トレーナーのみなさん、こんにちは。
先日、他の方が執筆された『男のウマ娘』を扱う二次創作小説に出会いました。
まさか、僕と似たようなことを考える人がいたとは、驚きです。
昼下がりのトレセン学園。
授業中で静まり返った学園裏の駐車場へ、一台の白い車がゆっくりと入ってきた。
エンジンが止まり、運転席のドアが静かに開く。そこから降り立ったのは、一人の女性だった。
春風に揺れる栗色の髪。落ち着いた佇まいは、現役を退いた今もどこか“走る者”の空気を纏っている。
女性――ルベウスライトは小さく目を細め、懐かしそうにトレセン学園を見上げた。
「……変わらないなぁ。」
ぽつりと零した声は、どこか遠い過去を懐かしむようだった。
来賓玄関の自動ドアをくぐると、二つの影が視界に入る。
「待っていたぞ、ライト!」
元気な声と共に『歓迎ッ!』と書かれた扇子を広げたのは、トレセン学園理事長・秋川やよい。その後ろには、秘書である駿川たづなの姿もある。
ライトは静かに一礼した。
「お久しぶりです、秋川理事長。それと――」
それから、少しだけ表情を和らげる。
「たづな。」
「ふふっ。本当にお久しぶりです、ライト先輩。」
たづなも柔らかく微笑み返した。
と、その時。
「にゃあ。」
不意に小さな鳴き声が響いた。
ライトが視線を向けると、やよいの帽子の上で子猫がこちらを見つめている。
「子猫ちゃんも、久しぶり。」
そっと指先を伸ばし、喉の辺りを優しく撫でる。子猫は気持ち良さそうに目を細め、「ごろごろ」と小さく喉を鳴らした。
「こうして会うのは、聖蹄祭以来だな!」
「はい。二年ほど前になりますね。」
毎年春と秋にトレセン学園で行われるファン感謝祭こと『聖蹄祭』。二年前の春、ライトはスペシャルゲストとしてトレセン学園に招待されていたのだった。
「それで、話というのは……?」
その言葉に、やよいとたづなは小さく目を伏せる。
しばしの沈黙。
やがて、やよいが小さく息を吐いた。
「……こんな話を玄関先でするわけにもいかないな。」
そう言って、やよいは小さく腕を組む。
むむむ、と少しの間考えた後、パッと顔を上げた。
「理事長室も考えたが――」
やよいは静かに目を細める。
「せっかくなら、“夢を語る場所”で話そう。」
刹那、ライトの胸が小さくざわついた。いつもの二人とは違う空気に、自然と背筋が伸びる。
「行きましょう、ライト先輩。」
たづなが隣に立ち、柔らかく声をかける。ライトは小さく目を伏せ、それから静かに頷いた。
「……ええ。」
三人はゆっくりと歩き出す。
廊下を吹き抜ける春風が、ふわりと髪を揺らした。
向かったのは、トレセン学園の屋外トレーニング場だった。
授業中ということもあり、広大なコースに人影はない。静まり返ったトラックを、春風だけが静かに吹き抜けていく。
夢を語り、夢を掴むために。
数え切れないほどのウマ娘たちが、日々走り続けてきた場所。土を蹴り、汗を流し、憧れへ手を伸ばし続けた場所。
ライトは静かにその景色を見つめる。
現役時代、何度も走った場所だった。
「……懐かしいですね。」
ぽつりと零れた声には、どこか優しさと寂しさが滲んでいた。
「仕事の方は順調か?」
やよいが隣へ並びながら問いかける。ライトは「おかげさまで」と小さく頷いた。
「分かりやすい解説で今でも引っ張りだこですからね、先輩。」
「そんなことないわ。」
たづなの言葉に、ライトは少しだけ困ったように笑った。
「今までと変わらず、好き勝手話しているだけよ。」
穏やかな空気。
だが、それが長く続かないことを三人とも理解していた。
やがて、やよいが静かに口を開く。
「……つい先日のことだ。」
その声は、ライトを来賓玄関で迎えた時とは全く違っていた。
「あるトレーナーが、ロードを助けたいと言ってきた。」
ライトの表情が僅かに揺れる。
「そのトレーナーは、河川敷でロードと出会った。」
「河川敷……。」
ロードが走りに行くと言って出かけたのは5日前。ライトは瞬時にその日の出来事だと察した。
「曰く……彼は速度だけを求めた、随分と無茶な走りをしていたそうだ。」
やよいは真っ直ぐ前を見つめる。
「このままでは近いうちに脚を壊してしまうと、そのトレーナーは感じたらしい。」
