トレーナーのみなさん、こんにちは。
ついに迎えた試験最終日です。
「ロード、起きなさい。朝よ。」
母の声が聞こえて、ロードはゆっくりと目を開けた。
「……ん。」
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋を照らしている。外では、早くも蝉が元気に鳴いていた。
今日は、転入試験最終日。
ロードは布団から身体を起こし、しばらくぼんやりと正面の壁を見つめた。
「……朝か。」
目を擦りながら、呟く。
昨夜はなかなか眠れなかった。目を閉じても、今日の試験のことが頭に浮かんでしまう。
面接、そして実技試験。
けれど――。
今は、不思議と緊張していなかった。
ロードはベッドから立ち上がると、洗面所へ向かった。蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。
「……ふぅ。」
タオルで顔を拭き、顔を上げる。
鏡の中には、いつもと変わらない自分がいた。
黒鹿毛の髪。
少し赤みを帯びた黒い瞳。
そして、その頭の上にあるウマ耳。
ロードは鏡の中の自分を見つめた後、胸にそっと手を当てた。
(キタサンと電話したからかな。)
思い返す。
昨夜、キタサンは自分に電話をかけてきてくれた。
たくさん話したわけではない。
それでも――声を聞けたことが、本当にありがたかった。
(……ありがとう。)
もし電話がなかったら、ここまで体を休められなかったかもしれない。
そう思うと、ロードは小さく息を吐く。
そして、鏡の中の自分に向かって――ほんの少しだけ笑った。
「……見てろよ。」
今日が、試験最後の日だ。
迷う必要はどこにもない。
そう口にして、ロードは洗面所を後にするのだった。
・・・・・
この日のトレセン学園は、昨日までとは明らかに空気が違っていた。
校舎内を歩く受験生たちの表情は硬い。誰も無駄な言葉を交わさず、それぞれの教室へ向かっている。
最終日の試験内容は、面接と実技。これまでの筆記試験とは違い、自分自身の考えや人柄、そして実際に走る姿そのものが評価される。
それを理解しているからこそ、受験生たちの間には昨日までとは違う緊張感が漂っていた。
そしてそれは、学園側も同じだった。
転入試験に関わる教員たちが朝早くから校内を行き交い、各試験会場では担当者同士が細かく連絡を取り合っている。
面接を担当する教員。
記録を担当する職員。
受験生を誘導する教員。
それぞれが自分の役割を果たし、一秒たりとも無駄にしないよう連携していた。
やがて、教員が誰かの受験番号を呼ぶ。
窓側の最前列に座っていたウマ娘が、少し緊張した面持ちで教室を出て行った。
そして、手元の名簿へ視線を落とした。
受験生たちの背筋が、わずかに伸びる。
「受験番号――」
番号が一つ、また一つと読み上げられる。
呼ばれた受験生は返事をし、教室を出ていく。
ロードは一度だけ、深く息を吐いた。
昨日までなら、こういう待ち時間だけでも落ち着かなかったかもしれない。
けれど、今は違う。
胸の奥には、静かな緊張こそある。
それでも、不思議と怖くはなかった。
やがて――
「受験番号、174番。」
自分の番号が呼ばれた。
ロードは顔を上げる。
「はい。」
立ち上がり、教室を出る。
「では、こちらへどうぞ。」
ロードは教員の後に続き、廊下を進む。
移動の最中、ここには自分と目の前の教員しかいないのではと錯覚するくらいに、足音がよく聞こえた。
向かったのは、先ほどまで待機していた教室の向かい側にある棟だった。
廊下には、他の受験生たちが各教室の前に置かれた椅子に座っている。
目を閉じている者。
胸に手を当てている者。
小さく息を吐きながら、呼吸を整えようとしている者。
誰もが、それぞれの方法で緊張を抑えようとしているのが分かった。
「ここでお待ちください。」
「はい。」
教員に言われ、ロードは静かに腰を下ろす。
僅かに椅子が軋んだ。
それだけの音が、やけに大きく聞こえた。
「………。」
教室から、かすかに声が聞こえていた。おそらく、自分の前の席に座っていたウマ娘が面接を受けている。
