ウマ娘 ロストロード   作:ツカッチ

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トレーナーのみなさん、こんにちは。

今回は少し専門的な話です。すみません。


第九話 解析、そして解明

 ロードがターフデビューを果たした翌日、土曜日。時刻はまもなく午前九時を迎えようとする頃。

 

 昨日のトレセン学園とは見違えるほどに、廊下は静かだった。

 無論、休日ということもあるが、話し声ひとつしない。聞こえるのは、羽を休める雀やキジバトの鳴き声だった。

 

 ロードは自室を兼ねたライツの研究室のドアをノックする。そしてそのままドアの引き手を掴み、ガラガラと開けた。

 

「おはよう、ロード君。」

 

「おはようございます。」

 

 室内では、ライツがソファに腰掛けながらコーヒーを口に運んでいた。彼女は啜る音を立てることなく、それを喉へ流す。

 

 一方のロードは特に気にすることなく隣の準備室に入る。ジムサックから取り出した短パンとシャツに着替えた。

 出る直前に、身身嗜みチェック。ズボンの中にしまわれていた尻尾を振り、軽く整えた。

 

 ロードが部屋に戻ると、ライツは既に車椅子に移乗していた。コーヒーカップとソーサーを洗面台に片付け、ロードへと向き直る。

 

「朝食はしっかり食べてきたかい?」

 

「はい。」

 

「よろしい。」

 

 ニコリと微笑んで言う。

 彼女はテーブルの上に置いてあったタブレットを手に取り、ゆっくりとロードの下へ車椅子を動かした。

 

「今日は初日ということで、君の身体機能の測定を行う。」

 

 タブレットを操作し、画面をロードに見せる。

 そこには、ロードがターフを走る映像が映し出されていた。

 

「君がどのように走っていたのかは見当がついている。しかし――なぜその理論で走れるのかは分からない。」

 

「私も君も、十分に理解する必要がある。」

 

 するとライツは、人差し指を立てた。

 

「知りたいのは、君の足にどれほどの力が加わっているのか。」

 

「そして、“それらを支える体幹機能” と “下肢筋力はどうなっているのか” の三つだね。」

 

 二本目、三本目と指を挙げていく。

 すると、黙って話を聞いていたロードが静かに口を開く。

 

「何だか楽しそうですね。」

 

「おや、そう見えるかい?」

 

 ライツは小さく笑い、ロードの目を見つめる。彼女の瞳は、これまで以上に優しさに溢れていた。

 

 

「研究者にとって、常識に囚われない存在はある種の “宝物” だからね。」

 

 

 その声は、とても柔らかかった。

 

「……宝物。」

 

 ロードはその言葉を小さく繰り返す。

 

 どこか照れ臭そうに。

 どこか不思議そうに。

 

 ただ少なくとも――これまで向けられてきた視線とは違う気がした。

 

「それじゃあ早速、トレーニングルームに……」

 

 ライツが部屋のドアに手をかけて、ふと振り返る。そこには、ピクリとも動かず立っているロードの姿があった。

 

「ロード君?」

 

 名前を呼んで、ようやく彼は動き出す。

 

 ロードの動きに首を傾げたライツ。それに気づいたロードは、白い歯を見せてーー

 

「なんでもないです。」

 

 嬉しそうに、微笑んだ。

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 ライツに案内され、ロードは体育館二階あるトレーニングルームへと足を踏み入れた。

 

 その中で、一際異彩を放つ器具。窓際に設置されていた一台の大型トレッドミル。

 その正面には、二台のカメラが設置されていた。

 

 どちらも一般的なビデオカメラより一回り大きく、まるで誰かを監視するかのように感じられた。

 

「今からロード君には、これに乗って全力で走ってもらい、この二台のカメラで君の動きを記録する。」

 

「記録?」

 

「正確には解析だね。」

 

 ライツは車椅子を近くのパソコンの前まで移動させた。

 

「君の走りを三次元的に解析し、床反力を可視化する。」

 

「ゆかはんりょく……?」

 

 聞き慣れない単語に、ロードは首を傾げた。

 

「簡単に言えば、地面が君を押し返す力だ。」

 

「地面が押し返す……?」

 

「ああ。」

 

 ライツは自身の手を使い、ロードに説明をする。

 

「君が地面を強く踏んだ時、地面も同じだけ君を押し返す。その返された力を測定するんだ。」

 

