ウマ娘 ロストロード   作:ツカッチ

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トレーナーのみなさん、こんにちは。

ロード君、初のレースです。


第二十話 まだ、遠く

 1600mのスタート地点へ向かって歩くスピカの面々。その中でも、ひときわ上機嫌なのがゴールドシップだった。

 

「本日は一段とやる気に溢れていらっしゃいますわね。」

 

 不思議そうに尋ねるマックイーン。トレーニングをサボりがちなゴルシがここまでのやる気を見せるのは、初めてのことだった。

 

「あったりめーだろ! 模擬レースでゲートがないんだぜ!」

 

「いい加減、ゲートに慣れなよ。」

 

 そうツッコむのはテイオー。

 

 彼女にしては珍しく、分かりやすいほど呆れた表情を浮かべている。

 

「アンタにだけは絶対負けないから!」

 

「こっちのセリフだ!」

 

 そのすぐ前では、スカーレットとウオッカが早くも火花を散らしていた。

 

 永遠のライバルである二人にとって、勝負事に大小など関係ない。どんな些細なことでも、全力だ。

 

 一方。

 

 ロード、キタサン、スズカ、スペシャルウィークの四人は、少し離れて後ろを歩いていた。

 

 前方の様子を眺めながら、ロードがぽつりと呟く。

 

「みなさん、楽しそうですね。」

 

「ふふ。頼もしいでしょう?」

 

 スズカがくすっと笑う。

 

 その横顔を見ながら、スペシャルウィークが口を開いた。

 

「そういえば、トレーナーさんから聞いたんですが……。」

 

「ルベウスさん、走り方を変えたんですよね?」

 

「走り方というか、考え方ですね。」

 

 ロードはスペを見ながら答える。

 

「レースの知識が不十分な自分が勝つには、自分の走りに集中できる方がいいのではと言う話になりまして。」

 

「その結果が、『逃げ』なんだよね!」

 

 キタサンが嬉しそうに口を挟む。

 

「うん。」

 

「スズカさんと同じですね。」

 

「ふふっ。そうね♪」

 

 スペに言われて、スズカは頬に手を添え、嬉しそうに微笑んだ。よく見ると――ほんの少しだけ、頬が赤い。

 

「スズカさん、なんだか嬉しそう。」

 

 キタサンが顔を覗き込む。

 

「そうかしら?」

 

「そうですよ。」

 

 スペも頷く。

 

 スズカは少しだけ照れたように笑った。

 

「逃げを目指すウマ娘と一緒に走るのは、楽しみだから。」

 

 そして、ロードへ視線を向ける。

 

「簡単に前を走らせるつもりはないわ。」

 

 スズカは確かに笑っていた。しかしその瞳は、早くもレースを見ていた。

 

 ロードは、ほんの少しだけ目を細める。

 

 スズカから、まるで見えない火が灯っているようだった。それでもロードは、負けじとスズカの瞳を見つめた。

 

「しっかりと勉強させてもらいます。」

 

 その返事に、スズカの笑みがさらに深くなる。

 

 ――明らかに、いつもより楽しそうだった。

 

 そうして一同はスタート地点付近へ到着。すると、マックイーンが集合をかけた。

 

「それでは、並び順を決めましょうか。」

 

 そう言って、彼女は周囲を見渡す。

 

 その視線がロードで止まった。

 

「ルベウスさんは模擬レースは初めてですから、一番内側にしましょう。その方が走りやすいでしょうし。」

 

「賛成です!」

 

 真っ先に手を挙げたのはキタサンだった。

 

「俺もいいと思うぜ。」

 

 ウオッカも頷く。

 

「アタシも異論ないわ。」

 

 スカーレットが続く。

 

「文句なーし!」

 

 ゴールドシップが手をひらひらさせながら言った。

 

「私も。」

 

「私も大丈夫です!」

 

 スズカとスペも笑顔で頷く。

 

「じゃあルベウス君が一番内側で決まり!」

 

 テイオーが手を叩く。

 

 ロードは少し驚いたように一同を見回した。

 

「……いいんですか?」

 

「もちろんですわ。」

 

 マックイーンが微笑む。

 

「今日はあくまで模擬レース。経験を積むことが目的なのですから。」

 

「ありがとうございます。」

 

 ロードが頭を下げる。

 

「じゃあ、残りの順番はどうしますか?」

 

 キタサンが尋ねる。

 

