やよいの提案を受け、ロードの返答は……?
「――以上が、我々から君へ返したい選択肢だ。」
静かなリビングへ、やよいの声が響く。
やよいが提示した、二つの道。
今まで通り学校へ通いながら、放課後や休日にトレセン学園で走る。その中で、改めてロードの身体機能や適性を確認していく。
その結果によっては、トゥインクル・シリーズへ進む道が開く可能性がある。
そのロードの指先が、僅かに動いた。
やよいの言葉に嘘はない。
だが同時に、安易な希望だけを見せているわけでもなかった。
「もちろん、無理に答えを急がせるつもりはない。」
「これらの提案を受けるかどうかは、君自身が決めることだ。」
静かな沈黙が落ちる。ロードはゆっくり視線を落とした。
正直、提案そのものに不満はなかった。たとえトゥインクル・シリーズへ届かなかったとしても、“走る場所”だけは残る。
夢を追った先に、何も残らないわけではない。それはきっと、自分が思っていたよりずっと救いのある未来だった。
「………。」
ロードの指先が、僅かに動く。
受け入れるべきなのかもしれない。
そう思った、その時だった。
『最悪――二度と走れなくなる。』
脳裏へ、不意にあの日の言葉が蘇る。
河川敷で出会った、真正面から自分の走りを見抜いた、あのトレーナー。
ロードの表情が、僅かに陰った。
「……理事長さん。」
静かな声だった。
やよいが「うむ」と頷く。
「俺のこと、“あるトレーナーから聞いた”って言ってましたよね。」
「その通りだ。」
「……俺の“走り方”について、何か聞いてますか。」
その瞬間。ライトの肩が、ぴくりと揺れた。
ロードが自分から“走り方”について触れたことなど、今までほとんどなかったからだ。
やよいは誤魔化さなかった。
「……危険な走り方だったと聞いている。」
静かに、真っ直ぐ答える。
「どのような走法なのかまでは詳しく聞いていない。だが、このまま続ければ、いずれ脚を壊す可能性が高いと。」
「………。」
その言葉を聞いた瞬間。
ロードの目が、すぅ……と細くなる。
それは怒りではない。だが、どこか冷めたような――静かな諦めに近い表情だった。
やはり、そこへ辿り着くのか。そんな声にならない感情が、その瞳には滲んでいた。
やがて、ロードは目を伏せる。
河川敷で走る時、自分はいつだって限界の先だけを見ていた。いつか脚が壊れるかもしれないことなど、最初から分かっていた。
それでも、“全てを賭けて走る瞬間”だけが、自分を解放してくれたのだ。
だが、もしトレセン学園へ行けば。
もし誰かに教わることになれば。
きっとその走りは、“危険だから”と止められる。
否定される。
直される。
そして――。
やがて、ロードはゆっくりと顔を上げる。
「……すみません。」
その声は、どこまでも静かだった。
「少し、考えさせてください。」
その言葉が落ちた瞬間。
ライトは、ロードが何を言っているのか分からなかった。
「……ロード?」
戸惑いの滲む声だった。
提案に不満があるようには見えなかった。むしろ先ほどまでのロードは、確かに心を動かされていたはずなのだ。
トゥインクル・シリーズへの可能性。
たとえ届かなかったとしても、走る場所だけは失わない未来。
それはきっと、ずっとロードが欲しかったもののはずだった。
なのに、なぜ。
どうしてここで立ち止まるのか。
「………。」
ロードは答えない。
ただ静かに視線を落としたまま、自分の手元を見つめている。
その横顔には迷いがあった。
だがそれは、“夢を追うかどうか”を悩んでいるようには見えなかった。
もっと別の何か。
もっと深いところで、立ち止まっているような――そんな雰囲気があった。
対して、やよいとたづなはただ静かにロードを見つめている。
第一印象は、感情を押し殺したように大人しい少年。だが、その静けさの奥には、“走り”への異様なまでの執着が沈んでいた。
限界の先へ届こうとする、純粋な渇望。
