジャージに、深く被った黒い帽子。その中から飛び出したウマ耳と尻尾。
傍から見れば、ただのウマ娘にしか見えない。
まさかその正体が、“男のウマ娘”だとは誰も思わないだろう。
窓の外を流れていく夕焼けを眺めながら、ロードは深く帽子を被り直した。
別に、間違ったことを言ったつもりはない。あのトレーナーが言うように、今の走りを続ければいつか脚は壊れるだろう。
そして、それで終われるなら――きっとその方が楽だ。
『走りたくても、走れないウマ娘だっているんですよ!』
「………。」
ロードは小さく眉を寄せる。頭の中に、あの黒髪のウマ娘の声が残っていた。
彼女が怒るのも当然のことだった。
走れることを喜び、夢へ向かって全力で進んでいるウマ娘からすれば、“壊れてもいい”なんて言葉は理解できるわけがない。
いや、理解してはいけないのだろう。
「………。」
ロードは窓へ額を預ける。オレンジ色の光が、流れる街並みをぼやけさせていた。
自分だって、分かっている。ああいう風に夢を追いかけるのが本来のウマ娘なのだと。
けれど。
自分には最初から、その場所へ立つことすら許されなかった。
走れてしまう限り、夢を見てしまう。
だからこそ。
いっそ壊れてしまえば、諦めもつく――そう思っていた。
「………。」
ロードは窓へ額を預けたまま、流れていく街並みをぼんやりと眺める。
夕焼けに染まった窓ガラスへ、自分の顔が薄く映り込んでいた。
その向こう側。
オレンジ色に滲んだ景色の中へ、ふと昔の記憶が重なる。
『ママ、今の見た!?』
まだ幼かった頃。ロードはテレビの前で身を乗り出しながら、興奮した声を上げていた。画面の中では、数人のウマ娘たちが最後の直線を駆け抜けていく。
画面越しでも分かる歓声。
熱くなる実況。
そして――ゴールする瞬間まで決して目を逸らさず、足を止めないウマ娘たち。
『すごかった……!』
目を輝かせながら振り返る。
その時の母の目を、ロードは今でもよく覚えていた。
母――ルベウスライトは優しく笑っていた。
けれど、その瞳の奥には、ほんの少しだけ苦しそうな色が滲んでいた。
『ええ。すごいわね。』
静かな声だった。
まるで、何かを誤魔化すような。
『ロードも、ああなりたいの?』
『うん!』
幼いロードはそれに気づくことなく、迷いなく頷いた。
あの頃は、何も疑っていなかった。自分もいつか、あの場所へ立てるのだと。
そこまで思い出したところで、ガタン、とバスが揺れ、意識が現実に戻る。
「………。」
ロードはゆっくり目を伏せた。
窓ガラスへ映る夕焼けが、静かに滲んでいる。
あの時の母が、どうしてあんな目をしていたのか。当時のロードがその瞳の意味を知るまで、そう時間はかからなかった。
・・・・・
神社でのトレーニングを終えた帰り道。スピカのメンバーは、やけに静かだった。
普段なら何かと言い合いをしているウオッカとスカーレットも。何を考えているのか分からないゴールドシップでさえも、今日は珍しく黙っている。
誰の頭にも、同じ名前が浮かんでいた。
――ルベウスロード。
あの黒いウマ娘の言葉が、どうしても頭から離れなかった。
「……あたし、少し強く言いすぎたんですかね。」
ぽつりと、キタサンが呟く。
その声には、いつもの明るさがなかった。
「いや……キタサンは間違ってねぇだろ。」
ウオッカが頭を掻きながら答える。
「でも、アイツの反応も……なんつーか。」
上手く言葉が続かない。
隣のスカーレットも、小さく目を伏せた。
「普通じゃなかったわね……。」
「………。」
沈黙。
夕暮れの風だけが、静かに吹き抜けていく。
やがて。
「おそらくなんだが……。」
自転車を漕ぐトレーナーが、小さく口を開いた。
「あいつは、“夢を見ること”そのものが苦しいんだ。」
「夢を見ることが……?」
キタサンが目を瞬かせる。
トレーナーは静かに続けた。
「研究が進んでいたとはいえ、男のウマ娘なんて全てが未知数。世間の声に対する責任を、誰も取れなかった。」
「ウマ娘なら誰でも立てるはずのスタートラインに、あいつは立たせてもらえなかったんだ。」
その言葉に、キタサンの肩が小さく揺れる。
「……だから。」
彼女は唇を噛んだ。
「“夢を追う場所に立っていたはずだ”って……。」
「ああ。」
トレーナーは短く頷く。
