ゲーム版のウマ娘に新シナリオが追加されたそうですね。なんでもストーリーではウマ娘の過去に触れる……とかなんとか。
「あ、その辺考えてるんだ」と思いました。
ゴールラインを駆け抜けたウマ娘たち。結果、一着になったのはイーリスだった。
息を弾ませながら立ち止まる彼女のもとへ、東条ハナが歩み寄る。
「おめでとう、シーイーリス。あなたは、チーム〈リギル〉の一員になる資格があります。」
「……っ!」
イーリスの顔が、ぱっと明るくなった。
学園最強チーム。自分も、あの強い先輩たちの仲間になれる。
嬉しさに胸がいっぱいになり、差し出されたハナの手を握ろうとした、そのときだった。
視界の端に、バッグを肩にかけて歩いていくミラージュの姿が映った。
「あ……。」
思わず、そちらへ手を伸ばしかける。
けれど、その肩にそっと手が置かれた。
後ろにいたシンボリルドルフが、静かに首を振る。
「勝ったのは、君だ。」
短い言葉だった。
それでも、イーリスには十分だった。
自分がここまで走ってきたこと。勝つために全力を尽くしたこと。そして、今この瞬間に、自分の手で掴み取ったものがあること。
イーリスは一度、ミラージュの去っていった方向を見つめた。
それから、改めてハナへと向き直る。
「よろしくお願いします!」
差し出された手を、今度は迷いなく握り返した。
その表情には、喜びと、これから始まる新しい日々への期待が溢れていた。
そんな三人の様子を、少し離れた場所から眺める者たちがいた。ヒシアマゾンとテイエムオペラオーだ。
「なかなかいい走りだったな。」
ヒシアマゾンが、イーリスの走り抜けたコースを見つめながら呟く。
「ああ! それに彼女は、競技者としてだけでなく演者としての才能も高そうだ! 間違いなく、未来有望なウマ娘だろう!」
「相変わらずの視点だねぇ、オペラオー。」
ヒシアマゾンは呆れたように笑った。
レースの勝敗だけでなく、その走りが観る者に何をもたらすのか。オペラオーはそうした部分にも目を向ける。
「最後の直線は見事だった。あの小さな身体から、あれほどの闘志が溢れ出すとはね!」
オペラオーは、満足げに口元を吊り上げる。
勝ちたい。ただ誰よりも先に、ゴールへたどり着きたい。
普段の愛らしい表情からは想像もつかないほど剥き出しになった、その本能。
あの一瞬、イーリスは確かに観る者の目を奪っていた。
「……にしても、ルベウスが試験の参加を辞めるなんてなぁ。」
ヒシアマゾンは、今度はロードが立っていた観客席へと視線を移す。そこに彼の姿はもうない。
「ライトさんを超えるって話じゃなかったのか? それとも、アタシらのトレーナーを疑ってるのか?」
「それは違うよ、ヒシアマ先輩。」
オペラオーは、芝居がかった仕草で片手を広げた。
「その判断に至ったことこそが、彼が『王』たる所以なのさ。」
「……王?」
ヒシアマゾンが眉をひそめる。
「王は妥協などしない。自分が望むものを手に入れるためにね。」
オペラオーは、ロードの姿を思い浮かべるように目を細めた。
「彼は、最強のチームに入りたいわけじゃない。誰かに与えられた道を歩きたいわけでもないのだろう。」
自分が何を求め、何を成すべきなのか。
それを自分自身で見定めようとしている。
「たとえ誰もが羨む道であろうとも、自分の望むものに繋がらないのなら選ばない。ただそれだけのことさ。」
「譲れないものがある、ってことかい。」
「ああ。」
オペラオーの話を聞いたヒシアマゾンは、感心したように息を吐いた。
「ところでオペラオー。アンタの言う『王』ってのは、何かの例えかい?」
「いいや。」
オペラオーは即座に否定する。
そして、白く輝く歯を見せて笑った。
「未来の彼、そのものさ!」
・・・・・
トレーニング場の出入り口付近で、ロードとミラージュは合流した。
「やっぱり、イーリスは強かったよ。」
ミラージュは苦笑を浮かべながら、先ほどまでレースが行われていたコースを振り返った。
「うん。」
「最後の直線とか、すごかったなあ。見た?イーリスの顔。」
ロードは、ゴール直前のイーリスを思い返す。
いつもの愛くるしい笑顔は、そこにはなかった。ただ前を見据え、誰よりも先にゴールへたどり着こうとする。小さな身体に秘めていた勝利への渇望を、むき出しにして走っていた。
