トレセン学園に“男のウマ娘”が現れたそうです。
時刻は午後四時。
ロードは、たづなとライツに挟まれるようにしてトレセン学園の校舎へ続く道を歩いていた。
春の日差しは少しずつ傾き始めている。
開けた道では、下校中のウマ娘たちの姿が見えた。
ロードは周囲を見回す。
自分が通う中学校とは比べ物にならないほど大きな校舎。正門から見える景色とは思えないほど開けた敷地。
そして――自分と同じように、ウマ耳と尻尾をつけた制服姿の生徒たち。
そのどれもが、ロードにとっては新鮮だった。
もっとも、今の彼を見ても、誰もウマ娘だと気付く者はいないだろう。
外を歩く以上、ロードは帽子で耳を隠し、尻尾もズボンの中へ収めている。遠目で見れば、普通の男子生徒にしか見えなかった。
「………。」
不意に、ロードは視線を感じた。帽子のバイザーの下から覗くように目を向けると、通りすがりのウマ娘たちがこちらを見ている。
「たづなさんとライツ博士と一緒に歩いてるってことは……。」
「もしかして、例の……?」
「でも、耳と尻尾がないよ。」
周囲から、ひそひそとした声が聞こえてきた。
すると――。
「ロード君、帽子を取ってあげてもらえませんか?」
たづなが声を抑えて言う。
ロードがその言葉の意図を理解するのに、時間はさほど掛からなかった。
「……分かりました。」
珍しい存在として見られるのは今に始まったことではない。ましてや自分が来ることが全生徒に割れている以上、隠す意味もない。
ロードはそっと帽子のバイザーを摘み、脱ぐ。帽子の中に畳まれていたウマ耳が、真っ直ぐに立ち上がった。
同時に、それまで隠れていた顔や髪も露わになる。
現れた顔立ちは、周囲のウマ娘たちとは明らかに異なっていた。
輪郭はやや角張り、鼻筋も高い。どこか凛々しさを感じさせるその横顔は、女性的な柔らかさよりも男性らしい力強さを宿している。
「――っ。」
思わず息を呑む声が、辺りから聞こえた。
「本当に、男の子だ……。」
彼女たちトレセン生は理事長からロードの話を聞いていた。だが、それはあくまで言葉の上での話。
実際に目の前に立つその姿は、彼女たちの想像以上に異質に映った。
ウマ耳と尻尾を持ちながら――間違いなく、男子生徒だった。
周囲のざわめきが少しずつ増していく。一人、また一人と足を止める。
その視線の先にいるのは、ロードただ一人。
「ふふ。」
たづなが小さく笑う。
「あっという間に囲まれてしまいましたね。」
「ああ。」
ライツも周囲を見回す。
「これほど注目を集めるウマ娘は、なかなか見たことがない。」
注目の集め方が普通と異なるとは言え、今のトレセン学園で最も話題になっているのは間違いなくロードだ。
しかし、当の本人は特に気にした様子もなく、背中へ手を回した。
冬服の上着の内側。白シャツの背面には、小さなボタンが取り付けられている。
普通のウマ娘やヒトの制服には存在しない、ロード専用の加工部分。それを――そっと外した。
すると。
窮屈そうにズボンに押し込まれていた黒い尻尾が、ふわりと姿を現した。
「……これでよし。」
「おや。」
ライツが目を瞬かせる。
「尻尾も出したのかい。」
「ここにはウマ娘しかいませんし。それに――」
ロードは一呼吸置いて、苦笑いを浮かべながら言った。
「普通に蒸れるんで。」
その声は、あまりにも淡々としていた。彼は尻尾の湿気を取り除くかのように、二、三回ほど尻尾をパタパタと左右に振る。
「……なるほど。」
ライツはその言葉に、妙に重みを感じた。
今の言葉は、ロードにとっては何気ない一言だったのかもしれない。
だが、その一言の裏には、彼が歩んできた十四年間が確かに滲んでいた。
一方で、周囲の反応は正反対だった。
「えっ。」
「あ!」
「し、尻尾……!」
ざわざわっ!
