新章開幕の前日譚です。
「ここが、トレセン学園……。」
車から降りたロードは、目の前の校舎を見上げ、小さく呟いた。
毎日通う学校とは比べ物にならないほど広い敷地。
少し離れた場所に見えるトレーニング場。
そして、そこから聞こえてくる歓声……。
今までテレビの向こう側でしか知らなかった景色が、そこには確かに広がっていた。
そんな彼を見て、ライトはくすっと笑う。
「校舎の背中側だけどね。」
「……いいんだよ、別に。」
ロードは「大事なのはそこじゃない」と言いた気に、ライトを見た。しかし母の言う通り、正面から見た時に言うセリフだったと若干後悔した。
と、その時。
「ロード君! ライトさん!」
来賓用玄関口の前で大きく手を振る影。緑色のスーツに身を包んだ、駿川たづなだった。
いつもの穏やかな笑み。だがその表情は、どこか楽しそうにも見える。
「こんにちは、たづなさん。」
ライトが軽く頭を下げる。
ロードもそれに続いて小さく会釈した。
「こんにちは。」
「ふふ、お待ちしていました。」
たづなはそう言って二人へ歩み寄る。
そして、ちらりとロードの顔を覗き込んだ。
「ロード君、緊張してますか?」
「……してる。」
即答だった。
ライトが少し驚いたように目を瞬かせる。
以前のロードなら、こういう時は「別に」と誤魔化していただろう。
だが今は、不思議と取り繕う気になれなかった。
そんな彼を見て、たづなはくすりと笑う。
「ふふっ、正直ですね。」
「隠しても仕方ないし。」
ロードは少しだけ視線を逸らしながら答える。
その様子がどこか年相応で、ライトは思わず小さく目を細めた。
「理事長がお待ちです。ご案内しますね。」
たづなはそう言って校舎の中へ歩き出す。
二人もその後へ続いた。
来賓用玄関を抜けた先には、広々とした廊下が続いていた。
磨き上げられた床。
壁に飾られた数々の写真。
どこかで聞こえる賑やかな声。
時折、廊下の向こうをウマ娘たちが駆け抜けていく。
「………。」
ロードは静かに周囲を見渡していた。
憧れだった場所。
自分とは無縁だと思っていた場所。
その中を、今こうして歩いている。
不思議な感覚だった。
「ロード君?」
「……いや。」
たづなに呼ばれ、ロードは小さく首を振る。
「思ったより、普通の学校なんだなって。」
「ふふっ。」
たづなが楽しそうに笑った。
「でも、実際は“普通”じゃない部分も多いですよ。」
「例えば?」
「食堂のご飯の量とか。」
「確かに……。」
自分の食事量を思い出して、ロードは小さく頷いた。
そんな他愛ない会話を交わしながら、三人は廊下を進んでいく。
やがて。
「こちらです。」
たづなが足を止めた。
少し顔を上げれば、“理事長室”と書かれたプレートが目に入る。
ロードは小さく息を吐き――静かにその扉を見据えた。
すると、たづなは静かに一歩下がり、ロードへ視線を向ける。その目は、「大丈夫」と優しく背中を押してくれているようだった。
「………。」
手を扉に伸ばそうとして、一度ロードは隣に立っていた母を見やる。
ライトはにこりと微笑み、力強く頷いた。
言葉はなかった。
だが、その眼差しだけで十分だった。
ロードは改めて理事長室の扉を見る。
そして。
コンコン、と静かに扉をノックした。
「入りたまえ!」
すぐに聞こえてきたのは、聞き覚えのある声。
ロードはレバーハンドルに手をかけ――ゆっくりと扉を開いた。
「失礼します。」
理事長室の中には、秋川やよいがソファに腰掛けていた。帽子の上では、子猫が気持ち良さそうに丸くなっている。
「歓迎ッ! 待っていたぞ!」
やよいはぱっと表情を明るくし、ロードたちを迎えた。
「お久しぶりです、理事長さん。」
ロードが軽く頭を下げる。
その時だった。
「彼が――そうなのだな?」
不意に、聞き慣れない声が部屋へ響いた。
「……?」
ロードがそちらへ視線を向ける。
やよいと向かい合うように置かれたソファ。
そこには、ターコイズブルーの髪を持つウマ娘が座っていた。
「ああ。彼が、博士に検査を頼みたいウマ娘だ。」
やよいの言葉に、彼女は「なるほど」と小さく頷く。そして、ゆっくり身体を動かし始めた。
