呪術廻戦『懐玉・玉折・玉消』   作:神切優羽

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第14話:誰も悲しまない世界

広場を支配していたのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。

 

かつて誰も立ち入れなかった『最強の男』五条悟が、その場に棒立ちのまま動きを止めている。

瞳から蒼い光が消え、全身を覆っていた『無下限』の不可侵領域も霧散していた。

 

遍虚呪法の完全なる成功。

 

血を吐き、骨を軋ませながらも、宵町摂はゆっくりと立ち上がった。

破れた袖から溢れる鮮血が、夜の帳が下り始めた石畳を赤く染めていく。摂は額から指先を離し、ピタリと固まったままの悟を見つめた。

 

日はすでに沈み、頭上には冷たい月が浮かび始めている。

摂は静かに悟から背を向け、夜空を見上げた。

 

(……これでいい)

 

胸中で、静かに思い出を振り返る。

 

高専に入学した日のこと。

悟と傑、硝子と過ごしたくだらない日常が、走馬灯のように脳裏を駆け抜ける。

 

(……ごめんね、悟。君たちのいる世界は、僕にとって優しすぎた。でも、だからこそ壊さなきゃいけないんだ。僕の感情も、親友との思い出も……すべてをこのシステムのための礎にする)

 

「……楽しかったよ、悟。君たちと過ごした時間は……僕の人生で、唯一の奇跡だった」

 

摂が静かに歩み出そうとした、その瞬間だった。

 

――ピキッ。

 

静寂を破り、悟の頭部から溢れ出たのは、凶暴なまでの呪力の咆哮だった。

 

「な……!?」

 

摂が勢いよく振り返る。

 

悟の瞳から、赤い鮮血が滴り落ちていた。

脳の思考領域、記憶領域、運動制御領域――摂の催眠が完璧に書き込まれていた悟の脳細胞が、内側から激しく自傷・破壊されていく。

 

悟は自らの呪力を脳内に直接叩き込み、摂に侵食された脳領域ごと物理的に破壊したのだ。

 

「ぐ……っ、ガハッ……!!」

 

悟が激しく血を吐き捨てる。

普通であれば即死、あるいは永久的な廃人となる自傷行為。だが、破壊された瞬間の脳細胞に対し、即座に圧倒的な密度の『反転術式』が全自動で叩き込まれ、完璧に再生されていく。

 

破壊と、再生。

脳内で繰り広げられる過酷な永久機関。

 

脳の論理回路を奪われた悟が動いた理由は、頭で考えたからではない。

 

「……バカな……っ!」

 

悟の瞳に、濁りのない圧倒的な『蒼』が蘇る。

そして摂をまっすぐに見つめた。

 

「脳みその計算領域を縛ったくらいで……俺の術式も……お前に対する想いも、止められると思ってんのかよ……!!」

 

魂に刻まれた術式と、宵町摂という親友を繋ぎ止めようとする凄絶な執念。

論理と効率だけで世界を構築しようとした摂の計算を、悟の「理屈を超えた友情」が力任せに打ち砕いた瞬間だった。

 

「……脳を自傷し、反転術式でリセットしたのか。正気じゃないな……本当に、君という男は……!」

 

驚愕に目を見開く摂。だが、その驚きはすぐに、寂しげで穏やかな苦笑へと変わった。

 

二人とも、すでに満身創痍だった。

悟は脳の急激な破壊と再生で全身の生気を削り取られ、摂は肉弾戦の打撃と骨折により立っていることすら奇跡に近い状態だった。

 

次の一撃が、すべてを決する。

 

「来い、悟……!」

 

摂は残された全呪力を解き放った。自身の全存在を燃料とし、一切の不純物を含まない高純度の呪力を極限まで凝縮。両手の間に眩いばかりの白熱した光球を作り出す。

 

対する悟は、両手の指を交差させた。

脳のリセットによって一瞬だけ思考をクリアにした悟の前に、赤と青の術式が合わさった極大の紫色の重力空間が凝縮されていく。

 

「『最大呪力砲』!!」

 

「虚式――『茈』!!」

 

高専の広場が、二つの極大エネルギーの放つ閃光によって昼間のように照らし出された。

 

純粋で圧倒的な質量の白熱光波と空間そのものを削り取り、万物を押し潰す紫の質量体。

 

正面から衝突した瞬間、音のない衝撃波が高専敷地全体を激震させた。

 

大気が爆ぜ、地面の石畳が津波のように巻き上がり、周囲の樹木が一瞬で蒸発していく。

光波と重力球が空中できしみ合い、拮抗する。

 

(押し込め……っ! これが僕の……僕という存在のすべてだ……!!)

