呪術廻戦『懐玉・玉折・玉消』   作:神切優羽

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玉折編
第6話:歪んだ平穏


蟬の時雨が、容赦なく高専の敷地を埋め尽くしていた。

例年と変わらない、うだるような東京の夏。青い空には入道雲がそびえ立ち、グラウンドの向こうでは陽炎が揺れている。

 

すべては、あまりにもいつも通りだった。

 

天内理子が死んだ。星漿体としての同化は失敗に終わり、呪術界の根幹を揺るがすはずの大事件が起きた。それなのに、時計の針は何の引っかかりもなく、平然と次の秒を刻み続けている。

 

「……おかしいな」

 

宵町摂は、自室の机で資料をめくりながら、静かに呟いた。

眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、自身の思考が弾き出す「世界の帳尻」の合わなさに、深い胡散臭さを感じていた。

 

同化の失敗。

高専の上層部が下した決定は、驚くべきことに「現状維持」だった。天元は暴走することもなく、結界が崩壊することもなく、世界は何事もなかったかのように平穏な日常を維持している。

事件の引き金となった盤星教は形ばかりの解体を見せたが、その信者たちの受け皿となる新たな宗教母体が、早くも地下で蠢き始めているという。それなのに、上層部には彼らを根絶やしにする動きすら見られない。事件そのものが、まるで最初からなかったかのように、綺麗な白い布で覆い隠されていく。

 

摂の眼が、冷たく細められる。

 

——最初から、すべての前提が狂っていたのではないか。

天元との同化は、一人の少女の命を強制的に奪ってまで成し遂げなければならない、呪術界の絶対命題だったはずだ。それが失敗したというのに、世界は平気な顔をして回っている。

本当に、あの少女の犠牲は必要だったのか。上層部の老人どもは、ただ自分たちの権力とシステムの維持のために、天内理子という命を都合のいい玩具にしただけではないのか。

 

「このままでは、僕たちも同じだ」

 

資料を閉じた摂は、ふと自身の脇腹へと手を当てた。

傷口は家入硝子の反転術式で完璧に塞がっている。だが、あの男——伏黒甚爾に肉体を踏み抜かれた衝撃は、未だに神経の奥底に生々しく焼き付いていた。ふとした瞬間に、耳の奥で拳銃の乾いた音がフラッシュバックする。

 

この歪んだ仕組みの中にいる限り、現場で血を流す術師は、あの上層部の老人たちに便利な『道具』として利用され、摩耗し、最後は使い捨てられる。それが、この理不尽な盤面から見通せる、最も確実な未来だった。

 

 

 

 

 

 

その夏の終わり、五条悟の「特級昇格」が正式に告げられた。

 

あの死闘を経て、悟は反転術式を完全にモノにし、術式反転のみならず、順転と反転を同時発動して放たれる『茈』を習得し「現代最強の呪術師」へと変貌を遂げていた。

かつては「僕たち三人で最強だ」と笑い合っていた日々が、まるで遠い過去の出来事のように感じられる。

 

「じゃ、行ってくるわ。夕方には戻るから、美味いもんでも食いに行こうぜ」

 

そう言って、一人で任務へと出かけていく悟の背中を見送る。

悟の術式が深化した今、彼に同行する意味は著しく低下していた。むしろ、周囲の人間が足手まといにすらなる。それが、現在の高専が下した最も効率的な結論だった。

 

摂は、隣に立つ夏油傑の横顔を、眼鏡の奥の瞳でそっと観察した。

傑は、いつも通りの穏やかな優等生の笑顔を浮かべて、去りゆく悟の背中を見つめている。

だが、その笑顔は偽物だった。世界を騙す術式を持つ摂だからこそ、傑が顔に張り付けている「嘘」の皮膚が、どれだけ薄く、今にも引き裂かれそうなほど強張っているかが分かってしまった。

 

「傑。……少し、顔色が悪いんじゃないか?」

 

「いや、気のせいさ。少し夏バテ気味なだけだよ。摂こそ、あまり根を詰めないようにね」

 

傑が言葉を発した瞬間、その喉が、何か酷く不味いものを無理やり胃の奥へ押し込むように、微かに、拒絶するように震えた。

摂はその異変に気づきながらも、それを指摘することは夏油のプライド——『弱きを助ける』という大義を傷つけると判断し、それ以上の言葉をかけることができなかった。

 

「……そうだね。僕もそろそろ任務の時間だ。行ってくるよ」

 

「ああ、気をつけて」

 