その傍らに置かれていたのは、白を基調とした機械的な椅子……。
「時間がかかってすまない。」
静かな声だった。
彼女はそう言いながら、白い椅子へ身体を預ける。
ロードはそこで初めて気づいた。
それが、車椅子だったことに。
「はじめまして。私が、君の身体の検査を担当する――“シュガーライツ”だ。」
そこでようやく、ロードは彼女と真正面から視線を合わせる。
肩口で切り揃えられた髪。理知的な光を宿した薄紫色の瞳。その手には、小型のタブレット端末が握られている。
彼女はロードを観察するように静かに目を細めた。
「どれほどの付き合いになるかは分からないが、よろしく頼む。」
「………。」
一瞬だけ言葉が詰まる。
だがロードは、すぐに小さく頭を下げた。
「ルベウスロードです。よろしくお願いします。」
・・・・・
「シュガーライツ博士は、工学分野を専門とする研究者だ。」
やよいはそう言って、ソファの隣で車椅子に座るライツへ視線を向けた。
「特に、“走れないウマ娘”を支援するための研究では有名だ。義足や補助機構、身体負荷の解析……研究内容は多岐に渡る。」
ロードはソファに腰掛けながら、静かにライツを見る。車椅子に座る彼女は、やよいの説明を受けても特に表情を変えなかった。
「理事長には大層に紹介してもらっているが……私はただ、“自分のための研究” を続けているだけに過ぎない。」
ライツは淡々とそう返す。
その口調に自嘲の色はない。事実を述べているだけのようだった。
やがて、薄紫色の瞳が静かにロードを見つめる。
「君の走りについて、理事長から大まかな話は聞いている。」
「正直に言って――とても興味深い。」
その言葉に、ロードは小さく眉を寄せた。
危険だ。無茶だ。
そう言われることには慣れている。
だが、“興味深い”と言われたのは初めてだった。
「無論、まだ推測の段階だが。」
ライツは静かに腕を組む。
「だからこそ、実際に見てみたい。君がどのように走るのかを。」
ロードは何も答えなかった。だが、その瞳は真っ直ぐにライツを見ている。
ライツはそんな彼を見て――やがて、わずかに視線を落とした。
「理事長。」
「うむ?」
「少し、彼と二人で話がしたいのだが、いいかな。」
その言葉に、ライトが僅かに目を瞬かせる。
やよいは一瞬だけロードを見た後、静かに頷いた。
「隣の応接室を使うといい。」
「ありがとう。ロード君、ついて来てもらえるかい。」
「はい。」
ロードが小さく返事をすると、ライツは静かに車椅子の向きを変えた。
そして、薄紫色の瞳が真っ直ぐロードを見る。
「ウマ娘やヒトを対象に研究するには、信頼関係を築くことが何よりも重要だからね。」
理事長室の隣にある応接室は、思っていたよりも落ち着いた空間だった。窓際には観葉植物が置かれ、柔らかな陽光が室内へ差し込んでいる。
ロードはソファへ腰掛けながら、小さく息を吐いた。
一方のライツはタブレットを操作しながら、ロードへ目を合わせて話し始めた。
「さて……まずは二点、確認しておきたいことがある。」
穏やかな声音だった。
「ライトさんから、君が“研究者”という存在にあまり良い印象を持っていないと聞いた。測定されることへの嫌悪感や、不満があるのではないかと。」
「その点、どう思っているのかな。」
ロードは少しだけ目を伏せる。
確かに、昔はそうだった。
数字ばかり見られて。“ルベウス”という名前ばかり期待されて。
自分自身ではなく、“内側にある才能”を見られているような感覚があった。
だが――。
「ありません。」
ロードは静かにそう答えた。
迷いのない声だった。
ライツは何も言わず、その続きを待つ。
「計測されることはとっくの昔に慣れてますから。」
ロードは小さく息を吐き、ライツの目を真っ直ぐに見る。
「それに、ここに来るって決めたのは俺自身なんで。」
「………。」
ライツは静かに目を細める。
その返答だけで、ロードがどのような覚悟を持ってここへ来たのか、何となく伝わってきた。
「なるほど。」
彼女は小さく頷いた。
「では、次の質問をしよう。」
薄紫色の瞳が、真っ直ぐロードを見る。
