超、くらげほねなし。   作:浜地

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一章

 蒸し暑い七月の暮れ。

 三連休も終わり、期末テストも終わった高校生たちが、連れ立って校門をくぐる真昼過ぎ。

 茹だるようなという形容にはまだ早く、かといって過ごしやすい温暖さでもない。むしろ高く登りつめた太陽がじりじりと素肌を炙る不快感のほうが強くある。

 二、三人で固まって話しながら帰路につく学生たちを横目に、刑部(おさかべ)海月(みづき)は一人背を丸めながら歩いていた。

 外面だけは涼しげな白いセーラー服に身を包みつつも、じとりと額に滲む汗。腰に巻かれた薄手の羽織を着なおそうかと一瞬だけ考えるも、焼ける暑さが蒸し暑さに代わるだけだと躊躇する。

 ――こういう時に限って部室使えないの、ほんとなんなんだろ。

 部活があれば、部員の友人と涼しい部屋で喋りつつ部長が来るまでゆっくり出来たのに。一応今日が終わるまでは期末試験中という区切りがある以上、顧問から部室の鍵は受け取れない。

 塾やらスポーツクラブに通うほどの優等生なら、こんな暑さは無視してライバルと一夏の大舞台に打ち込むことも出来たろうに。

 或いは、試験勉強でも一緒にするような友人がいれば。期末テストの打ち上げという名目でパンケーキでも食べることが出来たのに。

「⋯⋯あーあ。ダルすぎ」

 何も考えてないような無表情で日差しの降り注ぐ校門を抜ける。周囲の誰とも違ってただ一人、責め立てるような陽光の中を歩いていく。

 狭まる眉間はきっと、太陽が眩しすぎるからに違いない。

 肩で大きく息を一つ。はあと肩を落とした海月は、ふと顔を上げる。街路樹の日陰に、同じような白いセーラー服を着た少女を見つける。

 真っ白な肌に、色が薄く茶色い瞳。誰かを待っているかのような、それでも来ないんだろうと諦めているような俯きがちの視線。小さく唾を飲み下す喉。

 ほんの少しだけ和らいだ蒸し暑さ。ほっとそよぐ微風。

 ――やっぱり。

 彼女がたった一人ぽつんと木陰に立ち尽くすのを見て、海月はにまりと口角をあげた。

 

真皓(ましろ)っ、一緒に帰ろ!」

 