「“外から見るしかできないなら、脚なんて必要ない” ――という考えに辿り着いてしまったのかもしれない。」
「………。」
キタサンは俯いたまま、何も言えなかった。
もし自分がロードの立場だったら。最初から、“夢を追うこと”すら許されていなかったら。
そう考えた瞬間、胸の奥が苦しくなる。
「……でもよ。」
不意に、ゴールドシップが口を開いた。
全員の視線が集まる。
「あいつ、完全に諦めてる顔じゃなかったぜ。」
「え……?」
キタサンが顔を上げる。
ゴールドシップはニヤリとも笑わず、ただ真っ直ぐ前を見ていた。
「本当に諦めてる奴は、あんな走りしねぇよ。」
夕焼け空の下。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
・・・・・
その日の夜。トレセン学園・栗東寮。
キタサンは自分の部屋で、机に向かっていた。
開かれたワークブック。
数学の宿題。
握ったシャーペンを動かし、数式を解いていく――はずだった。
「………。」
だが、その手は止まったままだった。
『どうしてそんなこと言うんですか!』
『そいつらは少なくとも、“夢を追う場所”に立っていたはずだ。』
頭の中で、あの時の声が何度も繰り返される。
そして――
『1日でも早く壊れてくれた方が、楽だ。』
走れることを喜ぶ。夢へ向かって全力で走る。
それが当たり前だと思っていた。
……否、“当たり前であってほしい”と思っていた。
キタサンがロードに対して言ったことは、決して間違っていない。怪我や病気でレースを諦めなければならなかったウマ娘は、きっとたくさんいる。
だが、ロードが走れない理由は根本から違っていた。
「………。」
キタサンはシャーペンを置き、小さく息を吐く。ロードの言葉の意味を理解しかけてきた彼女だが、まだ一つだけ、理解できないことがあった。
『夢を追えないなら、脚なんて必要ない』。それが彼の辿り着いてしまった答えだ。
だが、そんな彼とすれ違った時に感じた雰囲気は――
「すごく、楽しそうだったのに……。」
少なくとも、“走ることを嫌いになった”ようには見えなかった。
その矛盾が、キタサンの頭から離れない。考えれば考えるほど、答えのない沼へ沈んでいくようだった。
「……ちゃん。」
学校の課題が進まないだけでなく、皐月賞のイメージトレーニングもままならない。
「……タちゃん。」
特に、皐月賞までは二週間を切っている。今のままでは絶対に――
「キタちゃん!」
「ひゃあ!?」
不意に肩を叩かれ、キタサンは慌てて顔を上げる。
「えっと……大丈夫?」
振り返るとそこには、同室で親友のサトノダイヤモンドがいた。彼女はどこか困惑したような、心配するような表情をしている。
「だ、大丈夫!それよりもどうしたの?」
「『そろそろ休憩しよう』ってキタちゃんを呼んだのに、なかなか返事がなかったから……。」
「え!ご、ごめん!」
「いや、でもキタちゃんが集中してたなら、邪魔しちゃったかな……。」
「う、ううん、大丈夫! 問題が難しくて悩んでただけだから……!」
ダイヤは少し心配そうに眉を下げたが、やがて「お茶を淹れてくるね」と小さく微笑み、部屋を出て行った。
その背中を見送ったキタサンは、部屋の窓を少しだけ開け、深呼吸をした。春らしい涼しい風が流れ込む。彼女は、少し熱を帯びた脳を休めたかった。
しかし、何かを考えようとするたびに、ロードの姿が浮かぶ。帽子を深く被り、少しずつ遠ざかっていく背中が忘れられない。
なぜここまで彼のことが気になるのか、全く見当もつかなかった。
「私は……どうしたいんだろう?」
星空を見上げながら口にした言葉は、誰に届くわけでもなく闇夜へと消えた。こんな時テイオーなら、先輩たちならどうしただろうか。
「……やっぱり、何かあったんだね。」
不意に聞こえた声に、キタサンは肩を揺らす。振り返ると、両手にマグカップを持ったダイヤが立っていた。
どうやら、冷たいお茶を淹れて戻ってきたらしい。
「ダイヤちゃん……。」
キタサンが小さく名前を呼ぶ。ダイヤは困ったように微笑みながら、机にカップを置いた。
「キタちゃんは昔から嘘をつくのが下手だもんね。何か隠してるのはバレバレだったよ。」
「そ、そっか……。」
キタサンは気まずそうに視線を逸らす。
