ミラージュがチーム〈ファースト〉を選んだ理由とは……?
「私を、チーム〈ファースト〉に入れてください。」
深く頭を下げたミラージュに、樫本トレーナーはしばらく何も答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……顔を上げてください。」
ミラージュは姿勢を戻し、彼女の目を見つめた。
「昨日のトレーニングの見学で、私がどのような方針でウマ娘を育てているのかも、ある程度は理解していると思います。」
理子は机の上で両手を重ねた。
「どうして、チーム〈ファースト〉を選んだのですか?」
ミラージュは一度だけ息を吸った。
昨日、ロードと一緒にいくつものチームを見て回った。それぞれのトレーナーに、それぞれの考え方があった。どの環境にも長所があり、そこでなければ得られないものがある。
そのうえで、彼女はここを選んだ。
「樫本トレーナーの指導を受けたいと思ったからです。」
「私の、ですか?」
「はい。これまで多くのウマ娘をG1で勝たせてきた、樫本トレーナーの手腕に惹かれました。」
ミラージュは、理子の目から視線を逸らさなかった。
「それに、今のチームにはリトルココンさんとビターグラッセさんのお二人しかいませんよね。」
「そうですね。」
「だからこそ、私自身のことも、しっかり見ていただけるんじゃないかと思ったんです。」
チームの人数が少ないことは、必ずしも良いことばかりではないだろう。仲間と競い合う機会は限られるかもしれないし、チーム全体で得られる経験にも違いがあるはずだ。
それでも、ミラージュは自分の課題を見つめ、必要な指導を受けられる環境に身を置きたかった。
今の自分に何が足りないのか。
何を変えれば、もっと強くなれるのか。
それを見極め、ひとつずつ乗り越えていきたい。
理子は、ミラージュの言葉を静かに聞いていた。
「……私の管理が厳しいものであることはご存じですね?」
「はい。」
「これまでにも、その厳しさを理由にチームを離れたウマ娘は数多くいます。あなたが思っている以上に、制限を窮屈に感じることもあるかもしれません。」
今度も、返事に迷いはなかった。
「私は、もっと強くなりたいんです。」
ミラージュは、背筋を伸ばした。
「私が目標としているウマ娘の隣に立てるなら、どんな道でも突き進みます。」
言い終えてからも、彼女は理子をまっすぐに見つめていた。
不安がないわけではない。ここを選んだことが、必ず正解になるとも限らない。
それでも、自分で考え、選んだ道。今はその選択を信じて進みたい。
理子は、そんなミラージュの姿を静かに見つめていた。そして、少しだけ表情を引き締める。
「ひとつ、伝えておきます。私は、今後あなたがチームを去ることになったとしても、それを理由に責めるつもりはありません。」
ミラージュは、黙って理子の言葉に耳を傾けた。
「私の方針がすべてのウマ娘に合うとは限りません。あなたもここで過ごす中で、考えが変わることはあるでしょう。」
理子は、まっすぐにミラージュを見つめた。
「ですが……今のあなたの言葉は、覚えておきます。」
ミラージュは、しっかりと頷いた。
「はい。」
「ミラージュシーズ。あなたの加入を認めます。」
「ありがとうございます!」
ミラージュは深く頭を下げた。
「放課後、またここに来てください。書類の記入や私の管理について、メンバーへの自己紹介などを行います。」
「分かりました。」
ミラージュは、もう一度しっかりと頷いた。
「よろしくお願いします、樫本トレーナー。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
ミラージュの一礼に、理子も軽く頭を下げる。そしてミラージュはトレーナー室の扉へと向かった。
扉に手をかけたところで、ふと足を止める。
これから、自分はこの場所で走ることになる。
厳しい管理のもとで、これまでとは違う生活を送ることになるだろう。思いどおりにいかないことも、迷うこともあるかもしれない。