先ほどまでとは比べ物にならないほどのざわめきが広がる。
耳だけではない。今のロードは、誰の目にも”男のウマ娘”として映っていた。
「それで……今からどこに行くんですか?」
そんな視線を気にも止めず、ロードがそう尋ねる。質問されたたづなは微笑みながら答えた。
「まずは生徒会長室へ向かいましょう。」
「生徒会長室?」
「はい。」
たづなは頷く。
「ロード君はトレセン学園の正式な生徒ではありませんが、生徒と同等の扱いになります。」
「そのため、まずは生徒会長さんにご挨拶をしていただこうかと。」
「なるほど。」
ロードは素直に頷いた。
理事長の提案とはいえ、自分は招かれた側だ。学園で活動する以上、生徒の代表へ挨拶をするのは当然だろう。
そんな時、ライツがふと思い出したように口を開いた。
「ところで、ロード君はトレセン学園の生徒会長が誰だか知っているかい?」
「知らないです。」
即答だった。
「………。」
「………。」
たづなとライツが揃って沈黙する。
ロードは首を傾げた。
「?」
「……えっと、本当に知らないのかい?」
ライツが確認するように尋ねる。
「はい。」
やはり、即答。ライツとたづなの反応に、ロードは思わず聞き返した。
「……トレセン学園の生徒会長ですよね?」
「ああ。」
「じゃあやっぱり知らないです。」
ロードは三度きっぱりと言った。
そこに迷いは一切ない。
ライツは思わずたづなと顔を見合わせる。
「ロード君……。」
たづなが苦笑いを浮かべる。
「シンボリルドルフさんですよ。名前くらい聞いたことあるでしょう?」
「……ごめんなさい。」
今度こそ、たづなは固まった。
ライツも小さく目を見開いている。周囲で話を聞いていたウマ娘たちも、思わず足を止めた。
「え?」
「し、知らないの……?」
「あのルドルフ会長を……?」
ひそひそとした声が聞こえてくる。
ロードはますます困惑した。
「そんなに有名な方なんですか?」
「有名……というか。」
ライツは額に手を当てる。
「日本で彼女を知らない者は、ほとんどいないと思うよ。」
「そうなんですか。」
ロードは素直に頷いた。
だが、その反応を見る限り、本当に知らなかったらしい。
ライツは小さく息を吐く。そして『なるほど』と心の中で呟いた。
ロードがこれまでどれだけ意識的に、あるいは無意識に、レースの世界から距離を置いて生きてきたのか。その事実が、今のやり取りだけでも十分に伝わってきた。
「まぁ、実際に会えば分かるさ。」
ライツはそう言って車椅子を進める。
「行こうか。」
「はい。」
ロードは頷く。
そして三人は、生徒会長室へ向けて歩き出した。
・・・・・
やがて三人は生徒会長室の前へ辿り着いた。
重厚な木製の扉。上を見れば、丁寧な字で「生徒会長室」と書かれたプレートが掲げられている。
「さて、私たちはここまでだ。」
ライツが車椅子を止める。その言葉に、ロードは驚いたように振り返った。
「会長への挨拶は、君一人でするべきだろう。」
薄紫色の瞳が静かにロードを見る。
それに続くように、たづながロードに歩み寄った。
「大丈夫です。会長さんはロード君を喜んで迎えてくれますよ。」
「分かりました。」
ロードは小さく頷き、扉へ向き直る。
不思議な気分だった。
これまで会ったこともない。
名前すら知らない。
そんな今から会う相手は、この学園を、レース界を代表するウマ娘なのだという。
ロードは一度だけ深呼吸をした。
そして――コンコン、と扉を叩く。
すると、すぐに中から声が返ってきた。
「入りたまえ。」
聞こえてきたのは、凛とした女性の声。
ロードはお洒落なドアハンドルを握り、ゆっくりと引いた。
そこにいたのは、一人のウマ娘だった。
鹿毛の髪。
前髪だけが焦茶色に染まり、その中央には三日月を思わせる一房の白いメッシュが走っている。
凛と伸びた背筋。書類仕事の最中だったのだろう。机の上には幾つもの資料が積まれていた。
だが、不思議とそれらに目を奪われることはなかった。
彼女がそこにいる。
それだけで、部屋の空気が引き締まっているように感じられた。
ドアが閉まる音が小さく響くと、彼女は静かにペンを置いた。