「……いい顔してた。」
「でしょ!」
ミラージュは、少しだけ誇らしげに笑った。
「まぁ、負けちゃったのは仕方ないよ。今の私がイーリスに勝てるとは思ってないし。」
まるで、当たり前のことを口にするように。
「だから、他のチームを見に行こう。」
そんな彼女に、ロードは何かを言いかけた。
けれど、結局その口を閉じた。
ミラージュの笑顔を見つめ、ほんのわずかに目を細める。その言葉を、今は口にする必要がないと思ったのかもしれない。
「そんなことより、ルー君辞退してよかったの?」
ミラージュが尋ねる。
「リギルって、学園で一番強いチームなんだよ?」
「うん。」
ロードは『知ってる』とでも言いたげに頷いた。
「ただ、俺には合わないかなって。」
「そっか。」
ミラージュは、それ以上追及しなかった。
ロードが考えた末に出した答えなら、これ以上言うことは何もない。
それに、自分だって――
「じゃあ、次はどこを見に行こうか?」
何事もなかったかのように、ミラージュは笑ってみせた。
ロードも小さく頷き、歩き出す。
二人の進む先には、まだいくつものチームが待っていた。
・・・・・
次に二人が訪れたのは、南坂トレーナー率いるチーム〈カノープス〉。まず耳に飛び込んできたのは、賑やかな掛け声だった。
「ターボ全開ーっ!」
先頭を走るツインターボが、勢いよく腕を振りながら駆けていく。その後ろには、イクノディクタス、マチカネタンホイザ、ロイスアンドロイスの三人が続いていた。
「ターボさん、少しペースを落としてください!」
「ええーっ!? でもでも、ターボはもっと速く走れるよ!」
「今は速さを競う練習ではありません。全体のペースを意識してください!」
「うぅ~、速く走りたい!」
イクノがターボに声をかけるが、ターボは言うことを聞かない。
「今は我慢だよ、ターボちゃん!」
「タンホイザ殿の言う通りでござる!」
「……ロイス、何その喋り方。」
ロイスのインパクト強すぎる口調に、駄々を捏ねていたターボは一瞬で落ち着いた。
「拙者、気づいたのでござる。『武士』というキャラを持つウマ娘は、未来永劫現れることはないということに……!」
「やめておいた方がいいと思います。」
「イクノに賛成。」
「ターボもそう思う。」
「はい……。」
そんなやり取りを交わしながら、四人はターフを走り続けていた。
その様子を、少し離れた場所から南坂トレーナーとナイスネイチャが見守っている。
南坂は手元の記録用紙に目を落とし、時折、走っている四人へ視線を向ける。ネイチャはその隣で、彼女たちの様子を眺めながら、のんびりとした笑みを浮かべていた。
さらにその少し横では、サウンズオブアースがヴァイオリンを奏でている。弓が弦の上を滑らかに動き、軽やかな旋律がグラウンドに響き渡る。
本人はいたって真剣な様子で演奏しているものの、練習風景に音楽を添えるその姿は、どこか独特だった。
ロードはしばらく、そんな光景を眺めていた。
自由で、賑やかで、それぞれが自分らしく振る舞っている。それでいて、決してばらばらというわけではない。
「……なんだか、スピカに似ていますね。」
その呟きが聞こえたのか、ネイチャがこちらを振り返った。
「確かにそうかもね。自由なところとか、特に。」
ネイチャは楽しそうに笑い、再びグラウンドへ目を向けた。しかし、次の瞬間には少し困ったように頬を掻いた。
「……まあ、だからこそ、ってわけでもないんだけどさ。」
「?」
ロードとミラージュは首を傾げる。
ネイチャは二人へ向き直ると、苦笑いを浮かべた。
「私が言うのもなんだけど……ここはやめといた方がいいよ。」
「……どうしてですか?」
ロードが尋ねると、ネイチャは少しだけ視線を伏せた。それから、まるで何でもないことのように、あっさりと答える。
「私たち、誰もG1レースを勝ってないからね。」
その言葉を聞き、ミラージュはわずかに表情を曇らせた。
目の前で走っているウマ娘たちは、決して手を抜いているわけではない。仲間と声をかけ合い、互いの課題に向き合いながら、少しでも速くなろうと努力している。
それでも、G1の勝利には届いていない。