「………。」
ライトの心臓が、ドクンと鳴る。だが彼女は言葉を挟まず、やよいの話に耳を傾けて続けた。
「そのトレーナーが、“二度と走れなくなるぞ”と伝えた時――」
そこで一度言葉を切る。
そして、静かに続けた。
「彼は、“1日でも早く壊れてくれた方が楽だ”と答えたそうだ。」
「――っ。」
ライトの瞳が大きく揺れる。
息が止まったように言葉が出ない。だが同時に、その言葉が理解できてしまった。
ロードは、夢を諦める理由が欲しかった。走れなくなれば、きっと諦められるから。
だから、壊れる未来を受け入れようとしていた。
「……あの子は。」
ライトは小さく俯く。
「ずっと、一人で悩んでいたんですね……。」
春風が静かに吹き抜ける。誰も走っていないトレーニング場は、不思議なほどに静かだった。
脳裏に浮かぶのは、普段のロードの姿。
彼は、聞き分けが良すぎる子だった。
なにかを欲しがったり、わがままを言ったこともほとんどない。家でも学校でも、いつも年齢に似合わないほど落ち着いた表情を浮かべていた。
そんな息子に、自分はどこか安心してしまっていたのかもしれない。「あの子は大丈夫だ」と。一人でも、ちゃんと前を向けているのだと。
「……気づいてあげられませんでした。」
掠れた声だった。
「走ることが好きなのは、分かっていたんです。」
ライトは静かにトレーニング場を見つめる。
彼なりに、心配をかけまいとしていたのだろう。あるいは――これ以上、何かに期待したくなかったのか。
「ライト。」
やよいが静かに口を開く。
「彼をそうさせてしまったのは、君だけのせいではない。」
ライトがゆっくり顔を上げる。
やよいは真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「我々もまた、彼を長い間放置してしまった。」
「……っ。」
「研究は確かに進んでいた。議論も重ねられていた。」
やよいは静かに続ける。
「だが結局、“責任が取れない”という理由で、誰も前へ進もうとしなかった。」
「その結果、ロードは“夢を見ないようにする”しかなくなってしまったのだろう。」
ライトは唇を噛む。
彼女は、やよいの仮説を否定できなかった。
夢を語るたびに、現実を突きつけられる。ならば最初から期待しない方が楽だと、ロードはそうやって自分を守ってきたのだ。
「……教えてくだてさい、理事長。」
しばらくして、ライトが静かに問いかける。
「あなたたちはこれから、あの子をどうするつもりなのですか。」
その瞳は、まっすぐにやよいを見据えていた。
逃げ場の一切ない問い。だが、やよいは視線を逸らさない。
むしろ、一歩だけライトとの距離を縮めた。
「――彼の人生に、“新たな選択肢”を与えたい。」
やよいは静かにトレーニング場へ視線を向ける。春風が吹き抜け、誰もいないコースの芝を静かに揺らした。
「今のロードには、“諦める”という道しか残されていない。」
その声に迷いはない。
「だから我々は、彼にもう一度“挑戦できる可能性”を示したいのだ。」
ライトは静かにその言葉を聞いていた。
やよいは続ける。
「もちろん、簡単な道ではない。前例もなければ反発の声も必ず出るだろう。」
安全性。
公平性。
そして、“男のウマ娘”という存在そのもの。
乗り越えなければならない壁は、決して少なくない。
「だが――」
やよいはそこで一度言葉を区切る。そして、真っ直ぐに前を見据えた。
「今度は、“誰も責任を取らない”まま終わらせるつもりはない。」
その言葉は、静かなトレーニング場によく響いた。一方で、ライトは何も答えられなかった。
やよいたちの覚悟は伝わってくる。それは、思いつきでも同情でもない。本気でロードに向き合おうとしているのだと分かる。
だからこそ、怖かった。
「……私は。」
ライトは小さく俯く。
「ロードが“走りたい”と言うのなら……応援したいんです。」
それは、偽りのない本心だった。
ロードは、走ることが好きな子だった。
テレビ越しにレースを見ている時も。河川敷へ向かう背中も。彼はいつだって、“走る”ことへ惹かれていた。
だが――。
「でも、また希望だけを持たされて終わる未来は……もう見たくありません。」