「ここは公平にジャンケンで決めようぜ! せーのっ!」

 

「ま、待ちなさい!」

 

「やっぱテンションおかしいって。」

 

 スカーレットが慌てて止め、ウオッカが開かれた風に言う。

 

「いいじゃん、ジャンケン!」

 

 テイオーは反対に楽しそうだった。

 

「コホン。それでは改めて……」

 

 マックイーンの咳払いに、全員が拳を構える。

 

「最初はグー!」

 

「ジャンケン――」

 

「ポン!」

 

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 

 熾烈なジャンケン勝負を終え、並び順が確定した。

 内埒側から、ロード、テイオー、スカーレット、スズカ、マックイーン、キタサン、ゴールドシップ、スペ、そしてウオッカ。

 

 一同は第二コーナーを走ってくるウマ娘がいないことを確認し、スタートラインに並んだ。

 

「よーし!負けないからね!」

 

「それはこっちのセリフですわ。」

 

 スタートを待つ間も、あちこちで火花が飛び交っている。

 

 ウオッカとスカーレットは密かに火花を散らし、ゴールドシップはなぜか一人で楽しそうに笑っている。

 その他のメンバーも、リラックスした雰囲気で立っている。

 

 そんな光景を、ロードは隣でぼんやりと眺めていた。

 

 視線の先にあるのは、横一列に並ぶウマ娘たち。

 

 そして、その向こうに広がるターフ。

 

 スタート地点からゴールまでを改めて見た。

 

「………。」

 

 気がつけば、ロードはその景色に見入っていた。

 

「どうしたの?」

 

 隣から声をかけられる。

 

 ロードが振り向くと、テイオーが不思議そうにこちらを見ていた。

 

「なんか、ぼーっとしてたからさ。」

 

「ああ……。」

 

 ロードは少し考えてから答えた。

 

「……一人で走る時と、全然景色が違って見えて。」

 

「景色?」

 

「はい。」

 

 ロードは前方を見る。

 

「一人で走った時は、ただゴールまで走ることだけを考えていました。」

 

「でも今は……。」

 

 左右へ視線を動かす。

 

「ここにいるみんなが、同じゴールを目指して走るんですよね。」

 

「………。」

 

「そう思うと、なんだか不思議な感じがします。」

 

 テイオーは少しだけ口元を上げた。

 

「もしかして、怖くなった?」

 

 どこか揶揄うような口調。ロードは一瞬、テイオーを見る。

 

 そして――小さく笑った。

 

「いや。」

 

 その表情から、さっきまでの穏やかさが消える。

 

 目が細くなる。

 

 静かだった瞳に、鋭い光が宿った。

 

 ロードは、正面を見据える。

 

「むしろ、ワクワクしてます。」

 

「………!」

 

 刹那、テイオーの表情が変わった。

 

 今まで見たロードとは明らかに違う。

 

 穏やかで、落ち着いていて、どこか一歩引いたところから物事を見ているような少年。

 

 それが今は――。

 

 ただ、走ることだけを見ている。

 

 今の自分よりも速くなりたい。

 

 もっと先へ行きたい。

 

 そのためなら、自分たちを追い越すことすら厭わないと言うかのような――。

 

「……へぇ。」

 

 テイオーの口元が、ゆっくりと吊り上がる。

 

「そういう顔、できるんだ。」

 

「……?」

 

「ううん。」

 

 テイオーは前を向いた。

 

 その瞳にも、火が灯る。

 

「なんか、ボクもワクワクしてきた。」

 

 さっきまでの笑い声が、少しずつ消えていく。

 

「ルベウス君には悪いけど、手加減しないから。」

 

「喰らいつきます。」

 

 そして、全員が前を向いた。

 

 ロードもまた、ターフの先を見る。

 

 ここにいる全員が、敵ではない。

 

 けれど――。

 

 走っている間だけは、誰にも負けたくない。

 

 そんな気持ちが、胸の奥から湧き上がっていた。

 

 全員がスタートの姿勢に入る。

 

 空気が変わる。

 

 先ほどまでの笑い声は消え、誰もが前を見据えている。

 

 ロードも静かに呼吸を整えた。

 

 その瞬間だった。

 

「……あのー。」

 

 キタサンが、ぴょこんと顔を上げる。

 

「誰が合図するんですか?」

 

「…………。」

 

 沈黙。

 

 全員の視線が止まった。

 

「……あ。」

 

 マックイーンが目を丸くする。

 

