トレーナーのみなさん、こんにちは。
前回話した通り、プール回です。
一応言っておきますが、キャッキャウフフな話はありません。
スピカとの模擬レースから数日後。ロードとライツは、トレセン学園敷地内の一角にある施設の前に立っていた。
その施設こそ、トレセン学園の体育館内プール。ロードは建物を見上げ、それから隣のライツへ視線を向ける。
「……博士。」
「なんだい?」
「いつも通り、ターフでのトレーニングじゃダメなんですか?」
「ダメではないよ。」
「じゃあ……。」
「だが、『体力をつけたい』と言ったのは他でもないロード君だぞ。」
「………。」
ロードは少しだけ口を尖らせる。
先日の模擬レース。
自分に足りなかったものが何なのか、嫌というほど思い知らされた。
速いペースを維持し、最後の加速に繋げるためのスタミナ。それを鍛えるためにライツが提案したのが――。
水泳だった。
「水中では浮力が働く。身体への衝撃を抑えながら、全身を使った運動ができる。」
「さらに、水は空気よりも遥かに大きな抵抗を持つ。同じ動作でも、陸上より大きな負荷がかかる。」
「そして何より、君が今必要としている『速いペースを維持する持久力』を鍛えるには、非常に効率がいい。」
「ターフでの走り込みも悪くない。しかし、同じ目的を別の方法で鍛えることに意味がないわけではない。」
お構いなしに勢いよく降り注ぐライツの知識。
ロードはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「……分かりました。」
諦めたように、体育館の入口へ向き直った。
「行きましょう。」
「よろしい。」
ライツも満足そうに頷いた。
そして二人は、体育館の中へ入っていった。
「念のため聞くが、水着は持ってきたんだろうね?」
「持ってきましたよ、新品を。」
しかし。
中に入ったロードは、一つの問題に直面する。
「……男子更衣室、ないんですね。」
「女子校だからね。」
言うまでもないが、トレセン学園はウマ娘のための学校。男子用の更衣室など用意されているはずもなく。
結局、ロードは男子トイレの個室で水着に着替えることになった。
・・・・・
水着を履き、上から体操服を被って個室を出る。
トイレから出てきたロードは、ライツを探した。
「……?」
すぐにライツは見つかった。
だが、彼女は車椅子に座ったまま、体育館の入口付近から動いていない。
ロードは歩み寄る。
「何やってるんですか?」
「おお、やっと戻ってきたね。」
ライツはいつもの調子で答えた。
「……入らないんですか?」
「そうしたいのは山々なんだがね。」
「?」
ライツは自分の車椅子へ視線を落とす。
「この先はプールサイドだろう?」
「はい。」
「プールサイドは裸足で歩く場所だ。」
「そうですね。」
「なら、外から砂や埃が付着している車椅子を、そのまま持ち込むわけにはいかないと思わないか?」
ロードは車椅子を見る。
タイヤはとても綺麗に見える。
「タイヤの表面は靴の裏と同程度、もしくはそれ以上に汚いと言われている。」
「君たちはここで靴を脱ぐが、私の場合は特殊だからね。」
ライツは淡々と説明を続ける。
「……つまり、俺におぶれと。」
「話が早くて助かるよ。」
「最初からそれ言えばいいじゃないですか。」
「だって……ねぇ?」
そんなライツの反応に、ロードは呆れたように息を吐く。
それでも、『嫌だ』と言うことはなかった。
ライツは車椅子を出入りする者の邪魔にならないよう、入り口の端に寄せた。
ロードはライツの靴と靴下を脱がせ、自分の靴と同じ棚に仕舞う。そして――
「乗れますか?」
「もう少し後ろに来てもらえるかい。……ああ、届いた。」
ロードが車椅子の前に屈み、ライツを背負う。彼女は自身の腕をロードの首元で交差させ、しっかりと掴まった。
「……その、重くはないだろうか。」
「大丈夫です。」
むしろ軽いくらいだ。
そう考えたロードだったが、口にすることはなかった。
代わりに、違う質問をぶつける。