 ロードは数秒沈黙。そしてーー

 

「地面が、押し返す……?」

 

 二度も同じことを言ってしまうほどに、ロードは困惑していた。

 

 地面を蹴れば前へ進む。それは知っている。

 だが、それを“地面が押し返している”と考えたことはなかった。

 

 その反応を受けて、ライツは楽しそうに笑う。

 

「この世界は分からないことだらけだよ。だから面白いんだ。」

 

 分からないから、面白い。

 ライツは、まるで当たり前のことを言うかのようだった。

 

 ロードはその言葉を頭の中で繰り返す。

 

 正直なところ、まだよく分からない。

 

 だが――

 

 ライツが本気でそう思っていることだけは伝わってきた。

 

「さて。」

 

 ライツは軽く手を叩いた。

 

「哲学の話はここまでにして、早速始めようか。」

 

 ロードもそれに続こうとして――

 

 ふと足を止めた。

 

「……?」

 

「?」

 

 ロードが浮かべる疑問の表情。しかしライツはその意図を読むことができず、同じく疑問の表情を浮かべた。

 

「……付けないんですか?」

 

「何をだい?」

 

「その……センサーとか。」

 

 一瞬だけ沈黙が落ちた。

 

 ライツはロードの表情を見る。

 

 何気ない質問。

 

 だが、その言葉には確かな慣れがあった。

 

「ああ。」

 

 ライツは静かに頷く。

 

「付けないよ。」

 

「え。」

 

 ロードは思わず声を漏らした。

 

「今は便利な時代でね、このカメラだけで十分なんだ。」

 

 ライツは二台のカメラを指差す。

 

「君がどこへ足を着いているのか、身体がどう動いているのか、重心がどう移動しているのか。その全てを解析できる。」

 

 ロードは無意識にカメラを見る。

 

 黒いレンズが静かにこちらを向いていた。

 

「……すごいですね。」

 

「だろう?」

 

 ライツはどこか誇らしげだった。

 

 そして。

 

 それ以上は何も聞かなかった。

 

 なぜロードがそんな質問をしたのか。

 なぜ “付けること” を前提に話したのか。

 

 察するのは簡単だった。

 

 だからこそ、自然な口調で言う。

 

「速度はこちらで調節する。ロード君は変に力など意識せず、自然体で走ってくれ。」

 

「分かりました。」

 

 ロードは短く返事をすると、トレッドミルの上へと乗った。

 

 静止している状態なら、ただのベルトコンベアにしか見えない。

 

「まずは歩行からだ。」

 

 ライツがキーボードを操作する。ウィィン――という駆動音と共に、足元のベルトがゆっくりと動き始めた。

 

 ロードは流れに合わせて歩き出す。

 

「そのままでいい。」

 

 ライツの視線は既にモニターへ向いていた。

 

 画面の中では、ロードの身体が骨格模型のように線で結ばれ、動きがリアルタイムで表示されている。

 

 数秒後。

 

 ライツは再びキーを叩いた。

 

「少しスピードを上げるよ。」

 

 ベルトの速度が増す。

 

 歩行から軽いジョギングへ。

 ロードは特に慌てる様子もなく対応した。

 

 そしてさらに速度を上げる。

 ジョギングからランニングへ変わったところで、ロードの耳が僅かに揺れ始める。尻尾がバランスを取るように左右へ動いた。

 

 だが、変化はそれだけだった。

 身体の軸は崩れず、呼吸も乱れない。

 

「………。」

 

 ライツはモニターを見つめる。

 

 気になる箇所はあるが……まだ普通だ。

 

「さぁ、ラストスパートだ。」

 

 彼女はさらに速度を上げる。

 ウォォォン――と唸りをあげるかのようにベルトが高速回転を始める。

 

 その瞬間だった。

 

 ロードの表情が変わる。

 肩の力が抜け、視線が自然と前へ固定される。

 

 そして――

 

 重心が静かに前へ傾いた。

 

「……!」

 

 ライツの目が開かれる。

 

 来た。

 

 昨日見た、あの走りだ。

 

 ロードの身体は前へ倒れ込む。

 

 だが、倒れない。

 

 落下するように加速しながら、その全てを推進力へ変えていく。

 

 異様で。

 

 不安で。

 

 そして美しい。

 

「そのまま維持してくれ。」

 

 ロードは反応を返さない。既に自分の世界に入っているようだった。

 