傑の微塵の隙もない笑顔に背を向け、摂は自身の任務先へと向かった。完璧すぎるものは、往々にして歪みを隠すための外壁だ。だが、今の摂には、その壁の向こう側を暴くための明確な拠り所が足りていなかった。

 

 

 

 

 

 

摂が割り当てられた任務は、都内の廃校に現れた一級呪霊の討伐だった。

 

不気味なほど静まり返った旧校舎の廊下。窓から差し込む夕日が、床の埃を赤黒く染めている。摂は具現化した『空音』を構えながら、ゆっくりと歩みを進めていた。

 

(……来るな)

 

前方の教室の扉が内側から静かに開き、異様な呪霊が廊下へと這い出てきた。

それは、古びたセーラー服を纏った、頭部の存在しない女生徒の怨霊だった。首から上が完全に欠落したその姿は、生前に受けたいじめの記憶——「誰も見たくない、何も聞きたくない」という強烈な拒絶が形を成したものだ。

 

「——『遍虚呪法』」

 

摂は即座に『空音』の刃で床を叩き、独特な不協和音を響かせた。

相手の認識を狂わせる五感催眠の音が呪霊を包み込む。

 

通常なら、これで呪霊の動きは完全に停止するはずだった。

 

しかし、呪霊は一切の速度を落とさない。それどころか、呪霊の足元から伸びた不気味な影が、まるで生き物のように廊下の床を這い、瞬く間に摂の足元へと肉薄した。

 

「ッ……!」

 

摂は直感的に横へ跳んだ。直後、摂が先ほどまでいた場所の影が文字通り実体化し、鋭利な黒い槍となって床から突き出た。

間髪入れずに、夕日に照らされた摂自身の影からも、無数の黒い触手が伸びて彼の身体を絡め取ろうとする。

 

(術式の手応えがない……。いや、術式は届いている。なのに、なぜ認識が狂わない?)

 

襲いかかる影の槍を『空音』で弾きながら、摂の鋭い観察眼が呪霊の特性を見抜く。

 

(そうか。目も耳もないのではない。あの呪霊は、生前の怨念によって、外部からの光や音といった『五感』を魂のレベルで最初から完全に閉じているんだ。僕の催眠を注ぎ込むための窓口が、ハナから存在しない……!)

 

呪霊は世界を見ていない。ただ、校舎内に広げた自身の影、あるいは摂自身の影が繋がった「影の領域」においてのみ、そこに存在する物体の位置を完璧に知覚し、その影を実体化させて物理攻撃を仕返してきているのだ。

 

(ならば——)

 

「……はあぁっ!」

 

摂は腹の底から呪力を絞り出し、可能な限り肉体を強化した。

 

前後左右、死角から波状攻撃で襲いかかる影の触手を、摂は『空音』の刃だけで必死に迎撃する。黒い刃が弾け、火花が散る。

 

「くっ……、ああぁッ!」

 

だが、近接戦闘に慣れていない摂の技量では、全方位から迫る影の槍をすべて防ぎきる事ができなかった。

肉体強化の防御を強引に突き破り、影の棘が摂の肩を、太ももを、脇腹を浅く切り裂いていく。滴る鮮血が廊下を汚した。

 

激痛。そして、圧倒的な物量への恐怖。

脳裏をよぎる甚爾の冷酷な獣の瞳を、摂は自身の誇りで強引に塗りつぶした。

 

(一度、引く……!)

 

摂は血を流しながらも冷徹に状況を観察し、背後の教室へと身を躍らせた。

追ってくる影の槍が廊下の壁を派手に粉砕する。

夕日が差し込むこの廊下は、敵にとって「どこにでも濃い影を作れる」絶好の領域だ。だが、摂はただ逃げたわけではなかった。

 

(僕の術式『空音』の虹色の光。あれは対象に催眠をかけるための波長だが……純粋なエネルギーの光でもある)

 

摂は、この戦いを終わらせるための攻略方法を考えていた。

 

「……僕の影だけが、この世界のすべてだと思わないことだね」

 

教室内まで伸びてきた影の触手が、一斉に摂の心臓を目がけて突き出された瞬間。

摂は『空音』の刀身に、全力で呪力を注ぎ込んだ。

 

催眠のためではない。ただ純粋な、影を消し去るための「光源」として。

 

「——輝け」

 

直後、廃校の一角が、迫る暗闇を拒絶するほどの凄まじい閃光に包まれた。

『空音』から放たれたのは、網膜を焼き尽くさんばかりの、眩い極彩色の、爆発的な虹色の光。

 

パァン!!! と空間が鳴動するほどの閃光が教室内、そして廊下を完全に満たした。

強力な全方位からの光の照射により、校舎内に存在していたすべての物体の「影」が、文字通り一瞬にして地上から完全に消滅した。

 