それでも、自分で決めた。
ミラージュは小さく息を吸い、扉を開けた。
「失礼しました。」
静かに扉を閉める。
廊下に出たミラージュは、しばらくその場に立っていた。
胸の奥には、まだわずかな不安が残っている。
けれど、それ以上に――これから始まる日々への期待があった。
「……よし。」
小さく呟き、ミラージュは顔を上げた。
今日から自分はチーム〈ファースト〉の一員になる。
全ては、いつか必ず、ロードとイーリスに追いつくために。
その一歩を、今、踏み出した。
・・・・・
同日、放課後。
ロードは、沖野のトレーナー室を訪れていた。
「おうルベウス、待ってたぜ。」
扉を開けるなり、沖野は気さくに話しかけてきた。
「はい。お時間をいただき、ありがとうございます。」
「いいって。それで、他のチームを見て回ってどうだった?」
「どのチームにも、それぞれの方針と強みがありました。」
ロードは、これまで訪れたチームのことを思い返した。
最強であるために、チームメイトもトレーナーも努力を積み重ねるチーム。
厳しいトレーニングによって、肉体と精神を鍛え上げるチーム。
緩い雰囲気でありながらも、目標のために全員が前を向いているチーム。
指導者の理念も、目指す強さも、一様ではなかった。
「トレーナーごとに考え方が違うのはもちろんですが、同じ目標に向かっていても、そこに至るまでの方法は様々でした。実際に見て回ったことで、勉強になりました。」
「ちゃんと見てきたみたいだな。」
ロードは小さく頷いた。
「それで、どこにするか決めたのか?」
「はい。」
ロードは迷わず即答する。
「俺は、チーム〈スピカ〉に入ります。」
沖野は、ロードの顔を見つめる。
「その理由は?」
「やはり俺には『自分で考え、証明する』方法が合っていると思ったからです。」
ロードは、はっきりと答えた。
「教えてもらったことを、そのまま実践するだけではなく、自分で課題を見つけ、どうすれば改善できるのかを考える。」
「それを実際に試して、結果を確かめる。そうやって、自分の走りを少しずつ作っていきたいんです。」
もちろん、他のチームのやり方が間違っているとは思っていない。
トレーナーのもとで、与えられた課題に全力で取り組むことにも意味がある。厳しい管理によって怪我のリスクを最低限に抑え、計画的に力を伸ばす方法だってある。
実際、今日までに見てきたチームから学べたことは多かった。
けれど、自分が強くなるために、どんな方法を選ぶのか。
その答えは、やはり変わらなかった。
「俺は、自分で考えて、試して、納得できる答えを見つけたいんです。」
ロードは、沖野をまっすぐに見た。
「だからこそ、自主性に溢れたチーム〈スピカ〉を選びます。」
沖野は、しばらく黙っていた。
ロードが最初からスピカに入りたいと考えていたことは知っている。
それでも、他のチームを見てこいと伝えたのは、最初の希望だけで決めてほしくなかったからだ。様々な環境を知り、そのうえで自分に合う場所を選んでほしかった。
そして今、ロードは自分の言葉で、その理由を説明している。
「……なるほどな。」
沖野は小さく笑う。
一方のロードは、一度姿勢を正した。
「改めて、お願いします。チーム〈スピカ〉に入れてください。」
そう言って、深く頭を下げた。
「頭なんか下げなくていいって。」
沖野は、少し困ったように笑った。
「昨日言っただろ? いつでも大歓迎だってな。」
「……はい。」
「よし。じゃあ、手続きといこうか。」
ロードはファイルから書類を取り出し、沖野に差し出す。必要事項と名前を記入し、最後に印鑑を押す。沖野は書類に再度目を通してから、ロードに書類を返した。
「これで、正式にチーム〈スピカ〉の一員だな。」
「よろしくお願いします。」
「おう。こちらこそ、よろしくな。」
ロードがファイルに書類を仕舞うのを見て、沖野は改めてロードに向き直った。
「ひとつ、先に言っておく。」
「はい。」
「俺は、お前に対してはサポートに徹するつもりだ。」
ロードは、わずかに目を見開いた。