「君は、自分の走りに強いこだわりがあると聞いたが……そこに不安はないのかい?」
「例えば、“走り方を変えられてしまうかもしれない”とか。」
「……こだわりはあります。」
ロードは静かに答える。
その言葉には、はっきりとした熱が宿っていた。
「でも。」
一拍置いて、ロードは続けた。
「『全てを変える必要はない』って教わったので、全く気にしてません。」
ライツは僅かに目を瞬かせる。
ロードの声音には、以前のような迷いがほとんど残っていない。それどころか――自分の中で何かを整理し終えた者のようだった。
「そうか……。」
ライツは小さく呟く。
「どうやら君は、思っていた以上に柔軟らしい。」
「……二つ目の質問については、友人に答えを貰っただけですけど。」
ロードは静かにそう返した。
その返答にライツは一瞬だけ目を瞬かせ――やがて、ふっと微笑む。
「誰かの意見を聞き、自分の思考に取り入れられる。それは、柔軟に物事を捉えられる証拠さ。」
ライツはそんなロードを見ながら、静かにタブレットを閉じた。
「私から聞きたいことは以上だ。」
一瞬、静かな間が落ちる。
そしてロードは、ライツを見ながら口を開いた。
「……わざわざ部屋を移動したのには、何か理由があるんですよね?」
その言葉に、ライツは少しだけ視線を落とした。
「……鋭いな、君は。」
彼女は静かに頷く。
「今からする話は、ライトさんに聞かせるわけにはいかないと思ってね。」
「……?」
ロードが僅かに眉を寄せる。
ライツは静かに続けた。
「君を見ていて、ふと気になったんだ。」
薄紫色の瞳が真っ直ぐロードを見る。
「……ロード君。君は普段、右脚へ僅かに重心を逃がしているね。」
「――っ。」
ロードの目が僅かに見開かれる。
「歩幅。座り方。立ち上がる時の癖。」
「無意識だろうが、左脚に力が加わるのを避けている。」
「………。」
ロードは反射的に自分の左脚へ視線を落とした。
言われるまで、気づいていなかった。
だが確かに。走った後、左脚はいつも鈍い痛みを持っていた。
「踏み込み脚が左なのだろう。」
ライツは静かに言う。
「おそらく君の走り方は、瞬間的に強烈な推進力を生み出す代わりに、一点へ極端な負荷が集中しているのだと思う。」
「だからと言って、『これからは右脚で踏み込め』なんてことは言わない。慣れない動きをするのは、新たな故障の原因になるからね。」
ロードは黙って話を聞いていた。
ライツの言葉には否定の色が全くない。ただ、事実だけを丁寧に並べている。
「これまでと同じ走り方はさせられない。」
その言葉に、ロードの瞳が僅かに揺れる。
だが。
「だけど、君が先ほど言ったように――全てを変える必要もない。」
「!」
ロードは静かに顔を上げた。
「君がこれからも走りたいと言うのなら、たくさんのことを学ばなければならない。この先、トゥインクル・シリーズを走るとなれば尚更だ。」
ライツは一呼吸挟み、真っ直ぐにロードを見据えて言った。
「……ロード君。生まれ変わる覚悟は、できているかい?」
ロードは静かに目を伏せる。“生まれ変わる”と言う言葉が、やけにストンと胸に落ちた。
脳裏を過るのは、これまでの自分。
河川敷を、ただ壊れるために走った。夢を見ることを恐れ、終わりばかり望んでいた。全てを出し切らなければ、生きている気がしなかった。
けれど――。
『まずは、やってみましょう!』
不意に、あの明るい声が蘇る。
この学園には彼女がいる。そう思えただけで、不思議と心が軽くなった。
彼女が近くにいるなら、どんな壁でも乗り越えられる気がした。
やがて、ロードはゆっくりと顔を上げる。
そして――
「はい。」
その返事に迷いはなく、確かな強さが宿っていた。
ロードはライツを真っ直ぐ見返したまま、静かに口を開く。
「俺は……これからも走り続けたい。」
一度、小さく息を吐いた。
「壊れるためじゃなく―― “自分はウマ娘だ”って、胸を張って言うために。」
応接室へ、静かな沈黙が落ちる。
ライツはしばらく何も言わなかった。ただ、薄紫色の瞳で静かにロードを見つめている。
やがて。
「……そうか。」