 それは、本人にとっては自然な走り。

 一人で走り続けた先で見つけた、彼だけのフォーム。

 

 床反力、そして重心軌道。

 

 次々とデータが表示されていく。

 

 ライツは黙ったまま、それらを見つめる。

 予想通りの部分もあれば、予想以上の部分もあった。

 

 そして――

 

「……ん?」

 

 ふと、ライツの指が止まる。

 

 彼女の視線は、ある一点に釘付けになっていた。

 

 

 

 

「ロード君、スピードを落としていくよ。」

 

 ライツに言われて、ようやくロードは我に返った。

 

「はい。」

 

 ベルトの回転速度が少しずつ落ちていく。それに合わせてロードは自然と歩幅を狭めた。

 

 そして。

 

 先ほどまで深く前傾していた身体を、何事もなかったかのように起こす。

 

 ふらつきはない。無理に踏ん張る様子もない。

 まるで最初からその姿勢で走っていたかのような自然さだった。

 

「………。」

 

 ライツは思わず口元を押さえる。そして、小さく苦笑した。

 

(あの姿勢から普通に身体を起こせるのは、流石としか言いようがないな……。)

 

 昨日から感じていたこと。

 

 ロードの走りは危険だ。それは間違いない。

 

 だが――。

 

(あまりにも安定しすぎている……。)

 

 ライツは顔を顰めた。

 

 ロードはあの異常なフォームを、異常なまでの安定性で成立させている。

 

 だからこそ厄介なのだ。

 

 速度が落ち切り、トレッドミルが停止する。ロードは軽く汗を拭いながら振り返った。

 

「どうでしたか?」

 

 ライツはすぐには答えない。モニターに表示されたデータへ視線を向ける。

 

 映し出されたロードの姿が、やがて白い骨格模型へと切り替わった。

 

「……骨?」

 

「君だよ。」

 

 ライツは笑う。

 

「先ほど撮影した映像を基に、コンピュータが三次元的に再現したものだ。」

 

 ロードは思わず画面へ近付いた。

 

 骨格模型は歩き始める。

 

 足が地面へ触れた瞬間。

 

 爪先から一本の赤い矢印が真上へ伸びた。

 

「これが床反力だ。」

 

 ロードは食い入るように画面を見る。

 歩くたびに、赤い矢印が規則正しく現れては消えていく。

 

「次は軽く走ってみた場面だ。」

 

 映像が切り替わる。

 

 ジョギング。

 

 先ほどよりも赤い矢印が長くなる。

 

「速度が上がるほど地面を強く踏む。だから、床反力も大きくなる。」

 

「……なるほど。」

 

 ロードはゆっくり頷いた。

 ここまでは理解できる。

 

「では。」

 

 ライツは口元を僅かに緩めた。

 

「問題の映像だ。」

 

 画面が切り替わる。

 

 骨格模型が深く前傾し始める。

 ターフで見せた、落下するようなフォームだった。

 

 左足が接地する。

 

 瞬間。

 

 爪先から、一本の赤い矢印が勢いよく伸びた。

 

「!」

 

 ロードが目を見開く。

 

 先ほどまでとは比べ物にならない長さ。

 まるで地面から柱が突き上げているかのようだった。

 

「これが君の走りだ。」

 

 ライツの声は静かだった。

 

「この一歩だけで、君はトップスピードへ乗っている。」

 

 ロードは画面から目を離せない。

 

「だが同時に。」

 

 ライツは映像を一時停止する。

 画面には、左足から伸びる真っ赤な矢印だけが残っていた。

 

「この一歩に、全てを任せてしまっている。」

 

 ライツは左右の床反力を比較したグラフを表示する。最初の左足だけが、突出した数値を示していた。

 

「そうして左脚に過剰な負荷をかけ続けた結果――身体はこれ以上左脚を壊さないよう無意識に動き始める。」

 

「代償として、日常生活では無意識のうちに左脚を庇って歩いているんだ。」

 

 ロードは、ライツの話を黙って聞いていた。

 

 左脚を無意識のうちに庇っていることは、以前ライツから聞いていた。故に、その事実自体に驚きはない。

 

 だが――

 

 画面に映った真っ赤な矢印は、想像を遥かに超えていた。

 あの一歩だけで、これほどの力を地面へ叩きつけていたのか。

 

 河川敷で一人、手探りで見つけた走りを――初めて自分の目で見た瞬間だった。

 