「俺があれこれ指示して、お前の考える余地を奪う必要はない。」
沖野は腕を組み、いつもの気さくな笑みを浮かべた。
「もちろん、必要なことがあれば助言もする。危ないと思ったら止めるし、俺にできることなら何だって協力する。」
「だが、最後にどうするかを決めるのはお前だ。」
ロードは、黙って聞いていた。
「だから、遠慮するな。トレーニングのことでも、身体のことでも、何かあれば相談してくれ。」
そして、沖野は笑った。
「存分に俺を使ってくれ。いいな?」
「はい。」
ロードは、いつもより少しだけ柔らかな表情で頷いた。
「頼りにしています、沖野トレーナー。」
「任せとけ。」
沖野もまた、頼もしく笑った。
「よし、これで話はまとまったな。」
そう言って、沖野は椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。
「さぁて、行くか。」
「俺は書類を先生に渡してから合流しますね。」
ロードもバックを担ぎ、一緒にトレーナー室を出ようとする。
「んぁ、そうじゃねーんだ。」
「……はい?」
沖野は頭を掻きながら、何でもないことのように続けた。
「『ルベウスがチームに所属することが決定した時、そのチームのトレーナーはルベウスを連れて理事長室に来い』って、秋川理事長に言われてんだ。」
「理事長さんに……?」
ロードは、わずかに首を傾げた。
入部の手続きに関して、何か特別な話があるのだろうか。
「何の話でしょうか。」
「さあな、俺も詳しいことはわかんねぇ。」
沖野の反応に、ロードは少し顔を俯かせた。
それを見た沖野は軽くロードの背中を叩く。
「あの人のことだ、悪いことにはならねーよ。」
「……ですよね。」
ロードは少し考えたものの、それ以上は尋ねなかった。
理事長自ら呼び出すというのは、確かに気になる。けれど、沖野がこうして普段どおりにしているのなら、必要以上に身構えることもないだろう。
「それじゃあ、行きますか。」
「おう。」
沖野はトレーナー室の扉を開けた。ロードもその後に続き、二人は理事長室へと向かった。
・・・・・
「……ということだ!」
理事長室に、理事長の張りのある声が響く。話を聞いたロードは、小さく息を吐いた。
「記者会見……。」
理事長から告げられたのは、ロードの存在を世間に公表するため、記者会見を開くという話だった。
ロードの存在は、限られた者たちにしか知られていない。トゥインクル・シリーズに参戦すれば、その名は世間に広く知られることになる。『ルベウス』の名を持つロードなら、なおさら注目の的となるだろう。
加えて、ロードは男だ。そんな存在が突然ターフに現れたとしたら、彼のことを何も知らない地方トレセン学園のウマ娘たちは、戸惑い、懐疑的な目を向けるかもしれない。
ロードの参戦を、誰もが突然の出来事として受け止めることのないように。それもまた、記者会見を開く理由のひとつだった。
「もちろん私も出席するし、URAの会長も同席される予定だ。君一人を大勢の記者の前に立たせるようなことはしないから、安心してくれ。」
やよいは、ロードを気遣うように微笑んだ。
「ありがとうございます。」
ロードは素直に礼を述べたものの、特に緊張した様子は見られなかった。
「……大丈夫なのかい? 記者会見となれば、大勢の人から注目されることになるが。」
「大勢から見られることには慣れているので、大丈夫です。」
ロードは淡々と答えた。
実際、彼にとって大勢の視線を浴びることは、それほど大きな問題ではなかった。
過去に何度も経験してきたことだったから。
「それならいいのだが……。」
やよいはロードの言葉に違和感を覚えた。
僅かな静寂。
それを破ったのは、ロードだった。
「……ちなみに、記者会見はいつ頃になりますか?」
「え?」
「やるなら早い方がいいと思ったので。」
やよいは一瞬きょとんとした。
どうやらロードは、記者会見そのものよりも、そのために費やす時間の方が気になっているらしい。
(何という精神力……!)