小さく零れたその声は、どこか穏やかだった。
否定も、同情もない。
ただ、ロードの決意を静かに受け止めるような声音だった。
「ならば、私も全力で君を支えよう。君の走りを終わらせないために。」
ロードは、その言葉を静かに聞いていた。
そして。
「よろしくお願いします。」
小さく頭を下げる。
それはきっと、ロードが初めて誰かへ向けた、“走り続けるため”の願いだった。
・・・・・
ロードとライツが応接室で面談をしている中、理事長室では、ライトとやよい、たづなの三人が静かに話をしていた。
「――しかし、数日見ないうちに、ずいぶん真っ直ぐな目をするようになったな。」
やよいが感心したように腕を組む。
初めてロードと出会ったあの日は迷いや危うさがあったのに対し、今日のロードは固い決意を秘めた目をしていた。
「私も驚いています。」
ライトは苦笑混じりにそう返す。
「二日くらい前から、急に顔つきが変わったんです。」
「何があったのか聞いても、『新しい視点をもらった』としか教えてくれなくて。」
「ほぅ。」
やよいは興味深そうに目を細める。
すると隣で、たづなが小さく微笑んだ。
「ロード君、少し柔らかくなりましたよね。前よりもちゃんと周りを見ている感じがします。」
「ああ。」
やよいは静かに頷く。そして、手にしていた扇子を勢いよく広げる。扇面には力強く『前進ッ!』と書かれていた。
「彼に必要だったのは“選択肢”ではなく――背中を押してくれる存在だったのかもしれないな!」
ライトはその言葉を聞き、小さく目を伏せる。
思えば自分は、ずっと“正しい道”を示そうとしていた。母親として、ロードが将来苦しい思いをしないように。
けれどロードに必要だったのは、“一緒に前を向いてくれる誰か”だったのかもしれない。
「何か、彼の心を動かす出会いがあったのだろう!」
やよいが楽しそうに笑った、その時だった。
理事長室の扉が静かに開く。
「戻りました。」
先に姿を見せたのはライツ。そして、その後ろからロードが部屋へ入ってくる。
「………。」
ライトは思わず息を呑んだ。
2人が理事長室を出てからたった数十分。
それなのに。
そこに立つロードの雰囲気は、先ほどまでとはまるで違って見えた。
肩の力は抜けていて、表情もどこか穏やかだった。
けれど、その瞳の強さだけは変わっていない。
――いや、違う。
以前よりもずっと、その輝きは澄んで見えた。
今までのロードは、何かを振り切るように前を見ていた。
だが今の彼は違う。
ちゃんと、“その先”を見据えていた。
「どうやら、身のある話ができたようだな。」
やよいが楽しそうに口元を緩め、ライツに声をかける。
「ああ。」
ライツもまた、微笑みながら静かに頷いた。
「とても有意義な時間だった。」
その声音は穏やかで――どこか満足そうだった。
やよいはそんな二人を見比べ、小さく目を細める。
2人が話していたのは、ものの数十分。だが、ロードの纏う空気が先ほどとは明らかに違っている。
張り詰めていたものが、少しだけ解けている。
それでいて、その瞳の奥にある意志は、以前よりもずっと強く見えた。
ロードは静かに歩み寄ると、ライトの隣へ腰を下ろした。
「……母さん。」
その声が、静かに理事長室へ落ちる。
ライトは何も言わず、隣に座る息子を見つめた。
ロードは一度、小さく息を吐く。まるで、自分の中にある想いを整理するように。
「……俺は、今までの走りが悪かったとは思ってない。」
「………。」
ライトの耳が、僅かに揺れる。
「母さんがすごく心配していたのも、理解してる。」
ロードは静かに続ける。
「でも。」
そこで一度、言葉を切った。
「その走り方が、“ルベウスロード”を表現できる走りだったから。」
ただ速さを求めるだけではない。限界を超えて、自分という存在を解放するような走り。
壊れることさえ恐れず、全てを出し切ることでしか辿り着けない領域。
それが、今までのロードだった。
ライトは黙ってその言葉を聞いていた。
否定しない。
遮らない。
ただ、一つ一つを受け止めるように。
「だけど、いつまでもそれに囚われていたら……俺は変われない。」
その声は、静かだった。
