桐藤ナギサは、心底面白くなかった。
日の光が降り注ぐトリニティ総合学園、ティーパーティーの豪華な執務室。
最高級のボーンチャイナに注がれたダージリンティーの湯気を見つめながら、ナギサは美しく整えられた眉を激しく寄せていた。
「どうして……どうしてこのようなことになってしまったのですか……」
ポツリと漏れ出た声には、怒りと焦燥、そしてドロリとした執着が混ざり合っている。
神がこの世に遣わした至高の天使――空崎ヒナ。
その圧倒的な暴食と理不尽を踏みにじる姿を特等席で観賞し、彼女の真の理解者として傍らに立つ権利。
それを持つ唯一の存在は、自分、桐藤ナギサこそがその手に収めていたはずだったのだ。
だが、先週行われたトリニティとゲヘナの交流会……シスターフッドと風紀委員会のあの血生臭い激闘を機に、決定的な『歪み』が発生してしまった。
「サクラコ……。あのお堅いシスターフッドの長が、私のヒナさんに……私の……っ!」
手に持ったシルクのハンカチを、ギリ……と音が出るほど噛み締める。
ナギサの脳裏には、数分前にモモトーク運営会社の極秘闇ルートを通して送られてきた、ゲヘナ自治区の裏通りの写真が焼き付いていた。
「ほら、サクラコ。こっちよ。今日は気分がいいから奢ってあげるわ」
ゲヘナ自治区の脂臭い裏通りを、珍しく上機嫌な様子で歩く空崎ヒナの姿があった。
普段の冷徹な佇まいとは異なり、その口元には満足げな微熱が漂っている。そして、そのすぐ隣には――。
「…………ふふ」
お淑やかにシスター服の裾を揺らし、穏やかな笑みを浮かべたままヒナの歩調に合わせて歩く、歌住サクラコがいた。
「(助けて……誰か助けてくださいまし……! 先生……神様……マリーさん……ヒナタさん……!!)」
外見上は聖女のような神々しい微笑みを崩していないサクラコであったが、その内側は完全に恐怖と混乱で狂いそうになっていた。パニック状態という言葉すら生温い。
1週間前のあの『フライドチキン10m山脈事件』以来、サクラコにとって空崎ヒナという少女は『トラウマ級の大災害』以外の何物でもなかったのだ。
今日の昼前、シスターフッドの本部前で突然首根っこを掴まれ、「行くわよ」の一言でここまで引きずられてきた。
サクラコにとっては、もはや誘拐されているのと同義であった。
「ねえ、サクラコ。さっきから『ふふ』しか言わないけど、何か言ったらどうなの? 喋れないの?」
ヒナが気だるげに横目を向ける。
「……ふふ」
「いや、『ふふ』じゃなくてなんとか言いなさいよ。気味悪いわね」
「(言えるわけがありませんわぁぁぁ! 声を出した瞬間に、胃の中に未だに残っている1週間前の脂が逆流して私のお嬢様としての尊厳が完全に死にますの!!)」
サクラコは心の中で涙の悲鳴を上げたが、顔の筋肉が恐怖で完全にロックされているため、相変わらず慈愛に満ちた聖女の微笑みを浮かべることしかできなかった。
――そして、そんな二人の様子を、道路脇の路地裏に置かれた巨大なゴミ箱の影から、食い入るように見つめる人物がいた。
「(ヒナさん……! ああ、今日もなんて美しく、そして暴力的な佇まい……! ですが、なぜあの女が隣に……!?)」
両手に超高性能の暗視望遠レンズ付き特注三脚カメラを構え、涙目でハンカチを噛み締めながら録画ボタンを押し続けている女――桐藤ナギサである。
情緒はぐちゃぐちゃなのに録画をやめられない悲しき性。悲しきストーカーである。
当然、本人は自分がストーカーであることなど1mmも自覚していない。彼女の頭の中には、「悪逆非道なシスターフッドの手から、愛しいヒナ姫を救い出す」という騎士道的正義感しかなかった。
「(待っていらっしゃい、ヒナさん! 今、私があなたをあのシスターの皮を被った邪悪な魔王から解き放ってみせますわ……!)」
ナギサは怪しく目を光らせ、二人が吸い込まれて行った1軒の怪しげな洋食屋へと忍び寄った。
ガラガラ、と引き戸が開く。
店内は、焦げたケチャップと大量のラードが混ざり合った、狂暴なナポリタンの香気が充満していた。
「あ、あらぁ~!? これはおかしなところでお会いしますわね、ヒナさん! 奇遇ですわ~!」
わざとらしく大声を上げ、棒読み丸出しのクソ大根演技で店内に入ってきたナギサ。その手には、まだしっかりカメラのレンズが握られている。