 しばらくの間、ロードは画面を見つめたまま動かなかった。

 

 これまで自分の走りを振り返ることはあっても、客観的に見たことは一度もない。

 

 だからこそ。

 

 映像の中で伸びていた真っ赤な矢印は、自分が想像していた以上に大きな意味を持っていた。

 

「……なるほど。」

 

 ロードは小さく呟く。

 ライツはその横顔を見て、静かに微笑んだ。

 

「少しは、自分の走りが見えてきたかい?」

 

「はい。」

 

 ロードはゆっくりと頷く。

 

「どうして左足だけが痛くなるのか、少し分かった気がします。」

 

「それで十分だ。」

 

 ライツは満足そうに頷いた。

 

「走りを変えるためには、自分の走りを知ることこそが大切だからね。」

 

 そう言って彼女は画面を閉じる。

 

「次は、君のスピードを生み出している脚を調べる。」

 

 ロードは首を傾げた。

 

「脚を……?」

 

「ああ。」

 

 ライツは車椅子を方向転換させながら続ける。

 

「床反力は結果だ。では、その結果を生み出している原因は何か。」

 

 一度言葉を切る。

 

「それが、君の脚の筋肉だ。」

 

 ロードは自分の脚へ視線を落とした。

 

 何年も走り続けてきた脚。

 

 ただ速くなるためだけに鍛え続けた脚。

 

 その力が、数字としてどのように現れるのか。

 

 それはロード自身も知らない世界だった。

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 ライツに案内され、ロードはトレッドミルの隣に置かれた一脚の椅子へ目を向けた。

 

 銀色のフレームで組まれた椅子。

 だが、後ろの脚には赤い計測器と黒いパッドが取り付けられており、一目で測定器具だと分かった。

 

「まずはその椅子に座って、黒いバンドに片方の足を通してくれ。」

 

 ライツは車椅子を機械の横へ寄せながら言う。

 ロードは指示通り深く腰を掛け、計測器と繋がれた黒いバンドの輪に右脚を通した。

 

「キツくないかい?」

 

「大丈夫です。」

 

「よろしい。」

 

 ライツは満足そうに頷く。

 

「ロード君には今から思い切り足を前に押し出してもらう。握力測定みたいなもので、少し重いかもしれないが。」

 

「手は横にあるバーを掴んで、なるべく上半身を曲げないように気をつけてくれ。」

 

「分かりました。」

 

 ロードは一度椅子に座り直し、左右にあるバーを強く握った。

 

 目を瞑り、何度か小さく深呼吸をしーー

 

「ふんッ!!」

 

 ギシッ

 

 全力で足を伸ばした瞬間、椅子の脚が僅かに軋む音がした。

 

 同時に、モニターの数値が一気に跳ね上がる。

 

「はい、そこまで。」

 

 数値の伸びが無くなったところで、ライツは声をかけた。それを聞いたロードは「ふぅ」と息を吐き、ゆっくりと脚を戻す。

 

「では、左足に交代だ。」

 

 ロードはバンドの輪から右足を抜き、左足を通した。そして先ほどと同じように、全力で足を前に押し出す。

 

「ふんッ!!」

 

 ギシッ

 

 再び椅子が小さく軋む。

 

 モニターの数値は勢いよく上昇し、そのまま右脚の記録を追い越していった。

 

「よし、終了だ。」

 

 ライツの声に合わせ、ロードはゆっくりと力を抜く。

 

「どうでしたか?」

 

 その問いに、ライツはすぐには答えない。

 モニターに表示された左右の測定結果を静かに見比べる。

 

 やがて、小さく頷いた。

 

「やはり、予想通りだ。」

 

「右脚も十分に強い。だが、左脚はそれ以上だ。」

 

 ロードは思わず自分の左脚へ目を向けた。

 

「左の方が強かったんですか?」

 

「ああ。」

 

 ライツは画面をロードへ向ける。

 

 左右の棒グラフ。

 

 僅かな差ではあるが、左脚の数値が右脚を上回っていた。

 

「筋力に左右差があること自体は、決して珍しいことではない。利き脚や競技特性によって、多少の差は誰にでも生まれる。」

 

 ライツはそこで一度言葉を切った。

 

「問題は、その差が君の走り方と深く結び付いてしまっていることだ。」

 

 ロードは黙って耳を傾ける。

 