 

摂は歯を食いしばり、胸の骨がきしむ痛みに耐えながら、溢れ出る血とともに全呪力を光線へと注ぎ込み続けた。これまでの人生、己の思想、研ぎ澄ませてきた理論のすべてを乗せた一撃。

 

だが――五条悟の存在は、その究極の理論すらも容易く呑み込んでいく。

 

「押し通す……!! お前を連れ戻すためなら……何だって叩き潰す!!」

 

悟の瞳が輝いた瞬間、『茈』の威力が跳ね上がった。

 

紫の質量体は、摂の解き放った高純度の呪力光波を徐々に、だが確実に削り取り、押し返していく。

相殺し合っていたエネルギーの均衡が崩れ、光線が先端から砕け散っていく。

 

(……ああ、そうか。やっぱり君は……どこまでも『最強』なんだね、悟)

 

白熱の光の向こう側で、摂の視界が紫の質量体で埋め尽くされていく。

敗北を悟った摂の唇が、ゆっくりと穏やかな笑みを形作った。

 

―――轟っ!!!!

 

『茈』が最大呪力砲を完全に穿ち、そのまま摂の身体を呑み込んだ。

 

爆風が去り、静寂が戻った。

 

広場の中央で、摂は膝をついていた。

胸元は大きく削れ、流れる血が石畳を濡らす。勝負は決した。

 

悟は肩で息を吐きながら、千鳥足で摂の元へと歩み寄った。

 

「……ハッ、言ったろ……俺の勝ちだ、摂」

 

「……ああ。見事だよ、悟」

 

膝をついたまま、摂は穏やかな笑みを浮かべて悟を見上げた。

 

「……満足か? こんなことしてさ……」

 

「満足さ。……ただ、最後にひとつだけ、僕のわがままを通させてもらうよ」

 

摂は血で濡れた両手を、祈るように静かに重ね合わせた。

 

「極ノ番――『常世(とこよ)』」

 

それは、遍虚呪法の極致。

自身の全呪力、命、魂、そして存在そのものを代償とする絶大な「縛り」を結び、夜空に浮かぶ月を触媒として発動する、世界規模の認識改ざん術式。

 

「摂……? お前、何を……」

 

悟が息を呑んだ瞬間、空に浮かぶ満月が怪しく、蒼白の輝きを増した。

冷たい月光が半壊した広場を鋭く照らし出す。その光を浴びた瞬間、摂の身体が足元から静かに、解れていく糸のように青い光の粒子となって砕け始めた。

 

「……っ!? 摂! お前、体が……!」

 

悟の顔から血の気が引く。

悟は千鳥足で踏み出し、必死に摂の肩を掴もうと手を伸ばした。だが、伸びた悟の指先は、実体を失いかけた摂の身体を空しく通り抜け、青い光の塵を散らすだけだった。

 

「触れないよ、悟。僕の存在の定義そのものが、もうこの世界から剥がれ落ち始めているんだから」

 

「ふざけんな……! 何やってんだお前は!! 術式を解け! 今すぐ解け摂!!」

 

悟の喉が引き裂かれんばかりに響く。

世界でただ一人『最強』と称される男が、目の前で消えゆく親友一人を前に、なりふり構わず取り乱していた。

 

摂は血に濡れた顔で、どこまでも優しく、どこまでも寂しげに微笑んだ。

 

「……悟。君に……『親友を殺した』なんて背負わせたくないんだ」

 

「は……? 何言って――」

 

「僕を倒した君は、これから名実ともに呪術界の『最強』として一人で立っていく。……そんな君の心に、僕を殺したという罪悪感の傷を残したくない。……それにね、傑や硝子にも、僕という人間を失って傷ついてほしくないんだ。僕さえ始めからいなかったことになれば……誰も悲しまずに済む」

 

「勝手なこと言ってんじゃねえよ……!!」

 

悟は激昂し、蒼い『六眼』を血走らせ、全呪力を脳へと注ぎ込む。反転術式を限界を超えて発動させ、脳の記憶領域と世界の情報操作に力任せに抗おうとした。

 

「俺が忘れるわけねえだろ!! お前と過ごした時間も! お前と戦ったことも! 俺が忘れると思うのかよ!!」

 