やよいはそこに、強烈な資質を感じ取っていた。
そしてたづなは、その輝きがいつか彼自身を壊してしまうのではないかと、微かな危うさを覚えていた。
・・・・・
「今日は、話を聞いてくれてありがとう。」
玄関先で、やよいは真っ直ぐロードを見上げながらそう言った。
太陽は沈み始めており、涼しい静かに吹き抜けている。
ロードはそんなやよいを見つめ返し――やがて、小さく目を伏せた。
「……いえ。」
短い返事だった。
まだ迷いは消えていない。
それでも、先ほどのような拒絶の色は薄れていた。
やよいはそんなロードの様子を静かに見つめ、それから穏やかに口を開く。
「答えを急ぐ必要はない。これは、君が自分で決めることだ。」
その言葉に、ロードは小さく頷いた。
「……はい。」
やよいは満足そうに「うむ」と頷く。
そして最後に、真っ直ぐロードを見据えた。
「私たちは、君の味方だ。」
一拍置いて、静かに続ける。
「どうか、それだけは忘れないでくれ。」
「………。」
ロードは何も答えなかった。だが、その言葉を振り払うこともできず、ただ静かにやよいたちを見送る。
やがて二人は車へ乗り込み、静かに発進する。
テールランプの赤い光が、ゆっくりと道の向こうへ消えていった。
しばらくして。
静かに走る車内で、たづなが小さく息を吐いた。
「……不思議な子ですね。」
運転席へ座るやよいが視線だけを向ける。
たづなは窓の外を見つめながら、静かに続けた。
「ロード君は、“普通のウマ娘のように走りたい”と言っていました。」
「ですが同時に、“普通では満足できない”ようにも見えました。」
「………。」
やよいは何も言わない。
たづなは、ロードのあの瞳を思い出していた。
静かで、落ち着いていて。
だがその奥には、常人では抱えきれないほど強い“走り”への執着が沈んでいた。
「あの子にとって、“走る”ことは……きっと、生きることそのものなんでしょうね。」
だからこそ。
限界を超えようとする。
壊れることすら厭わず、前へ進もうとする。
「“普通”を望んでいるのに、“普通”では止まれない……か。」
やよいがぽつりと呟く。
その声音に否定はなかった。
むしろどこか、納得したような響きすらある。
「……あのままでは、いずれ自分を壊してしまいます。」
たづなの声には、微かな不安が滲んでいた。
だがやよいは静かに腕を組み、夜道を見据えたまま口を開く。
「だが、あの渇望を“間違い”だとは、私は言いたくない。」
「………。」
「限界の先を求める気持ちそのものは、決して悪ではない。」
やよいは静かに目を細める。
「問題は、それしか知らないことだ。」
その言葉に、たづなは小さく目を見開いた。
「だからこそ、必要なのだろう。」
やよいは静かに続ける。
「彼を“止める”のではなく、“支える”者が。」
・・・・・
やよいたちを見送った後。
ルベウス家のリビングには、静かな空気だけが残されていた。
時計の針が時を刻む音だけが、小さく響いている。
「……ロード。」
やがて、ライトが静かに口を開いた。向かい側へ座るロードは、小さく「なに」と返す。
「どうして……迷っているの?」
その問いに、ロードは少しだけ視線を伏せた。
「理事長たちの話、嫌だったわけじゃないんでしょう?」
「………。」
「走る場所もあって、可能性もあって……。」
ライトは言葉を選ぶように続ける。
「なのに、どうして……。」
ロードはしばらく黙っていた。
静かな沈黙。
やがて、小さく息を吐く。
「……俺の走り、多分止められるから。」
「え……?」
ライトが目を瞬かせる。
ロードは視線を落としたまま、ぽつりと続けた。
「さっき言ってたでしょ。“危険な走り方だ”って。」
「それは……。」
「多分……トレーナーがついたら、直される。」
その声に怒りはない。
ただ、静かな確信だけがあった。
「“そんな走り方じゃ壊れる”って。」
「ロード……。」
