今回は酷いお話です。
深い紫色のカーテンをすり抜けた午後の陽光が、風紀委員会本部の重々しい執務室を柔らかく照らしていた。
カタカタ、カタカタカタ……。
室内には、積み上げられた書類の山と戦う天雨アコと風紀委員たちの、悲壮感漂うペン音とキーボードの打鍵音だけが乾いて響いている。
徹夜明けの目の下に深い隈を作ったアコが、歪んだ悲鳴のような溜息を漏らした。
「はぁ……。どうしてゲヘナの生徒は、1日と経たずに爆薬の不法所持で補導されるのでしょう。処理しても処理しても、書類が減りませんわ……」
「アコちゃん、愚痴ってる暇があったらその束、半分頂戴。私の担当分の『温泉開発部による勝手な地熱掘削申請』も、もう訳が分からないことになってるから……」
銀鏡イオリもまた、デスクに突っ伏しながら生気のない声で応じた。その横では、火宮チナツが真顔で注射器の手入れをしている。
「みなさん、疲労による集中力の低下が見られます。私の特製牛脂エキス配合の栄養剤を直接、静脈に投与しましょうか?」
「結構です!! あなたのそれ、ただのラードだから!!」
アコの絶叫が響く中、そんな地獄の作業場の中心で、1人だけ穏やかな時間を過ごしている少女がいた。
風紀委員長、空崎ヒナ。
彼女はデスクの脇に置かれた、黒い不気味な真鍮の植木鉢に向かい、小さなピンク色のジョウロで優しく水を注いでいた。
「……ふふ。今日も元気に育ちなさい、私のアボカドちゃん」
「委員長……。お願いですから、その不気味な苗木に話しかけるのはやめてください。私の脳が、恐怖で変な汁を出しそうになります」
アコが額を押さえながら懇願するが、ヒナは完全に無視を決め込んでいた。
その小さな頭の中では今、書類仕事やアボカドの育成とはまったく別の密かな『プチブーム』が巻き起こっていたのである。
「(……マグロ)」
ヒナは目を細め、ぽつりと心の中で呟いた。
記憶に新しいのは、あのトリニティの桐藤ナギサに連れられて行った高級寿司屋『銀鱗』での惨劇――いや、ヒナにとってのささやかな水分補給の記憶である。
今までの人生において、白身魚や青魚といった、身が締まっていて水分ばかりの『貧弱でシャバい薄味の魚介類ども』を、ヒナはことごとく鼻で笑い、食べ物扱いすらしてこなかった。
だが、あの日食べた『大トロ』。
あれだけは違った。口に入れた瞬間に溶け出す、重厚な脂のコク。
「(あの油に限って言えば……まぁ、私の帝国における『準々市民権(※魚類としては破格の待遇)』くらいは与えてやってもいいわ)」
しかし、同時にヒナの胸の中には、消し去りがたい激しい煮え繰り返るような憤怒が再燃していた。
「(だが……あの店の態度だけは許せないわ。なんだあのチマチマとした、消しゴムのカスみたいな薄い切れ端は。大トロという脂の塊を食べるのに、なぜあんな小細工を挟むの? 顔面にグーパンをぶち込まなかった私を褒めてやりたいぐらいよ)」
ヒナの額にドクンと太い青筋が浮かぶ。彼女にとって、美味い脂を満足いく量食べられないことほど、理性を狂わせる屈辱はなかった。
「(満足するまでマグロの脂を貪りたい。それも、誰の邪魔も入らない場所で、一塊も残さずに……)」
ジョウロを置いたヒナは、ふと窓の外を見た。真夏の眩しい太陽が、ゲヘナの街並みをジリジリと照らしつけている。
ヒナはパチンと指を鳴らし、無機質な声で宣言した。
「そうだ、海へ行こう」
「はい……? 委員長、今なんと?」
書類から顔を上げたアコが耳を疑う。