「………。」

 

 スカーレットも固まる。

 

「……考えてなかったね。」

 

 テイオーがぽつりと呟いた。

 

「おいおいおい!」

 

 ゴールドシップが頭を抱え、叫んだ。

 

「誰かー!暇なヤツはいねぇかー!?」

 

「お前なぁ……。」

 

 ウオッカが呆れたように睨む。

 

「そんな都合よく暇なヤツがいるワケ――」

 

「私がやろう。」

 

「いるのかよ!……って」

 

「「「………え?」」」

 

 全員が一斉に振り返った。

 

 そこに立っていたのは――。

 

「カイチョー!?」

 

 テイオーが目を丸くする。

 

 我らが会長、シンボリルドルフ。

 彼女は穏やかな笑みを浮かべながら、スタート地点へ歩いてくる。

 

「君たちの様子を眺めていたが、随分と楽しそうだったのでね。」

 

「い、いつからいたんですか!?」

 

「さて、いつからだったかな。」

 

 ルドルフが微笑む。

 

 そしてロードの前に立った。

 

「私の記憶が正しければ、君にとって初めての模擬レースだったね。」

 

「はい。」

 

「生徒の長として、見届けさせてもらうよ。」

 

 そう言って、ルドルフはスタート地点を示すポールへ歩み寄る。

 そこに取り付けられていた箱を開き、中から白い旗を取り出した。

 

 ルドルフは旗を軽く掲げる。

 

「ウオッカ。この白旗は見えているかい?」

 

「はい!大丈夫ッス!」

 

「よろしい。」

 

 ルドルフは全員を見渡した。

 

「それでは、構えたまえ。」

 

 その言葉に、全員が一斉に姿勢を低くする。

 

 ロードも同じように構えた。

 

「ルベウス君。」

 

「はい。」

 

「この世界では、『よーい』という掛け声は使わない。」

 

 ルドルフが白旗を正面に構える。

 

「旗を振り上げた瞬間にレースは始まる。よく見ておくんだ。」

 

「は、はい!」

 

 突然伝えられるこの世界の常識に戸惑うも、ロードはすぐに白旗へ視線を向けた。

 

 その瞬間。

 

 さっきまでの和やかな空気が、完全に消えた。

 

 風の音。

 

 ターフの揺れる音。

 

 隣に並ぶウマ娘たちの息遣い。

 

 それらすべてが、妙に鮮明に聞こえた。

 

 誰も喋らない。

 

 周囲のウマ娘たちの声も耳に入らない。

 

 ロードは、ゆっくりと息を吐く。

 

 ――前へ。

 

 それだけを考える。

 

 視線は、真っ直ぐに白旗へ。

 

 ルドルフが静かに腕を引く。

 

 そして――。

 

 旗が振り上げられた。

 

 刹那。

 

 九名のウマ娘が、一斉にターフを蹴った。

 

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 

 スタート直後。

 

 先頭へ飛び出したのは、やはりスズカだった。

 

 その速度は、ロードの想像を遥かに超えていた。

 

「……っ!」

 

 ロードも必死に食らいつく。

 

 同じ逃げ。

 

 同じように前を目指している。

 

 ならば――。

 

(離されるな。)

 

 必死に脚を動かす。

 

 しかし。

 

 背後から、音がする。

 

 

 ドドドドドッ!!

 

 

 複数の足音が、鼓膜を叩いていた。

 

 姿は見えない。

 

 けれど、確かにそこにいる。

 

 追ってくる。

 

 その事実だけが、嫌というほど伝わってくる。

 

(……これが。)

 

 ロードは歯を食いしばった。

 

(追われるってことか……!)

 

 一人で走っていた時には、感じたことのない圧力だった。

 

 背中を見られている。

 

 捕まえようとされている。

 

 そんな感覚が、じわじわと身体を蝕んでいく。

 

 前を向け。

 

 後ろを見るな。

 

 そう言われていたはずなのに。

 

 どうしても、背後が気になってしまう。

 

「……っ!」

 

 やがて、コーナーへ差し掛かる。

 

 ロードは身体を傾け、必死にスズカの背中を追った。

 

 しかし――。

 

 少しずつ。

 

 少しずつ、距離が開いていく。

 

(速い……!)

 

 肺が痛い。

 

 息が苦しい。

 

 空気を吸っているはずなのに、うまく身体へ入ってこない。

 

 それでも、ロードは前を向いた。

 

(まだ……!)