「……この状態で他のウマ娘たちに見られるのは、恥ずかしくないんですか?」
「………。」
ライツは一瞬だけ黙った。
しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「私の足が不自由になって、何年経ったと思っている?」
「……すみません。」
「ははは。謝る必要はないさ。」
ライツはどこか楽しそうに笑った。
「今さら気にするようなことでもないよ。それに――」
ライツはロードの背中で少し姿勢を正す。
そして、首元に回した腕へ、ほんの少しだけ力を込めた。
「こうして君に運んでもらうのも、なかなか悪くない。」
「……結構楽しんでません?」
「さて、どうだろうね。」
・・・・・
プールサイドに続く扉を開ける。
ロードはライツを背負ったまま、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
瞬間。
何十人もの視線が、一斉にこちらへ向く。
それはウマ娘だけでなく、トレーナーたちも同じだった。
予想していなかったわけではない。
トレセン学園が女子校である以上、ここに自分が現れることがどれだけの衝撃を与えるかは分かっていた。
けれど、何かがいつもと違った。
その違和感の正体までは、分からない。ただ、不思議と不安はなかった。
すると。
「ロード君。」
「はい?」
背中から、ライツの声がする。
「一人で視線を受けるよりは、マシだろう?」
ロードは、思わず足を止めた。
そして、一瞬だけその言葉を考える。
(……博士のおかげなのかな。)
確かに、そうなのかもしれない。
自分一人ではないという安心感は、確かにあった。
でも――。
「………。」
それだけではないような気がした。
この胸の奥に残っている、不思議な感覚。
その正体までは、まだ分からない。
「……そうですね。」
ロードは小さく呟いた。
そして、再び歩き始めた。
ライツが初めから狙っていたものかは分からない。
だが、気づけば不安は消えていた。
・・・・・
入念な準備運動を終えたロード。
「それでは、まずはクロールで25mを泳いでみてくれ。」
「分かりました。」
ライツの指示に、ロードは頷く。
そして、着ていた体操服をするりと脱いだ。
その瞬間だった。
先ほどまで散らばっていた視線が、またしても一斉にロードへ集まった。
ロードは気づいている。
気づいてはいるが――。
「………。」
何も言わない。否、言えない。
ライツはそんな様子を横から眺めていた。
「……ふむ。」
周囲を見渡す。
視線を逸らす者。
ちらちらと様子を窺う者。
友人同士で何かを話している者。
その反応は様々だ。
「彼女たちは思春期真っ只中の少女なわけだが……。」
ライツは小さく笑う。
「ここまで露骨だと、少し面白いね。」
「……博士。」
「まあ、少なくとも君を怪しむ目で見る者がいないことの証明じゃないか?」
他人事のような言葉にロードは少しだけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「じゃあ、行ってきます。」
「ああ。」
ライツがストップウォッチを構える。
「タイムのことは考えなくていい。今は、泳ぎ切ることを考えるんだ。」
「はい。」
そうしてロードはスタート地点に向かい、プールへ入る。
水面に身体を浮かせ、静かに構えた。
「………。」
周囲の視線は、もう気にしない。
今は、自分の身体を確かめる時間だ。
ロードは一度だけ息を吸い――。
ゆっくりと、水の中へ身を沈めた。
そして、壁を蹴って飛び出す。
すっと身体が前へ伸びる。
腕を回す。
右、左、右、左。
だが――。
「……っ。」
息継ぎのために顔を上げる。
その瞬間、身体が大きく沈んだ。
ロードは慌てて腕を回す。
水を掻く。
また顔を上げる。
また身体が沈む。
その繰り返し。
「………。」
プールサイドから見ていたライツは、すぐに気づいた。
ロードの動きは、決して滅茶苦茶ではない。