ライトは言葉を失う。
ロードは静かに、自分の手のひらを見た。
河川敷で走っている時だけだった。限界とか悩みなんてどうでもよくなるくらい、ただ前だけを見て走れた。
「……どうして、そこまでその走り方に拘るの?」
ライトの問いは、責めるものではなかった。
純粋に知りたかったのだ。どうしてそこまで、“壊れるかもしれない走り”へ執着するのかを。
ロードは少しだけ黙り込む。
やがて。
「……自分を、解放できるから。」
静かな声だった。
「……っ。」
ライトの息が詰まる。
ロードは続ける。
「走ってる時だけは、全部どうでもよくなるんだ。」
「周りとか、将来とか……そういうの。」
淡々とした口調だった。
けれどその言葉は、ライトの胸へ重く突き刺さる。
「ただ、前に行きたいって思える。だから……」
ロードは小さく目を伏せた。
「その走りじゃないと、駄目なんだ。」
「でも、それじゃあなたは――」
ライトは思わず言葉を零しかける。
壊れてしまう。
そう続けようとして――止まった。
ロードは静かに立ち上がる。
「……母さんの気持ちは、よく分かるよ。俺だって、母さんの悲しむところはもう見たくない。」
「でも……ごめん。」
その声は、どこまでも静かだった。
「これだけは、譲れない。」
ライトが息を呑む。
それは、ロードが初めて見せた“拒絶”。
否――。
初めて、自分の意思を貫こうとした瞬間だった。
ロードはそのまま背を向け、静かにリビングを後にしようとする。引き止めようとして、ライトは反射的に右手を伸ばした。
「ロード、お母さんは――」
だが。
その先の言葉は、出てこなかった。
ロードはリビングを出て、階段を上っていく。
伸ばされた右腕だけが、宙に取り残される。行き先を見失ったまま、ただ静かに震えていた。
それから数日。
ロードの日常は、ほとんど変わっていなかった。
いつも通り学校へ行き。
授業を受け。
友人と言葉を交わし。
そして時には、いつもの河川敷を走る。
だが――。
「……ロード、聞いてる?」
「ん。」
教室の窓際。
頬杖をついて外を眺めていたロードは、友人の声でようやく視線を戻した。
「いや、絶対聞いてなかっただろ。」
「……そうかも。」
小さく返したその声に、友人は苦笑する。
「なんか、ぼーっとしてること増えたよな。」
「考え事?」
「別に。」
ロードはそう答えた。
だが、否定した直後に、自分でもそれが誤魔化しだと気づいてしまう。
頭の中から、やよいたちの言葉が離れないのだ。
“走る場所は保証する”。
“トゥインクル・シリーズへの道”。
そして――。
あのトレーナーの声。
「………。」
ロードは小さく目を伏せる。
気づけば、以前より“考える時間”が増えていた。
どう走るか。
どう在りたいか。
自分は、本当はどうしたいのか。
そんなもの、今まで考える必要などなかったはずなのに。
――ある日の放課後。ロードはいつものように河川敷へ足を運んでいた。
夕暮れの土手道。
吹き抜ける風。
見慣れた景色。
ここだけは、何も変わっていない。
「………。」
ロードは小さく息を吐き、地面を蹴った。
加速。
風が頬を打つ。
もっと前へ。
もっと速く。
いつものように、限界まで――。
「……っ。」
だが。
思ったほど、速度が乗らない。
脚が重いわけではない。
身体の調子も悪くない。
それなのに、どこかで踏み込みきれなかった。
「なんだよ……。」
ロードは僅かに眉を寄せる。
もう一度強く地面を蹴る。
だがやはり、以前のような“突き抜ける感覚”が来ない。
無意識のうちに、身体がどこかで力を逃がしていた。
まるで――。
自分自身の脚を、守ろうとしているかのように。
「………。」
ロードはゆっくりと速度を落とした。
呼吸は乱れていない。
まだ走れる。
だが、前のように“壊れることすら構わない”と思い切れなかった。
「……っ。」
ロードは小さく奥歯を噛む。