 

 第四コーナーを抜ければ、直線がある。

 

 そこで前傾姿勢に入れば。

 

 あのフォームなら――。

 

 まだ、届くかもしれない。

 

 そう信じて、脚を動かし続ける。

 

 そして――。

 

 第四コーナーの中間を過ぎた、その時だった。

 

 視界の端に。

 

 一瞬だけ、影が映った。

 

「……!」

 

 後ろから迫る、ウマ娘の姿。

 

 その瞬間。

 

 ロードの身体が反応した。

 

 前へ。

 

 もっと前へ。

 

 身体を沈める。

 

 腰を落とし、上体を前へ預ける。

 

 ――前傾姿勢。

 

 フォーム移行は、確かにできた。

 

 しかし。

 

「……っ!」

 

 思うように身体が前へ出ない。

 

 脚が重い。

 

 もう、スタミナが残っていなかった。

 

 序盤で使いすぎた。

 

 スズカについていくために。

 

 後ろから迫る存在から逃げるために。

 

 ロード自身が、自分のペースを崩してしまった。

 

(まだ……!)

 

 それでも脚を動かす。

 

 必死に前へ進もうとする。

 

 だが――。

 

 横を、一人。

 

 また一人。

 

 ロードを追い抜いていく。

 

 視界の端を、次々とウマ娘たちが駆け抜けていく。

 

「………。」

 

 気づけば。

 

 ロードの後ろには、誰もいなかった。

 

 先ほどまで感じていた「逃げる」という感覚は、もうどこにもない。

 

 ただ、遠ざかっていく背中を見つめることしかできなかった。

 

 ゴールへ向かう足音が、遠くなっていく。

 

 ロードは、重くなった脚を動かしながら、初めて思い知る。

 

 ――自分が定めた「標」は。

 

 思っていたよりも、ずっと高いところにあった。

 

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 

 結果、先頭でゴールしたのはスズカだった。

 先頭を保持したまま、最後の直線で再ブースト。テイオーたちがすぐ後ろに迫っていたものの、一バ身の差をつけて勝利した。

 

「はぁ……!」

 

 走り終えたスズカの顔は、なんとも清々しい表情をしていた。

 

「だあー!負けたー!!」

 

「マジ、バケモンかよ……。」

 

 ウオッカは天を仰いで叫び、ゴールドシップは膝に手をつきながら完敗を認めた。

 

 キタサンはターフの上で膝をつき、歯を食いしばっていた。

 ロードはと言うと……スタミナを完全に使い果たし、ターフの上にぶっ倒れていた。

 

「はぁ、はぁ……!スズカ!」

 

 息を整えながら、テイオーが声を上げる。

 

「今日……いつもより速かったよね!?」

 

「……そ、そうですよ!」

 

 スカーレットも続く。

 

「明らかにペース上げてましたよね……!?」

 

「私も……少し速いと思いましたわ。」

 

 さらに、マックイーンまで。

 

 そんな三人に囲まれて、スズカは息を整えながら少しだけ目を丸くした。

 

「そうかしら……?」

 

「そうだよ!」

 

 テイオーが頬を膨らませる。

 

「最初から飛ばしすぎ!」

 

「……ふふっ。」

 

 スズカは小さく笑った。

 

「みんなには負けたくなかったのと、ルベウス君がいたから、つい……。」

 

「「「…………。」」」

 

 三人が一瞬、黙り込む。

 

 前者はまだいい。だが、後者まで理由に含まれているとなると――。

 

 ロードに見てもらいたくて、あの速度で走ったということになる。

 

 なかなかに鬼畜な所業である。

 

(ただ……。)

 

 マックイーンは、誰にも聞こえないように小さく息を吐いた。

 

(ルベウスさんにとって、悪い影響にならなければいいのですが……。)

 

「あんま無茶するなよな……スズカ。」

 

 そこへ沖野が歩いてくる。

 

 呆れたように頭を掻いているが、その口元には笑みが浮かんでいた。

 

「自己ベストだよ、ったく。」

 

「え?」

 

 沖野は右手に握っていたストップウォッチを、スズカへ差し出す。

 

 表示されている数字を見て、スズカの目が丸くなった。

 

「1分34秒9。」

 

「……!」

 

 スズカがストップウォッチを見つめる。

 

「や、やったぁ……!」

 

 思わず声を弾ませる。

 

「これが、ルベウスパワーってか。」

 