ロードは目を瞑る。すると、自然と昨夜のことが思い出された。
――キタサンとの電話。
他愛のない話をして。
試験のことも少し話して。
そして、最後に彼女が言った。
『ロード君なら、大丈夫だよ。』
少しだけ間を置いて。
『……私、ロード君のこと信じてるから。』
「………。」
いつもなら、自分がキタサンに言う言葉だった。
大丈夫。
信じている。
だから、頑張って。
そんな言葉を、今度は自分が言われる側になった。
けれど――
不思議と、プレッシャーには感じなかった。
むしろ、胸の奥が少しだけ軽くなった。
(……キタサンも、こうだったのかな。)
自分がこれまでキタサンに掛けてきた言葉。
それが彼女の背中を押す、ほんの少しの力になれていたのなら。
ロードは、そうであってほしいと密かに思った。
「………。」
ゆっくりと息を吸う。
そして、静かに吐き出した。
さっきまで聞こえていた自分の鼓動も、少しずつ落ち着いていく。
やがて――
ガチャ。
目の前の扉が開いた。
一人のウマ娘が教室から出てくる。
彼女はロードの姿を確認すると、教室の中へ入るよう、手で促した。
ロードは小さく頷く。
椅子から立ち上がり、扉の前に立つ。
そして、一度だけ深く息を吸った。
大丈夫。
自分の言葉で、話せばいい。
そう心の中で呟き、ロードは教室のドアを軽く叩いた。
・・・・・
面接室。
ロードは、二人の面接官と向かい合って座っていた。
部屋の中は静かだった。
机の上には、ロードの受験票とこれまでの試験結果がまとめられた資料が置かれている。
二人の面接官はその資料を確認しながら、ロードへ視線を向けていた。
自己紹介および自己PRを終え、次の段階に移る。
「それでは、いくつか質問させていただきます。」
「はい。」
最初に口を開いたのは、ロードから見て右側に座っている女性の面接官だった。
「では、トレセン学園への転入を決めた理由を教えてください。」
ロードは一度だけ息を吸う。
ここへ来た理由なら、もう決まっている。
「私が今通っている中学校は、ウマ娘の学校ではありません。」
ゆっくりと言葉を続ける。
「そのため、私がレースに出るためには、御校の転入試験を受ける必要がありました。」
彼女は頷き、手元の資料へ目を落とす。
そこには、これまで通ってきた学校や、競走に関する経歴についても記されていた。
しかし、後者に関しては全くの空欄である。
ロードの経歴については、理事長からある程度聞いている。彼女はロードの過去について深く追及することはなかった。
「では、次の質問です。トレセン学園に転入したら何をしたいですか。」
「私がやりたいことは、主に二つあります。」
ロードは迷わずすぐに答えた。
「まずは、いろんなウマ娘さんと競い合いたいです。」
「理事長さんの計らいでトレセン学園でトレーニングをさせていただきましたが……自分より速いウマ娘さんが、まだまだたくさんいると思います。」
「そういう方たちと一緒に走って、自分がどこまで通用するのか確かめたいです」
二人は黙って聞いている。
「そして、もう一つは――」
ロードは少し考えた。
「自分の走りを、完成させたいと思っています。」
「……完成させたい?」
「はい。」
彼女の眉が僅かに動く。
「午後は実技試験ですが……大丈夫ですか?」
「大丈夫です。」
ロードは迷うことなく答えた。
その返答に、二人は少しだけ目を細める。
「もう少し、詳しく聞いてもいいですか?」
「はい。」
彼女はメモを取りながら、ロードに質問をする。
「『走りが完成していない』というのは、今の段階では実技試験に支障がある、という意味ではないのですね?」
「はい。」
ロードは頷いた。
「未完成というのは……正確に言えば、脚質が定まっていないということです。」
自分の考えを整理しながら、より丁寧な言葉を選ぶ。
「私の走りは、ラストスパートに特化した走りです。しかし、スタート直後の脚質がどれが自分に一番合っているのかは、まだ分かっていません。」
「では、今日の実技試験では?」
「逃げで走るつもりです。」