だが、はっきりと前を向いている。
「俺さ、“壊れること”ばかり考えてたんだ。脚が壊れれば、夢を見ることもなくなるって。」
「それでいいって、ずっと思ってた。」
理事長室が静まり返る。
やよいも、たづなも、ライツも。
誰も口を挟まなかった。
ロードはゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、もう迷っていない。
「今はもう、違う。」
ロードは小さく笑みを浮かべる。
「俺はここで、本当の自分の走りを見つけてみせる。」
「………。」
理事長室へ、再び静かな沈黙が落ちる。
ライトはしばらく何も言わなかった。
だがやがて。
ふっと、小さく笑う。
「……そう。」
その声は、どこか嬉しそうだった。
安心と。
誇らしさと。
そして、少しだけ寂しさの混じった声音。
ライトは静かにロードを見つめる。
「“ルベウス”っていう名前の意味……昔、ロードに話したことあったわよね。」
「『
ロードは静かに頷く。
「うん。覚えてるよ。」
ライトは優しく目を細めた。
まだ彼が幼かった頃。
自分の膝の上で、不思議そうにその名前の意味を聞いてきた小さな背中を思い出す。
その幼かった子が今、自分の意思で未来を選ぼうとしている。
「お母さんはね。今のロードなら、その名前に相応しいって思う。」
ライトは静かに言った。
「壊れるためじゃなくて――自分の意思で前へ進もうとしてる、今のロードが。」
「………。」
ロードは何も言わなかった。
けれど。
その横顔は、どこか照れ臭そうで――そして、少しだけ誇らしげだった。
・・・・・
トレセン学園、放課後のトレーニング場。
緑広がるターフを、ウマ娘たちが勢いよく駆け抜けていく。
だが、その日の学園には、どこか落ち着かない空気が流れていた。
「ねぇ、今日から来るんでしょ?」
「あー、例のウマ娘でしょ?」
「男子のウマ娘って、本当なのかな……?」
「どんな走りするんだろー!」
「理事長直々に受け入れたって話だぞ。」
「というか、男なのに『娘』ってどうなの?」
あちこちで交わされる噂話。
生徒だけではない。
トレーナーたちですら、その話題を口にしていた。
誰もが、“その存在”を気にしている。
そんな中。
トレーニング場の片隅では、チームスピカのメンバーたちが準備運動をしていた。
「なんか、学園中そわそわしてるよねー。」
テイオーが苦笑混じりに呟く。
「むしろ、話題にならない方が不思議かと思います。」
マックイーンが肩を竦めた。
だが。
その横で、キタサンだけはどこか嬉しそうだった。
「えへへ……。」
「?」
スペが不思議そうに首を傾げる。
「キタサンちゃん、なんだか嬉しそうですね?」
「だって!」
キタサンはぱっと表情を明るくする。
「ロードくんがトレセン学園に来るんですよ!」
その声には、隠しきれない期待が滲んでいた。
河川敷で別れたあの日から、キタサンはずっと楽しみにしていた。
今度は、“トレセン学園”で一緒に走れることを。
「……あの河川敷で再会した話は聞いたけど、何があったんだろうな?」
「さぁ……。」
やけにニコニコなキタサンの様子を見て、ウオッカとスカーレットは目を合わせる。
その一方で……
「キタサンよぉ。そんなにルベウスロードのことが好きなのか〜?」
ゴルシはキタサンの肩に腕をまわし、ダル絡みをしていた。
「すっっっっ………!!!??」
突然の質問に、キタサンの顔はタコのように赤くなっていく。今にも顔から蒸気を噴き出しそうだった。
「ちがっ、違います!! 決してそんなのではありません!!」
「いや〜、これは怪しいなぁ?」
ゴルシはにやにや笑いながら、わざとらしく腕を組む。
「河川敷で二人きり! しかも“ロードくん”呼び! これはもう地球のように青い春ってヤツじゃねぇの〜?」
「ち、違いますってばぁ!!」
キタサンは顔を真っ赤にしながら、ぶんぶんと両手を振る。
「ロードくんは、ただ困ってただけで……! あたしはその、少しお話しただけで……!」
「へぇ〜?」
「その“少し”で、あそこまで顔変わるか普通?」
ウオッカが呆れ半分に笑う。
