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じりじりと肌を焼くような、不快な熱気がアスファルトから立ち上っている。
季節は夏。
あの春の手合わせから数ヶ月、高専のグラウンドを囲む古い漆喰の塀には、今や五月蝿いほどの蝉時雨がへばりついていた。
高専の木陰、ベンチに腰掛けた夏油傑と、その傍らで静かに眼鏡のブリッジを押し上げた宵町摂の前に、その女性はいた。
特級術師、九十九由基。
大型バイクを乱暴に停め、ライダースジャケットのジッパーを少し下げた彼女は、二人の少年を見下ろして白い歯を見せた。
「――で、とりあえず聞いておこうか。どんな女が好み(タイプ)だい?」
唐突で破天荒な挨拶。
傑は生気のない顔のまま、どこか遠い目をして淡々と応じた。
「……好み、ですか。普通ですよ。特にこだわりはありません。それより九十九さん、あなたは任務ですか?」
彼の目の下には、この数ヶ月の過酷な単独任務の連続によって、消えることのない深い隈が刻まれていた。
ベンチの足元に置かれた缶のお茶のプルタブを開ける傑の手は、痛々しいほどに骨張って震えている。一口飲み込もうとした喉が、まるで異物を拒絶するようにピクリと小さく痙攣した。摂はその横顔を、眼鏡の奥の冷徹な観察眼で見逃さなかった。かつてなら絶対にそのままにしなかったであろう前髪の乱れすら、今の傑は直す気力すら失っている。
五条悟が単独で「最強」を邁進し、あらゆる特級案件を一人で片付けるようになった裏で、一級、二級クラスの「数だけは多い」泥臭い任務が、すべて傑と摂の二人にシワ寄せとして降ってきていたのだ。
毎日、毎日、吐瀉物を処理した雑巾のような呪霊玉を喉の奥に押し込む日々。それだけではない。任務先で呪霊を祓えば、助けたはずの非術師から「気味が悪い」「お前たちのせいで家が壊れた」と心無い言葉を投げつけられる。肉体と精神、その双方の限界。
九十九はバイクのシートに腰掛け、悪戯っぽく笑った。
「まさか。私はね、高専が嫌いなんだ。思想が合わなくてね」
九十九は自販機で炭酸飲料を買い、ガツンと喉を鳴らして飲むと、傑のやつれた横顔をじっと見つめた。
「……冗談だよ。私は高専がやっている『起きてしまった現象をモグラ叩きのように潰すだけの対処療法』が性に合わないだけ。私がやりたいのは、呪霊の発生原因そのものを根絶する『原因療法』さ」
「原因療法、ですか」
摂が眼鏡の奥の瞳をわずかに動かす。
「そう。人間から漏れ出た呪力が積み重なって呪霊になる。なら、漏らさなきゃいい。アプローチは二つ。一つは、全人類から呪力をなくすこと。……だけど、これは貴重なサンプルだった禪院甚爾が死んじゃって頓挫した。だから、もう一つ。全人類に呪力のコントロールを極めさせ、術師にすることだよ。術師はね、呪力を体内で循環させるから、非術師と違って呪力をほとんど漏らさないんだ」
九十九はあっけらかんと言ってのける。
「全人類が術師になれば、呪霊は一匹も生まれなくなる」
それは、あまりにも遠大で、浮世離れした理想論だった。
しかし、その言葉を聞いた傑の脳裏に、あの『星の子』を巡る戦いで、少女の死体を前にして邪悪な笑顔で拍手を送っていた非術師の姿がフラッシュバックする。
守るべき弱者。高潔であるはずの大義。
その欺瞞の皮が、乾ききった傑の心の中で、パラパラと内側から剥がれ落ちていく。
傑は、自らの両手をじっと見つめたまま、濁った声で呟いた。
「……だったら、非術師を皆殺しにすればいいじゃないですか」
ピシリ、と空気の凍る音がした。九十九ではなく、隣にいた摂の視線が、初めて傑へと鋭く向けられる。
だが、九十九は動じず、ただ少しだけ真剣な目をしてみせた。
「夏油くん。それは、一番手っ取り早いし、可能(あり)だよ。……君は非術師は嫌いかい?」
九十九の問いに傑は考える。
強き者が弱き者を助ける。それが力を持つ者の義務だと思っていた。
しかし、その弱き者は愚かな者が多い。
傑の中では複雑な感情が入り乱れていた。
「……わかりません」
ようやく絞り出した言葉は消え入るようだった。
「非術師をどう見るか、それは君がこれから選択することだ」
九十九はそれだけ言い残すと、エンジンを爆音で響かせて去っていった。
残されたのは、じりじりと鳴り響く蝉時雨と、二人の少年の間に生まれた、目に見えない「歪み」だけだった。
「……摂」
傑はバイクの去った道を眺めたまま、ぽつりと言った。
「君なら、私の言ったことを『非効率だから悪手だ』と切り捨てるかい?」
摂は眼鏡の奥の瞳を冷淡に細めたまま、いつものように淡々と返した。