掠れた声だった。
「もし、検査の結果が駄目だったら。もし、世間がまたあの子を否定したら。」
ライトはゆっくりと唇を噛む。
「あの子は脚だけでなく、心も壊れてしまう。」
“やっぱり駄目だった”と。“最初から期待なんてしなければ良かった”と。
ロードは、そうやってまた自分の夢を閉じ込めてしまう。
だから、ライトは怖かった。
今度こそ前へ進めるかもしれない。そう期待してしまうことが。
やよいは静かにその言葉を聞いていた。そして――小さく頷く。
「……だからこそだ。」
静かな言葉。しかし、その声色はとても力強かった。
「我々は、“一つの道”をロード君へ押し付けるつもりはない。」
「……え?」
ライトが僅かに目を見開いた。
やよいは静かに続ける。
「私なりに、“二つの道”を考えている。」
「二つの……道。」
「ああ。」
やよいは小さく微笑みかけると、トレーニング場のターフへ視線を向けた。
「それがどんな形であれ、“走る”という選択だけは彼から奪わせない。」
その声に迷いはない。
ライトは少し迷う仕草を見せたが、やがてやよいを見据えて言った。
「……その“二つの道”について、聞かせてください。」
彼女の中に不安はまだ残っている。
だが、“何も残らない未来”だけは想像しなくて済みそうだと思った。
「これが、私が考えた“二つの道”の全容だ。」
やよいの説明を聞いたライトは、しばらく何も言わなかった。春風が静かに吹き抜け、誰もいないトレーニングコースの芝を揺らしていく。
それでも、彼女は安堵していた。
やよいたちは、“夢を追えなかった時”の未来まで考えてくれていることが分かったから。
「……そこまで、考えてくださっていたんですね。」
ライトは小さく目を伏せる。
もし本当にロードが再び走ることを望むのなら。今なら心から応援できる気がした。
例えその先で夢に届かなかったとしても、“走ること”だけは失わずに済むのかもしれない。
それはきっと、ロードにとって救いになる。
「……分かりました。」
やがて、ライトはゆっくりと顔を上げた。
「理事長に会ってもらえるように、ロードに話してみます。」
「ありがとう。」
やよいが静かに頷く。
「未来で彼が出す選択がなんであれ、我々は彼の意思を尊重する。」
その言葉に偽りは感じられなかった。
ライトは小さく息を吐く。そして――ふと、静かに問いかけた。
「……理事長。どうしてあなたは、そこまでしてくださるのですか?」
その声に、打算を疑う色はない。ただの純粋な疑問だった。
やよいは一瞬きょとんと目を丸くし――次の瞬間、いつものように勢いよく扇子を広げた。
「無論ッ!」
静かなトレーニング場へ、よく通る声が響く。
「私はウマ娘を、心から愛しているからだ!」
胸を張って言い切るその姿に、一切の迷いはなかった。
ライトは一瞬ぽかんとした後――。
「……ふふっ。」
思わず、小さく笑みを零した。その笑顔を見て、たづなもまた柔らかく微笑む。
止まり続けていたライトの時間が、ほんの少しだけ動き始めていた。
・・・・・
午後八時過ぎのルベウス家。
リビングから聞こえていたテレビの音も消え、家の中は静かな空気に包まれていた。
リビングの片付けを終えたライトは、小さく息を吐きながら階段を登る。やがて、ある部屋の前に立った。
コンコン。
廊下に、控えめなノックが響く。
「……入るわね。」
返事を待ってから扉を開けると、机へ向かっていたロードがゆっくり顔を上げた。
教科書とノートが広げられた机。シャーペンを持つ手は止まっている。
「母さん?」
ロードは少しだけ不思議そうに目を細めた。
「どうしたの。」
「……ちょっと、お話があって。」
ライトは静かに部屋へ入る。
ロードの部屋は驚くほど整頓されていた。
余計な物は少なく、本棚には学校の教科書と参考書。そして机の端には、古びたレース雑誌が何冊か積まれている。
ライトはそれを横目に見ながら、小さく息を吐いた。
「勉強中だったかしら。」
「まぁ、あと少し。」
ロードはそう言ってシャーペンを置く。その仕草はいつも通り落ち着いていた。
年齢に似合わないほど、大人びた静けさ。だが今のライトには、それがどこか痛々しく見えてしまう。