そして、その結果を誰よりも気にしているのは、彼女たち自身なのだろう。
「……すみません。」
隣から、小さな声がした。
南坂が頭を下げていた。
その様子を見たネイチャは、一瞬きょとんとした後、すぐに明るい笑い声を上げる。
「あははっ。も〜、トレーナーさんのせいじゃないってば。」
そう言って、南坂の肩をぽんぽんと叩いた。
「私はともかく、あの子達は諦めてない。だから、そんな顔しないでよ。」
「……ネイチャさん。」
ネイチャはグラウンドへ視線を戻した。その表情には、仲間たちへの信頼があった。
ただ、それでも。
南坂はすぐには顔を上げなかった。
彼女たちが努力していることは、誰よりもよく知っている。日々のトレーニングを積み重ね、課題を一つずつ乗り越えようとしていることも。
だからこそ、その努力を結果に結びつけられていないことが、悔しかった。
やがて南坂は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、ロードとミラージュをまっすぐに見つめる。
「……悔しいですが、彼女たちをG1で勝たせられていないのは本当です。全て、僕の実力不足です。」
穏やかな口調だった。
けれど、その言葉を口にするまでに、どれほどの悔しさを飲み込んできたのか。少なくとも、隣にいるネイチャには伝わっているのだろう。
彼女は何も言わず、南坂のそばに立っていた。
「二人がトレセン学園に来られたのは『今よりもっと強くなりたいから』でしょう?」
南坂は続けた。
「ならばここではなく、他のチームに入ることをお勧めします。」
ミラージュは、すぐには答えられなかった。
チームの雰囲気は悪くない。むしろ、親しみやすく、自分も自然体でいられそうな場所だと感じていた。
しかし、彼女が求めているのは、ただ居心地のいい場所ではない。
イーリスに追いつきたい。ロードの前に立ち塞がれるくらい強くなりたい。そのために、今よりも成長できる環境を探しているのだ。
南坂の言葉には、そんな気持ちを考えたうえでの誠実さがあった。だからこそ、ミラージュは簡単に返事をすることができなかった。
その隣で、ロードが口を開いた。
「確かに、やめておいた方が良さそうです。」
「!?」
ミラージュは思わずロードを振り返った。
「っ……。」
南坂が、わずかに息を詰まらせる。
「直球だね。」
ネイチャは苦笑いを浮かべる。
けれど、まだ話は終わっていない。
彼はターフへ目を向けると、淡々とした口調で続けた。
「このチームに初のG1勝利をもたらすのは、この中の誰かじゃないと。」
「……え。」
南坂が目を丸くした。隣のネイチャも、思わず言葉を失っている。
ロードは二人を見て、わずかに首を傾げた。
『何か、おかしなことを言っただろうか。』
そんな疑問が、その目に浮かんでいた。
ミラージュもまた、ロードの横顔を見つめていた。
彼は、南坂の言葉を否定したわけではない。G1の勝利がないという事実を軽視したわけでもない。
ただそれを理由に、このチームの可能性まで否定する必要はないと考えている。
まだ勝っていないのなら、これから勝てばいい。その勝利を手にするのは、今ここで走っている彼女たちの誰かであるべきだ。
ロードにとっては、ただそれだけのことなのかもしれない。
「……ハハッ!」
沈黙を破ったのはサウンズオブアースだった。いつのまにか弓を持つ手も、音楽も、ぴたりと止まっている。
アースはヴァイオリンを下ろし、迷いのない足取りでロードのもとへ歩み寄っていく。
「いやいや、なんと鮮烈なフォルテ!」
「君の言葉にはアレグロの躍動があり、アジタートの情熱がある! それでいて、己の信念を貫く姿は、まさしく荘厳なるマエストーソ!」
「……はい?」
重要な部分が少しも理解できず、本気で困惑するロード。しかしアースはお構いなしに、ロードの目の前に立った。
「嗚呼、君という存在そのものが、未完にして至高のコンチェルトなのだね!」
アースはロードの顎にそっと指を添え、くい、と持ち上げた。
「未来のソリストよ。このサウンズオブアースと共に、誰も聴いたことのないシンフォニーを奏でてみないかい?」
「――っ!?」
すぐ隣で見ていたミラージュは、思わず息を呑んだ。
(ち、近い……!)