「————!?」

 

頭部のない呪霊の身体が、不自然に硬直した。

世界を感知するための唯一の器官だった「影の領域」を完全に消失させられ、呪霊は文字通り、一瞬にして『完全な盲目(闇)』へと叩き落とされたのだ。

 

「終わりだよ」

 

光が収束するよりも早く。

摂は地を蹴り、自身の影すら消えた無音の空間を最高速度で駆け抜けた。

先ほど負った負傷で、骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。だが、その泥臭い一歩が、確実に敵の懐を捉えた。

 

術式に頼らない、純粋な物理の一閃。

『空音』の刃が、呪霊の胸元を深く、一文字に切り裂いた。

 

一級呪霊の巨躯は、悲鳴を上げることすら許されず、音もなく静かに塵へと還っていった。

 

任務は完了した。しかし、摂の胸に残ったのは、勝利の余韻などではなく、冷や汗がにじむほどの「底なしの焦燥感」だった。

 

(もし、光が届かない死角が少しでも残っていたら。もし、敵が近接戦闘が得意だったら。僕は今頃あの床に転がっていた。……術式に頼り切った僕の肉体は、あまりにも脆弱だ)

 

 

 

 

 

 

高専に戻り、硝子に傷を塞がれた後、いつも通り悟と傑に連れ出されて男三人でラーメンを食った。

胃袋に放り込んだスープの熱さすら、どこか他人事のように遠い。

 

夜、男子寮の自動販売機の前で、摂は一人、手に持った冷えた缶コーラを眺めていた。

 

悟も傑も一人で任務に行くことが増えた。硝子は医務室に籠りきりだ。かつて、狭い教室でくだらない冗談を言い合っていた四人の空間は、それぞれの「役割」というシステムによって、バラバラに解体されつつあった。

 

ベンチに腰掛け、冷たい缶を手のひらで転がしながら、摂は思考の海に沈んでいく。

今回の戦闘で、冷酷な現実を突きつけられた。もし、あの場にいたのが僕でなく悟なら、無下限のバリアで一歩も動かずに瞬殺していただろう。傑なら、あの呪霊の特性すら利用して自分の手駒にしていたはずだ。

 

だが、自分は術式が通じない相手というだけで、これほどまでに醜く、泥臭い辛勝を強いられた。

もし、このままこの歪んだ構造が回り続ければ、どうなる。

五条悟という規格外の存在を起点に、高専のパワーバランスは完全に崩壊しつつある。もし、いつか僕や傑が、あの凄惨な戦いの時のように床に転がり、冷たい死体となって戻ってくるようなことがあれば——。

 

摂の脳内に、最悪の情景が浮かび上がる。

 

もし、僕が死ねば。

「最強」になったはずの悟は、自分の隣にいた者をまた救えなかったと、その圧倒的な力を持て余しながら、一生消えない罪悪感に苛まれるだろう。

硝子は、もう見飽きたはずの傷をまた塞ぐことになり、その心に修復不可能な傷を負うだろう。

指の間から砂が零れるように壊れかけている傑は、僕の死という決定打によって、完全に暗闇へと突き落とされるに違いない。

 

———残された仲間たちに、そんな悲しみや罪悪感を与える未来。

それらを未然に防ぐための選択肢は、現時点では一つしか残されていない。

自分が、絶対に死なないことだ。

 

「……上層部の老人どもに、これ以上都合よく使われてたまるか」

 

ぬるくなりかけたコーラを飲み干し、立ち上がる。

 

術式の便利さに頼り切り、基盤となる肉体を軽視していたツケが、今になって回ってきている。

 

「最強」になった悟の隣に、ただの「荷物」として居座るつもりはない。傑が崩れ落ちる前に、その肩を支えられるだけの強度を持たなければならない。上層部の不条理な命令を、力ずくで撥ね退けられるだけの牙が必要だ。

 

昼間の猛暑が嘘のように、冷たい夜風が摂の頬を撫でた。

摂は眼鏡をかけ直し、上着の襟を合わせると、そのまま暗い石段と渡り廊下を抜け、静まり返った夜の道場へと歩き出した。

 

まずはこの肉体(げんじつ)を、術式に頼らずとも戦えるレベルまで鍛え上げる。

暗闇の道場で、摂は一人、『空音』を具現化し、その柄を強く握りしめた。それが、歪んだ世界を生き抜くために、何より大切な仲間たちの未来を守るために、導き出した最初の回答だった。




不定期更新で申し訳ありません。
リアルが忙しくなるので投稿頻度が低くなると思います。
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