 ゴールドシップがニヤニヤと笑った。

 

「おめでとう、スズカさん!」

 

 スペも嬉しそうに拍手する。

 

「これじゃあ、もう文句言えないじゃん。」

 

 テイオーも苦笑しながら笑った。

 

 スピカを包む空気は、一気にスズカの自己ベストに祝福ムードへと変化した。

 

 その一方で――

 

「お疲れ、ロード君。」

 

 ゴールしたロードへ、ライツが声をかける。

 

 ロードはすぐには答えなかった。

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、両手、両膝をついている。

 

 やがて、ふらつきながらも、立ち上がった。

 

「…………すみません。」

 

 かすれた声だった。

 

「少し、席を外します。」

 

「……ああ。」

 

 ライツは、それ以上何も言わなかった。

 

 引き止めることもしない。

 

 理由を尋ねることもしない。

 

 ただ、ロードが歩き出すのを静かに見送った。

 

 足取りは重い。

 

 それでも、ロードは振り返らなかった。

 

 やがて、その姿がトレーニング場の建物の向こうへ消える。

 

「………。」

 

 残された一同も、誰一人として声を上げなかった。

 

 そんな中、スズカがライツの隣に並んで、小さく呟いた。

 

「……私のせい、でしょうか。」

 

 俯いた彼女の表情には、僅かな不安が浮かんでいた。

 

「私が、最初から飛ばしすぎたから……。」

 

「スズカ君。」

 

 ライツが静かに呼ぶ。

 

「これは彼が選んだ道だ。君に非はない。」

 

「………。」

 

 ライツはロードが消えた方へ視線を向ける。

 

「彼は自らの意思であの場所に立った。」

 

「そして、自らの意思で君の背中を追った。」

 

「………。」

 

「だから――」

 

 ライツは穏やかに微笑んだ。

 

「必ず戻ってくるよ。」

 

 その言葉には、迷いがなかった。

 

「彼は、そういう子だからね。」

 

 スズカはしばらく黙っていた。

 

 そして、ロードが去っていった方を見つめる。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「きっと……戻ってきますよね。」

 

「ああ。」

 

 ライツは短く答えた。

 

 その言葉を最後に、二人は何も言わなかった。

 

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 

 トレーニング場に隣接する男性トイレの個室。

 

 扉を閉めた瞬間、ロードは大きく息を吐いた。そのまま壁に背を預け、ゆっくりと座り込む。

 

「………。」

 

 何も言えなかった。

 

 ただ、俯く。

 

 すると。

 

 頬を、一筋の涙が伝った。

 

「……っ。」

 

 慌てて袖で拭う。

 

 けれど、止まらなかった。

 

 次から次へと、涙が溢れてくる。

 

「……くそっ。」

 

 ロードは顔を伏せた。

 

 悔しかった。

 

 ただ、それだけだった。

 

 スズカについていけなかったこと。

 

 後ろから追い抜かれたこと。

 

 自分が思っていたより、ずっと遠かったこと。

 

 そして――。

 

 どれだけ頑張っても、今の自分では届かなかったこと。

 

「……全然、ダメだ。」

 

 声が震える。

 

 壁に背を預けたまま、ロードは目を閉じた。

 

 勝てないことは分かっていた。それでも、これまで積み重ねてきたものが、一切通用しなかった。

 

 その現実が、悔しくて仕方がない。

 

「……もっと。」

 

 小さく呟く。

 

「もっと、強く……。」

 

 涙を拭う。

 

 それでも、また溢れてくる。

 

 しばらくの間。

 

 ロードは、一人で泣いた。

 

 誰にも見られない場所で。

 

 誰にも聞かれないように。

 

 ただ、悔しさを吐き出すように。

 

 ――やがて。

 

 ロードはゆっくりと顔を上げた。

 

 赤くなった目元を袖で拭う。

 

 まだ涙は残っている。

 

 けれど、呼吸は少しずつ落ち着いてきた。

 

 ロードは立ち上がる。

 

 扉へ手をかける前に、一度だけ目を閉じた。

 

 そして――。

 

 今度は、自分の足で戻るために。

 

 個室の扉を開いた。

 

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 

「……まあ、そういうことだよね。」

 

 テイオーが体を伸ばしながら言う。

 

「ルベウス君は、まだまだこれからだよ。」

 

「そうですわ。」

 

 マックイーンも静かに同意する。

 

「今日のだけで、全てが決まったわけではありませんもの。」

 