 駆け寄りながら肩を叩く。「わひゃ」と素っ頓狂な声を上げて振り向いた少女の顔から目を逸らし、背中を押して木漏れ日の狭間から押し出してやる。

「み、海月⋯⋯!?」

 なんでここに、とも他の人は、ともつかない言葉にならぬ言葉を話すかのごとく、真皓はパクパクと口を開いた。

 まるで金魚みたい。海月はふっと浮かんだ思考を打ち消して笑い、色味の薄い顔を真っ赤にした真皓に正対する。

「へへん、今日は部活は休みなんだよ。演劇部って一応マジメで通ってますから?」

「あ。そういえばまだ試験期間だった⋯⋯よね」

「そゆこと。だから今日もお邪魔させてもらおっかな?」

 ちらりと真皓の横顔を覗き込む。俯きがちの瞳が一瞬上がり、大きく何度か頷いた。

 それから数言なにかを考えるようにまた押し黙り、口を開く。

「た、大変だね⋯⋯遠くからわざわざ、この学校に来るなんて。片道三時間⋯⋯だっけ」

 海月はううんと首を振る。

 確かに、バスと電車を乗り継いで、海を挟んで隣のそのまた隣の市の山の奥まで帰らないといけない。

 寮に入ることも考えたけれど、ただ車窓に揺られるだけの自由時間と見ればそこまで悪いものでもなかった。

 なんせ。昼ご飯代も定期もスマコンも、今どき珍しい紙の本代だって親から出ているんだし。

「いやいや。遅くまで親御さんが帰ってこない真皓のほうが大変だって。昼も夜も自分で作るんでしょ? 実質一人暮らしじゃん」

 真皓はえへへと気恥ずかしそうに笑い、学生鞄の持ち手を握りしめる。

「⋯⋯から」

 何事か呟いてもう一度眩しさから逃れるように顔を伏せる。

 そのまま足早に歩き始めた彼女の後ろを、海月は少しだけ小走りに追いかけた。

「えっ? なになに、なんて?」

「な。なんでもないよ⋯⋯」

 首を振る。真皓の髪の毛が揺れる。飾り気のない学生カバンが大きく跳ねる。

 白い猿を模したお守りのストラップが軽快にチリンと音を立てるのを見て、少しだけ口元が上がる。

「そう? でも気になるじゃん?」

 数歩先。自動販売機の影を踏む。真皓の後ろ姿を追い越して、くるりと爪先だけで回りながら真皓の瞳を覗き込む。

 早く帰ろうよと手を伸ばした海月の眼の前で、真皓はチリチリと鳴るお守りの鈴を抑えつけるように鞄を抱き締めた。

「ひ、秘するが花⋯⋯だし」

「あ。そういう物書きっぽい言い方はんたーい! 伝わらなきゃなんにもなんないでしょー?」

 海月の喉からひとりでにからりと笑い声が溢れる。全く意図することなく、しょうがないかと流して一歩遅めに歩を進める。

 ひび割れたアスファルトの隙間から伸びた雑草をローファーで踏みつけつつ、もう一歩。歩幅を合わせるように足取りを落とす。

 すぐに真皓が追いついてきたのを見て、海月はわざとらしく背伸びをした。

 

「⋯⋯⋯⋯ね、海月。ならさ」

「あーあ。夏休み何しよっかな」

 

 ん。真皓の方を振り返ると、鞄から取り出したばかりと見えるスマホを手に立ち止まっていた。

 ニイニイと甲高く蝉の声がする。ノイズにも似た高音が、茹だるような蜃気楼の最中に伸びていく。

 真皓の目が一瞬だけ黄色く輝く。輪郭を縁取るようにして通電したスマコンの灯りが、慌てて隠されたスマホの電源と一緒に暗く元の茶色い瞳へと戻っていった。

「⋯⋯あ、や、うん。なんでもない」

「いやいや、言ってよ」

 言い淀んだ真皓の目を見つめながら、海月は自身のスマコンを起動する。今や誰もが使えるほどにまで進歩したAR技術によって視界にいくつかのポップアップが浮かび、昔ながらのメールサービスのアプリをちらりと一瞥。

 通知は無し。真皓のことだから、何か送ってきたのかと思ったけど。

 ふうと熱された息をこぼして目を瞑る。スマコンの電源を切り、元の飾り気のない夏の帰路へと視界を戻していく。

 真皓はその一瞬だけで、海月の傍まで小走りに駆け寄って来ていた。

「いいの。ほ、ほら⋯⋯夏休みといえば、塾とか。海月は?」

 話を逸らすかのように少しだけ早口になる真皓の影を踏みつつ、また歩き出す。

「⋯⋯行ってない。どうせ大学とか、なんか推薦だとかエーオー? だとか使って適当にやるしね」

 いわば気楽な夏休み。何をするでもない、何か目標があるわけでもない。

 大概みんな、こんなもんだろう。東大だとかゲーム系の学校だとか、目指すような頭も腕もないんだし。

 たまたま、友達の第一志望がそこだった。そのくらいで縁もゆかりも無い文芸の大学をぼんやり受験したって、バチはあたるまい。

「え⋯⋯親とか、何も言わないの?」

 ぽつり。うちなんて、と。真皓の唇だけが動いた。

 言葉ならず呟いた彼女は、はっと咄嗟に口を覆う。それが言ってはいけない言葉だったと気づいたみたいに、真皓は恥ずかしそうに肩をすぼめる。

 伏し目がちに顔色を窺うかのように見上げる真皓からわざとらしく視線を外し、海月は軽く少女の小さな肩を数度ぽんぽんと叩いた。

 