考えたくなんてなかった。
今まで通り、全部を振り切って走れればよかったのに。
けれど、一度生まれてしまったものは、もう消えてくれない。
――まだ、走れるかもしれない。
その可能性だけが、静かに胸の奥へ残り続けていた。
「………。」
ロードはゆっくり視線を落とす。
その時だった。
「……ルベウスロードさん、ですよね。」
不意に、背後から声をかけられる。ロードは反射的に振り返った。
そこに立っていたのは、ウマ娘だった。長い黒髪を揺らしながら、彼女はどこか気まずそうにこちらを見ている。
「……あ。」
ロードは小さく目を瞬かせた。彼女は、前に会ったことがある。
『走りたくても、走れないウマ娘だっているんですよ!』
あの時、真っ直ぐに怒鳴ってきたウマ娘だった。
「この前は、その……。」
黒髪のウマ娘は困ったように眉を下げる。そして――
「すみませんでした!」
勢いよく頭を下げた。
「え。」
ロードが思わず声を漏らす。
彼女はそのまま慌てた様子で言葉を続けた。
「私、ロードさんのこと何も知らなかったのに、勝手なこと言っちゃって……!」
「その……後からすっごく反省して……!」
「………。」
ロードはしばらく黙ったまま、頭を下げ続ける彼女を見つめていた。
以前会った時と同じく、やたら感情表現が真っ直ぐなウマ娘だと思う。ただ、前のような勢いだけではない。
今はちゃんと、“申し訳ない”と思っているのが伝わってきた。
「……別に、気にしてない。」
やがて、ロードは静かにそう返す。
黒髪のウマ娘が、おそるおそる顔を上げた。
「ほ、本当ですか?」
「あの時の俺の言い方に怒るのは……現役のウマ娘なら、当然だと思う。」
そう話すロードに、彼女はほっとしたように胸を撫で下ろす。その反応があまりにも素直で、ロードは思わず少しだけ目を細めた。
「話はそれだけ?」
「え。」
ロードはそう言いながら、再び土手の道へ視線を向けた。
頭の中には、まだ色々な考えが渦巻いている。正直、今は誰かに構っている余裕などなかった。
だが。
「ま、待ってください!」
黒髪のウマ娘はロードを引き止める。彼女はどこか言いづらそうに視線を泳がせていた。
「今のルベウスさんの走り……なんだか、迷ってるみたいに見えたんです。」
その言葉に、ロードは小さく目を伏せる。
図星だった。
だからこそ、返す言葉が出てこない。
「……別に。」
やがて、短くそう返す。だが、その声に以前ほどの覇気はない。
黒髪のウマ娘は、一歩、ロードに歩み寄った。
「何か……悩み事があるんですか?」
「……君に話したところで、答えが見つかるとは思えない。」
静かな声だった。
突き放すようにも聞こえる言葉。だが、そこに怒気はない。
むしろ、“これ以上踏み込まないでくれ”と壁を作るような響きだった。
それでも、黒髪のウマ娘は引かなかった。
「それでも、放っておけません。」
「………。」
「前に会った時のルベウスさん、もっと……こう、真っ直ぐ走ってたから。」
ロードは何も答えない。
だが、その言葉は確かに胸へ引っかかっていた。
しばらく沈黙が落ちる。
やがてロードは頭に手を当て、深いため息を吐いた。
「……君、名前は。」
「えっ。」
刹那、黒髪のウマ娘が目を瞬かせる。
「キタサンブラックです!」
ぱっと表情を明るくした。
「キタサンって呼んでください!」
「そうか。」
ロードは小さく頷く。
「俺のことはロードでいい。」
一瞬。
キタサンの動きが止まった。
「えっ、下の名前……?」
「ルベウスと呼ばれるのは……あまり慣れてない。」
静かな声だった。
キタサンは、その言葉の奥にある何かを一瞬だけ感じ取る。
だが――。
「じゃあ、ロードさんで!」
嬉しそうに言い直した。
「………。」
ロードは思わず小さく目を瞬かせる。
さっきまであんなに気まずそうにしていたのに、切り替えが妙に早い。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
