インフィニット・ストラトス ~暮桜の懺悔~ 作:熾天使セラフィム
南米ボリビア南西部。
そこには、ウユニ塩湖と呼ばれる広大な塩の大地が広がっている。
約一万平方キロメートル――東京都のおよそ五倍にも及ぶ、世界最大の塩湖。
さらに、高低差が五十センチ以内という“世界で最も平らな場所”でもある。雨季になれば薄く水が張り、空を映す“天空の鏡”が現れることで知られていた。
「……知識としては知っていても、来たことはないはずなんだけどな」
いま、俺の目の前にはその絶景が広がっていた。
視界の端から端までを埋め尽くすのは、混じり気のない純白と、吸い込まれるようなコバルトブルー。
見上げれば、雲ひとつない快晴の空。
そして足元には、もうひとつの空があった。
数センチだけ張った水膜が、波ひとつない鏡面となって頭上の蒼穹をそのまま映し出している。
境界線が、ない。
どこまでが本物の空で、どこからが写し鏡なのか。
水平線は消え失せ、まるで宇宙の真ん中へ放り出されたような錯覚を覚える。
一歩踏み出す。
波紋が静かに同心円を描き、鏡の中の空をわずかに揺らした。
上下の区別すら曖昧になる青の世界。
風の音だけが耳を掠め、僕は天と地の狭間に浮かんでいるような、不思議な浮遊感に包まれていた。
「どうだ。綺麗だろう」
背後から声がした。
振り向く。
そこにいたのは、武士のような装束を纏った大和撫子だった。
長い黒髪を一本に束ねたその顔立ちは、どこか織斑千冬に似ている。
だが、身長が違いすぎる。
俺は一九二センチ。対して、織斑千冬は一六六センチのはずだ。
しかし、目の前の女性は少なくとも母さんと同じくらいある。百八十センチ前後、といったところか。
こんな長身の女性、僕の知る限りでは母さんと現日本代表の霧島結花くらいしかいない。
となると――
「暮桜、か」
「正解だ」
彼女はあっさり頷いた。
「それで? 一体なんの用で僕をここに連れてきたんだ?」
問いかけると、暮桜は静かに腕を振る。
瞬間、景色が塗り替わった。
気づけばそこは、古びた和室だった。
狭い畳部屋の中央にはちゃぶ台と座布団が二つ。どこか昔の日本家屋を思わせる空間だ。
「少し話をしよう。茶を淹れてくる。待っていろ」
そう言い残し、彼女は障子の向こうへ消える。
逃げる方法を考えようとして、すぐに諦めた。
そもそもここがどこなのか分からない。
加えて、ISである彼女から逃げ切れるとも思えなかった。
僕は大人しく座布団に腰を下ろした。
「待たせたな」
戻ってきた暮桜は、盆に載せた湯呑みを差し出してくる。
湯気は立っている。だが、触れても熱くない。
口をつけても、味がしなかった。
「ここは仮想空間だ」
暮桜はちゃぶ台を挟んで向かいへ座る。
「お前の知識で言えば、“固有結界”と呼ぶのが近いか。もっとも、あちらのように現実へ干渉する力はないがな」
「なるほど。術者の好きに景色を書き換えられるってわけか」
「そういうことだ」
暮桜は頷き、静かに僕を見据えた。
「わざわざここへ呼んだのは、内緒話でもしたかったのか?」
「無論だ」
湯呑みを置き、彼女は腕を組む。
「お前は何故ここへ来た?」
「……は?」
「聞き方を変えよう」
その視線が鋭くなる。
「この世界へ来て、お前は何をするつもりだ?」
「意味が分からないな。この世界って――」
「阪神淡路大震災。東日本大震災。新型コロナウイルス」
心臓が止まりかけた。
「……それが、どうした」
「すべて、この世界では起きていない出来事だ」
暮桜は静かに告げる。
「なぁ、“渡り人”。あるいは……転生者、と呼ぶべきか?」
何故知っている。
転生のことは母さん以外に話していない。
まして、今の三つなど口にした覚えもない。
どこから漏れた?
「どうして知っているかは、今は答えん」
僕の動揺を見透かしたように、暮桜は言った。
「それより答えろ。お前はこの世界で何をする」
何をする、だと。
「決まってる」
迷いはなかった。
「母さんに報いる」
女手一つで育ててくれた。
大学まで行かせてくれた。
まともじゃない僕を、見捨てずにここまで連れてきてくれた。
「だからまず、自分で自分を守れる力を得る」
母さんは世界的なIS研究者だ。
篠ノ之束を除けば、最も有名な技術者と言っていい。
当然、狙う人間もいる。
倉持技研も日本政府も護衛を付けているが、それでも次に狙われるのは誰か。
決まっている。
息子の僕だ。
暮桜は、値踏みするように僕を見つめた。
「それが、お前の望みか」
そして静かに問う。
「世界に立ち向かう覚悟はあるのか?」
覚悟。
そんなもの――
「こっちは一回、トラックに轢かれて死んでるんだ」
笑って答える。
「死ぬ以外は怖くないね」
その瞬間。
暮桜は、ほんの少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「……ならば、私を使え」
彼女は立ち上がり、僕の手を取る。
そのまま、自らの胸へ導いた。
「っ――」
手が、沈む。
まるで水の中へ差し込んだように、彼女の身体へ吸い込まれていく。
「お前が真に望めば、私は無二の力を与える」
暮桜は囁く。
「世界にも、篠ノ之束にも抗える力を」
「……なんでそこで篠ノ之束が出てくる」
「彼女は純粋だ」
暮桜は苦笑するように言った。
「故に、お前にも必ず興味を持つ。様々な刺客も送ってくるだろう」
そして真っ直ぐに僕を見る。
「だが行け。恐れるな」
その身体が、少しずつ砂のように崩れ始める。
「自らの可能性を信じ、力を尽くせ。道は必ず拓ける」
「お、おい! 身体が――!」
「許せとは言わん」
崩れゆく中で、暮桜は笑った。
「私は好きにした。なら、お前も好きにしろ」
そして。
最後に柔らかな微笑みだけを残し、彼女は静かに消えた。