これから世間の注目を一身に集めることになるというのに、本人はまるで気負っていない。
その落ち着きぶりに、やよいは感心するばかりだった。
「承知ッ! なるべく早くに調整しよう。」
「ありがとうございます。」
ロードは満足そうに頷いた。
やよいはロードから視線を外し、沖野に向ける。
「沖野トレーナー。ロード君が会見を終えるまで、彼のURAへの登録は待っていてくれないか?」
「登録を、ですか?」
「正式に発表する前に登録情報が公開されてしまっては会見の意味が薄れてしまうからな。できるだけ情報が外に出ないようにしておきたいのだ。」
「分かりました。会見が終わるまでは待っておきます」
「ありがとう。よろしく頼むぞ!」
沖野が返事をすると、やよいは満足そうに頷いた。
ロードの存在を世間に公表するための準備は、こうして少しずつ進められていく。
本人はいつもと変わらない様子だったが、彼の知らないところでも、その参戦に向けた動きは始まっていた。
・・・・・
土曜日。
ロードはやよいに呼ばれ、トレセン学園の理事長室を目指して歩いていた。
平日とは違い、休日の学園は人影が少ない。廊下には静かな空気が流れていた。
ロードは理事長室の前で足を止める。
軽く扉をノックすると、中から返事があった。
『入りたまえ!』
「失礼します。」
扉を開けるとそこには、ソファに座るやよいと、向かい側に座る男性の後ろ姿があった。
「来てくれたな、ロード君!」
「こんにちは。……こちらの方は?」
ロードの視線が、男性へと向けられる。
「紹介しよう。こちらはURAの会長だ!」
やよいに紹介され、男性は静かに立ち上がり、ロードの前に立った。
「初めまして。君が、ルベウスロード君だね。」
「はい。よろしくお願いします。」
ロードは丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。」
会長も穏やかな表情で応じる。
ロードはやよいに促されるまま、彼女の隣に腰を下ろした。
「今回君を訪ねたのは、記者会見の前に一度話してみたからったからだ。だが、その前に……」
会長は一度言葉を切った。
そして、ロードの目を見つめる。
「まずは、君に謝罪をさせてほしい。」
「……謝罪?」
ロードが聞き返すと、会長はソファに座り直し、姿勢を正した。
「君がレースに参加することを認めず、長年にわたって向き合うことから逃げてきた。URAを代表する立場にありながら、その問題を解決するために十分な努力をしてこなかった。……本当に申し訳なかった。」
理事長室に、静かな沈黙が流れる。
「本来なら、もっと早く君と話をするべきだった。君がどれほど走りたかったのか、どんな思いで過ごしてきたのか。それを知ろうともせず、ただ前例がないという理由で遠ざけてしまった。」
会長はゆっくりと顔を上げた。
「今さら謝罪したところで、過ぎた時間を取り戻せるわけではない。それでも、君がこれからレースの世界に進む前に、どうしても伝えておきたかった。」
ロードは、会長の言葉を黙って聞いていた。
言葉を並べただけの言い訳でないことは、しっかりと伝わっていた。
「……会長さん。」
ロードが口を開く。
「ありがとうございます。」
「……?」
思いがけない返答に、会長は目を瞬かせた。
「俺のトゥインクル・シリーズ参戦を認めてくれたことです。」
ロードは落ち着いた声で続ける。
「謝罪は受け取ります。ですが、それを引き摺る必要はありません。」
「しかし……君には長い間、不自由を強いてしまった。」
「そうですね。」
ロードは否定しなかった。
「でも、俺はこれから走れます。今まで走れなかった時間を取り戻すことはできませんけど、これから先の時間はありますから。」
その言葉に、会長は再び口を閉ざした。
ロードは過去の出来事を忘れているわけではない。自分がレースの世界から遠ざけられていたことも、それによって失ったものがあることも理解している。
それでも、彼の視線はすでに前を向いていた。