「明日、私は海に行くわ。治安維持活動の一環よ。手出しは無用。1人で行くわ」
「え、えぇぇ!? 委員長がバカンスですか!? い、いえ、たまには息抜きも必要かもしれませんが……本当に治安維持ですか!?」
「そう言っているでしょう。……邪魔をしたら、殺すわよ」
ヒナは冷たく言い放つと、制服の襟を正し、颯爽と執務室を後にした。
残されたアコたちは、嵐の去った後のような室内で呆然と立ち尽くすしかなかった。
翌日。午前11時。
太陽が天頂から容赦ない熱線を降り注ぐ、真夏のアウトロービーチ。
青い海と白い砂浜には、色鮮やかな水着に身を包んだ生徒たちが溢れかえり、歓声を上げて波と戯れていた。
パラソルの下でかき氷を食べるお嬢様、ビーチバレーに興じる不良生徒たち。まさに、誰もが夢見る一夏の甘酸っぱい青春の絵の具で彩られた景色である。
しかし。
その平和で眩しいビーチの端から、異様な異彩を放つ一人の少女が、静かに波打ち際へと歩み寄っていた。
紺色の学園指定スクール水着。胸元には『3-4:空崎ヒナ』と白い布地に墨文字で書かれた名札。
白い髪を海水で濡らさぬよう少し結い上げ、羽織った外套を砂浜へ無造作に投げ捨てた空崎ヒナ(17)である。
周りの生徒たちが、ざわめき始める。
「ね、ねえ……あれって、風紀委員長のヒナ様じゃない……!?」
「本当だ……! すごい、あのヒナ様もスク水着て海に遊びに来るんだ……!」
「可愛い……! 写真撮りたいけど、消されるかな……?」
物珍しさと好奇の視線がヒナに集まる。
だが、群衆は決定的な勘違いをしていた。この女は、遊びに来たのではない。
「(……ふぅ。絶好のランチタイムね)」
ヒナの頭の中にある計画は、極めて合理的であった。
海は冷たくて気持ちがいい。快適に水に浸かりながら、海の中にいるマグロをそのまま捕獲し、丸齧りする。
涼しさによる環境の快適性と、巨大なサイズによる胃袋の満足感……これらを同時に満たす、完璧な兵站計画。
その思考回路は、もはや可愛らしい少女のそれではなく、北極海を巡遊する凶暴な『野生のシャチ』そのものであった。
「(待ってなさい、ツナガキども)」
ジャボ……ジャボ……。
ヒナは迷いのない足取りで、海水の中へと歩を進めた。
最初は「泳ぎの練習かな?」と微笑ましく見ていた周りの生徒たちだったが、数分後、その顔色が急速に蒼白へと変わっていった。
「ね、ねえ……ヒナ様、泳ぐ気配が全然なくない……?」
「膝……腰……胸まで浸かってるのに、普通に足付けて歩いてない……!?」
ヒナは一切のバタ足もせず直立不動の姿勢のまま、ただひたむきに沖に向かって海底を歩き続けていたのだ。
ついに海面が彼女の首元に達し、白い顔がゆらゆらと波の下へと消えていく。
「ひ、ひえぇぇぇっ!? だ、誰かぁぁぁ!! ゲヘナの風紀委員長が入水自殺しようとしてるわよーーーっ!!!」
砂浜に悲鳴が響き渡った、まさにその瞬間であった。
ズズズズズズズズズズズズズズズッ!!!!!!
突如として、ビーチ全体の潮の流れが不自然に変貌を遂げた。
波が引いていくのではない。ヒナの顔が沈んだあたり――いや、彼女の小さな『口元』に向かって、周囲の海水がもの凄い勢いで収束し、巨大な渦を巻いて吸い込まれていっているのだ!
「な、なにアレ!? 海流が引きずり込まれてる……!?」
「海面が……! 海面がゆっくり下がっていってるんだけどぉぉぉ!?」
そう、ヒナは海底を歩きながら、目前の海水を豪快に『飲みながら』前進していたのである!