彼女の中では誤魔化せていたつもりだった。けれど、幼い頃から一緒にいる彼女には、お見通しだったらしい。
ダイヤが机に置いたマグカップを手に取り、キタサンは小さく礼を言った。そして彼女はそのままベッドへ腰を下ろす。
するとダイヤも、自然な動きでその隣へ座った。
急かすことなく、問い詰めることもなく。ただ、“話せるまで待つ”ように。
少しして、キタサンはぽつりぽつりと河川敷での出来事を話し始めた。
夕暮れの土手で出会った、とあるウマ娘。
夢を諦めたような言葉。
それなのに、誰よりも楽しそうだった走り。
そして――自分が何も知らないまま、言葉をぶつけてしまったこと。
「……そっか。」
キタサンの話を聞き終えたダイヤは、小さく息を吐いた。それから、両手で包み込んでいたマグカップへ視線を落とす。
冷えていたはずのマグカップは、少しだけ熱を持っていた。
「……あのウマ娘さん。」
キタサンは小さく俯く。
「このままだと、本当に壊れちゃう気がするんだ。」
キタサンは唇を噛んだ。
「もうすぐ皐月賞で……今は自分のレースに集中しなきゃいけないのに。」
手の中のマグカップへ、少しだけ力が入る。
「こんなことばっかり考えてる場合じゃないのにさ。」
自分でも分かっている。
今一番大切なのは皐月賞だ。憧れ続けてきたクラシック三冠の初戦。夢へ続く大切なレース。
それなのに。
頭の中には、何度もあの黒い背中が浮かんでくる。あの静かな声が、どうしても離れてくれなかった。
「……でも。」
やがて、ダイヤが静かに口を開く。
「キタちゃんが気づいちゃった以上、無かったことにはできないんじゃないかな。」
「……?」
キタサンは顔を上げる。
ダイヤは、責めるような顔はしていなかった。ただ、優しく微笑んでいる。
「昔から変わらないよ。」
ダイヤは小さく笑った。
「キタちゃんは困ってる誰かを、放っておけない性格だからね。」
その言葉にキタサンは何も返せなかった。
「それに。」
ダイヤはさらに、穏やかに続けた。
「悩んでるのは、きっとキタちゃんだけじゃないと思う。」
「……え?」
「スピカの先輩たちも、きっと同じだよ。」
その言葉に、キタサンは小さく目を瞬かせた。
「特にスピカのトレーナーさんは、そういうウマ娘さんを放っておけないことで有名だからね。」
「……ふふっ。」
思わずキタサンの口から小さな笑みが零れる。それはとても自然で、張り詰めていたものが少しだけ緩むような笑みだった。
確かに、トレーナーなら。無茶をして壊れようとしているウマ娘を、黙って見過ごせるはずがない。
そう思った瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
・・・・・
翌日。
キタサンたちが授業を受けている頃、トレセン学園の廊下を歩く一人の男性の姿があった。
チームスピカのトレーナー、沖野。
彼は何かを考えるように目を細めながらも、迷いのない足取りで真っ直ぐ廊下を進んでいく。
やがて彼は足を止めた。目の前にあるのは、トレセン学園理事長室。
身だしなみを再確認した沖野は短く息を吐き、扉を三回ノックした。
「入りたまえ!」
すぐに、部屋の中から元気な声が返ってくる。沖野は「失礼します」と声をかけ、静かに扉を開けた。
「おはようございます、理事長。たづなさん。」
室内へ足を踏み入れながら、軽く頭を下げる。
「うむ! おはよう!」
トレセン学園理事長、秋川やよいはいつも通り元気よく答えた。
「おはようございます。」
その隣では、理事長秘書の駿川たづなが柔らかく微笑んでいる。
ソファへ座るよう促された沖野は、やよいへ軽く一礼し、静かに腰を下ろした。
彼が座ったのを確認すると、やよいも向かい側のソファへ飛び乗るように腰掛ける。
たづなはコーヒーとホットココアの入ったカップを、それぞれ沖野とやよいの前へ静かに置いた。それから一歩下がり、やよいの後ろへ控える。
「傾聴ッ!早速だが、話を聞かせてもらおう!」
やよいは良くも悪くも前置きをあまり入れない。すぐに本題に入ってくれる姿勢は沖野からしてもありがたかった。
沖野はコーヒーを一口啜り、そっとカップをソーサーに戻す。そして、やよいを真っ直ぐに見て話し始めた。
「昨日、河川敷であるウマ娘に出会いました。」