「君は最初の一歩でトップスピードへ乗るため、この強い左脚へ全てを任せている。」

 

「だから、床反力も左脚の方が大きくなる。」

 

 ライツは先ほどの赤い矢印を思い出させるように、床反力の画面を表示した。

 

「強い脚だからこそ、君は無意識に頼ってしまう。」

 

「そして、その積み重ねが今の左脚を作ってしまった。」

 

 静寂が流れる。

 

 ロードは何も言わず、ただ自分の左脚を見つめていた。

 

 今まで何度も痛みを感じた。

 歩くたびに無意識に庇っていた。

 

 その理由が、ようやく一つの線になった。

 

「………。」

 

 この走りは間違っていたのだろうか。

 

 河川敷で、ただ速くなるためだけに積み重ねてきた日々は、全て無駄だったのだろうか。

 

「ロード君。」

 

 ふと、優しい声が響く。

 

 顔を上げると、ライツが穏やかに笑っていた。

 

「落ち込む必要はないよ。」

 

「え……。」

 

「私は、君の走りを否定したつもりは一度もない。」

 

 ライツは静かに首を横へ振る。

 

「むしろ逆だ。」

 

「この測定で、君の走りが理にかなっていることも分かった。」

 

 ロードは目を見開く。

 

「トップスピードへ一気に到達する独自の理論。」

 

「君はちゃんと、自分だけの武器を作り上げていた。」

 

 そこまで話して、ライツは両手でそっと、ロードの右手を包み込んだ。

 

「問題なのは、その武器の使い方だけだよ。」

 

「君がもっと上手く扱えるようになるために、私はここにいる。それを忘れないでくれ。」

 

 ロードの表情から少しずつ力が抜けていく。

 

 ライツは笑みを浮かべたまま手を離し、車椅子を動かした。

 

「それじゃあ、君の走りを支えている、もう一つの答えを見つけに行こう。」

 

「もう一つの……答え。」

 

「ああ。」

 

 ライツはロードへ振り返る。

 

「君の前傾姿勢を支える、体幹だ。」

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 部屋の隅に置かれていた青いバランスボール。ロードはその上に、静かに腰を下ろした。

 

「では、両足を床から離してくれ。」

 

「はい。」

 

 ロードはゆっくりと両足を浮かせ、両腕を横に広げる。それと同時に、ライツはストップウォッチをスタートさせた。

 

 ボールが僅かに沈む。

 しかし変化はそれだけで、ロードの身体はほとんど揺れない。

 

 二十秒経過。

 

 ロードの姿勢は変わらない。

 肩も腰も、微動だにしない。

 

 四十秒経過。

 

 呼吸は一定のまま。

 視線も変わらず真っ直ぐ前を向いている。

 

「………。」

 

 ライツはモニターへ表示される重心の動きを見つめる。

 

 ――はっきり言って、予想以上だった。

 

 ロードの身体は一本の柱のように安定している。一分が経とうとしても、その姿勢が崩れる気配はない。

 

「ロード君。」

 

「はい?」

 

「もう降りても構わないよ。」

 

 ライツはストップウォッチを止めた。

 ロードはゆっくりと足を下ろし、バランスボールから立ち上がる。

 

「もう終わりですか?」

 

 その声には、まだ余裕が残っていた。

 

 ライツは思わず苦笑する。

 

「私が知りたかったことは、十分すぎるほどにに確認できたよ。」

 

 ライツはモニターの電源を落とした。

 

 静まり返ったトレーニングルームに、彼女の声だけが響く。

 

「結論から話そう。」

 

 ロードは静かに姿勢を正した。

 

「先ほど話した通り、君の走りは床反力、下肢筋力、そして体幹機能。この三つによって成立している。」

 

「そのフォームを下手に弄るつもりは毛頭ない。だからこそ、君は身につけなければならない。」

 

 ライツはロードの左脚へ視線を向ける。

 その視線に気づいたロードが、彼女より先に答えた。

 

「“速さを扱う技術” を……ですか。」

 

「そうだ。」

 

 力強い頷きに、ロードは小さく息を呑む。

 

「君の左脚が生み出す爆発的な加速。あれは、君だけの唯一無二(オリジナル)の武器だ。」

 

「しかし今の君は、その武器を一歩で使い切ってしまっている。」

 

 ライツは右脚へと視線を移した。

 

「だから、右脚にも役割を持たせようと思う。」

 

 その言葉に、ロードは目を見開いた。

 