脂質の次に塩分をこよなく愛する空崎ヒナ。
彼女にとって、ミネラルと塩分が極限まで凝縮された海水など、極上の清涼飲料水に過ぎない。
泳ぐなんてしゃらくさい真似をする必要がどこにあるというのか。ただ邪魔な水分を全て胃袋に収めながら、目当ての獲物を探せばいいだけのこと。
ズズズズズッ! ぶはっ!
プッ!!
次の瞬間、ヒナの口から何かが猛スピードで吐き出され、砂浜で愕然としていた生徒たちの目の前へと降り注いだ。
ビチビチビチビチッ!!
「きゃああっ!? な、なにこれ!? 魚……!?」
「アジ!? アジが空から降ってきたわよ!?」
ヒナは海水を吸引する際、その強力な吸引力によって引き寄せられた周辺の魚どもまでも、勢い余って口の中に吸い込んでしまっていたのだ。
だが、ヒナにとってアジやサバといった水分ばかりの薄味のシャバ魚どもなど、舌の肥やしにもならないゴミ同然。
プッ! プッ! プッ!
海の中から、次々と吐き出されるアジ、イワシ、キスたちの群れ。
砂浜はあっという間に打ち上げられた魚の海と化し、生徒たちはただただ言葉を失って、ビチビチと跳ねる魚と干上がっていく海を見つめることしかできなかった。
1時間後。
海水を飲みに飲みまくり、ついに水深500mの深海域まで足で歩いて到達したヒナ。
彼女が通り過ぎた後ろの海域は、もはや海水が完全に枯渇し、泥と岩肌が剥き出しになった巨大な干潟と化していた。
だが、海底に立つヒナの顔は、猛烈な苛立ちに歪んでいた。
「(チッ……来ないわね。マグロがさっぱり来ないわ。来るのは、味のうっすいウオガキどもばかり……)」
周囲を見渡しても、逃げ惑う小さな深海魚ばかりで、彼女が求める大トロ級の脂肪を持った巨大マグロの影は一切見当たらない。
「(はぁ……。これ以上、こんな暗闇で時間を浪費するのもバカバカしいわね。一度海水を全部吐き出して、大人しく陸のステーキ屋にでも行くかしら……)」
ヒナが諦めて、胃袋に溜め込んだ数万トンの海水を逆流させようとした、その時であった。
パシッ!
「……あ?」
ヒナの吸引力に引き寄せられ、暗闇から流れてきた『1匹の魚』を、彼女の小さな手が咄嗟にキャッチした。
それは、体長2mを超える巨大な魚であった。
だが、マグロのような美しい銀青色ではない。全身が不気味なほどに真っ黒で、鋭い鱗と凶暴な顔つきをした、いかにも深海魚らしい異様な姿をしている。
「(なんだ……マグロじゃないわね。黒いし、キモいわね……)」
普通なら、即座に吐き捨てるか、海へとリリースするところである。
しかし、その魚の胴体を掴んだ瞬間、ヒナの指先に伝わってきたのは手にまとわりつくような重厚な脂の感触であった。
「(……? なにかしら、この手に付くぷりぷりとした質感は……)」
ヒナの野生の勘が、激しく警鐘を鳴らした。
彼女は躊躇することなく、その黒い巨大魚の首元へと大口を開けた。
ガブリュッ!!!!
鋭い歯が、魚の分厚い皮膚と身を力任せに噛みちぎる。
次の瞬間。
「……うぉっ!?」
ヒナの瞳が劇的に見開かれ、その口角がニヤリと、狂喜によって釣り上がった。
「(な……なんだコイツは……!? 口に入れた瞬間、身が解けて、マグロの大トロなんか比べ物にならないほどの『爆発的な脂』が口内を蹂躙していく……! 濃厚…! 圧倒的…濃厚っ…!! 本当にコイツは魚なのか……!?)」
噛み締めるたびに、上質なラードとバターを足して二で割ったような、甘く重厚な脂が溢れ出し、彼女の乾いた喉と胃壁を強烈に潤していく。塩分に塗れた海水の味など、一瞬で吹き飛ぶほどの質量!