「だな。」

 

 ウオッカも強く頷いた。

 

 そんな話をしていた、その時だった。

 

「――戻ってきました!」

 

 スペが、ふと顔を上げる。

 

 全員が一斉に振り返った。

 

 そこには、こちらへ歩いてくるロードの姿があった。

 

「ロードくん!」

 

「ルベウス君!」

 

 キタサンとスズカが笑顔になる。

 特にスズカは自分のせいではないかと心配していたため、少しだけ心が軽くなった。

 

「おかえり!」

 

「おかえりなさい、ルベウスさん。」

 

「おかえり。」

 

 テイオーやスペたちも、次々に声をかけた。

 

「……ただいま。」

 

 少女たちに勢いよく駆け寄られ、ロードはその迫力に押されながら返事をした。

 

「もう大丈夫なの?」

 

「はい。」

 

 少し赤くなった目元。

 

 けれど、誰もそれには触れなかった。

 

 ――ただ一人を除いて。

 

「それで――」

 

「あっ、さては泣いてたなオメー!」

 

 ドスッ!

 

 ゴールドシップがノンデリ発言をぶちかました瞬間、スカーレットがノールックで腹部へと拳を叩き込んでいた。

 

「………ッ‼︎!⁇」

 

 ゴールドシップがその場で崩れ落ちる。

 

 辺りを包む気まずい空気。一瞬、ロードはどう反応すればいいのか分からなかった。

 一方のスカーレットをはじめとするスピカの面々は、初めから何もなかったかのようにロードを見ていた。

 

「………。」

 

 ロードは小さく息を吐いた。

 

 そして、一度だけ目を閉じる。

 

 まだ胸の奥には、さっきまでの悔しさが僅かに残っている。

 

「……その。」

 

 声が、僅かに震える。

 

 言葉を探すように、視線を落とした。

 

「今は……全然、届かないけど。」

 

 悔しさが、また込み上げてくる。

 

 けれど、今度は涙を零さなかった。

 

 そのまま、もう一度みんなを見る。

 

「いつか絶対、みんなに勝ちます。」

 

 声はまだ少し震えていた。

 

 それでも、その言葉だけははっきりと響いた。

 

 誰も、笑わなかった。

 

 むしろ――。

 

 全員の顔に、静かな笑みが浮かんでいた。

 

「その言葉、待ってたよ!」

 

 テイオーがビシッと指を指しながら言う。

 

「ええ。」

 

 スカーレットも頷いた。

 

「やるからには一番を目指さないと、楽しくないもの。」

 

「俺も負けねぇからな!」

 

 ウオッカが笑う。

 

「次に走る時は、今日よりもっと差をつけてやる!」

 

「私も、楽しみにしています!」

 

 スペが柔らかく微笑む。

 

 すると、スズカとキタサンがそっとロードに歩み寄った。

 

「ルベウス君、ごめんなさい。」

 

「……え?」

 

 先に口を開いたのはスズカ。その一言目は、まさかの謝罪だった。

 

 ポカンとするロードに対し、スズカは申し訳なさそうに彼を見る。

 

「ルベウス君にとって初めての模擬レースだって分かっていたのに、飛ばし過ぎてしまった。」

 

「それで……辛い思いをさせてしまったと思う。」

 

「だから、ごめんなさい。」

 

 再びの謝罪を受けて、ロードは少し考えた。

 

 そして、首を横に振る。

 

「……むしろ、感謝しています。」

 

「えっ?」

 

「スズカさんが、教えてくれたんです。」

 

 ロードは小さく微笑む。

 

「 “レース” がいったいどんなものなのか、自分のペースを守ることがどれだけ大切なのかを。」

 

 そして、スズカを真っ直ぐに見つめた。

 

「だから、ありがとうございました。」

 

「……ルベウス君。」

 

「もう二度と、情けない姿は見せません。」

 

 スズカの目が、僅かに見開かれる。

 

 そして――。

 

「……ええ。」

 

 小さく微笑んだ。

 

「楽しみにしているわ。」

 

 スズカは一歩下がる。

 その視線が、自然と隣にいたキタサンへ向いた。

 

「ロードくん、その……。」

 

 キタサンは両手を胸の前で握る。

 

「私も、思ったような結果は出せなかったんだ。」

 

「………。」

 

「前にロードくんは、私を信じるって言ってくれたけど……。」

 

 そこで言葉に詰まる。

 

