ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
最終話ですが、誤字脱字などありましたら教えていただけると幸いです。
高専の教室。
夕闇が差し込む静寂の中で、家入硝子は窓枠に肘を預け、紫煙をくゆらせていた。
かつては三つの机が並び、騒がしかったはずの空間。
放課後のぬるい風が薄いカーテンを揺らし、黒板の隅に消し残された白い粉が、夕日に照らされて小さく光っている。
傑が去り、ぽっかりと空いた空間を視線でなぞりながら、硝子は振り返らずに尋ねた。
「……で? 五条、いつまでそうしている気?」
背後の席に深々と腰掛け、ぼんやりと天井を見上げているのは、五条悟だった。
「んー。別に意味はないよ。ただ、ここは静かだからね」
「……寂しくなったな」
硝子がぽつりと呟いた。
窓の外を見つめるその瞳には、深い疲弊と諦念が滲んでいる。
「傑がいなくなって、高専も静かになった」
「……うん。……そうだね」
悟は深く椅子に背をあずけ、天井を仰いだ。
二人の間に、重く静かな沈黙が降り積もる。
二人になってしまった高専。
傑が高専を去り、呪詛師となった事実。その事実は確かに悟の心を深く削り取った。だが――悟の胸にぽっかりと開いた底なしの穴は、それだけでは説明がつかないほど巨大で、冷たかった。
何か、致命的なものを失っている。
傑の離反という絶望すらもかすむほどの、大切で、かけがえのない何かを。
反転術式を回し続け、常にクリアに保たれているはずの脳の奥底。その最も深い場所に、六眼の視界をもってしても決して捉えられない「漆黒の空白」が存在していた。
だが、どれだけ思考を巡らせても、六眼を凝らしても、その「何か」の名前も顔も手繰り寄せることはできない。
二人はその理由のつかない虚無感の正体を、ただ「傑が去った喪失感」のせいだと思い込もうとしていた。
「まあ、疲れてんだろうな。二人とも」
硝子は短くなった煙草を携帯灰皿に押し付け、溜め息をついた。
「……さて、私はそろそろ行くよ。夜蛾先生に呼ばれてるんだ」
「ん。僕もそろそろ次の任務に行こうかな」
悟も一度だけ誰もいない教室を見渡し、ゆっくりと立ち上がった。
「油断してやられんなよ」
硝子の軽口に、悟は口元を緩めて振り返る。
「だいじょーぶでしょ。僕、最強だし」
「……」
硝子は足を止め、怪訝そうな顔で悟を振り返った。
「五条……いつから一人称が『僕』になったの?」
「……え?」
悟はポカンと口を開け、数回まばたきをした。
「……『僕』? 俺……じゃなくて、僕って言ってた?」
「ああ。……傑の真似か? あいつが居なくなってから、変な癖でもついたのか」
「……いや」
悟は己の手のひらをじっと見つめた。
己の口から出た「僕」という言葉の響き。なぜだか自分でも分からない。けれど、その言葉を使うたびに、胸の奥の傷口がチリリと疼き、脳の奥底に触れてはいけない何かが眠っているような不気味な感覚があった。
確かに去年、傑に一人称を改めるよう指摘されたことはある。その時は「俺は俺だ」と明確に拒否したはずなのに……。
「……わからない。でも、なんとなく……こう言わなければいけない気がしたんだよ。僕の中の誰かが、そうしろって言ってるみたいにさ」
悟は自嘲気味に笑い、首の後ろに手を回した。
その声は、誰もいない教室の壁に反射し、ひどく虚しく響いた。
「ふーん…。そっか」
硝子は背を向け、ガラガラと教室のドアを開けた。
悟もそれに続き、何気ない日常の会話に戻りながら、二人は並んで教室を後にする。
カチャン、と静かにドアが閉まり、廊下を遠ざかっていく二人の足音がやがて完全に途絶えた。
教室に残されたのは静寂とかすかに残るタバコの匂いだった。
誰も悲しまない世界で。
消えた親友の面影だけを抱いて、五条悟は「最強」として、歩み出していく。
誰もいなくなった教室。
教卓の隣にある小さな棚の引き出しが、ほんの数センチだけ開いていた。
斜光すら届かない、引き出しの中の小さな暗闇。
書類の隙間に一重の影を落として、一枚のカラー写真が眠っている。
青空の下、眩しい日差しを浴びながら、首を絞め合うようにして悪ふざけを繰り広げる悟と傑。
二人ともどこまでも青く、無敵で、何ひとつ失っていなかった頃の笑顔。
そして――その写真の右隅、ほんの数ミリの領域。
悟と傑の真隣に、誰のものかも分からない黒い制服の「袖」が、確かに写り込んでいた。
『常世』。
世界の理そのものを書き換え、歴史の記録からも、人々の脳裏からも「宵町摂」という人間の存在を一切合切消し去った、凄絶な呪法の果て。
本来であれば、この一枚の写真すらも『常世』の理によって修正され、袖のひだ一つ残らず塗り潰されているはずだった。
けれど――
(……彼らと、一緒に居たかった)
消滅の淵、存在の輪郭が世界から摩耗していく最後の土壇場で、摂の魂の最奥に生じた、あまりにも人間らしく、あまりにも切実な未練。
「二人に己の死を背負わせたくない」という理性の裏側に隠されていた、たったひとつの我がまま。
その胸を焦がすような一瞬の熱量が、絶対であるはずの『常世』の縛りに極小の「隙」を生み出し、己が存在した確かな証明として、この紙切れの片隅に爪痕を刻み残したのだ。
二人はもう、その理由に辿り着くことはできない。
どれほど六眼を凝らしても、どれほど記憶の海を浚っても、その袖の主が誰であったかを思い出す術はない。
けれど、誰に気づかれることもなく。
誰に思い出されることもなく。
写真はただ静かに、冷たい暗闇の中で息を潜めている。
橙色の夕闇がゆっくりと部屋を包み込み、世界は静かに夜へと落ちていった。
ご愛読いただき、本当にありがとうございました!
全15話にわたる宵町摂の物語、いかがでしたでしょうか。
原作のストーリーやタイムラインを崩さないよう、「原作の陰に、もしかしたらこんな物語があったのかもしれない」という隙間の展開を意識して書かせていただきました。
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6話の内容を変更しました。どちらが良いと思いますか?特に反応が無ければ改訂版で続きを書こうと思います。
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改定前が良い
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改定後が良い