桃色の瞳が真っ直ぐロードを見る。威圧するような視線ではない。それなのに、自然と背筋が伸びる。
やがて、彼女はゆっくりと立ち上がる。
ただそれだけの動作なのに、不思議と部屋の空気が引き締まった。
「なるほど。」
不意に聞こえた声には、納得の色が滲んでいた。
「確かに、“男のウマ娘”だ。」
ロードはその言葉を静かに受け止める。
驚きも、戸惑いも、好奇の視線もない。ただ事実を確認するような口調だった。
「……あなたが、トレセン学園の生徒会長さん。」
「ああ。」
彼女は静かに頷いた。
「私の名前はシンボリルドルフ。」
そして、僅かに口元を緩める。
「会えて嬉しいよ、ルベウスロード。」
・・・・・
「そちらのソファにかけてくれたまえ。」
「はい。」
ロードは促されるままソファへ腰を下ろした。
向かい側では、シンボリルドルフもゆっくりと席につく。
生徒会室は静かだった。窓から差し込む夕陽が、整然と並ぶ書類棚を淡く照らしている。
その落ち着いた空間は、不思議と緊張を和らげた。
「改めて自己紹介をしよう。」
ルドルフが口を開く。
「私の名前はシンボリルドルフ。トレセン学園で生徒会長を務めている。」
「ルベウスロードです。今は近くの中学校に通ってます。」
ロードも頭を下げる。
「よろしくお願いします。」
「ああ。」
ルドルフは静かに頷いた。
「こちらこそよろしく頼む。」
短い挨拶を終えると、彼女は軽く腕を組んだ。
「挨拶はこのくらいにして、早速本題へ移らせてもらうよ。」
「はい。」
ロードは小さく頷く。
その声に気負った様子はない。しかし、自然と背筋が伸びていた。
「二つ、私から君に聞きたいことがある。」
「そんなに難しく考えてもらう必要はないが――とても大事なことだ。」
少し間が空いて、ルドルフは尋ねる。
「一つ。君は、この学園で何をしたい?」
その問いはとても静かだった。だが、決して軽いものではない。
トレセン学園。多くのウマ娘が夢を抱いて集う場所。ロードはその場所へ、自らの意思で足を踏み入れた。
ならば。
そこで何を学び、何を得ようとしているのか。それを問うのは、生徒会長として当然のことだった。
「………。」
ロードは少しだけ考える。
ライツとの会話。
河川敷での出来事。
そして、理事長室で口にした決意。
その全てを思い返してから答えた。
「俺は……自分の走りを見つけたいんです。」
生徒会長室に沈黙が落ちる。ルドルフはただ、ロードを見つめていた。
ロードは続ける。
「俺はずっと……ただ壊すために走っていました。」
「危険な走りと言われましたが……それが、一番自分を表現できる走りでもあったんです。」
ルドルフは黙って耳を傾ける。
「限界まで踏み込んで、全部を出し切って、壊れることも気にせず走る。それが、“ルベウスロード”でした。」
そこで一度言葉を区切る。
「だけど……いつまでもそれに囚われたままじゃ、俺は変われない。そう考えるようになりました。」
ロードは真っ直ぐにルドルフの瞳を見据える。
「俺は――俺自身が納得できる走り方を見つけたい。それが、今の目標です。」
「……なるほど。」
ルドルフは小さく頷いた。
その表情に否定も驚きもない。ただ、その答えを受け止めるような静かな眼差しだった。
「では、二つ目の質問だ。」
ルドルフは組んでいた腕を解いた。
そしてゆっくりと身を乗り出し、両肘をそれぞれの膝の上へ置く。
静かに組まれた指の向こうで、桃色の瞳がロードを見据えた。
先ほどまでの穏やかな空気が、僅かに変わる。
威圧感があるわけではない。
だが、その眼差しには不思議な重みがあった。
まるで、“答えそのもの”ではなく――“その答えに至るまでの生き方”を見極めようとしているかのように。
『目の前にいるのは、ただの生徒会長ではない』。
そう感じさせる何かがあった。
やがて。
ルドルフは静かに口を開く。
「……君は今しがた、自分が納得できる走りを見つけたいと言ったね。」
「はい。」
ロードは小さく頷く。
「それは素晴らしい目標だと思う。」
ルドルフは静かに続けた。
「だが、それはあくまで手段だ。」
「……手段?」
「そう。」
桃色の瞳が真っ直ぐロードを見つめる。
「君がその走りを見つけた先で、何を成したいのか。」