「私も、ホントにまだまだで……その……!」

 

 両手が、わちゃわちゃと動き始める。

 

「だから、その……なんていうか……!えっと……!」

 

 キタサンは必死に言葉を探す。

 

 そして――。

 

「よ、要するに!」

 

 顔を上げる。

 

「一緒に頑張ろうってこと!」

 

「………。」

 

 あまりにも端折られた結論に、ロードは思わず目を丸くする。

 

 そして――吹き出してしまった。

 

「ははっ……!」

 

「な、なんで笑うのっ!」

 

 キタサンの顔が、みるみる赤くなる。

 

 ロードは笑みを残したまま、首を横に振る。

 

「ありがとう。キタサン。」

 

 ロードはそう言って、右手をゆっくりと前へ差し出した。

 

「一緒に強くなろう。」

 

 キタサンは、その手を見つめる。

 

 そして、すぐに意味を理解した。

 

「うんっ!」

 

 笑顔で、自分の手を重ねる。

 

 ――パンッ。

 

 乾いた音が辺りに響いた。

 

 二人は顔を見合わせる。

 

「約束だよ!」

 

「うん。」

 

 そのやり取りを見ていたマックイーンは、静かに息を吐いた。

 

(……よかった。)

 

 マックイーンはロードを見る。

 

 スズカに食らいつこうとしたロード。

 

 そして、力尽きて後続に抜かれたロード。

 

 あの姿を見た時には、少しばかり不安だった。

 

 あまりにも大きな差を見せつけられてしまったのではないか。

 

 それが、彼の心を折ってしまったのではないか。

 

 けれど――。

 

 今、目の前にいるロードは違う。

 

 悔しさを知り。

 

 涙を流し。

 

 それでも、もう一度立ち上がった。

 

「……これなら、大丈夫ですわね。」

 

 マックイーンは微笑んだ。

 

 ただ、心から安堵していた。

 

 この敗北が、彼にとって悪いものにはならなかった。

 

 むしろ――。

 

 きっと、これから先へ進むための糧になる。

 

 そう思えた。

 

 と、その時。

 

 少し離れたところで、ゴールドシップがようやく身体を起こした。

 

「……いてて。」

 

 腹を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。

 

「おお、やっと起きた。」

 

 ウオッカが言う。

 その声に心配するような感情は微塵も乗っていなかった。

 

「ゴルシちゃんを心配してくれるヤツは誰もいねぇのかよ……。」

 

「あれは空気を読めないアンタが100%悪い。」

 

「思っても言わないよ、フツー。」

 

 スカーレットとテイオーからも冷たい言葉が飛ぶ。

 

 そんな中――

 

「ゴルシさん、大丈夫ですか?」

 

 声をかけたのは、まさにノンデリ発言を受けたロード本人だった。

 

「いいのよルベウス君。こんなヤツ放っておいても。」

 

「で、でも……。」

 

 ゴールドシップの目が、みるみる輝きを取り戻す。

 

 そして――

 

「お前だけだよルベウス!アタシを心配してくれるのは!」

 

「え?」

 

 次の瞬間、ゴールドシップがロードに飛びついた。

 

「ぅあっ!?」

 

「本当にいい奴だなぁ!あんなこと言って悪かった!」

 

 ロードの身体を、ゴールドシップの腕ががっちりと抱き締める。

 

「は……離して……!」

 

「やだ!」

 

「く、苦し……!」

 

 ロードはなんとか腕を抜こうともがく。

 

 しかし――びくともしない。

 

「お、おいゴールドシップ!」

 

 見かねたウオッカが駆け寄る。

 

「ルベウスが苦しそうだぞ!」

 

「そうですよ!」

 

 スペも慌ててゴールドシップの腕を掴む。

 

「離してあげてください!」

 

「離しなさい!」

 

 スカーレットも加勢し、ゴルシの腕を掴んだ。

 

「ちょ、三人はずりーぞ!?」

 

「当たり前でしょ!」

 

「ルベウス君、頑張って!」

 

 さらに、テイオーも反対側から引っ張る。

 

 しかし――。

 

「それでも!ルベウスはやらねぇ!!」

 

 ゴールドシップは微動だにしない。

 

「……なんで!?」

 

 テイオーが叫ぶ。

 

「なんでこんなに力強いの!?」

 

「ゴルシさん……!」

 

 キタサンも加わる。

 

 ロードを助けようと、必死にゴールドシップの腕を引っ張った。

 