 ⋯⋯真皓は深く考えすぎ。言葉一つに、どれだけだって考えちゃうから。

 別に。ただの雑談だもん。こんな話。

 

「――――もう、心配性め!」

 ばしん、と真皓の背中を叩く。吃驚したように少女の肩が跳ね、お守りの鈴が響きのない乾いた音を立てる。

 じとり。視線を向けた真皓に、海月はもう一度にへらと口元をあげた。

「大丈夫大丈夫。進路なんてどこでも同じだって。どこに行くかより、何をするか――でしょ?」

 だから、きっと大丈夫。自分に言い聞かせるみたいに笑みを維持する。

 真皓のお宅の事には立ち入れない。真皓だって、私に踏み込まれたくないことくらいあるだろう。

 だけど。言葉だけなら。口ではどうとでも言えるんだし。

「いつも言ってるね、それ⋯⋯。だ、誰かの名言?」

 真皓がぽつりと呆れたように零す。「ここだ」。海月はいっそわざとらしく路肩の縁石の上に飛び乗ると、真皓の方だけを見つめながら親指でずびしと自分を指し示す。

 ネタはネタだってわかるように。突拍子もないけど、空気をまるきり替えられること。

 あっけにとられる隙すら与えず、出来るだけ朗らかな声でキメ顔を作った。

「そ。刑部海月って人の!」

 ふっ、と短く息を零す。反らして張った胸で風を切り、高くあげた腕を生温い空気に押しつける。

 一瞬だけ止まった二人の間を、立ち上る蜃気楼が隔てる。どこか遠くの道から原付バイクのエンジン音が響く。

 ニイニイと甲高い蝉の声が止まる。ちりん、とお守りの鈴が緩やかな風にそよぐ音がする。

 そうやって数秒。少しずつ降り注ぐ太陽の熱が顔を炙る。少しずつ熱を持つ頬に何も感じないふりをして、痛いくらいに跳ねる心臓を差し出して。

「⋯⋯ふふっ」

 お。にまりと口元をあげる。堪えるように俯いて肩を震わせる真皓を前に小さく後ろ手でガッツポーズ。

「あははっ。海月、ついに自分の名言も言うようになったんだ」

 息継ぎをするように、喘ぐように、真皓は顔を上げて笑った。

 太陽の眩しさでも目を瞑ることなくけらけらと笑う真皓の顔を見て、海月はほっと胸を撫で下ろしつつ自分の頬を上げ返す。

「へへ。最近のマイブームは名言の自作なのだ」

 さあいこうと促して歩き出す。後ろをぴったりついてくるローファーの足音と共に、浅く息を吸いながらの上ずった声が重なった。

「そ、それ。始業式の時も言ってたよ? いつのまにかドジョウすくいしたいに変わってたけど」

「そだっけ?」

 真皓が楽しそうに笑う。顔を見なくても、もうわかる。

 海月は彼女に負けないよう、気楽なふうに返していく。

「そうだよ。⋯⋯海月ったら、ちゃんとゴールデンウィークの予定あけてたのに。気づいたら近場で食い倒れしようとしてたし」

「いやー。本場は普通六月からって聞いてさー。⋯⋯でも美味しかったでしょ、パンケーキ」

 ね。突然くるりと振り返り、真皓を自分の隣に引っ張ってから挑発的に微笑んだ。

 こくりと一つ頷いたのを見て、また歩き出す。

 少しでも反応が返ってくる。それほど嬉しいことはない。

 いきなり真皓を外に連れ出して街の方まで繰り出した甲斐があったというもの。自分みたいに予定なんて忘れてるものだと思っていたけど。

 二人で連れ立ってそのまま無言で歩いていると、道のほとりに小さな保育園が見えた。

「――お。ここの保育所、今日は休みかな。⋯⋯あでもまだ夏休みじゃないっぽい?」

 遊び疲れた昼下がりに寝静まっているのか、カーテンも閉められて静けさだけを醸し出す。

 海月は古びた柵の上から中の様子を伺うようにぴょんと跳ねると、そのまま横の掲示板へ走り寄った。

 目につく文字ならなんとなく目で追ってしまう悪い癖。直そうと思ってもないけれど、真皓の前だとついやってしまう。

 真皓を置いて駆け出してしまったことを思い出して振り返れば、少女は小走りで追いついてきていた。

「⋯⋯なら、昼寝の時間じゃないかな?」

「そうかも? いいなー昼寝。私らじゃテスト時間しか寝るタイミングないし⋯⋯」

 ふあ。と、思わずあくびが出た。

 ここで一拍。ツッコミ待ち。

「えと。寝不足?」

 真皓が少し心配そうに声をかける。そうだったと思い直して、違うよとばかりに手を振って。

 へへ、海月はにまりとほくそ笑み、大きく背のびする。

 遅れて真皓にあくびが映ったのを目の端で捉えながら、また口を開いた。

「あーあ。帝様に寝かしつけられるASMRでも出てくれればなあ」

 ちり。軽やかな鈴の音が止まる。小さく息を呑む声が海月の少し後ろから聞こえてくる。

 立ち止まって数歩分だけ遅れた真皓は、路面の罅割れを踏みしめるようにまた海月の横へと歩み寄る。

 そうして少しだけ低く沈んだ声色で尋ねた。

「⋯⋯芸能人か、誰か?」

「んー。たぶんそう、恐らくそう⋯⋯ってこりゃアキネーターか」

 海月は流れるように口ずさみながら真皓の方を振り向いた。

 ――せっかくのいい機会だし。

 ほんの少し空を仰いで、歌うように語る。

「最近流行りのプロゲーマーだよ。バーチャルなアバターで配信してるライバーなんだけどね。それにしたって顔は良いし声は良いし何より子兎どもって言い方がカッコよくてね、俺様系のキャラ付けと声の後ろの方から滲むよく見てる感っていうか、なんていうかファンネームとしてピッタリって言うか?」

「⋯⋯その人、好きなの?」

 真皓の問いかけに、海月は軽く返した。

「いやぁ、あったらいいなってだけ。ボイス系のライバーじゃないからASMRなんて売られてないし⋯⋯帝様がそんな優しく寝かしつけてくれるなんて解釈違いだし」

「ふーん……」

「あでも昨夜読んだ夢小説でそのシチュあってさ。いやね凄いんだよ描写の質感がさ。ちょっと““““ガチ””””の人が書いた凄味っていうか、夢中で書きまくってる感じの熱量でね。