むしろ、どのように動かすかはしっかり理解している。
ただ――。
妙にぎこちない。
やがて半分ほどまで進んだところで、ロードは泳ぐのを止めた。
「ゲホッ!」
プールの中で立ち上がり、勢いよく咳き込む。
「ロード君、戻っておいで。」
ロードは首を傾げながら、プールサイドへ戻ってくる。
「泳ぎ方は分かっているようだが、身体がついてきていない。」
「何が悪いんでしょう?」
「顔の位置だよ。」
ライツはロードの動きを真似るように、顔を少し上へ向けた。
「君は息を吸う時、顔を出しすぎている。」
「顔を上げすぎることで腰が沈む。腰が沈めば水の抵抗が増えるんだ。」
「感覚としては、下側の目を水中に残すくらいをイメージしてみてくれ。」
ライツが言うが、ロードは少しだけ俯いた。
彼にしては珍しく不安なのだろうか。
しかしライツは、その可能性もすでに対策している。
「不安ならば、君にこれをあげよう。」
ライツが手に取ったのは、ビート板だった。
「いつの間にそれを?」
ロードが尋ねる。
「君がプールに入った辺りで、前を通りかかった子に持ってきてもらったんだ。」
「……まさか、本当に必要になるとはね。」
「………。」
ロードは何も言わずに、それを受け取った。
「まずはこれを使って、私が今言ったことをイメージしてみてくれ。」
「……はい。」
「あぁ、それから――」
ライツはロードを見る。
「目的は速く泳ぐことじゃない。より長く、確実に泳ぎ切ることだ。」
「腕を大きく回してごらん。」
ロードはビート板を握り直した。
「分かりました。」
そうしてロードは再びスタート地点に向かう。
一方のライツは、その背中を黙って見つめていた。
「………。」
僅かに眉を寄せる。
ロードは、類を見ないほどの運動能力を持っている。中でも体幹はこれまでに見てきたウマ娘たちを凌駕しており、身体の使い方を理解するのも早い。
それなのに……。
クロールは、誰もが最初に習うであろう泳ぎ方だ。学校の授業やスイミングスクールでも、クロールを身に付けてから他の泳ぎ方を学ぶパターンが大半である。
ライツの中に、小さな疑問が残る。
しかし、今はまだ――
その答えを知る術はなかった。
・・・・・
それから、しばらく経った。
ロードは変わらず水面を進んでいた。
しかし、先ほどまでのぎこちなさは、もうない。腕は大きく、滑らかに回っている。
呼吸のために顔を上げる動作も最小限。身体は水面を滑るように進み、一定のリズムを崩さない。
「……うん。」
プールサイドから見ていたライツも、満足そうに頷いた。
さすがはロード。一度身体の使い方を理解してしまえば、飲み込みは早い。
気がつけば、先ほどまで使っていたビート板は、ライツの隣に置かれていた。
ロードはそれからも泳ぎ続けていた。
25mを泳ぎ、一度プールから上がる。
ライツの前を通り過ぎてスタート地点まで歩いたかと思えば、少しの休憩を挟んで再び水の中へ。
25m。
休憩。
また25m。
単純な繰り返しだった。
しかし、ロードは一向に飽きる様子を見せない。
「ロード君。」
「はい?」
何回繰り返したかも忘れた頃、プールサイドからライツが声をかけた。
「そろそろ休んだらどうだい?」
ロードは少し考えた後、首を横に振った。
「もう少し泳ぎたいです。」
「疲れていないのかい?」
「疲れてはいますけど……。」
そう言いながら、ロードは笑っていた。
「なんだか、楽しくて。」
「………。」
ライツはロードの顔を見る。
その表情は、これまでとは少し違っていた。
レースに勝つためでもない。
誰かに追いつくためでもない。
ただ純粋に――新しい楽しみを見つけた小学生の顔だった。
「そうか。」
ライツは小さく笑う。
「行っておいで。」
「ありがとうございます。」
ロードは嬉しそうに頷く。そして、再びスタート地点へ向かって行った。
短い休憩を挟みながら、同じ距離を繰り返す。
結果としてロードは、一種のインターバルトレーニングを熟していた。
しかし――。
「………。」