初対面だというのに、あんなに堂々と顔を近づけるなんて。しかも、顎に手まで添えて……。
ミラージュは頬が熱くなるのを感じた。
別に自分がされたわけではないのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
思わずロードの顔を窺う。
驚いているだろうか。困っているだろうか。それとも、少しくらい照れているのだろうか。
しかし、ロードは――
「……走ることなら、いつでも。」
特に表情を変えることなく返答。そのあまりにも普段通りな様子に、ミラージュはしばらく呆然とロードを見つめた。
「フフッ! なんと潔いカデンツァ! この予想外の転調、実に刺激的だ!」
「はいはい、そこまでしなー。」
ネイチャがアースの肩をぽんと叩く。
「初対面でそれをやるのは、ちょっとクレッシェンドが過ぎますよ。」
「これは失敬! ついフォルティッシモで愛を語ってしまったよ!」
そう高らかに笑い、アースは再びヴァイオリンの演奏を始めた。
呆れるネイチャ。小さくため息を吐き、ロードとミラージュに向き合った。
「まぁ、そういうわけだから、他のチームがいいと思うよ。」
彼女はふっと笑い、真っ直ぐにロードを見た。
「でも、さっきの言葉はちゃんと覚えとくから。」
その目は、わずかに鋭さを増しているように見えた。
「はい。」
ロードは軽く頷き、ミラージュに目を向ける。
「行こうか、ミラージュ。」
「あっ、うん。」
そうして二人はネイチャたちに礼をして、歩き出した。ロードは鞄から書類を取り出し、カノープスの名前に線を引いた。
そんなロードの背中を見ながら、ミラージュはなぜか胸を撫で下ろしていた。
――よかった。
何がよかったのかは、自分でも分からない。
ただ、胸の奥にあった落ち着かない気持ちが、いつの間にか消えていた。
・・・・・
次に二人が訪れたのは、黒沼トレーナー率いるチームだった。
「……すごいね。」
ミラージュが思わず呟く。
視線の先では、チームに所属するウマ娘たちがターフを走っていた。
「もう一周! ペースを落とすな!」
(なぜか上裸の)黒沼の厳しい声が響く。
すでに何周も走っているのだろう。ウマ娘たちの息は上がり、額からは汗が流れている。中には、今にも倒れ込みそうなほど疲労困憊している者もいた。
そんな彼女たちに、黒沼は容赦なく声を飛ばす。
「まだ走れるはずだ! 自分で限界を決めるな!」
そんな中、ミホノブルボンは黙々と走り続けていた。
ほかのウマ娘たちと同じメニューをこなしているはずなのに、その表情には疲労の色ひとつ浮かんでいない。
まるで、これからもう何十周でも走れると言わんばかりだった。
ロードはしばらく、その光景を眺めていた。
やがて、隣に立つミラージュと目を合わせる。
(違うな。)
(私たちには合わなさそう……。)
言葉は交わさずとも、二人の意見は一致していた。
トレーニングの良し悪しを論じるまでもない。ここで求められるものと、自分たちが求めるものは違う。
やがて走り終えたウマ娘たちは、ターフに勢いよく倒れ込んだ。足が自由に動かないのか、四つ這いで自分の水筒にたどり着いた。
対照的に、(なぜか黒沼の上着を着ている)ブルボンには疲れ一つ見えない。
ロードは黒沼に尋ねた。
「……このトレーニングを、毎日?」
「そうだ。」
「何故、このようなトレーニングに?」
「 “精神は肉体を超えられる” からだ。」
黒沼は続ける。
「アスリートに求められるのは、肉体だけじゃない。どんな状況でも揺るがない精神力も重要だ。」
「強い精神があれば、どんな壁をも超えて行ける。俺はそう信じている。」
決して長い言葉ではなかったが、強い説得力があった。その理由は、間違いなくブルボンの存在だろう。
スプリンターとしての適性が強かった彼女を鍛え上げ、クラシックレースの舞台へと導いた。皐月賞と日本ダービーの二冠を達成した背景には、黒沼のトレーニングがある。それは紛れもない事実だった。