 ……あーこういうの憧れちゃうなって思って読みふけってたらいつの間にか日が昇ってるの! びっくりだよね、朝の四時に何してるんだい? って感じで」

 そこまで一気に話したところで、海月は小さくやべと舌を出す。

 聞かれてもないのに全部言ってしまう悪い癖。直そうとは思っているけど直らない。

 恐る恐る目線をあげれば、真皓はほっとしたように口を開けていた。

「⋯⋯あ。もしかして、寝不足って」

「バレた?」

 はぁ。少女は頬を膨らませながら意地悪く口元をあげる。

「⋯⋯海月、うちのソファで横になるの禁止ね」

 冗談めかして笑った後、気を取り直したように歩き出す。

 汗で唇に張り付いた髪をかき寄せながら足早に歩いていく真皓を、今度は海月が追いかける番だ。

「ちょ、そんな殺生な!」

「もう、早く帰ろう? 海月、いつも話し出したら勝手に楽しくなっちゃうんだから……」

 ぽつぽつと言葉を残す真皓を追いかけていると、何か話す事も忘れてしまう。

 歩くことに集中しているのか押し黙ったままの彼女の顔を時折横目に見ながら、車通りの多い国道沿いへ。

 自動車の排気ガスの音、エンジンの端正なノイズの音。蝉の鳴き声とはまた違った音の雨が耳を撫でる。

 アスファルトで固められた歩道の横手につき立つ背の高いマンションの前に立った真皓は、田舎では見る事も出来ないその威容を眼に留めることもなく真新しい自動ドアを潜った。

「お邪魔しまーす」

「ふふっ、早いよ?」

 オートロックというのだったか。真皓がボタンを数度押すと、エントランスへ続く自動ドアが開く。埃一つないタイル張りの広間にはなんだか高そうな彫刻が刻まれた壁と飾り棚が広がっている。