ライツは、ふと先ほどの光景を思い出す。
やはり分からない。
これほどまでに飲み込みが早く、身体の使い方もすぐに修正できる。
そして今では、泳ぎそのものを楽しんでいる。
ならば――。
なぜ最初は、あれほどぎこちなかったのだろう。
ライツは、ビート板へ視線を落とした。
ほんの少し前まで、ロードが使っていた道具。
「………。」
答えは、まだ見えない。
ただ一つ確かなのは。
ロードにとって水の中を進むことは、いつの間にか、新しい「走り」のようなものになりつつあるということだった。
・・・・・
ロードは濡れた体をセームタオルで包み、ライツの隣に座った。
「随分と泳いだね。」
「ですね。」
ロードはプールを振り返る。
何度往復したのか、もう覚えていない。
「予定とは少し違ったが、自らインターバルトレーニングを始めた時は思わず笑ったよ。」
「え、そうなんですか?」
「おや、自覚がなかったのかい。」
ライツが楽しそうに笑う。
「泳いで、短い休憩を挟んで、また泳ぐ。紛れもないインターバルトレーニングだよ。」
「言われてみれば、確かにそうですね。」
ロードは少し照れくさそうに笑った。
「ところで……ロード君。」
「はい?」
ライツの声が、ほんの少しだけ変わる。
「君は、泳ぐのが苦手だったのかい?」
その問いに、ロードの表情が僅かに止まった。
「……急ですね。」
「運動神経のいい君が、クロールに苦戦しているのがあまりにも意外でね。」
「………。」
「最初はフォームの問題だと思った。だが、君は一度教えればすぐに修正できた。」
ライツはロードを見る。
「だから、少し気になったんだ。」
ロードはしばらく天井を見つめた後、静かに答えた。
「……水が、嫌いだったんです。」
「水が?」
「はい。」
ロードはプールへ視線を向ける。
「小学校の頃は……。」
そこで一度、言葉を止めた。
ライツは何も言わず、待つ。
「……プールの授業には、ほとんど参加してませんでした。」
「だいたいの泳ぎ方は知ってても……正確なやり方は分からなかったんです。」
「なるほど……。」
ライツは頷く。
ロードの答えはよく理解した。
だからこそ、新たな質問が生まれる。
「では……なぜ水が嫌いだったんだい?」
その問いに。
ロードは、ゆっくりとライツへ顔を向けた。
「博士。」
「うん?」
「……俺の昔話は、今度でもいいですか。」
静かな声だった。
けれど、先ほどまでとは明らかに違う。
ライツは一瞬だけロードを見つめる。
そして――。
「……ああ。」
そう、小さく答える。
この状況で、それ以上聞く気は起きなかった。
・・・・・
その日のトレーニングを終えた頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。
ロードはプールから上がり、ライツの待つ場所へ戻ってくる。
「今日はここまでにしようか。」
「はい。」
ロードは頷いた。
セームタオルを被り、荷物を持って再び男子トイレの個室へ入る。
体に引っ付く水着をなんとか脱ぎ、しっかりと拭いて体操服に着替えた。
それからプールサイドへ戻り、ロードはライツを背負う。
先ほどと同じように、ライツの腕が首元へ回った。
「よろしく頼む。」
「はい。」
二人はそのままプールを後にした。
入口まで戻ると、そこにはライツの車椅子が置かれている。
ロードはゆっくりとライツを下ろし、車椅子へ移乗させる。
「座れましたか?」
「ああ、ありがとう。」
そうしてロードは棚から自分の靴とライツの靴、および靴下を手に取る。
「履かせてあげましょうか?」
「ふふ、これくらい造作もないことさ。」
靴を履き、ロードは立ち上がる。
ライツは車椅子の操作レバーに手を伸ばしたーー
その時だった。
「博士。」
「うん?」
ロードがライツを呼び、車椅子の後ろへ回った。
「……車椅子、俺が押してもいいですか。」
ライツは一瞬だけロードを見る。
その時の彼の雰囲気がいつもと違うのは、明白だった。
「ああ、頼んだ。」
短く答える。