「今現在では、逃げが最も自信があると。」
「はい。」
即答だった。
彼女は一瞬だけロードの目を見る。
そこに不安や虚勢がないことを確認したのか、静かに頷いた。
「分かりました。」
そして、サッとメモを取る。
「では、次の質問です。」
「ルベウスさんは将来、どのようなウマ娘になりたいですか?」
「………。」
ロードは少しだけ考えた。
どんなウマ娘になりたいのか。これまで、そんなことを改めて考えたことはなかった。
強いウマ娘。
速いウマ娘。
大きなレースで勝てるウマ娘。
そういう姿なら、何度も想像したことがある。
けれど――。
「私は……」
ロードは静かに口を開いた。
「夢を途中で諦めてしまった人に、もう一度頑張ってみようと思ってもらえるようなウマ娘になりたいです。」
彼女は黙ってロードを見る。
「それは……どうしてですか?」
その質問に、ロードは少しだけ視線を落とした。
「私自身、夢を途中で諦めたからです。」
その言葉には、過去を語るような重さはなかった。ただ、自分の中にある事実をそのまま口にしている。
「私がもう一度夢を追いかけて、走っている姿を見てもらえたら。」
「『もう一度やってみよう』って、思ってくれる方がいるかもしれない。」
「私は、そう思っています。」
彼女は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに尋ねる。
「ルベウスさん自身は、誰かから勇気をもらった経験がありますか?」
「………。」
ロードは少し考えた。
母から、キタサンから、クラスメイトから。
そして、これまで出会ってきたたくさんの人、ウマ娘たちから。
自分は背中を押してもらった。
「……はい。」
ロードは小さく頷いた。
「たくさん、あります。」
それだけを答える。
彼女も、それ以上は聞かなかった。
「分かりました。」
短い言葉とともに、次の質問へ移る。
ロードは背筋を伸ばした。
自分が走る理由を、誰かに言葉にして伝える。それもまた、今日の試験の一つなのだと思った。
「では、私からの最後の質問です。」
そう言って、彼女が資料へ目を落とした。
「ルベウスさんは、世界で唯一の『男のウマ娘』です。」
「その事実について、ルベウスさん自身はどのように考えていますか?」
「………。」
ロードは少しだけ考える。
世界で唯一の男のウマ娘。
その言葉を聞くこと自体は、もう珍しくなかった。
けれど、自分自身がそれについて答えるとなると、少しだけ考える必要があった。
「……私が男であることは分かっています。」
ロードはゆっくりと口を開いた。
「でも、それと走りたいことは、全く別の話だと思っています。」
二人は黙って聞いている。
「昔は『男だから走れない』と言われましたし、私もそれが正しいと思っていました。」
ほんの少しだけ、声が低くなる。
「でも……今は違います。」
ロードは顔を上げた。
「私が男であることを理由に、走ることを諦めるつもりはありません。」
「……そうですか。」
彼女は頷いた。
そして――ここで一度、質問を終えるように資料へ視線を落とした。
だが、もう一人の男性の面接官は何も言わなかった。
静かにロードの言葉を聞いている。
しばらくして、先ほどまでほとんど口を開かなかった彼が、ゆっくりと顔を上げた。
「では、私からは二つの質問を。」
「まず、先ほどルベウスさんが仰った通り、現在通っている中学校には、ウマ娘を育てるための学科がありません。」
「そして今回、あなたはトレセン学園に転入し、ターフを走ろうとしている。」
「はい。」
彼はロードの目をまっすぐに見て、問うた。
「では、ルベウスさんにとって『走る』とはなんですか?」
「………。」
その瞬間、ロードの瞳孔が僅かに小さくなった。
それは、すぐには答えられるほど簡単な質問ではない。
ロードは、走ることが好きだった。
しかし、ターフに立つことを諦めてからは、呪いのようなものになった。
隠していた自分自身の解放であり、同時に現実を直視させる行為。
それに苦しんでいたロードは、せめてウマ娘らしく、走ることで脚を壊そうとしていた。