 ——あんまりじろじろ見るモノじゃないか。

 海月がうんと独り合点して頷く間、真皓は慣れた足取りでエレベーターのボタンを押していた。

 上へ、上へと登っていく小さな箱のなか。何度も来たって慣れない感覚。

 海月はそわりと洒落るように口に出す。

「……もういい? お邪魔しますって言っていい?」

 真皓は軽く首を振って、まだだよと返す。

 そうかと思えばエレベーターが開く。周りの家々や国道を往くどの自動車よりも空に近い拓かれた光景が、短く細い廊下の横手に広がる。

 並ぶ均質な扉のうちの一室に手を掛けた真皓は、ふうと汗をぬぐいながらようやく「はいどうぞ」と呟いた。

「海月、いつも通り麦茶でいい?」

 とんとんと真っ白い靴下がフローリングを滑る。水道の蛇口をひねる音、ガラスのコップが洗われる音。

 薄暗い廊下、幾つかの部屋を隔てる扉。

 今でこそ日差しが差し込まない整頓された玄関先には、学生用のローファーしか置かれていない。

 海月は真皓を追いかけるように、靴を揃えてリビングのほうへと向かう。

「いやぁ、極楽極楽!」

「大げさ⋯⋯エアコンとか、つけたばっかりだし」

「あんな殺人級の日差しを受けないだけで十分だって。あんなの日射病(・・・)になっちゃうよ」

 大きな薄型テレビの前に鎮座するソファに転がり込んだ海月の頬に、冷たい風が吹き付けた。

 猿のお守りが括り付けられた真皓の鞄に添えるように肩掛け鞄を下ろす。

 ふう、と嘆息。ふかふかのソファに歩き詰めで疲れた足腰が柔らかく受け止められていく。

「⋯⋯あ、熱中症だっけ? ごめんね、この前見た古い映画のセリフが移っちゃって」

「ううん。海月が沢山見たり読んだりするの、知ってるから」

 ことりと音を立てて、ソファの傍のテーブルにコップが二つ並んだ。

 感謝の言葉を述べる間もなく、真皓はまた台所のほうへ。

「の、飲んでていいから。⋯⋯お昼ご飯、まだだよね?」

 え。麦茶に手を伸ばそうとした腕が止まる。

 そりゃ流石にと首を振って立ち上がった刹那、台所の奥から真皓が告げた。

「いいよ、座ってて。素麺しかないけど⋯⋯一人分も二人分も変わんないから」

 そう言われてしまうと立つ瀬がない。おずおずとソファに座り直し、髪を軽くヘアゴムで結んだ少女の頭だけを見つめる。

 キッチンカウンターの奥であっという間に素麺を茹で終えた真皓は、とんと包丁を振るって添え物で飾り、そうしてまた海月のもとへと戻ってきた。

 ガラスの皿に盛り付けられた素麺と、空のお椀を二つ。それに冷たい麺つゆ。

 ネギとハムと玉子とで飾られた簡素な昼食を前に、真皓は来客用の朱塗りの箸を海月の前に差し出した。

「どうぞ、ぜひ召し上がって。お粗末なものだけど⋯⋯」

「それじゃあ⋯⋯お言葉に甘えて」

 いただきます。二人声を合わせて手を合わせる。

 麦茶一杯で喉を潤し、素朴な味付けの素麺をすする。麺つゆの濃い味が汗になった塩気を注ぎ足し、外気に触れてぬるくなるハムが舌を滑る。