「(美味い……! 美味すぎるわ……!)」
ゴクンッ!
ヒナは残りの半身を、両手で掴んで一口で口の中に放り込み、ガリガリと骨ごと咀嚼して飲み干した。
「もっと……! もっとコイツをよこしなさい……!!」
ヒナの生存本能が、激しい飢餓の叫びを上げる。
彼女の渇望に応じるように、周囲の暗闇から、同じ黒い巨大魚たちが、吸い寄せられるように次々と集まってきた。
ズズッ! ガブリ! モグ、ゴクン!
ズズッ! ガブリ! モグ、ゴクン!
吸う、口に入る、1回咀嚼、飲み込む。
完璧に洗練された『捕食のループ』!
数十匹、数百匹という黒い巨大魚たちが、ヒナの底なしの胃袋という名のブラックホールへと、次々と消え去っていった。
「(ふふ……ふふふ! マグロなんて最初から不要だったのよ! 海の底には、こんな『至高の宝』が眠っていたなんて……!)」
マグロ以上の圧倒的な脂の摂取に、すっかり機嫌を良くしたヒナは、最後に追加で5匹ほどの巨大魚を両腕に抱え込むと、
「ぷはぁぁぁーーーっ!!」
胃袋に溜まっていた海水を勢いよくジェット噴射のように吐き出し、その反動を利用して、一気に陸地へと帰還したのであった。
……さて。
ここからは、余談なのだが。
今回、空崎ヒナが深海500mで歓喜と共に貪り食った、あの黒く巨大な魚の名。
名を『バラムツ』という。
サバ目クロタチカマス科に属する深海魚であり、その体組織のなんと『25%以上』が、純粋な油脂分によって占められているという、驚異の超高脂肪魚である。
だが、この魚は日本の市場において、食品衛生法により『販売禁止』の措置が取られている。
なぜなら、彼らが体に蓄えている脂の正体は、通常の油脂ではなく『
人間の消化酵素では、このワックスエステルを消化分解することが一切できない。
ゆえに、美味しさに負けてたった数切れの刺身を食べただけでも、食後しばらくすると、自分の意思とはまったく関係なく、肛門から大量の油が垂れ流されるという、社会的死をもたらす悪魔の魚なのである。
……そう。本来ならば、人間が絶対に口にしてはならない『劇物』なのだ。
……ん?
「そんなものを何十匹も食って、ヒナ委員長は大丈夫なのか」…だって?
ハッハハ、笑わせないでいただきたい。
彼女の胃袋を舐めてもらっては困る。
人間の消化酵素で分解できないワックスエステル?
消化不能の蝋?
だからどうしたというのだ。
彼女の胃袋が、たかが魚の油すら分解できずにひよるとでも思っているのか?
医学の常識などという甘えを、彼女の超常的な新陳代謝の前に持ち込むな。
ヒナ「舐めたこと抜かしてんじゃないわよ。ぶち殺すわよ、地の文」
……失礼。
ヒナ委員長の鋭い眼光が、こちらを射抜いてきたため、解説はここまでにさせていただこう。
もちろん、彼女は何の変調もなく、元気にピンピンしている。
もっとも。
ヒナ本人は平気でも、他のキヴォトス人ならどうだろうか?
普通の人間よりも身体機能の高いキヴォトス人ならば消化できるのか?
彼女が『最高のお土産』として風紀委員会室へ持ち帰り、バラムツのムニエルを振る舞われたアコ、イオリ、チナツの3人がその後どうなったかについては――読者の皆様の、ご想像にお任せすることにしよう。
アコ「おあああああああああああああああああああああっっっっっっ!!!!!!!!!!」
おっと、失礼。それでは読者の皆様、また次回をお楽しみに。
アコちゃんはバラムツの美味しさにより叫んでるかもしれません。