「忘れるよ。……君のその完璧な『六眼』すらも、世界の定義の書き換えには逆らえない」

 

摂の膝から下が完全に光の粒子となって消え、胸元まで透明な光の束へと変わっていく。

 

「傑は高専を去り、僕たちの道は分かたれた。……でもね、僕の記憶すら消えてなくなれば、君の中に『二人を失った』という絶望は残らない。君はただ、真っ直ぐに最強として進めばいいんだ」

 

「嫌だ……! 止めろ……止めろ摂!! 俺から……俺たちからお前を奪う気か!!」

 

悟の手が、腕が、何度も摂の消えゆく身体を抱きしめようと空を掻く。

だが、どれだけ強く抱きしめようとしても、腕の中に残るのは冷たい夜風と、輝く光の粒子だけだった。

 

「やめろ……頼むから……摂……っ!!」

 

最強の男の口から漏れたのは、懇願だった。

かつて誰も踏み込めなかった領域に立ち、全てを諦めてきたはずの五条悟が、子どものようにボロボロと涙をこぼしながら親友の消滅を拒んでいた。

 

◇

 

その頃――高専から遠く離れた、古い宗教団体の寂れたアジト。

 

薄暗い部屋の畳の上で、夏油傑はひとり、冷めた茶を手に佇んでいた。

窓から差し込む青い月光を見つめていた傑は、突如として激しい胸の痛みに襲われ、手にしていた茶碗を落とした。

 

ガチャン、と乾いた音が響き、陶器が砕け散る。

 

「……ッ!?」

 

傑は胸元を強く締めつけ、膝をついた。

心臓を直接握り潰されたかのような、理不尽なまでの絶望感と喪失感。

 

「……な……んだ……? 一体、何が……」

 

脳裏を駆け巡る不鮮明なノイズ。

高専時代、悟と二人で並んで歩いていた記憶。だが、その二人の「間」に、もう一人誰かが笑っていたような気がする。

思い出そうと意識を深めるが、探ろうとすればするほど、その影は薄紙を剥ぐように綺麗に消え去っていく。

 

「私はいったい……誰のことを思い出そうとしているんだ……?」

 

ぽつりと漏れた傑の呟きは、誰に届くこともなく、闇の中に消えていった。

 

◇

 

自室の窓辺で煙草をふかしていた家入硝子もまた、理由のわからない溢れる涙で灰皿を濡らしていた。

 

高専のデータベースから、紙の資料から、人々の脳内から。

「宵町摂」という男の存在が、世界の根底から削ぎ落とされていく。

 

◇

 

「な……んだ……これ……? 摂……お前……っ、思い出せなくなっていく……!?」

 

広場で、悟は両手で頭を抱え、苦悶の声を上げた。

どれだけ六眼を輝かせようと、反転術式で脳を修復しようと、記憶の底から「宵町摂」という男の輪郭が掠れていく。

 

声が思い出せない。顔が思い出せない。

目の前にいる男が、かつて自分にとってどれほど大切な存在だったのかという「定義」そのものが、脳内から滑り落ちていく。

 

「やめろ……やめてくれ……! 摂……! 頼む……消えないでくれ……っ!!」

 

視界が完全に光で満たされる。

残された胸から上の光の粒子の中で、宵町摂は――高専で最初に出会った日のような、穏やかで澄み切った笑みを浮かべていた。

 

「バイバイ、悟。……僕の最高の親友」

 

「摂―――!!!!」

 

悟の絶叫が夜空へと引き裂かれた瞬間。

一陣の強風が吹き抜け、光の粒子は月夜の空へと溶けるように、完全に姿を消した。

 

あとに残されたのは、半壊した広場と、ぽつんと立ち尽くす五条悟だけだった。

 

「……あれ?」

 

静寂が戻った広場で、悟はぽつりと呟いた。

 

差し伸ばされた自分の手を見つめる。

胸の奥底に、まるで世界そのものを丸ごと失ってしまったかのような、底なしの喪失感と巨大な穴が開いている。

 

涙が、止まらなかった。

頬を伝い、ポタポタと石畳を濡らしていく。

 

「俺……なんで、泣いてんだ……?」

 

思い出そうとしても、何も出てこない。

自分はなぜ傷だらけでここに立っているのか。誰と戦っていたのか。

大切な「何か」を失ったことだけが魂に刻まれているのに、その名前も、顔も、声すらも思い出せない。

 

世界中の記憶から、記録から、宵町摂という人間は完全に消滅したのだった。




次話最終回です!!
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