ロードはそんな母の様子に気づいたのか、小さく首を傾げた。
「……なんかあった?」
ライトはすぐには言葉を続けられなかった。何から話すべきか、慎重に考えるように視線を落とす。
ロードはそんな母を急かすことなく、ただ静かに待っていた。
その落ち着きが、今のライトには少しだけ苦しかった。
「……今日、トレセン学園へ行ってきたの。」
やがて、ライトはゆっくりと口を開く。
「トレセン?」
「ええ。」
ロードは小さく首を傾げた。
突然出てきたその名前に驚いてはいるのだろう。だが、それでも感情を大きく表へ出すことはなかった。
「理事長さんと、たづなさんに会ってきたわ。」
「………。」
ロードの表情が、ほんの僅かに変わる。
「……なんで、そんな話を?」
静かな声だった。
責めるような響きはない。ただ純粋に、理由が分からないという声音。
ライトは小さく息を吐く。
「ロードのことについて話したいって言われたの。」
「俺の?」
「ええ。」
ライトはゆっくり頷いた。
「ロードを否定するためじゃないの。」
その言葉を口にする時、ライトはまるでロードを安心させるように優しく声を落とした。
「ロードが“走ること”について、ちゃんと向き合いたいって。」
ロードは何も言わない。ただ、静かに母の言葉を聞いていた。
「……急な話よね。」
ライトは少し困ったように笑う。
「私も最初は驚いたわ。」
そして、一瞬だけ言葉を迷う。
期待させすぎてもいけない。だが、何も伝えないまま終わらせたくもなかった。
ライトは慎重に言葉を選ぶ。
「理事長たちはね、ロードに“新しい選択肢”を提示したいって言っていたの。」
その瞬間。
ロードの指先が、ほんの僅かに止まった。
「新しい、選択肢……。」
ぽつりと繰り返された声は、小さかった。
ロードはゆっくり視線を落とす。その反応は驚きというより、呆れに近かった。
「……期待したところで」
やがて、ロードは静かに口を開く。
「結局、“なかったこと”にされるのがオチだよ。」
そう言ってくるりと椅子を回転させ、勉強机に向かった。
感情をぶつけるような言い方ではない。ただ、そういうものだと知っているような声音だった。
ライトの胸が、『ズキン』と痛む。
ロードにとってそれは、悲観でも皮肉でもない。何度も頭の中で繰り返し、自分自身へ言い聞かせてきた“現実”なのだ。
「……ロード。」
ライトは責めることなく、その名前を呼ぶ。
背を向けるロードは振り向くことなく、ただ小さく「なに」と返した。
「それでも、話だけでも聞いてあげてほしいの。」
静かな声だった。
「理事長たちは、本気だった。」
「………。」
ロードは黙ったまま、母の言葉を聞いている。ライトはそんな息子の背中を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「あなたを無理に走らせたいわけじゃない。結果を押し付けたいわけでもない。」
「ただ、“走ること”について、ちゃんと向き合いたいって……そう言ってくれたの。」
その言葉に、ロードの瞳が僅かに揺れる。
“走ること”。
その言葉だけは、どうしても無視できなかった。
部屋の中に、時計の針の音だけが静かに響いている。
やがて。
「……分かった。」
ロードは小さく息を吐き、再びくるりと椅子を回して母に向き合った。
「話を聞くだけなら、いいよ。」
「……ありがとう。」
ライトはほっとしたように、小さく微笑む。
だが、その落ち着いた声音が、彼の本心からのものではないことくらい、母親である彼女には分かっていた。
ロードはただ、“母の願い”を無視できないだけなのだ。
ロードの部屋を後にしたライトは、静かに扉を閉めた。
廊下には夜の静けさが満ちている。
小さく息を吐き、そのまま反対側にある部屋へ向かった。
扉を開けると、ベッド脇の明かりだけが部屋をぼんやり照らしていた。
「……どうだった?」
先に部屋へ入っていたロードの父が、本を閉じながら顔を上げる。
ライトは少しだけ疲れたように笑った。
「会うだけなら、って。」
「そうか。」
父は短く頷く。
それだけで終わった。だが、その声にはどこか安堵が滲んでいる。