「俺は、ターフを走りたいんです。誰かと競い合って、勝ちたい。だから、こうして機会をもらえたことに感謝しています。」
「……そうか。」
ロードの言葉を聞いた会長は、何かを確かめるようにしばらく彼の顔を見つめていた。
やがて、少しだけ表情を和らげる。
「君は……本当に強いな。 “お父さん” にそっくりだ。」
「…… “父さん” ?」
ロードは僅かに身を乗り出した。
「父さんを知っているんですか?」
「知っているも何も、彼はURAの重鎮だからね。私も長い付き合いになる。」
「URAの……重鎮?」
ロードは思わず聞き返した。
父が職場で具体的に何をしているのか、どのような立場にいるのか、ロードは何一つ知らなかった。
過去に何度か仕事について尋ねたことはある。けれど、父親はいつも曖昧な言葉で返すばかりで、詳しいことを話そうとはしなかった。
ロードもそれ以上しつこく聞くことはなかった。父親にも話せない事情があるのだろうと、なんとなく察していたからだ。
けれど、今になって思えば、話せなかったのも無理はないことだった。
「彼にはずいぶん苦労をかけた。君のことを何とかしようと、何度も意見を交わしたことを覚えているよ。」
会長は懐かしむように目を細めた。
「君の件についても、決して他人事として受け止めていたわけではなかった。」
「………。」
ロードは何も言わず、会長の話に耳を傾けていた。
「……彼にも、本当に申し訳ないことをしたと思っている。」
会長はそう言って、わずかに視線を落とした。
「君のことを思いながらも、どうすることもできなかった彼の気持ちを考えるとね……。本当は、納得できる判断ではなかったはずだ。」
しばらく沈黙が流れる。
ロードは、父のことを思い返していた。
これまで父が仕事の話をしなかったのは、自分に余計な心配をかけまいとしていたのかもしれない。
あるいは、何を話せばいいのか分からなかったのかもしれない。
今となっては、その胸の内を知ることはできない。
ロードは、少しだけ顔を上げた。
会長は再びロードの方へと向き直る。
「だからこそ、君の脚で彼を喜ばせてあげてほしい。」
その言葉には、会長自身の願いも込められていた。
過ぎてしまった時間を取り戻すことはできない。かつての判断をなかったことにもできない。
それでも、これから先の道を閉ざす必要はない。
ロードが自分の脚でターフを駆け、競い合い、勝利を目指す。その姿を、父親にも見届けてほしい。
「はい。」
ロードはまっすぐに会長を見つめ、静かに頷いた。
いつもの落ち着きの中に、確かに闘志が燃え上がっていた。
・・・・・
その後の三人の話題は、少しずつ変わっていった。
ロードが普段どのようなトレーニングをしているのか。自分の走りについて、どんなことを考えているのか。
会長は興味深そうに耳を傾け、ときには質問を交えながら話を続けた。
また、トレセン学園での生活についても話題に上がった。
チーム〈スピカ〉の仲間たちとのことや、学園で知り合ったウマ娘たちとの交流。ロードがどのような環境で過ごし、誰と関わりながら日々を送っているのか。
会長は、ロードが学園での生活にも馴染み始めていることを知り、安心したように頷いていた。
ロードもまた、普段あまり話す機会のない相手との会話を楽しんでいた。
やがて、ひと通り話を終えたところで、会長が席を立った。
「今日は来てくれてありがとう。君と直接話ができてよかったよ。」
「こちらこそ、ありがとうございました。」
差し伸べられた手。
ロードも立ち上がり、握手を交わした。
「これから先、君には様々なことが待っているだろう。周囲からの期待もあれば、厳しい声を向けられることもあるかもしれない。」
会長はロードの目を見つめた。
「それでも、自分の走りを大切にしてほしい。誰かの期待に応えることも大切だが、君自身が何を目指して走るのかを忘れないでほしいんだ。」
「はい。俺は俺の走りを追求していきます。」
「うん。楽しみにしているよ。」