スカーレットも、小さくため息を吐いた。
「でも、確かに気になるわね。」
「キタサンがここまで誰かのこと話すの、かなり珍しいじゃない。」
「そ、そうですか……?」
「そうだよ〜。」
テイオーが楽しそうに笑う。
「なんか、“すごいウマ娘なんだ!”って感じが伝わってくるもん。」
「えへへ……。」
キタサンは少し照れ臭そうに笑った。
だが、その瞳には確かな期待が宿っている。
「ロードくん、本当にすごいんですよ。」
その言葉に、場の空気が少しだけ変わった。
ふざけ半分だったスピカのメンバーたちも、自然とキタサンへ視線を向ける。
キタサンは、まるで大切なものを語るように続けた。
「走ることが、本当に大好きなんです。」
「でも、不器用で……色んなことを一人で抱え込んじゃう子で。」
「だから。」
キタサンは小さく笑う。
「今度は、トレセンで一緒に走れるのが楽しみなんです!」
「………。」
その笑顔を見て、スズカは静かに目を細めた。
――走ることが、大好き。
その言葉が不思議と胸に残り、響く。
彼女はそっと、ターフへと視線を向けた。
「そうか……。」
ゴールドシップが呟き、にやりと笑う。
「我らがキタサンがそこまで言うなら、ちょっと楽しみになってきたな!」
「はい。」
その言葉に、マックイーンが続いた。
「私たちが出会ったあの日からどう変わったのか――ぜひ、お目にかかりたいですわね。」
その言葉に、スピカのメンバーたちも小さく頷いた。
キタサンはそんな仲間たちを見て、どこか嬉しそうに笑う。
と、その時。
「お前らー、準備運動終わったのかー?」
少し離れた場所から、沖野トレーナーの声が飛んでくる。
「あ、トレーナーさん!」
「今やってるところだよー!」
テイオーたちが返事をする中、沖野は苦笑混じりに頭を掻いた。
「ったく……今日はどこもかしこもソワソワしやがって。」
「……ま、気持ちは分かるけどな。」
そう言いながら、彼もまた校門の方へちらりと視線を向ける。
今日、この学園へやって来る“新しいウマ娘”。
今この瞬間も。
トレセン学園の誰もが、その存在を待っていた。
時同じくして、トレセン学園。
その校門の前で、彼は静かに足を止めた。
見上げた先に広がるのは、全国のウマ娘たちが憧れる場所。
先日、来賓用玄関から見た時も校舎の大きさには驚いた。だが、正門から見上げるトレセン学園はそれ以上に広く、圧倒的だった。
「ロード君。」
聞き慣れた声に視線を向けると、たづなが小さく手を振っていた。その隣には、車椅子に座るライツの姿もある。
「お待ちしていました。」
たづなが柔らかく微笑む。
ロードは小さく頭を下げた。
「すみません、お待たせしました。」
「いや、私たちも今来たところだ。」
ライツは穏やかに答える。
春の優しい日差しが、ターコイズブルーの髪を鮮やかに照らしていた。
ロードは再び、目の前の学園へ視線を向ける。
するとライツが、ふと思い出したように口を開いた。
「君のことは、秋川理事長が全生徒、全トレーナーへ事前に告知している。どうか安心してくれ。」
その言葉に、ロードはゆっくりとライツを見る。
「……逆に安心できないんですけど。」
「ふふっ!」
思わず零れた本音に、たづなが吹き出した。
「大丈夫ですよ、ロード君。皆さん、ちゃんと歓迎してくれると思いますから。」
「まぁ……それはどっちでもいいですけど。」
ロードはどこか居心地悪そうに視線を逸らす。
だが、その表情は完全に嫌というわけではなかった。
ライツはそんな彼を静かに見つめる。
「緊張しているかい?」
「……少しだけ。」
ロードは正直に答えた。
その表情を見て、たづなはどこか嬉しそうに目を細める。
やがてライツは、静かに車椅子の向きを変えた。
「さて。」
薄紫色の瞳が、真っ直ぐ前を見る。
「それでは、行こうか。」
「――はい。」
ロードは頷く。
そして。
トレセン学園の門を、自分の足で踏み越えた。
壊れるためではなく、“本当の自分の走り”を見つけるため。
その長旅の第一歩だった。
つづく
ゲーム版ウマ娘に登場したライツ博士。
車椅子って時点でロードに影響を与えそうな人物です。