夕暮れの河川敷。
オレンジ色に染まった空の下、ロードとキタサンは芝生の上へ並んで座っていた。
吹き抜ける風が、草を静かに揺らしていく。
「……理事長さんたちと直接話して、トレセン学園で走らないかって言われたんだ。」
ぽつりと、ロードが口を開いた。
キタサンは驚いたように目を瞬かせる。
「えっ。」
「放課後とか休日に、トレセンの施設を使っていいって。」
ロードは視線を前へ向けたまま、淡々と言葉を続ける。
「その中で身体機能を測定して、結果次第では……トゥインクル・シリーズを走れるかもしれないってさ。」
「それって……!」
キタサンの耳がぴんっと立つ。
「すごい話じゃないですか!」
「……そうでもない。」
ロードは小さく呟いた。
その反応に、キタサンは僅かに表情を曇らせる。
「俺の走り方は危ないって認識されてるから、あの日みたいに、トレーナーたちに止められる。」
その声音は静かだった。
怒っているわけでもない。
ただ、“そうなる”と理解しているような声だった。
「……ロードさんは、自分の走り方が危ないって分かってるんですよね?」
「分かってる。」
ロードは即答した。
「無理をし過ぎていることも、脚を壊すかもしれないことも……全部分かってやっていた。早く壊れてくれれば、夢を見ることもないから。」
「でも……それだけじゃないんだ。」
キタサンは黙ってロードの横顔を見る。
ロードは少し目を伏せた。
「全部を出し切らないと、走った気がしない。満足できない。」
ロードは静かに拳を握る。
「“ウマ娘としてのルベウスロード”を解放できるのは、あの走り方しかないんだ。」
キタサンはしばらく何も言わなかった。ただ静かに、ロードの言葉を聞いている。
否定も、同情もせずに。
やがて、キタサンが小さく口を開いた。
「全部を変える必要って、ないんじゃないですか?」
その言葉に、ロードが目を瞬かせる。
キタサンは前を向いたまま、どこか当然のように続けた。
「ロードさんの走りって、ロードさん自身なんですよね?」
「だったら、それを全部捨てる必要なんてないと思います。」
夕風が、二人の髪を揺らしていく。
「もちろん危ないなら、考えなきゃいけないことはあると思います。」
「でも、“だから走っちゃ駄目”にはならないじゃないですか。」
ロードは何も言えなかった。
そんな風に言われたのは、初めてだった。
彼女は、“走ること”そのものを否定しなかった。
「走る場所があるなら、たくさん挑戦してみたらいいと思います。」
キタサンはそう言って、真っ直ぐロードへ笑いかけた。
「上手くいかなかったら、その時また考えればいいんです。」
そして――。
「ロードさん。まずは、やってみましょう!」
その瞬間。
河川敷を、強い風が吹き抜けた。
芝生が揺れ、二人の髪をさらっていく。
「………。」
ロードは小さく目を見開いた。
風の音だけが、静かに耳へ残る。
脳裏を過ったのは、これまでの自分だった。
夢を見る前に諦めて。
傷つく前に終わらせて。
期待してしまわないように、“無理だ”と言い聞かせ続けてきた。
壊れてしまえばいいとさえ、思っていた。
そうすれば、もう夢を見なくて済むから。
けれど――。
『まずは、やってみましょう!』
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。
難しく考えすぎていたのかもしれない。
全部を決めてからでなければ、前へ進んではいけないと思っていた。
だが、本当は。
走れる場所があるのなら。
挑戦できる道があるのなら。
まずは、一歩踏み出してみればよかったのだ。
「………。」
ロードは静かに空を見上げた。
夕焼けの空は、どこまでも広かった。
やがて。
ロードは小さく息を吐き――ほんの少しだけ、笑った。
それはまるで、長い間纏わりついていた何かが、静かに剥がれ落ちたような笑みだった。