「君が、その先にどんな未来を見ているのか。」
そこでルドルフは一度言葉を区切った。
そして――。
「ルベウスロード。君は、未来に何を見る?」
ロードは言葉を失った。
“未来”。その言葉が、妙に遠く感じる。
将来の自分。
夢を叶えた自分。
レースを走り続ける自分。
そんなものを考えたことが、過去にあっただろうか。
ロードは視線を落とす。答えを探そうとしているのに、何も浮かばない。
だが、それも当然のことだった。
これまでのロードは、未来を見ようとしてこなかったのだから。
脚が壊れれば終わり。
ただひたすらに、そう考えて走っていた。
だから、その先を想像する必要もなかった。
しばらくの沈黙の後、ロードはゆっくりと口を開く。
「……分かりません。」
その答えに、ルドルフの耳がピクリと揺れた。
しかし口を挟むことはなく、ただ静かに続きを待っている。
「俺は今まで、未来を考えたことがないんです。」
「だから、この先に何があるのかも……何をしたいのかも分からない。」
正直な気持ちだった。
格好をつけるつもりはない。
ここで嘘をついても意味がないと思った。
「……とは言っても、ずっと答えを出さないのも会長さんに失礼なので――」
そこで一度言葉を区切る。
その声に迷いはなかった。
「走りながら、答えを見つけようと思います。」
ロードは静かにそう言った。
その言葉を最後に、生徒会室へ沈黙が落ちる。窓の外では、夕陽がゆっくりと傾き始めていた。
――その時だった。
ルドルフの桃色の瞳が、ほんの僅かに見開かれていた。
それは一瞬にも満たない変化。
だが確かに、彼女の中で何かが揺れた。
やがてルドルフは小さく息を吐く。そして――
「ふふ……。」
不意に、小さな笑い声を零した。
「……?」
ロードは思わず目を瞬かせる。
シンボリルドルフの笑み。それは先ほどまでの、生徒会長としての穏やかな微笑みとは少し違う。
どこか懐かしむような、遠い過去を思い返しているような笑みだった。
ルドルフは小さく目を細める。
「君は、ライトさんによく似ているな。」
「母さんに……?」
思わぬ名前が出てきて、ロードは首を傾げた。
「まぁ……よく言われますけど。」
「いやいや、見た目の話ではないよ。」
「………?」
ロードはますます困惑する。
彼が今言ったように、自分と母が似ていると言われることは珍しくない。だが、それは大抵顔立ちの話だ。
果たしてルドルフは、自分に母の何を重ねたのか。その答えはわからない。
そんな反応に困っているロードを見て、ルドルフはふっと笑う。そして、小さく首を振った。
「すまない、今のは忘れてくれ。」
「はぁ……。」
結局よく分からないまま、ロードは曖昧に頷く。
一方のルドルフも、先ほどまでのどこか懐かしむような表情は消えていた。代わりにそこにいるのは、トレセン学園の生徒会長だった。
「ありがとう、ルベウスロード。君の考えはよく分かった。」
「君が未来を探したいと言うのなら、この学園はきっと、その助けになるだろう。」
そしてルドルフは一度咳払いをし、再び笑みを浮かべ、真っ直ぐにロードを見据えた。
「改めて――ようこそ、トレセン学園へ。」
「ここで見つけた未来を掴むことを、会長として心から祈っているよ。」
「ありがとうございます。」
ロードは小さく頭を下げる。そして腰を上げ、扉へ向かった。
ドアノブへと手を伸ばす前に一度だけルドルフの方へ振り返り、軽くお辞儀をする。
「失礼します。」
「ああ。」
ルドルフは穏やかに微笑む。
「次は、トレーニング場で会おう。」
「はい。」
ロードは一礼すると、ドアハンドルに手を掛けて静かに扉を開く。
そして、生徒会長室を後にした。
・・・・・
生徒会長室の扉が静かに閉まる。壁際では、たづなとライツが並んで待っていた。
「お疲れ様でした。」
たづなが柔らかく微笑む。
「会長さんと話してみて、どうでしたか?」
その問いに、ロードは少しだけ考えた。
走りのこと。
未来のこと。
そして、母のこと。
実際にルドルフと話して思ったことは多々ある。だが、不思議なことに――
「とても優しい方だなと思いました。」
最初に出てきたのは、そんな一言だった。