「事実だからね。感情論を抜きにして、非術師を一度に排除すれば、社会というプラットフォームそのものが崩壊する。物流もインフラも維持できない。そんなものは戦術でも何でもない、ただの共倒れだよ。……もしそれをやるなら、術師だけで世界を維持できるだけの『新たな管理システム』をあらかじめ構築するしかない。それには何十年ものリソースと、徹底的な合理主義が必要だ」
「……そうだね。君はいつだって正しい。効率的で、論理的だ」
傑はそう言って、微かに笑った。
九十九が去り、傑と摂の間に重苦しい「歪み」の会話が交わされた、その直後――。
「あ! 夏油先輩! 宵町先輩!」
蝉時雨を割って、高専のグラウンドの向こうから、大きな紙袋を抱えた少年が文字通り犬のように走ってきた。
二年生の灰原雄だ。相変わらずの満面の笑みと、トレードマークの太い眉毛をパチパチと動かしながら、ベンチにいる二人の前に滑り込むようにして止まる。
「これ、見てください! 任務の帰り、駅前のデパ地下で買ってきたんです。今、すっごく話題のプレミア炭酸ソフト!」
「灰原。走ったら溶けるだろう」
傑が思わず、いつもの優しい先輩の顔に戻って苦笑する。
「大丈夫です、保冷剤を限界まで詰めてもらいましたから! ほら、夏油先輩の分と、宵町先輩の分です。本当は五条先輩の分もと思ったんですけど、あの人、今任務に行っちゃってていないって言うから、三人で食べちゃいましょう!」
「……灰原」
摂が眼鏡の奥の目を少しだけ細め、灰原の差し出してきたカップを見つめる。
「熱力学的に言わせてもらえば、この炎天下でデパ地下からの移動時間を考慮すると、保冷剤の冷却効率はすでに飽和している。……が、まだ完全に液化はしていないな。許容範囲だ」
「さすが宵町先輩、相変わらず難しいこと言いますね! でもセーフなら良かったです!」
灰原はベンチの端に元気よく腰掛け、スプーンを配る。
傑は、手渡された冷たいソフトクリームを見つめた。
毎日、吐瀉物を処理した雑巾のような呪霊玉を飲み込み、味覚などとうに麻痺しているはずだった。だが、灰原が「美味いですね!」と隣で美味そうに頬張る姿を見ながら口に運ぶと、不思議と、冷たさと甘みが喉を通り抜けていく。
「……美味いね、灰原」
「でしょう! 僕、美味しいものを食べてる時が一番幸せなんですよ!あ、そうだ。夏油先輩、次の地方任務から帰ってきたら焼肉いきましょう!」
「……あぁ、楽しみにしているよ、灰原。気をつけて行くんだよ」
傑は灰原の頭を軽く小突くようにして笑った。その笑顔は、この数ヶ月間で最も人間らしい、温かいものだった。
灰原が去った後、傑はアイスのゴミを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……あの子を見ていると、救われるよ。自分のやっている『大義』に、少しだけ意味があると思える」
「ああ、そうだね……」
そして、運命の歯車は、最悪の速度で回転を始める。
「――灰原が、死んだ」
高専の遺体安置所。
冷たい冷気が立ち込める部屋の中で、家入硝子が沈痛な面持ちで首を横に振った。
白い布をかけられたベッドの上に横たわっているのは、先日まで「僕、美味しいものを食べてる時が一番幸せなんですよ!」と屈託のない笑顔で笑っていた後輩、灰原雄の変わり果てた姿だった。
産土神信仰の土地。二級呪霊のはずが、実際には一級相当の土地神。布陣の甘さ、情報の誤認、上層部による戦術の組み立てミス。それらが重なった結果としての若き命の損失。
「……っ」
傑はその場に崩れ落ちるようにして、灰原の冷たくなった手を握りしめた。
その傍らで、もう一人の後輩である七海建人が、乾いた声で呟く。
「もうあの人1人で良くないですか」
その一言で、傑の内で、何かが「プツン」と、完全に千切れる音がした。
(――また、これだ。決定的な悲劇の場に、最強であるはずの五条悟はいつもいない。上層部が敷いた無能な盤面を、悟という例外的な力で強引に埋めているだけの歪なシステム。そのツケを払わされるのは、いつもここにいる使い潰される側の人間だ)
摂は拳を血が滲むほど握りしめ、七海の言葉の裏にある決定的な絶望を、静かに噛み潰した。
そこへ、補助監督が青ざめた顔で入ってくる。地方の山間部にある集落での、原因不明の神隠し。一級呪霊の関与が疑われるため、夏油傑単独での調査・祓除の要請だった。
「分かりました」
傑は淀みない声で応じた。
摂はその横顔を見て、言い知れぬ胸騒ぎを覚えたが、上層部からの緊急通達により、摂にも別の呪霊大量発生案件が強制的に割り振られ、二人は別々に、高専を発つことになった。
それが、二人が交わした、最後の瞬間となった。