ライトはベッドへ腰を下ろし、小さく息を吐いた。
「……ああは言ったけど、まだ全然信じてないと思う。」
「だろうな。」
返ってきた言葉はあまりにも自然で、ライトは少し驚いたように夫を見る。
父は苦笑するように肩を竦めた。
「昔からそうだろ。この手の話題になると、期待する前に自分で諦めてしまう。」
「………。」
ライトは静かに目を伏せる。
否定できなかった。
「でも。」
父はそこで一度言葉を切る。
「会うって言ったんだろう?」
「……ええ。」
「なら、十分だ。」
穏やかな声だった。
「本当に嫌なら、あいつはもっと静かに断る。」
ライトは少しだけ目を見開く。
ロードは聞き分けの良すぎる子だった。
だがそれは同時に、“相手を困らせない断り方を知っている”ということでもある。
そんな彼が、“会うだけなら”と言った。
それはきっと――ほんの少しだけでも、心が動いた証なのだろう。
「……そうだと、いいのだけど。」
ライトが小さく呟くと、父はふっと笑った。
「大丈夫だ。」
その声音に、根拠はない。
けれど不思議と、安心できる響きがあった。
「ロードの人生は、ロードが決める。」
「俺たちはただ、それを支えてやればいい。」
・・・・・
リビングには、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
テーブルを挟むようにして、向かい合う四人。
ロードとライト。そして、秋川やよいと駿川たづな。
静かな沈黙の中、ロードは正面に座る小柄な少女を見ていた。
トレセン学園理事長――秋川やよい。
彼女に会うのはこれが初めてだったが、名前だけは認知していた。
だが。
(……幼過ぎないか?)
ロードは内心で小さく困惑していた。
目の前に座っているのは、どう見ても自分よりも幼い少女。本当にトレセン学園の理事長なのかと疑いたくなるほどだった。
それに加えて、帽子の上の子猫も気になって仕方がない。落ちないか心配になるが、当の本人は呑気に欠伸をしている。
そんな、ツッコミどころが多々ある彼女だったが……。
「………。」
やよいは言葉を発することもなく、家に来てからずっとロードを見つめていた。故に、今はそんなことを聞ける状況ではない。
ロードは余計な言葉を飲み込み、静かに視線を逸らした。
その様子に気づいたのか、やよいはふむ、と小さく頷く。
「安心しろ!よく言われる!」
「あ、はい……。」
素で反応に困っているロードに、たづなが小さく吹き出した。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
やよいはコホンと咳払いをして、それから改めてロードを見据えた。
「さて、ルベウスロード。」
先ほどまでの柔らかな空気とは打って変わる。
理事長としての真っ直ぐな眼差しだった。
「本日は時間を作ってくれたこと、感謝する。」
「……いえ。」
ロードは小さく返事をする。
だが、その声音に前向きな色は薄い。
「母さんに言われただけなんで。」
静かな声だった。
隠すつもりも、取り繕うつもりもない。ただ事実をそのまま口にしたような言い方だった。
ライトが少し申し訳なさそうに目を伏せる。
だが、やよいは気を悪くした様子もなく、むしろ「うむ」と満足そうに頷いた。
「そうだったとしても、ありがとう。」
「……はぁ。」
ロードはどこか困ったように曖昧な返事を漏らす。
真正面から感謝を向けられることに、どう反応していいのか分からなかった。
やよいはそんな彼を真っ直ぐ見据えたまま、静かに口を開いた。
「ある程度はお母様から聞いていると思うが――まず先に伝えておきたい。」
やよいの声色が、さらに真剣なものへ変わる。
「我々は、君に何かを強制するつもりはない。」
「未来を決めるのは、あくまで君自身だ。」
ロードは何も答えない。ただ静かに、やよいの言葉へ耳を傾けていた。
その横顔には、まだ警戒が残っている。
だが少なくとも、“最初から拒絶する”ような空気ではなかった。
「……選択肢がどうとかいう話は、母さんから聞きました。」
ロードは静かにやよいを見る。
その声に強い感情はない。
ただ、“話は聞く”と決めたからこそ、本題へ入ろうとしているようだった。