「初対面なのに、俺が男であることを全く気にしていないみたいで……。」
そして、ロードは僅かに口角を上げる。
「――ちょっと、嬉しかったと言うか。」
一瞬、たづなとライツの表情が固まった。
二人は当然ながら、ルドルフと交わした「未来」や「これからの目標」についての話が出てくるものだと思っていた。
だが、ロードの答えは違った。
彼が喜んでいたのは、自分の未来を肯定されたことではない。自分を“男のウマ娘”としてではなく、“ルベウスロード”として見てくれたことだった。
これまで彼がどのような視線を向けられながら生きてきたのか。図らずとも、想像できてしまった。
しかし、すぐに柔らかく微笑んだ。
ロードは他人に同情を求めるような性格ではない。今の言葉も、辛かった過去を打ち明けたかったわけではないのだろう。
故に二人は、それ以上触れなかった。
「それでは、次は学園の施設を案内しますね。」
たづなが流れるように話題を切り替える。
「はい。」
ロードも特に気にした様子はなく頷いた。先ほどまでの会話が終わったことを察したのだろう。
「保健室や食堂など、ロード君がよくお世話になる場所から見ていきます。」
「分かりました。」
ロードが返事をすると、その横でライツが小さく車椅子の向きを変えた。
「では、私は先に行くよ。」
「一緒に行かないんですか?」
思わず尋ねるロードに、ライツは穏やかに微笑む。
「誘ってくれるのは嬉しいが、色々と準備しておかなければならないからね。」
「準備?」
ロードは首を傾げる。しかしライツはその問いには答えず、薄紫色の瞳を細めた。
「心配しなくても、すぐに会えるさ。」
そして。
「では、また後で。」
静かに車椅子を動かし、廊下の向こうへ去っていく。
「………?」
取り残されたロードは、何のことだか分からずその背中を見送った。やがて、ちらりとたづなへ視線を向ける。
すると彼女は、どこか楽しそうに微笑んだ。
「ふふ、その時までのお楽しみです♪」
たづなは悪戯が成功した子供のように笑う。
「それじゃあ、行きましょうか。」
ロードは小さく息を吐きながらも、たづなの後を追う。
夕陽の差し込む廊下を歩きながら、二人は学園の探索に向かうのだった。
・・・・・
それからロードは、たづなの案内のもと学園内を歩いて回った。
食堂。購買。保健室。そして、トイレ。
トレセン学園は広大だ。入学したての一年生が道に迷い、先輩に助けてもらうという事例が毎日起きるほどに広い。
「食堂はお昼の11時から15時まで、購買は朝の8時から17時まで利用できます。」
「トイレは各棟各階の階段すぐそばにあります。」
「保健室を利用する際は、お静かにお願いしますね。」
ロードは頷きながら、たづなの話を聞いていた。
もっとも、彼の頭の中は施設の場所を覚えるだけで精一杯だった。
案内用の地図を受け取ったものの、今の段階で全てを把握するのは難しい。トレーニング施設も含めたら尚更だ。
「……本当に広いですね。」
「中高一貫校ですから、自然と広くなるんです。」
たづなが優しく笑う。
「でも、大丈夫です。何度も来るうちに自然と覚えますから。」
そんな会話を交わしながら歩いていると、不意にロードが口を開いた。
「あの……たづなさん。」
「はい?」
「男用の更衣室って、あるんですか?」
ロードの言葉に、たづなは小さく目を瞬かせる。
そして――。
「ふふ。」
どこか楽しそうに微笑んだ。
「今向かっている場所が、それですよ。」
『よかった』と安堵すると共に、ロードはたづなの様子に違和感を覚えた。
やがて二人は校舎の端にある一室の前で足を止めた。
他の教室から少し離れた場所。
静かな廊下の先にあるその部屋は、どこか特別な雰囲気を纏っていた。
たづなが扉の横へ立つ。
「ここが、ロード君の部屋になります。」
「……“部屋”?」
ロードは思わず聞き返すが、たづなは何も言わず、微笑みながら扉を開いた。
その部屋の中は、普通の教室よりも一回り広かった。
壁際には大型モニターや様々な機器が並び、棚には専門書や資料が整然と並べられている。
一方で窓際には机やロッカーが置かれ、日常的に利用できるよう整えられていた。
更衣室、というより研究室。
そう呼ぶのが一番近いだろう。