会長は穏やかに微笑んだ。
「君がどんなウマ娘たちと競い合い、どんな道を切り開いていくのか。一人の競技者として、君の走りを見られる日を心待ちにしているよ。」
「ありがとうございます。俺も、早く走りたいです。」
「ははっ、頼もしいね。」
ロードの言葉に、会長は満足そうに笑った。
「では、また会見の日に。理事長も時間を作ってくれてありがとう。」
「放念ッ! 有意義な時間になったようでよかったです。」
「ああ。では、お暇させてもらうよ。見送りは結構だ。」
そうして会長は一礼し、理事長室を退室した。
静かに閉じられた扉を見送りながら、ロードはしばらくその場に立っていた。
そして、これから始まる自分の新たな一歩に思いを馳せるのだった。
・・・・・
一週間後、記者会見当日。
会見場へと続く廊下には、関係者たちが慌ただしく行き交っていた。
その一角で、ロードは両親とともに立っていた。
閉ざされた扉の向こうから、理事長であるやよいの声が聞こえてくる。
会見はすでに始まっている。
ロードは扉の方へ静かに目を向けた。
「ロードの出番もすぐだね。」
父がそう言う。
しかし、ロードの表情に変化はない。緊張している様子もなければ、落ち着かない様子もない。ただ、いつも通りの顔で、扉の向こうの声に耳を傾けていた。
そんな息子の姿を見て、ライトがふっと微笑む。
「ふふっ、お父さんみたい。」
「父さん?」
「こういう場面でも、全然緊張しないところ。」
ライトは懐かしむように父の顔を見つめた。
「昔からそうだったものね。相手が誰であろうと、何人いようと、あなたはいつも通りだったもの。」
「そうだったかな。」
「そうよ。」
ライトが笑うと、父も穏やかな表情を浮かべた。
「じゃあ、この状況で楽しそうにしているのはお母さん似だな。」
それを聞いたライトは、キョトンとした。
ロードは微笑んでいるわけでなければ、尻尾が大きく揺れているわけでもない。
「……楽しんでるの?」
「ワクワクはしてるよ。」
「……それを表にあまり出さないのは、昔のお父さんね。」
そう言って、ライトは苦笑いを浮かべた。
そして、少しの静寂が訪れる。
「……ロード、少しいい?」
「なに?」
ライトはロードのそばへ歩み寄ると、その身体をそっと抱きしめた。
「……母さん?」
「少しだけ、いいでしょ?」
「うん。」
ロードは抵抗することなく、母の腕を受け入れた。ライトは息子の背中に手を回し、静かに目を閉じる。
その姿を見ていた父親も、二人のそばへ歩み寄った。
そして、二人を包み込むように腕を回す。
三人はしばらく、そのままでいた。
言葉にする必要のない思いが、そこにはあった。
やがて、廊下の向こうからスタッフが歩いてくる。
「ルベウスロードさん。そろそろです。」
「分かりました。」
ロードは両親の腕から離れ、二人の顔を見た。
「じゃあ、行ってくる。」
「ああ。行っておいで。」
「頑張ってね、ロード。」
優しい笑みを見て、ロードは二人に背を向けた。
やがて、スタッフが扉を開く。その先には、記者会見のために用意された広間が見えた。
壇上には、理事長のやよいとURA会長の姿がある。席に座る二人が、ロードの姿を認めて視線を向けた。
二人と目が合う。
ロードは小さく頷き、足を踏み出した。
この会見の先で何が待っているのかは、誰にも分からない。
それでも、ロードに迷いはなかった。
これまで歩んできた道を振り返ることなく、これから進む道を見据えて、一歩を踏み出した。
――だが。
この場にいる誰もが、予測できなかった。
彼が後にレース界の常識を大きく変えることになるなど、知る由もなかった。
そしてそれは、ロード本人も同じだった。
つづく
ロード君のお父さんは名前こそ出すつもりはありませんが、URAの割と偉い人です。妻、ライトとの出会いは……暇があったら書きます。
そして、次回より新章開幕。ロード君がついに日本、引いては世界デビューです。
「男のウマ娘」を前に、世間は何を思うのでしょうか?