「左脚で加速を始め、右脚へ繋ぐ。」

 

「一歩で完成させるのではなく、二歩、三歩とかけて最高速度へ到達する。」

 

 ロードは自分の走りを思い浮かべる。

 

 今までは、一歩目が全てだった。

 

 だがライツの考えは違う。

 

 武器を活かしながら、武器を守る走り。

 

「これが、私の考える『速さを扱う技術』だ。」

 

 静かな一言だった。

 

「速さを生み出す技術ではなく、()()()()()()()()()()。」

 

「君の武器を、五年後も武器のままにするための技術だ。」

 

 トレーニングルームに静寂が流れる。ロードはゆっくりと自分の左脚へ視線を落とした。

 

 何度も痛みを生じた脚。

 それでも、自分を前へ運び続けてくれた脚。

 

 その武器を失うのではない。

 

 もっと長く。

 

 もっと速く。

 

 走り続けるために磨いていく。

 

 やがて、ロードはゆっくりと顔を上げる。

 

 その瞳には、迷いはなかった。

 

 代わりに宿っていたのは――新たな可能性を見つけた者だけが灯せる、静かな熱だった。

 

「ライツさん……いや、ライツ博士。」

 

「よろしくお願いします。」

 

 深く頭を下げる。

 

 その一礼には、言葉以上の覚悟が込められていた。

 

「ああ。」

 

 ライツは穏やかに笑う。そして――

 

「ここからが、本当のスタートだ。」

 

 彼女の瞳にもまた、研究者だけが宿す静かな情熱が灯っていた。

 

 

 

 測定を終えた二人は、トレーニングルームの片付けを始めた。

 

 ロードは三次元動作分析用のカメラを慎重に取り外し、専用ケースへ収めていく。

 ライツは車椅子に座ったまま、台車の上で機材の固定具を確認していた。

 

「そのカメラは精密機器だからね。レンズ同士がぶつからないように気を付けてくれ。」

 

「分かりました。」

 

 ロードはケースを両手で抱え、静かに台車へ載せる。

 

 他にも、筋力計やバランスボール、細かな測定器具を元あった場所に片付けていく。

 

 機材が多いだけに時間は掛かったが、不思議と苦ではなかった。

 

「よし。」

 

 最後のケースを載せ終えたライツは、小さく頷く。

 

「それじゃあ、行こうか。」

 

「はい。」

 

 そうして二人は研究室へと続く道を歩く。

 休日の校舎は朝とは違い、窓から差し込む陽射しが廊下を明るく照らしていた。

 

 研究室へ戻ると、ロードは手際よくケースを棚へ戻していく。

 

 ライツもタブレットを机へ置き、測定データの保存を確認した。

 

「これで今日の測定は全て終了だ。」

 

 壁掛け時計へ目を向ける。

 

 短針は十二時を少し回ろうとしていた。

 

「もうこんな時間だったんですね。」

 

「予定通りさ。」

 

 ライツは微笑む。

 

「さて。」

 

 彼女は車椅子の向きを変えた。

 

「午後のトレーニングのためにも、昼食を食べに行くとしよう。」

 

 その言葉を待っていたかのように――

 

 ぐぅぅぅ。

 

 静かな研究室に、音が響いた。

 

「………。」

 

「………。」

 

 二人の視線が自然とロードのお腹へ集まる。

 

 ロードは照れ隠しに頭を掻いた。

 

「測定とは言え、よく身体を動かしたからね。」

 

 ライツは小さく笑う。

 

「しっかり食べることも、トレーニングの一つだ。」

 

「はい。」

 

 研究室の明かりを消し、二人は食堂へと向かうのだった。

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 昼時の食堂は、多くのウマ娘たちで賑わっていた。

 

 トレイを手に談笑する者。

 

 大盛りのご飯を勢いよく頬張る者。

 

 昼食を終え、午後のトレーニングについて話し合う者。

 

 休日とは思えないほどの活気に、ロードは思わず足を止めた。

 

「……多いですね。」

 

 その呟きに、ライツは小さく笑う。

 

「休日ではあるが、トレーニングをするにはエネルギーが必要だからね。」

 

「身体を鍛える日も、身体を休める日も、食事は欠かせない。」

 

 ライツに言われ、ロードは改めて食堂を見渡す。

 

 ここにいる誰もが、それぞれの夢へ向かって努力している。そんな光景が、ごく当たり前のように広がっていた。

 