「……あの。」
ロードは、ある程度息が整った二人のウマ娘に声をかけた。
「なぜ、そうなってまでトレーニングを?」
問われた二人は顔を見合わせた。
突然の質問に戸惑ったようだったが、やがて片方が、疲れた顔に笑みを浮かべた。
「やっぱり、達成感があるからかな。」
「うん。キツイのはキツイし、やめたくもなるよ。」
もう片方も、笑顔を見せる。
「でも、乗り越えた時のあたしたちは、トレーニング前のあたしたちより強くなってると思うんだ。」
「……なるほど。」
ロードは二人を見つめた。
その言葉に、無理をしてでも鍛えるべきだと納得したわけではない。むしろ、自分なら同じやり方は選ばないだろう。
疲労を無視して走り続けることが、必ずしも最善とは限らない。休むことも、考えることも、強くなるためには必要だ。
けれど。
目の前の二人は、ただ苦しさに耐えているわけではなかった。
自分たちが何のために走り、何を得ようとしているのか。それを理解したうえで、このトレーニングを選んでいる。
“精神は肉体を超える” 。その意味が、少しだけ分かった気がした。
「……教えていただき、ありがとうございます。」
ロードは丁寧に頭を下げた。
「どういたしまして!」
二人が笑顔で答える。
ロードは踵を返し、ミラージュと黒沼のもとへ戻ろうとした。
「よかったら、ルベウス君も一緒にやらない?」
背中に声が飛んでくる。
ロードは足を止め、振り返った。
「……嬉しいお誘いですが、遠慮しておきます。」
申し訳なさそうに、けれど迷いなく答える。
「そっか、残念!」
「でも、見に来てくれてありがとね!」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました。」
もう一度頭を下げ、ロードは歩き出す。
そのまま黒沼にも挨拶をして帰ろうとしたところで――
「待て、ルベウス。」
黒沼が、ロードを呼び止めた。
振り返ると、彼はじっとロードを見ていた。その視線が、顔から肩、やがて胴体へと移っていく。
ロードは首を傾げた。
「……何か?」
「お前の腹筋が見たい。」
「は?」
ロードの思考が止まった。
隣でミラージュも目を丸くしている。
黒沼の言葉を耳にした周囲のウマ娘たちは、チーム関係なく言葉を失っていた。
しばしの沈黙。
やがてロードは静かに口を開いた。
「……一応、理由を聞いてもいいですか?」
黒沼は、至極真面目な顔で答えた。
「お前の前傾姿勢に耐えられる体幹筋に、前から興味があった。」
ロードは黙った。
ミラージュも黙った。
騒がしかったトレーニング場が、ほんの一瞬だけ静まり返った。
(いろいろ大丈夫なのかな、この人。)
完全上裸なうえに、少年のお腹を見たいと堂々と言い放った。トレセン学園じゃなかったら即通報ものだろう。
ミラージュはそんなことを思いながら、隣のロードをの言葉を待った。
「いいですよ。」
「よくないよ!?」
ミラージュが慌ててロードの腕を掴んだ。
しかし、当の本人は不思議そうに首を傾げている。
「……トレーナーさんは、俺の前傾姿勢を支える筋肉が見たいんですよね?」
「そうだ。」
「ほら。」
「ほら、じゃなくてね!?」
あまりにも自然なやり取りだった。
ロードは黒沼の言葉を疑っていないし、黒沼も至って真剣だ。二人の間ではすでに話が成立してしまっている。
その一方で、周囲のウマ娘たちはそうもいかなかった。
「やるの……!? 今、ここで!?」
「ちょっ……え……!?」
「ルベウスって、そういうの平気なの!?」
ざわざわと声が広がり、いつの間にかトレーニング場の視線がロードに集まっていた。
「な、なんか、すごい見られてるよ!」
「プールと一緒だよ。」
「ここはターフなの! ――って、ああ!?」
ミラージュが止める間もなく、ロードは体操服の裾を軽くつまんだ。そして、ためらう様子もなく、腹部が見えるところまで持ち上げる。
露わになったのは、無駄な脂肪のほとんどない、引き締まった腹部だった。