数日後。
高専に、すべてを洗い流すかのように激しい夏の豪雨が降り注いでいた。
摂は、自身に割り振られた任務を極めて合理的かつ迅速に片付け、高専の自室に戻っていた。
デスクの上にあるのは、『夏油傑・特例休職申請書』。少しでも傑の心の負担を減らすため、摂が裏から手を回して作成していた書類だった。
「摂。いるか」
低く、重苦しい声と共に、部屋の扉が開いた。
現れたのは、担任の夜蛾正道だった。
「夜蛾先生。……何かありましたか」
摂は書類を机に置き、眼鏡を押し上げる。
夜蛾は、摂に、静かに一枚の緊急任務報告書を渡した。その拳は、血が滲むほど強く握り締められていた。
「今しがた、五条にも伝えた。……お前にも、事実を伝えておく」
摂は、不快そうに眉をひそめながら、その紙面に視線を落とした。
【緊急通達:特級指定】
地方任務に赴いた特級術師・夏油傑、当該集落における非術師の住民112名を、自身の取り込みたる呪霊を用い、全員呪殺。
現場より逃亡。足取り不明。
――本日付を以て、夏油傑を『特級呪詛師』と断定。発見次第、処刑対象に指定する。
「……な」
摂の思考が、一瞬、完全に停止した。
「112名を、全員……? 傑が……?」
「ああ。神隠しの原因だった呪霊の祓除は完了していた。だが、その後の集落の状況、および住民の死因から、傑の術式によるものと断定された。……奴は、非術師を拒絶した」
部屋の中に、重苦しい沈黙が降りる。
だが、夜蛾の用件はそれだけでは終わらなかった。彼は懐からもう一枚、総監部の朱印が押された極秘の指令書を取り出し、それを怒りに震える手で机に叩きつけた。
「……そして、宵町。これが上層部からお前への、直接の『特級密命』だ」
「僕への?」
摂が指令書に目をやると、そこには、人道をもシステムをも踏みにじる、おぞましい文字列が並んでいた。
【特級密命】
特級呪詛師・夏油傑の保有する「呪霊操術」の戦力価値は極めて高い。
術師・宵町摂は、自身の『遍虚呪法』を用い、夏油傑の精神を半永久的な催眠下に置き、高専に隷属する傀儡兵器として再利用せよ。
従わぬ場合、宵町摂もまた、夏油傑の同調者として死罪に処す。
「……っ」
摂の目の色が、初めて明確な「殺意」へと変わった。
夜蛾は机を強く叩き、上層部への激しい怒りを露わにしながら、吠えるように言った。
「ふざけるな……! あいつらは、生徒を何だと思っている! 傑を洗脳して、高専の都合の良い道具にしろだと!? 摂、お前は絶対にこの命令に従うな。お前まで上層部の犠牲にさせるわけにはいかん。この命令は、俺が命に代えても上に掛け合って白紙に戻させる!」
不器用な、だがどこまでも教え子を想う大人の、魂の叫びだった。
しかし、摂は夜蛾のその言葉を聞きながら、冷え切った頭で、静かに眼鏡を外し、レンズを拭き始めた。
(……夜蛾先生。あなたのやり方では、あの腐った老人どもには絶対に勝てない)
非術師がいなくなれば、呪霊は生まれない。だから傑は非術師を殺した。狂っていない。あまりにも純粋に、効率を求めた結果だ。
そして、その傑を「便利な道具」として洗脳し、保身のために再利用しようとする呪術界の上層部。
(間違っているのは傑じゃない。このシステム(上層部)そのものが、間違っているんだ)
「分かりました、夜蛾先生。……僕は、僕のやり方で対処します」
摂の声には、怒りも、悲しみもなかった。あるのは、害悪なコストを徹底的に排除するという、冷徹な決意だけだった。
「摂……?」
夜蛾が怪訝な声を出すが、摂はすでに、眼鏡をかけ直してデスクの上の『夏油傑・特例休職申請書』を手に取っていた。
完璧に組み上げられた、もう二度と使われることのない白紙の書類。それを、摂は迷いなく破り捨てた
「待て、摂! どこへ行く!」
背後からの夜蛾の制止を環境のノイズとして切り捨て、部屋を飛び出した。
外では、夏の豪雨が、すべてを洗い流すかのように激しく高専を叩きつけ続けている。
五条悟という「最強」の誕生。
夏油傑という「狂気」の離反。
宵町摂という「冷徹」の選択。
三人の少年たちが歩んできた青春の秒針は、今、完全に修復不可能な形で破壊され、二度と交わることのない修羅の道へと、別々に走り出した。
走り出してしまったのだ。
6話の内容を変更しました。どちらが良いと思いますか?特に反応が無ければ改訂版で続きを書こうと思います。
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改定前が良い
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改定後が良い