 からりと溶ける氷。夏だなって感じの音。

 ふと。対になる黒色の箸を手に素麺を食べている真皓の方に目を向けた。

「ん」

 ちょうど同じタイミングで海月の顔を見つめていた彼女は、おもむろに箸を置いて唇の下あたりを指さす。

 なんだろうと首をひねったのも束の間、真皓の手が素麺の皿を飛び越えて海月の口元を撫でた。

 仄かな体温を一瞬だけ伝えて、また離れる。少女の色味の薄い指先を目で追って、はっとしたように肩をすくめる。

「⋯⋯つ、ついてた?」

「ネギ」

 言葉少なに指先を舐め取った真皓に、海月はむむむと小さく唸った。

「言ってもらえばいいのに⋯⋯」

「い、言うより早いかなって⋯⋯」

 おずおずと返した少女はそれきり黙って素麺を口に含む。

 もきゅもきゅと咀嚼してから飲み込む姿は、どことなく小動物にも似ているような。だけどそれより少しくらいは大きくて、上品かも。

 海月。小さくカチャリと音を立てて箸をおいた真皓に、海月は軽く首を振って素麺を手繰った。

 心配そうに見つめてくる目。すわ夏バテか何かかと思っているのか、再度台所に立とうとそわそわする膝小僧。

 ――考えすぎ!

 思い切りお椀を口に添えて傾け、麺つゆまで飲み干して、それから急ぎ気味に手を合わせる。

 真皓も続いて頭を下げ、食器を重ねて台所の方へと引っ込んだ。

「はぁ、食べた食べた。ごちそうさま!」

「ふふっ。お粗末様ですが」

 水道の水が流れる音。食洗機の動く音。効きの早い冷房が体の熱を冷まして、いっぱいになったお腹をさする。

 海月はうんと大きく伸びると、鞄を枕にソファへ寝転がる。

 ことり。音を立てて新しい麦茶をテーブルに置いた真皓は、小さな座布団のうえに正座してから肘をついた。

 体重をテーブルに預け、涼しい空気を全面に味わう。そんな体勢だ。

 傍らにはスマホ。画面を伏せられた飾り気のない真っ白な筐体は、どことなく真皓の後ろ姿を連想させられて。

 

「あっそうだ」

 自分のことを静かに見つめる真皓を見つめ返していると。ふと。海月の脳内でポンと一つ思い出したことがあった。

「真皓、さっき⋯⋯というか結構前、何か言いかけてたよね。何だったの?」

「うひゃっ!?」

 びくり。肩を震わせて飛び上がりかけた真皓は、頬を朱に染めながら首を振る。

 咄嗟にスマホを手に取って違うと何度も顔の前で揺手するさまは、彼女が言いかけた事を如実に示しているようで。

「な、なんでもないの。海月、たくさん本読むのに忙しそうだし⋯⋯」

「そう言ってぇ。バレバレなんだからね」

 隠し事をする時、ぎゅっと隠したいものを握って否定する癖。ずっと前から知ってるけど、私だけの秘密にしてる真皓の手癖。

 ――わかりやすすぎ。私じゃなきゃきっと、いつか騙されてる。

 にへらと笑みを浮かべた海月は、両手の十本の指で彼女の右手を手にとって絡めた。

 逃れられないよう、スマホが落ちないよう。小さな言葉の刺糸(さしいと)と共に指の腹を白い柔肌にあてがっていく。

 