それでも、スピカのみんなと出会い、理事長やたづな、ライツ博士と出会い、もう一度夢を追いかけると決めた。
その先にあるものを、ロードはまだすべて言葉にはできない。
けれど。
今、こうしてトレセン学園の面接室に座っている理由なら、分かる。
ロードはゆっくりと顔を上げた。
そして、面接官の目をまっすぐに見つめ――
「私がウマ娘であることの、“証明” です。」
静かな声だった。
彼は少し目を見開いた後、メモを取り、再びロードを見つめる。
「では、二つ目の質問です。」
「ルベウスさんは自分自身を、どのようなウマ娘だと思っていますか?」
ロードは、今度はほとんど迷わなかった。
「走ることが好きで、諦めた夢をもう一度追いかけることを選んだ――」
「男として生まれた、ウマ娘です。」
その言葉が、静かな面接室に落ちた。
周りが何と言おうと、自分が男であるという事実から目を逸らさない。
何があっても、自分だけは自分を肯定していたい。
二人は、しばらくロードを見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……分かりました。」
彼が、小さく言う。
「私からの質問は以上です。何か、質問はありますか?」
ロードは少しだけ考える。
この状況、昔の自分ならきっと『自分のことを、どう思いますか』と聞いていただろう。
けれど、今は違う。
ロードは静かに首を横に振った。
「ありません。」
その回答を受けて、二人は頷いた。
「では、これで面接は以上です。お疲れ様でした。」
「ありがとうございました。」
ロードは一礼する。
椅子から立ち上がり、扉へ向かう。
そして、扉の横で一度振り返り――
「失礼します。」
もう一度、お辞儀をした。
・・・・・
面接室を出たロードは、案内に従って最初の待機教室へ戻る。
教室の前には先ほどとは別の係員が待っていた。
「受験番号をお願いします。」
「174番です。」
「ありがとうございます。では、荷物を持ってこちらへお願いします。」
「分かりました。」
ロードは自分の席へ戻り、机の横に置いていた鞄を手に取る。教室を出ると、係員の後について廊下を歩いた。
案内されたのは、先ほどとは別の棟にある教室だった。
「ここでしばらくお待ちください。自由にしていただいて構いませんが、お静かにお願いします。」
「はい。」
係員が去っていく。
教室には、すでに何人かの受験生がいた。
スマホで連絡を取る者がいれば、机に突っ伏している者、窓の外を眺めている者もいる。
すると、こちらに手を振るウマ娘の姿が。
それは、ミラージュだった。
彼女は何やらジェスチャーをして、教室を出ていく。
ロードも何となく意味を察し、荷物を置くと静かに教室を出た。
「面接、お疲れ様。」
開口一番、ミラージュがそう尋ねた。
「ミラージュもお疲れ。」
「手応えはある?」
「まぁね、そこまで心配してない。」
「そっか、私も一緒。」
ミラージュは、いつものようにニコッと笑ってみせる。けれど、ロードはその表情を見て、ほんの僅かに眉を動かした。
笑ってはいる。
それでも、完全に普段通りというわけではない。
耳の動きが、いつもより少しだけ落ち着かない。
「……いよいよ、最後の試験だね。」
「うん。」
ロードはミラージュの隣に立ち、窓の外へ目を向けた。
選考の一環とはいえ、午後の実技試験が合否を大きく左右する試験であることに変わりはない。ましてや、ここにいる受験生たちは、誰もが自分の実力に自信を持っている。
これまでの模擬レースとは違う。この試験の先にあるトレセン学園での生活を懸けて走る。
緊張して当然だった。
それでも、その極限状態でどれだけ自分の力を発揮できるか。それもまた、強いウマ娘に求められるものなのだろう。
すると、ミラージュが窓際の手すりに軽くもたれかかった。
「……ミラージュ?」
ロードが尋ねると、彼女は小さく息を吐いた。
「……ねぇ、ルーくん。」
「なに?」
「私……勝てるかな。」
あまりにも弱々しい声。
それは、ミラージュの弱音だった。