と、その時――。
「おお、待っていたぞ。」
部屋の奥から聞き慣れた声が響く。
視線を向けると、ライツが車椅子に座りながら優雅にコーヒーを飲んでいた。
「ライツ博士……?」
「やあ。」
ライツはカップをテーブルへ置き、小さく微笑む。
「学園見学はどうだったかな?」
「広かった……です。」
「うむ。それは私も同感だ。」
何故か誇らしげに頷くライツ。
すると彼女は車椅子を動かし、部屋の中央へ出て来た。
「改めて紹介しよう。」
薄紫色の瞳がロードを見る。
「見ての通り、ここはただの教室ではない。」
「ここは、私の研究室であり――君の部屋でもある。」
「俺の……部屋?」
ライツの言葉に呆然とし、なんとか言葉を捻り出す。そんなロードを見て、ライツはくすくすと笑った。
「人もウマ娘も、安心できる場所があって初めて前を向けるからね。」
そしてライツはにこりと微笑んだ。
「君が何にも縛られず、のびのびと走ることが、最高のデータを取る方法なんだ。」
薄紫色の瞳が優しく細められる。
その言葉にロードは胸の辺りが暖かくなるのを感じた。
「……さて。本題はここからだよ、ロード君。」
「?」
ロードが首を傾げる。
ライツは壁際に置かれていた長方形の箱を手に取った。
丁寧に包装された、決して大きくはない箱。
だが、その扱いはどこか慎重だった。
ライツはそれをロードへ差し出す。
「どうか、受け取ってくれ。」
「……これは?」
「開けてみるといい。」
ロードは言われるまま箱を受け取った。
思ったよりも重い。
慎重に蓋を開く。
そして――。
「………。」
ロードは言葉を失った。
箱の中に収められていたのは、一足のシューズ。そしてその隣には――磨き上げられた蹄鉄が並んでいた。
生まれて初めて目にする蹄鉄。だが、それが自分の足に合わせて作られたことが一目で分かった。
「理事長が用意してくれたんだ。」
ライツが穏やかに言う。
「私たちが初めて会った日、簡単に身体測定をしただろう? その時の採寸データを使わせてもらった。」
ロードは箱の中へ視線を落とす。
指先で、そっと蹄鉄へ触れた。
冷たい金属の感触が伝わってくる。
「………。」
しばらく無言のまま見つめる。
やがて。
「……本当に。」
ロードはぽつりと呟いた。
「本当に、もらってもいいんですか?」
その声はどこか戸惑っていた。
ライツは小さく目を瞬かせる。
「もちろんだ。」
「でも、俺は……。」
ロードは視線を落とした。
考えれば考えるほど、うまく言葉が出てこなくなる。だが、胸の奥にある戸惑いだけは確かだった。
こんなにも色々なものを貰ってしまって、本当にいいのだろうか。
居場所を与えられた。
未来を探していいと言われた。
歓迎すると言われた。
そして今、目の前には……自分のためだけに作られた蹄鉄ある。
今日だけで、自分はあまりにも多くのものを受け取っている。
「……俺なんかが。」
小さく漏れた声。
ロードは箱を抱えるようにして続けた。
「こんなに良くしてもらって、いいんですか?」
その言葉を聞いたライツとたづなは、しばらく黙っていた。
やがて――。
「なるほど。」
ライツの目が細められる。
「……君は、そう考えるんだね。」
「え?」
「少しだけ納得したよ。」
「納得……?」
ロードが顔を上げる。
ライツはしばらく黙っていた。
そして――。
「ああ。」
返ってきた声は低かった。
先ほどまでの穏やかな響きとは少し違う、何かを確信した者の声だった。
ライツは静かにロードを見る。
「君が脚を壊そうとしていた理由は前に聞いた。」
「『夢を見るのが辛い。だから脚なんて壊れればいいと思っていた』……。そこは理解していたつもりだったんだ。」
「………。」
ロードは黙って話を聞いている。
ライツは続けた。
「だが、今の言葉を聞いて分かった。君は、脚を壊したかったわけじゃない。」
ロードの肩が僅かに揺れる。
「……え?」
思わず漏れた声。
ライツの視線は揺らがない。
そして彼女は、静かに言い放った。
「君はずっと――自分自身を罰していたんだ。」
つづく
「新章開幕」と言っておきながら足踏みしてる感じがありますが、みなさんに楽しんでいただけるよう頑張ります。