腹直筋の輪郭がはっきりと浮かび、その両脇には斜めに走る筋肉の線が見える。細身の身体つきから想像する以上に、体幹が鍛え上げられていた。
けれど、目を引くのは筋肉の大きさではない。
腹部全体がすっきりとまとまり、身体の中心に一本の芯が通っているかのようだった。見せるために膨らませた筋肉ではなく、動作を支え、力を伝えるために研ぎ澄まされた身体。
「「「「 ………。」」」」
トレーニング場が静まり返った。
……いや、正確には、声を出すタイミングを失っただけだった。
「……っ。」
ミラージュは顔を真っ赤にしていた。
止めなきゃ。そう思っていたはずなのに、目の前に現れたものから視線を外せない。
鍛えられていることは知っていた。ロードが普段からどれほど走りについて考えているのかも、会話から推測できた。
それでも、制服や体操服に隠されていたものを実際に目にすると、想像していたのとは違う。
……いや、違うというより。
思っていた以上に、すごい。
そんな周囲の様子など気にも留めず、黒沼はロードの腹部をじっと観察していた。
「腹直筋の発達だけじゃないな……。腹斜筋群もよく働いているはずだ。あの前傾姿勢を保ちながら、脚の動きに合わせて体幹を安定させるには、腹部の表層筋だけでは足りない。」
黒沼は腕を組み、さらに目を細めた。
「腹横筋をはじめとする深層筋群による腹圧の制御。骨盤の位置を保つ筋群との連動も重要になる。単純に上体を前へ倒しているわけじゃない。あの姿勢で走り続けるなら、腰椎や骨盤の安定性も相当に高いはず……。」
ロードは静かに聞いていた。
否、話の内容を理解できていなかった。
どんなに学力が高くても、専門的な知識は別の話だ。それに、自分が何を鍛えているのか、筋肉の名前をひとつひとつ意識して走ってきたわけではなかった。
黒沼は少し身を乗り出した。
「ルベウス。ここまで仕上げるために、どんなトレーニングをしていた?」
「特別なことはしていません。」
「……何?」
「強いて言うなら、河川敷の道で走っていました」
黒沼の眉がわずかに動いた。
「走ることだけで、ここまで鍛えたのか?」
ロードは少し考えてから、口を開いた。
「…… ターフを走れなかった俺は、とにかく速く走りたかったんです。速く走ることだけを考えて、気がついたら今のフォームの前身ができました。」
「筋肉は、そのフォームに自然と適応していったのだと思います。」
黒沼は黙っていた。
ロードは、自分の身体を専門的に分析したことは一度もなかった。自分の走りに必要な動きを考えていたわけでもない。
彼は、ただ速く走りたかった。その積み重ねが、今の身体を作ったのだ。
「……なるほどな。」
黒沼は、低く呟いた。
先ほど本人が言ったように、彼が掲げる信念は “精神が肉体を超える” というものだ。強い意志があれば、限界を乗り越えられる。肉体だけを鍛えるのではなく、精神を鍛えることにも意味がある。
ロードは、黒沼の指導を受けたことがない。
それどころか、彼とは異なる方法で、自分だけの走りを追い求めてきた。
それでも、その身体は確かに、積み重ねてきた思考と意志の結果だった。
精神が肉体を超える。
少なくともこの少年は、自らの道を通じてその可能性を示している。
「……興味深いな。」
黒沼は、心底感心したように言った。
「十分だ、ありがとう。」
黒沼は満足げに頷いた。
ロードは小さく頷き、体操服の裾を下ろす。
そして、ようやく解放されたとばかりに息を吐いたミラージュへ、何の気なしに声をかける。
「じゃあ、行こうか、ミラージュ。」
「うん……。」
ミラージュは、まだ少し赤い顔のまま頷いた。
(何も分かってない……。)
そんなことを思いながら。
・・・・・
トレーニング場を後にし、校舎のそばにあるベンチに並んで腰を下ろす二人。すっかり日も傾き、あたりには夕暮れの静けさが漂っていた。
「……今日は、いろんなチームを見たね。」