沖野にしては、低く落ち着いた声だった。
「あいつは、速度だけを追い続けるような無茶な走りをしていました。」
沖野は、夕暮れの土手を駆け抜けていった黒い背中を思い出す。
「このままだといずれ脚を壊す。そう判断した俺は、あいつを止めました。」
そこで一度、言葉を切る。
やよいたちも何も口を挟まない。ただ静かに続きを待っていた。
「そして、“二度と走れなくなるぞ”と警告したんです。」
理事長室へ、静かな空気が落ちた。
「……すると、あいつは言いました。『1日でも早く壊れてくれた方が楽だ』と。」
やよいとたづなの表情が僅かに揺れる。部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなった気がした。
沖野は視線を落とし、小さく拳を握る。そして――
「“彼”の名前は……ルベウスロード。理事長もご存知でしょう。」
その瞬間、たづなの目が小さく見開かれ、やよいは静かに目を細めた。
「……ルベウスロード。」
やよいは静かにその名前を繰り返した。まるで、長い間胸の奥へ引っかかっていたものを確かめるように。
たづなの表情は苦しそうで、何かを堪えているように映った。
「……秋川理事長。」
沖野は改めてソファに座り直し、やよいを見た。
「俺は、彼を助けたいと考えています。」
静かな声だった。だが、その瞳には確かな意志が宿っている。
「ですが、俺一人では彼の心を動かすことはできません。」
ロードが抱えているものはあまりにも大きい。
夢を諦めようとしているウマ娘を、言葉だけで救えるほど簡単な話ではなかった。
「どうか――理事長の力を貸してください。」
沖野は深く頭を下げた。
理事長室に静寂が落ちる。窓の外から聞こえるトレセン学園の喧騒だけが、微かに室内へ届いていた。
「………。」
やよいは小さく腕を組み、静かに目を閉じる。
男のウマ娘。その存在は、ずっとレース界の奥底に沈み続けていた問題だった。
研究は進んでいた。議論も重ねられていた。だが結局――誰も責任を負おうとはしなかった。
その結果、一人のウマ娘が“夢を見ること”すら諦めようとしている。
「……ありがとう、沖野トレーナー。」
やがて、やよいは静かに口を開いた。
その顔には、どこか吹っ切れたような笑みが浮かんでいる。
「君のおかげで、長年胸につかえていたモヤモヤに決着をつけられそうだ。」
「理事長……?」
沖野が顔を上げる。
次の瞬間。
「提案ッ!」
やよいは勢いよく立ち上がり、懐から扇子を取り出すと、バッと広げた。その扇面には墨で『始動ッ!』と力強く書かれている。
「まずは学園公認の並走相手として、彼へ安全に走れる環境を用意する!」
やよいは迷いなく続ける。
「同時に彼の検査とデータ収集を行い、安全性、公平性を立証するのだ!」
そんな盛り上がりを見せるやよいに、たづなが待ったをかける。
「……また、多くの声が彼へ向けられることになります。」
「いいや。それを向けられるのは我々学園、引いてはURAだ。」
やよいは一切迷うことなく答えた。
「誰も責任を取れなかったのなら、我々が背負えばいい。ウマ娘として生まれたのなら、夢へ挑む権利は誰にでもある!」
そう宣言するやよいに、たづなは「ふふっ」と笑みを溢した。
やよいはパタンと扇子を閉じ、沖野に顔を向ける。その雰囲気に先ほどまでの勢いはなく、どこか落ち着いていた。
「だが、未来を決めるのは彼自身だ。ルベウスロードが提案を拒否した時は、彼の意思を尊重してやってくれ。」
それは、提案する側として当然の線引き。テンションが上がっていながらも彼女は冷静だった。
「……はい! ありがとうございます!」
沖野は再び頭を深く下げ、やよいは力強く頷いた。
「そうと決まれば、たづな!」
勢いよく扇子を突きつける。
「早速、ルベウスライトへ連絡だ!」
「はい!」
たづなはどこか嬉しそうに微笑み、小さく頷いた。
その日。一人のウマ娘を巡り、止まり続けていた世界が再び動き始めた。
男のウマ娘――ルベウスロード。
その存在は、レース界に再び波紋を広げようとしていた。
つづく
オリ主最強ではなく、オリ母最強です。
血統が重視されるレース界において、親が強ければ強いほど子は曇るんです(キングちゃんとか)。
それでは、また次回。