「は、離してあげてください! ロードくん、本当に苦しそうです!」

 

「離さない!アタシはコイツを弟にすると決めたんだ!」

 

「む、無茶苦茶だ……!」

 

「ロードくん、大丈夫!?」

 

「………!」

 

「あ、マジでヤバいやつだ!」

 

「ゴールドシップさん、いい加減にしなさい!」

 

 マックイーンまで加わったところで、ようやくゴールドシップの腕が僅かに開いた。

 

「今だ!」

 

 テイオーが叫ぶ。

 

「せーのっ!」

 

 全員が一斉に引っ張った。

 

「しまっ……!!」

 

 ゴールドシップの身体が後ろへよろめく。

 

 その隙に、ロードの体がするりと抜け出した。

 

「キタちゃん!」

 

「はいっ!」

 

 がしっ!

 

 ゴルシの腕から抜け落ちて自由落下するロードを、キタサンがしっかりと抱き止めた。

 

「あ……ありがとうキタサン。……キタサン?」

 

「………。」

 

「キタサン、聞こえてる?」

 

「はっ!」

 

 キタサンが我に返る。

 

「ご、ごめん!」

 

「いや、大丈夫だけど……。」

 

「その……ロードくん、ちゃんと受け止めないと危ないと思って……!」

 

「分かってるよ、ありがとう。」

 

「………。」

 

「キタサン?」

 

「な、なんでもないよ!」

 

 キタサンは慌ててロードを立たせる。

 

「ほら、もう大丈夫!ねっ!」

 

「……うん?」

 

 ロードは不思議そうに首を傾げた。

 

 と、その時。

 

「ロード君。」

 

 後ろからライツの声が響いた。

 

「今日はもう上がるかい?」

 

 ライツは、少し疲れた様子のロードを見ながら尋ねる。

 

 今日のトレーニングは、決して軽いものではなかった。

 

 初めての模擬レース。

 

 そして――その結果を受け止めたばかりだ。

 

 普通なら、ここで休ませるところだろう。

 

 しかし。

 

「……もう少しだけ、走りたいです。」

 

 ライツかは目を細める。

 

「そうか。」

 

 それだけ言って、静かに頷いた。

 

「なら、付き合おう。」

 

「ありがとうございます。」

 

 ロードはスピカの面々へ向き直る。

 

「それじゃあ、みなさん。」

 

 そして、ペコリと頭を下げた。

 

「今日はありがとうございました。」

 

「また走ろうね、ルベウス君!」

 

 テイオーが手を振り返す。

 

「またな!」

 

「次も負けないからね!」

 

 ロードは最後にもう一度頭を下げると、ライツとともにターフの奥へ歩いていった。

 

 その背中が遠ざかっていく。

 

「………。」

 

 キタサンは、しばらくその姿を見送っていた。

 

「……キタサン?」

 

 スズカが声をかける。

 

「へっ!?」

 

 キタサンが振り返る。

 

 顔は――まだ赤い。

 

「どうしたの?」

 

「な、なんでもないですよ!」

 

 必死に否定するキタサン。

 

 すると、テイオーがくすっと笑った。

 

「さっき、随分と嬉しそうだったよね!」

 

「え?」

 

「ルベウス君を、ぎゅっと抱き止めた時!」

 

「――っ!?」

 

 キタサンの顔が、一気に赤くなる。

 

「ち、違います!あれはロードくんが落ちてきたから……!」

 

「ふふっ。」

 

 スペも笑う。

 

「でも、すごく素早かったですよね。」

 

「あ、危なかったですし!」

 

「でも、お顔が真っ赤ですわよ?」

 

 マックイーンまで微笑む。

 

「マ、マックイーンさんまで!?」

 

 キタサンは両手で顔を覆った。

 

「もう!みんなして!」

 

 その様子を見ていたスズカが、小さく笑う。

 

「……でも、よかったわね。」

 

「な……何がですか?」

 

「さあ?」

 

 スズカは答えず、楽しそうに微笑んだ。

 

 キタサンはさらに顔を赤くする。

 

「も~~っ!」

 

 その声が、夕暮れのトレーニング場に響いた。

 

 その一方で――

 

「アタシの弟ォーーッ!!」

 

 そんな叫び声もまた、同じ場所に響き渡るのだった。

 

 

 つづく




ロード君がここからどこまで成長するのか見ものですね。

次回はプールに連れて行く予定です。

では、また。
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