ロードは車椅子のハンドルを握る。
「いきなりスピードを出したりしないでくれよ。」
「しませんよ、そんなこと。」
ライツの冗談に、ロードは笑みをこぼす。そして、車椅子はゆっくりと動き始めた。
しばらく、会話はなかった。
けれど――。
ロードの中には、先ほどの言葉が残っていた。
『俺の昔話は、今度でもいいですか。』
今はもう、トレーニングの時間ではない。
「………。」
ロードは前を向いたまま、静かに息を吐く。
「……博士。」
「なんだい?」
「さっきの……昔話なんですけど。」
ライツは何も言わず、ロードの言葉を待った。
夕焼け空の下を進む車椅子の音だけが、静かに響いている。
「……小学生の頃の話です。」
ロードは前を向いたまま、ゆっくりと話し始めた。
幼い頃から、ロードは自分が周囲とは違うことを知っていた。
研究のために身体を調べられていたこともあり、自分が普通のウマ娘とは違うことを、早い段階で理解していた。
彼が学校で一番嫌いだったのは、プールの授業だった。
夏の限られた期間しかない授業。だがそれが、自分がクラスメイトたちとは違うことを、嫌ほど見せつけてきた。
プールの授業を休むたび、クラスメイトから尋ねられた。
――どうして入らないの?
ロードは、いつも同じ答えを返していた。
水が嫌いだから。
それ以上のことは言わなかった。
けれど、学年が上がるにつれて、周囲も少しずつ気づき始める。
自分が異質な存在であることを。
気がつけば、彼の周りからは人が減っていた。
特に、同じウマ娘のクラスメイトから避けられることが多かった。
ロードは、それでも何も言わなかった。
言えなかった。
そして、小学三年生のある日。
プールの授業があった。
いつものように休もうとしたロードに、教師が声をかけた。
今日はどうしても参加してほしい。
それは、成績をつけるためだった。
仕方なく、ロードは更衣室へ向かった。
その途中だった。
男子から、声が飛んできた。
――お前、本当は女なんじゃね?
笑い声が聞こえた。
女子からは、何も言われなかった。
ただ、まるで気味の悪いものを見るような目を向けられた。
それだけだった。
それだけなのに。
ロードには、それで十分だった。
結局、彼は着替えなかった。
教師に謝った。
今日は泳げません、と。
そして、そのまま早退した。
自分が何なのか。
男なのか、女なのか。
ウマ娘なのか、それとも――。
幼いロードには、もう何も分からなかった。
「………。」
そこまで話したところで、ロードは一度だけ息を吐いた。
車椅子のハンドルを握る手に、ほんの少しだけ力が入る。
「……そんな感じです。」
ライツは、何も言わなかった。
ただ、静かに前を見ていた。
少しの沈黙の後。
「……でも。」
ロードが、ぽつりと口を開いた。
「さっき、みんなから視線を向けられた時。」
ほんの少しだけ、声が柔らかくなる。
「本当は、嬉しかったんです。」
ライツは黙って聞いている。
車椅子を押す足は、止まらない。
「変に聞こえるかもですけど……俺、視線に込められた想いみたいなものは、考えなくても分かってしまうんです。」
ロードは、これまで何度も人の視線を受けてきた。
好奇心。
警戒。
困惑。
そして――拒絶。
視線は、言葉よりも正直だった。
「あの視線の中に俺を不審がる視線は、なかった。」
ロードは少しだけ笑った。
「……誰も、俺を『変なもの』と見るような目で見てなかったんです。」
「……そうか。」
ライツが、僅かに目を細める。
それは、昔の自分には決して得られなかったものだった。
「……今通ってる中学校の仲間は、いいヤツばかりなんです。」
ロードは、少しだけ笑った。
「昔から、そうでした。」
「………。」
「俺が何を考えてるのか分からなくても、普通に話しかけてくれた。」
笑いかけてくれた。
隣にいてくれた。
自分が距離を取っても、それでも手を差し伸べてくれた人。
「でも……あの頃の俺は、それに気づけなかった。」
ロードは苦笑する。