「うむ。今日話したいことは、まさにそれだ。」
やよいは真っ直ぐに頷いた。
小柄な身体とは裏腹に、その眼差しには不思議な力強さがある。
「だが、その前に一つだけ聞かせてほしい。」
「……?」
ロードが僅かに眉を動かす。やよいは一拍置いてから、静かに問いかけた。
「ルベウスロード。君は、どんな夢を
ロードの表情が、ほんの僅かに止まる。
諦める前。現実を知る前。
まだ胸の奥へ閉じ込める前の願いを、やよいは聞こうとしていた。
「………。」
ロードは少しだけ口を噤む。視線がゆっくりとテーブルへ落ちた。
簡単には答えられない。そんな問いを、もう長いこと自分自身へすら向けてこなかったからだ。
静かな沈黙が流れる。
やがて――。
「……普通のウマ娘みたいに。」
ぽつりと、ロードは口を開いた。
「自由にターフを走ることです。」
その声は驚くほど静かだった。
どれほどその願いを胸の奥へ押し込めてきたのか。
どれほど“普通”を遠く感じてきたのか。
その全てが滲んでいた。
「なるほど。」
やよいは『ふむ』と小さく頷く。
否定もしない。
驚きもしない。
ただ、ロードの言葉を真っ直ぐ受け止めていた。
「ちなみに、トゥインクル・シリーズは目指していなかったのかい?」
「――っ。」
ロードの呼吸が、一瞬だけ止まる。
否定はできなかった。
幼い頃、テレビ越しに見上げたあの舞台へ憧れなかったはずがない。
歓声の中を駆け抜けるウマ娘たち。
照明に照らされたターフ。
その中心へ、自分も立ってみたいと思わなかったはずがない。
だが――。
「………。」
ロードは答えられない。
肯定してしまえば、それは今まで押し殺してきた夢を認めることになる。“諦めるしかないんだ”と、自分へ言い聞かせ続けてきたものを。
だからただ、黙ることしかできなかった。
やよいはそんなロードを急かすことなく、静かに目を細める。
「……答えなくても分かる。」
その声に責めるような響きはなかった。
「君はずっと、“目指したい”という気持ちごと閉じ込めてきたのだろう。」
「………。」
「“自分には無理だ”と、己に言い聞かせながら。」
ロードの肩が、僅かに揺れる。
図星だった。
夢を見るたびに、現実を突きつけられる。ならば最初から期待しない方が楽だと、ロードはそうやって自分自身を守ってきた。
やよいはそんな彼を真っ直ぐ見据える。
「だからこそ――」
一度、言葉を区切る。
「私は、その選択肢を君へ返したいと思った。」
ロードがゆっくり顔を上げた。
やよいは真っ直ぐに彼を見据えたまま、静かに告げる。
「ルベウスロード。私は君に、トレセン学園で走る権利を与えたい。」
「……え。」
ロードの瞳が、僅かに見開かれる。
それは今日初めて見せた、年相応の反応だった。
「今の学校へ通いながら、放課後や休日にトレセン学園のトレーニング場を利用しても良い、という権利だ。」
ロードは言葉を失ったまま、やよいを見つめている。
“走ってもいい”。
その意味を、頭の中で何度も反芻しているようだった。
「ただ走るだけではない。」
やよいは静かに続ける。
「改めて、君の身体機能を測定させてほしいのだ。」
その言葉に、ロードの肩が小さく揺れた。
検査。
それは、何度も諦める理由を突きつけられてきた言葉でもある。
だが今回は違った。
「その結果次第では――トゥインクル・シリーズへ進む道も開けるかもしれない。」
ロードの指先が僅かに震える。
それが期待なのか、不安なのか。本人にすら分からなかった。
「先ほども話した通り、これらの提案を受けるかどうかは君が決めることだ。」
やよいの声は、どこまでも真っ直ぐだった。
「だが、これだけは覚えていてほしい。」
一度言葉を区切る。
静かなリビングへ、やよいの声だけが響いた。
「君の居場所は、私たちが保証する。」
そして。
「――もう二度と、奪わせはしない。」
つづく
「ルベウス」の由来ですが、錬金術において賢者の石を完成させる最終段階である「ルベド(Rubedo)」から来ています。ラテン語で「赤」と言う意味です。
ルベドには「再生」「到達」「完成」のような意味があり、主人公の生き様に合っていると思ったのがきっかけです。