「……もう、諦めてばかりの俺ではいられないな。」
「……え?」
キタサンが目を瞬かせる。
ロードはそんな彼女を見つめ、小さく口元を緩めたまま続けた。
「……キタサンがそう言うなら、やってみてもいいかもしれない。」
静かな声だった。
けれどそこには、先ほどまでの迷いとは違う色が確かに宿っていた。
「……!」
キタサンは思わず目を見開く。
ロードが、笑った。
キタサンは一度もロードの笑顔を見たことがないそれどころか、彼がどのように感情を表へ出すのかさえよく知らない。
だからこそ。
今、目の前で見せたその笑みが――どこまでも爽やかなものだったことだけは、はっきりと分かった。
「……っ。」
キタサンの耳がぴくりと揺れる。
「はわ……。」
「?」
「あっ、い、いや何でもないです!」
キタサンは慌てたようにぶんぶんと首を振る。
そんな彼女を見て、ロードは少しだけ不思議そうに目を瞬かせた。
だが、その表情もどこか柔らかい。
「……ありがとう。」
やがて、ロードが静かに口を開いた。
「君に話してなかったら、多分……まだ同じところで止まってた。」
ロードは小さく空を見上げる。
夕焼けの空は、もう少しで夜へ変わろうとしていた。
「……だから、とても感謝してる。」
キタサンはぽかんとしたまま、しばらく固まっていた。
やがて。
「~~っ!」
ぱぁっと顔を明るくする。
「えへへっ、どういたしましてです!」
その笑顔は、まるで自分のことのように嬉しそうだった。ロードはそんな彼女を見ながら、ほんの少しだけ目を細める。
しばらくして、二人は並んで芝生から立ち上がった。
「それじゃあ、次はトレセン学園で会いましょうね!」
「……あぁ。」
ロードは静かに頷く。
その返事に、キタサンは嬉しそうに耳を揺らした。
そして別れ際。
「あ、そうだ!」
キタサンが何かを思い出したように振り返る。
「ずっと気になってたんですけど、ロードさんって何歳なんですか?」
「14。」
「14歳! あたしと一緒ですね! ……えっ?」
そこまで言ってから、キタサンの動きがぴたりと止まった。
「ってことは、中学2年生……!?」
「うん。」
キタサンは思わずロードを見つめ直す。
「もっと年上かと思ってました……。」
「……よく言われる。」
ロードは小さく肩を竦めた。
その仕草はどこか年相応で、キタサンはまた少しだけ目を丸くする。
さっきまで見えていた“大人びた誰か”ではない。今はちゃんと、自分と同じ年頃の少年に見えた。
「えへへ……なんだか、ちょっと嬉しいです。」
「なにが?」
「同い年だったことです!」
キタサンはそう言って、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔につられるように、ロードもほんの少しだけ口元を緩める。
「じゃあ、またね! ロードくん!」
夕焼けの河川敷へ、キタサンの明るい声が響く。
そして彼女は、軽やかな足取りで駆け出していった。
ロードはその背中を、しばらく静かに見つめている。
吹き抜ける風は、もう冷たくない。
「……また、ね。」
小さく零れたその声は、以前よりほんの少しだけ前を向いているようだった。
キタサンの背中が、夕暮れの向こうへ小さくなっていく。ロードはしばらくその場に立ち尽くしていた。
河川敷を吹き抜ける風は、どこか心地良い。
ロードは小さく息を吐く。
不安が消えたわけじゃない。自分の走りがどうなるのかも、まだ分からない。
それでも――。
「……やってみるか。」
小さく呟き、ロードは地面を蹴る。
風が頬を抜け、景色が後ろへ流れていく。けれど、その感覚は以前とはどこか違っていた。
“壊れるため”ではなく――“走るため”に。
ロードは今、前へ進んでいる。
その向かう先は、もう決まっていた。
つづく
これで序章が終わったあたりですかね。
次回からはロードの挑戦が始まります。