「読ませてよ。真皓の小説。頑張って書いたんでしょ?」

 

 数拍。数秒。クーラーの音だけが響く部屋の中で、真皓は逡巡するように視線をそらした。

 スマホと共に腕をテーブルの上におろし、海月の両手をこつりと乾いた木目のうえに横たえる。

 浅く息を吸って、息継ぎするみたいに顔を背けて。

「⋯⋯⋯⋯やだ」

 ギュッと目を瞑ったままの真皓。海月は小さく唇を尖らせる。

「なんでさ。書き上げられた小説なんて、絶対いい作品だと思うのに」

「クラゲの骨で出来てるから」

 ぽつり。呟く。はぐらかすような、芯を吐き出すような、そんな声色。

 からり。氷が溶ける。麦茶のグラスについた水滴がテーブルの上を湿す。

 低周波音と共に向きを上下に変える冷房の風が、二人の間を滑っていく。

 喉の奥から絞り出すような言葉を聞いて、海月は小さく肩を竦めた。

「あー、また物書きっぽい言い方」

 にへらと笑って手を離すと、真皓のほうもスマホを握る手から力を抜く。

「古典の授業でやったじゃん⋯⋯【そんなに珍しい扇子の骨は、きっとクラゲの骨なんでしょうね】って」

「そだっけ?」

「うん⋯⋯寝てたんだね⋯⋯」

 呆れるように笑う真皓を見つめる瞳。踏み込まないよう逸らす視線。

 海月は一瞬笑顔に隠すようにして目を伏せる。

 

 ——嘘をついた。

 ほんとはよく覚えてる。枕草子のワンシーン。見たこともないほど珍しく素晴らしい扇子の骨を手に入れたと自慢気に話す貴族に、清少納言が「そんなもの手に入れてないんでしょ」と冷やかして返すお話。

 先生は「貴族の男は朗らかな性格で、話のタネで大げさに言っただけ。本当に扇子を作る予定はなかったのだろう。それを見透かした清少納言のツッコミだ」と解説してくれたのも覚えてる。

 ⋯⋯でも。もしも。本当にクラゲの骨で出来ていたのなら。

 ないはずのクラゲの骨で出来た扇子なら、そりゃ珍しいものに決まってる。ならその扇子の紙は、きっと竜宮城の障子に違いない。

 そんな素晴らしいもの、絶対に存在しないって言い切れない。

 

「⋯⋯どうだろ」

 

 見栄を張って、自慢話として、作れないものをネタにする。それを見透かして冷笑するのは、なんとなく嫌いだ。

 ――真皓がそれを言い訳っぽく言うのも。なんとなく嫌だ。本当は凄いものを書いてるはずなのに、書いてないよってぼかすのはなんだか仲間外れにされてる気がする。

「⋯⋯小説家だったら、読ませてくれるのかな」

 ぽつ。海月の口から溜息が溢れる

 だらりとソファに脱力して、額を隠すように手をやって。 

「⋯⋯⋯⋯でも海月。机に向かうの苦手そうだけど?」

「へへ、確かに」

 

 にへらともう一度笑った。身体を起こして何でもないようなフリをして。

 

 その時。ふと。

 海月の脳内に、一つのアイデアが思い浮かんだ。

 

「⋯⋯そうだ、真皓さ」

 

 猿のお守りが揺れる鞄。教科書の隙間に覗くスマコンのケース。

 真皓の手元のスマホをちらりと一瞥して、彼女の顔をしっかり見つめながら口を開く。

 ――機材はある。私も、真皓も。夏休みっていう時間だってたぶんある。

 ――あとは真皓がやってくれるかどうかだけ。

 ――一緒に、ツクヨミを楽しんでくれれば。誰もが創作者の海で、私に、真皓の小説を読ませてくれたなら。

 

 

「夏休み暇だったりする⋯⋯かな?」

 

 

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