「うん。思っていた以上に、それぞれ違っていた。」
ロードはそう答え、軽く背もたれに身体を預けた。
厳しいトレーニングを課すチーム。
ウマ娘たちの自主性を重んじるチーム。
それぞれのトレーナーが、それぞれの信念を持っていた。
どのチームにも、そこでなければ得られないものがある。そして自分に合う環境もまた、ウマ娘の数だけ違うのだろう。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
やがて、ミラージュが口を開く。
「ねえ、ルー君。所属するチームは決めた?」
ロードは、ほんの一瞬だけ彼女を見た。
「……うん。」
今度は、はっきりと頷いた。
「そっか。」
ミラージュは小さく微笑んだ。
「ミラージュは?」
「私も、決めたよ。」
そう答えて、彼女は夕焼けに染まる空を見上げた。
ロードは、それ以上何も聞かなかった。
どこのチームなのか。何を考えて、そこを選んだのか。
聞こうと思えば、聞くことはできた。
けれど、今はそれを尋ねる必要はないような気がした。
ミラージュが自分の進む道を決めたのなら、それでいい。きっと彼女にも、彼女なりの考えがあるのだろう。
それは、ミラージュも同じだった。
ロードがどこへ向かうのか、彼女はまだ知らない。それでも、彼が自分の意志で選んだのなら、きっと大丈夫だと思えた。
もちろん、不安がなくなったわけではない。
自分の選択が正しいのか、今でも確信が持てるわけではなかった。
それでも今日一日、ロードと一緒にさまざまなチームを見て回ったことで、少なくとも自分が何を求めているのかは、以前よりはっきりした気がする。
だから、もう迷っているだけではいられない。
「……そろそろ、帰ろうか。」
「だね。」
二人はベンチから立ち上がった。
これから向かう場所は、きっと違う。
それでも、目指すものは同じだった。
もっと強くなること。
そして、いつか本気で競い合える相手になること。
そのために、自分の道を歩いていく。
二人は並んで歩き出した。
やがて、校舎の前で別れるときが来る。
「じゃあ……また明日、ルー君。」
「うん、また明日。」
短く言葉を交わし、ロードは歩き出した。
ミラージュはその背中を見送る。
そして彼女は静かに息を吸い、顔を上げた。
・・・・・
翌日、ミラージュはあるトレーナー室の前に立っていた。
扉の前で足を止め、そっと息を吐く。
昨日、ロードと一緒にいくつものチームを見て回った。
それぞれのチームに、それぞれの方針があった。どこで学び、どんなふうに強くなるのか。その選択は、これからの自分を大きく変えることになる。
だからこそ、迷いがなかったわけではない。
自分に合う環境は何なのか。
今の自分に必要なものは何なのか。
考え始めれば、不安はいくらでも浮かんでくる。
それでも。
今のままでは、追いつけない。
ロードにも、イーリスにも。
そして、いつか二人と本気で競い合える自分にも。
だからこそ、自分に必要なものを手に入れるためにここへ来たのだ。
ミラージュはもう一度、深く息を吸った。
そして、扉をノックする。
『どうぞ。』
中から返事があった。
ミラージュは扉を開け、室内へと足を踏み入れる。
デスクの向こうに座るトレーナーと目が合った。
一瞬だけ、胸が緊張で締めつけられる。
けれど、もう後戻りはしない。
ミラージュはその場で姿勢を正し、トレーナーの目を見て言った。
「昨日、トレーニングの見学をさせていただいた、ミラージュシーズです。」
「私を、チーム〈ファースト〉に入れてください。」
そうして彼女は頭を下げる。
そんなミラージュの姿を、チーム〈ファースト〉のトレーナー、樫本理子は静かに見つめていた。
つづく
と言うわけで、ライツ博士に続いて理子ちゃんの登場です。
彼女はアオハル杯シナリオように理事長代理として来たわけではなく、元から中央のトレーナーだったという設定です。
もちろん、リトルココンとビターグラッセもいます。
では、また次回。