ロードは思わず目を丸くする。まさか、彼女からそのような言葉が出るとは思いもしなかった。
「ごめん、急に変なこと言って……。」
ミラージュは寄りかかっていた手すりから体を起こし、僅かにロードに背を向けた。
「実は私……レース前は、こんなふうになっちゃうんだ。」
「どんなにトレーニングを頑張っても、どれだけ大丈夫だと言い聞かせてもダメで……。」
「そのせいで、なかなかレースに勝てなくてさ……。」
窓に反射するミラージュの頬に、雫が見えた気がした。
「イーリスはあんなにすごいのに、私は……。」
「……つまり、その緊張がなければ勝てるんだな。」
「……え。」
ミラージュが顔を上げる。
ロードは、いつもの真剣な表情で彼女を見ていた。
「だって、そういうことだろ?」
「そ、それは……。」
「レース前に緊張するせいで、本来の走りができなくなる。」
「……うん。」
「だったら、その緊張をどうにかすればいい。」
「そんな簡単に言わないでよ……。」
ミラージュは苦笑した。
「それができないから、ずっと困ってるんだから。」
「ん……。」
ロードは素直に頷いた。
そして、少しだけ考え込むように視線を落とした。
やがて――。
ロードは、ミラージュの手へ視線を向ける。
そして、そっと自分の手を重ねた。
「……へ?」
あまりにも唐突な出来事に、ミラージュの身体が僅かに固まる。
「る、ルーくん……!? 急に、何を……!」
頬が、一気に赤くなる。
けれどロードは、そんなミラージュの反応にも構わず、真剣な顔をしていた。
「ミラージュなら、大丈夫。」
そう言って、重ねた手をほんの少しだけ握る。
「ミラージュは、これまでたくさんトレーニングしてきた。」
「ハードで、苦しいトレーニングもあったと思う。」
「それでも、全部乗り越えてきた。」
ミラージュは黙って聞いている。
「だから、その時の自分を信じればいい。トレーニングの記憶はあるだろ。」
「……
「そう。」
ロードは迷いなく答えた。
「たくさんのトレーニングをこなしてきた自分だけは、疑わなくていい。」
ミラージュは、自分の手に重ねられたロードの手を見る。
「……でも。」
小さく呟く。
「肝心の今の私は……。」
言葉が続かない。
レースを目前にして、怖くなっている。自分が積み重ねてきたものまで、緊張によって押しつぶされようとしている。
そんな自分を、ミラージュ自身が信じることができない。
ロードは、そんな彼女を見つめた。
「……だから、俺がいる。」
「え……。」
少しだけ、手に力を込める。
「
ミラージュは、何も言わなかった。
ただ、ロードの顔を見つめている。
やがて、その瞳に僅かに涙が浮かんだ。
「……こんな私を、信じてくれるの……?」
弱々しい声。
しかし、ロードは少しも迷わなかった。
「うん。」
ただ、それだけ。
けれど、その一言には一切の迷いがなかった。
ミラージュはしばらくロードを見つめていた。
そして、目元に溜まった涙をそっと拭う。
「……そっか。」
小さく息を吐く。
それから――。
「……ふふ。」
ミラージュは、ニコッと笑った。
先ほどまでの不安に満ちた表情は、もうなかった。
「ありがとう、ルーくん。」
「うん。」
ミラージュは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……今のルーくん、なんだか年上のお兄さんみたい。」
「お兄さん?」
「うん。」
ミラージュは、照れくさそうに笑う。
「私の方が年上なのに……すごく安心する。」
「……同級生なんだから、上も下もないだろ。」
「何言ってるの。ルーくんは三月生まれで、私は四月生まれ。ほぼ一年の差があるんだよ。」
「細かいな。」
「大事なことなの!」
ミラージュは頬を膨らませる。
その表情を見て、ロードは小さく笑った。
さっきまで、あれほど不安そうにしていたのが嘘のようだった。
「それにしてもルーくん……急に手を握るなんて、ビックリしたよ。」
「私だから良かったけど、他の子にしてたら嫌われてるよ。」
「いや……ミラージュだっていきなり俺の手を触っただろ。」