「夢を見ないようにしてたから。」
走ることを諦めて。
何かを望むこともやめて。
傷つかないように、自分から心を閉ざしていた。
だから、周りにあった優しささえ、まともに見ることができなかった。
「夢を追いかけ始めてから……少しずつ、見えるようになったんです。」
ロードは前を向く。
「周りに、こんなにいい人たちがいたんだって。」
そこで一度言葉を切る。
少し間が空いて、ロードは再び口を開いた。
「……だから、思ったんです。」
「俺の本当の居場所は――トレセン学園なんだと。」
ライツは小さく息を吐く。
「……そうか。」
それ以上、何も言わなかった。
ただ、その背中に伝わる振動から、車椅子を押すロードの存在を感じ取っていた。
・・・・・
研究室へ戻ると、ロードは自分の荷物をソファの上に置いた。
「それじゃあ、着替えてきます。」
「ああ。」
そう言って、ロードが準備室へ向かおうとした時だった。
「ロード君。」
「はい?」
「おいで。」
ライツが、ちょいちょいと手招きをする。
ロードはライツの正面に立つ。細かな位置調整を経て、ライツは言う。
「屈んでもらえるかい? 膝立をしてくれると嬉しい。」
「……こうですか?」
ロードは腰を下ろし、膝立をする。
次の瞬間――。
ライツの腕が、そっとロードの身体を包んだ。
「……博士?」
突然のことに、ロードは目を丸くする。
けれど、振りほどこうとはしなかった。
「話してくれて、ありがとう。」
ライツの声は、いつもより静かだった。
「君の過去を知って――」
ライツは、ほんの少しだけ腕に力を込める。
「少し、火がついたよ。」
ライツはそっとロードから離れる。
そして、その目を真っ直ぐに見つめた。
「必ず、君を合格に導いてみせる。」
ロードは、しばらく何も言えなかった。
やがて――。
「……はい。」
小さく、それでも力強く頷いた。
しばしの間、二人の間に静かな時間が流れる。
やがてライツは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「……すまないね、急に抱きついてしまって。」
「いえ……。」
「なんなら、君もするかい?」
なんの躊躇いもなく、ライツは両手を広げた。
「それは……やめておきます。」
「ははは、さすがに嫌だったか。」
「嫌ではないです。恥ずかしいだけです。」
「そうか。」
ライツは楽しそうに笑う。
(……おかしい。)
そう思ったロードは、ライツに言った。
「プールでのおんぶといい、なんだか変ですよ、博士。」
するとライツは数秒キョトンとし、すぐに笑みを浮かべた。
「私たちの関係が良好である証拠だよ。」
「……そういうことにしておきます。」
ロードは小さくため息を吐く。
己の行動の正当化とも取れる発言だったが、悪い気はしなかった。
その後、ロードは着替えのために準備室の中へと消えていった。
扉が閉まるのを見届けてから、ライツは小さく息を吐く。
「………。」
ふと、自分の手を見た。
(まぁ確かに、色々と踏み込みすぎたかもしれないな。)
突然ロードを抱きしめたことも。
昔のことを聞こうとしたことも。
少しばかり、接する距離を間違えてしまったかもしれない。
それでも――。
(……そうしてしまうくらい、君のことが大切なんだろうね。)
研究者として、ロードの可能性に惹かれた。
指導者として、彼の成長を見届けたいと思った。
ただ、それだけのはずだった。
いつからだろう。
彼が笑えば自分も嬉しくなり、苦しんでいれば手を差し伸べたくなり。
夢を追う姿を、誰よりも近くで見守りたいと思うようになったのは。
ライツは小さく笑う。
そして、静かに呟いた。
「……どうかこれからも、歩みを見守らせてくれ。」
ほんの少しだけ、口元を緩める。
「君の――ファンの一人としてね。」
つづく
最後のライツ博士のセリフ。本当は「ファン第一号」と言わせたかったのですが、よくよく考えたら第一号はキタサンだよな……と。
ライツ博士はかわいい、異論は認めない。
では、また次回。