 その一方で、ロードは幾つもの視線を感じた。

 

 食事を運ぶ手を止める者。

 

 友人と話しながらこちらを見つめる者。

 

 そして、小さな声で何かを囁き合う者。

 

「昨日の……。」

 

「あの走りの。」

 

「ライツ博士と一緒だ。」

 

 そんな声が耳に届く。

 これだけトレセン生徒がいれば、こうなるのも無理はない。ロードは特に気にすることなく、ライツの隣を歩いた。

 

「さて、何を食べようか。」

 

 二人が食券売り場へ向かおうとした、その時だった。

 

「ロード君!ライツ博士!」

 

 聞き覚えのある声が食堂に響く。

 

 振り向くと、近くのテーブル席から手を振るたづなの姿があった。

 

 その隣には小柄な少女――やよいの姿。少し視線を落とせば、足元で子猫がキャットフードを食べていた。

 

「慰労ッ! 元気そうだな、ロード君!」

 

「こんにちは、お二人とも。」

 

 やよいが元気よく挨拶し、たづなが柔らかく微笑む。

 

「もしよろしければ、ご一緒しませんか?」

 

 ライツはロードへ目を向けた。

 

「どうする?」

 

「俺は構いません。」

 

「では、お言葉に甘えよう。」

 

 二人は食券を購入し、それぞれ昼食を受け取る。

 

 ロードはにんじんハンバーグ定食を、ライツはサンドイッチとコーヒーゼリーをトレイに乗せて席へ向かった。

 

「にんじんハンバーグ定食を選ぶのはいい選択だ!」

 

「とても美味しそうだったので。」

 

 にんじんハンバーグ定食。

 ふっくらと焼き上げられた大きなハンバーグの中央には、一本丸ごとのにんじんが豪快に刺さっている。

 

 その大胆な見た目は、思わず目を引く一品だった。

 

「それにしても、これが無料ってすごいですね。」

 

「はっはっは! 生徒たちには、余計な心配をせず思い切り走ってもらいたいからな!」

 

「夢を追うために必要なものは、学園が全力で支える。それが私の仕事だ!」

 

 その言葉に、たづなは優しく微笑む。

 

 やよいの言葉を受けてロードは、この学園が多くのウマ娘たちに愛される理由を、少しだけ理解した気がした。

 

「ところでライツ博士、測定の結果はどうだったかい?」

 

 やよいがスプーンを片手に尋ねる。

 

「驚きの連続だったよ。」

 

 ライツはコーヒーゼリーを一口運び、穏やかに微笑んだ。

 

「彼は間違いなく、大きな可能性を秘めている。」

 

「そうか!」

 

 やよいは嬉しそうに頷く。

 

「頑張りたまえ、ロード君。君がこの学園の生徒と競い合える日を楽しみにしているよ。」

 

「はい。」

 

 ロードの返事にやよいは満足そうに頷き、再びオムライスへ視線を戻す。

 

 すると。

 

「むっ!」

 

 突然、小さく声を上げた。

 

「どうかしましたか?」

 

 たづなが首を傾げる。

 

「見たまえ、ロード君!」

 

 やよいは嬉しそうにスプーンを掲げた。

 

 掬われていたのは、小さなにんじん。それは綺麗な星形に切り抜かれていた。

 

「星形にんじんだ!」

 

「おお……。」

 

 ロードは思わず声を漏らす。

 その姿は『トレセン学園理事長』ではなく、無邪気にはしゃぐ一人の少女そのものだった。

 

 だが――

 

(本当に何歳なんだ……?)

 

 そんな心の声を知る由もなく、やよいは上機嫌だった。

 

「はっはー! 羨ましいだろう!」

 

「はい、何か良いことがありそうですね。」

 

「そうだろう! そうだろう!」

 

 やよいは満足そうに何度も頷く。

 

「幸せというものは、案外こういうところに転がっているものなのだ!」

 

「理事長……。」

 

 たづなが苦笑しながら肩をすくめる。その隣では、ライツも小さく笑っていた。

 

 午後から始まる新たな挑戦。

 

 その前の、ほんの束の間の昼休み。

 

 トレセン学園の日常は、今日も変わらず温かな時間に包まれていた。

 

 

 つづく




工学というよりも、医療……?
でもライツ博士なら医療の知識もある程度入ってそう。

では、また次回。
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