「私は『見せてもらってもいい?』って聞いたからセーフです。」
「でも、『触らせて』とは言ってないよね。」
「う。」
痛いところを突かれ、ミラージュが言葉に詰まる。
ロードは、そんな彼女を見て少しだけ笑った。
「と、とにかく、他の女の子に同じことしちゃダメだよ。」
ミラージュは、少しだけ真剣な顔になる。
「ルーくんはウマ娘でも男の子なんだから、もう少し距離感ってのを……」
「必要だと思ったからしただけだよ。」
「それでもダメなの!」
ミラージュは小さくため息をついた。
それでも、その顔には先ほどまでの曇りはない。むしろ、どこか嬉しそうですらあった。
ロードはそんなミラージュを見て、頭をぽりぽりと掻く。
(……まぁ、元気になったからいいか。)
元気になったミラージュを見て、ロードは小さく息を吐く。
そして、ふと何かを思い出したように、ミラージュへ視線を向けた。
「……イーリスは大丈夫かな。」
おそらくすでに面接を終えて、別の場所でのんびり待機しているのだと思うが……少なくとも、今この場にはいない。
そんなロードの言葉に、ミラージュはふっと微笑んだ。
「イーリスなら大丈夫だよ。」
「正直、あの子が負けるところって、あんまり想像できないんだ。」
ミラージュは苦笑する。
彼女から聞いた話によれば、イーリスはすでにGⅠレースを走るほどの実力者らしい。
彼女がそこまで心配していないのも、頷ける。
まぁ、それはそれとして――
「自分のことは信じられないのに、イーリスのことは信じられるんだな。」
「あっ、ひどい!」
ミラージュが頬を膨らませる。
「ルーくんが『今の私を信じる』って言ってくれたら元気になれたのに!」
「ははっ、ごめん。」
ロードは笑いながら、素直に謝った。
「もう……。」
ミラージュは呆れるように、しかし楽しそうに笑う。
先ほどまでレースを前に怯えていたとは思えないほど、いつものミラージュに戻っている。
そんな彼女を見て、ロードも小さく笑った。
そして――。
ミラージュが窓の外へ視線を向ける。その先には、これから走ることになるターフが広がっていた。
「……いよいよだね。」
ミラージュは一度だけ深呼吸する。
もう、怖くはなかった。
緊張が完全になくなったわけではない。
それでも、さっきまでとは違う。
自分には、ここまで積み重ねてきたものがある。
そして――。
自分を信じてくれる友達がいる。
「……ルーくん。」
「なに?」
ミラージュが、ロードへ向き直る。
「一緒に合格しようね。」
ロードは頷いた。
「ああ。」
ミラージュは嬉しそうに笑う。そして、ふと思いついたように右手の小指を差し出した。
「じゃあ、約束。」
ミラージュが差し出した小指を、ロードは見つめる。
それから――少しだけ口元を緩めた。
「『ルーくんはウマ娘でも男の子だから、もう少し距離感を』……だったかな?」
ロードによる更なる揶揄い。
しかし、ミラージュはたじろぐどころか、ニヤリと笑った。
「確かに『他の女の子にしちゃダメ』とは言ったけど――」
差し出した小指を、ロードの目の前で少し揺らす。
「『私にはダメ』なんて、一言も言ってないよ?」
ロードが一瞬、黙った。
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「……なるほど。」
「ふふっ。」
そうしてロードも小指を差し出す。
二人の小指が、そっと絡んだ。
「「 約束。」」
指切りを終えると、ミラージュは満足そうに笑った。
ロードも、その顔を見て小さく笑う。
さっきまで不安に震えていた少女は、もうどこにもいない。
目の前にいるのは、これから自分の脚でターフを走ろうとしている、一人のウマ娘だった。
「じゃあ、戻ろっか。」
「うん。」
二人は並んで、教室に入る。
残る試験は、実技だけ。
――最後の勝負が、もうすぐ始まろうとしていた。
つづく
ロードたちオリジナルウマ娘のプロフィール表を書いたので、興味があったら見てみてください。
場所は第一話の上にあります。
さて、次回は最後の試験「実技」です。