テーブル席に着いたばかりのヒナは、一瞬で表情が死に失せ、心底うっとうしそうにナギサを睨みつけた。
「……ナギサ。お前、本当に演技下手ね。棒読み丸出しなんだけど」
「な、何をおっしゃいますの! 私はただ、たまたま密かに通ってるこの洋食屋で、優雅にお茶をしようと立ち寄っただけですわ!」
「ここ、紅茶なんて置いてないわよ。あるのは業務用のシロップ濃縮10倍コーラだけなんだけど」
「ぐっ……! それでも、奇遇であることには変わりありませんわ!」
「……めんどくさ。勝手に相席しなさい」
ヒナが溜息をついて席を指差すと、ナギサは勝利の笑みを浮かべてサクラコの正面……そしてヒナの隣へとドカリと腰掛けた。
そして着席するや否や、ナギサの瞳から穏やかさが完全に消え去り、サクラコに向けて冷酷極まりない粘着質な嫌味が解き放たれた。
「……サクラコさん。先日の交流会で、あなたをヒナさんにお引き合わせたのは、私の人生最大の不覚でしたわ」
「……ふふ」
「ヒナさんに少し気に入られたからといって、調子に乗らないでいただけますかしら? 彼女の本当の『理解者』であり、唯一無二の親友は……この私、桐藤ナギサですのよ?」
「……ふふ」
「ちょっと……! さっきから『ふふ』しかおっしゃらないのは何なんですの!? バカにしていらっしゃいますの!? ふふ……じゃなくて、なんとか言いなさいよこの泥棒猫!!」
ナギサがテーブルを叩いてまくし立てる。だが、サクラコは限界突破の恐怖で脳がバグっているため、やはり聖女の笑顔で「ふふ」と返すことしかできない。
「(泥棒猫って言われても困りますわぁぁぁ! 私、1秒でも早くトリニティの自分の部屋に帰って温かいミルクを飲んで寝たいだけですのよ!! 助けてナギサ様、この怪物を連れ去ってくださいまし!!)」
心の叫びは一切届かない。
真昼間から繰り広げられる愛憎渦巻く修羅場。
アコが見れば、死んだ魚のような目で、「お幸せに」と心にもない言葉を吐き捨てて帰って寝るだろう。
ミカが見れば、ゲラゲラ笑いながら「不倫だー⭐︎ 浮気だー⭐︎」と撮影した動画をSNSにアップロードして自身ごと炎上するだろう。
マリーが見れば、日本語として体を成さない意味不明な叫びと共に唾を撒き散らしながら、お祈り用の十字架でナギサに殴りかかるだろう。
そんな2人の不毛な争いを完全な背景音として無視しながら、ヒナはおもむろにコックを呼びつけた。
「おいコック。いつもの……『スペシャリテ・ヒナポリタン』を」
「ウィ! マドモワゼル!!」
数分後、厨房から運ばれてきたのは――およそ『洋食』という概念を完全に破壊した異物であった。
ドスン!!
テーブルの上に置かれたのは、皿ではない。
直径5cmという、規格外の
それが、皿という境界線を失い、どこまでも、どこまでも真っ直ぐに店外へと伸びていたのだ。
「な……なんですか、この麺は……!?」
ナギサが目を丸くする。麺には一定の間隔で、切り分けられていない巨大な骨付きソーセージ、厚切りベーコンの塊、そしてテニスボール大のミートボールが、まるで数珠のようにびっしりと巻き付いていた。
そして全体を覆うのは、過熱されてマグマのように煮え立つ、純度100%の牛脂と濃縮ケチャップの赤黒いソース。
「フッ…驚くことじゃないわ」
ヒナは満足そうに口角を上げた。
「これはね、歩きながら啜るタイプのナポリタンよ。前は20km先まで麺を伸ばして、啜りながら歩いたわ。……今回はもっと長くするように言ったから、おそらく50kmは優に越えてるでしょうね」
ヒナは隣のサクラコの肩を、ポンと優しく叩いた。
「さあ、サクラコ。あなたもズズッと一口啜りなさい。私の『ヒナポリタン』の味を、その身体に刻むのよ」
サクラコは顔面を蒼白にし、引きつった声を出しかけた。
「あ……ぁ……」
その瞬間であった。
サクラコの怯える姿を「ヒナさんに怯えている」のではなく「ヒナさんの特別な料理を前にして歓喜に震えている」と盛大に勘違いしたナギサが、立ち上がって叫んだ。
「待ちちなさい、ヒナさん!! そのような泥棒猫にあなたの特別なナポリタンを分け与える必要はありませんわ!! その試練……私、桐藤ナギサが代わりに受けて立ちます!!」
「……は?」
ヒナは冷めた目でナギサを見上げた。
「ナギサ。お前『
ナギサを見据えるヒナの瞳。
そこにあったのは、これまでナギサが見たこともないほどの、本物の『捕食者の殺意』であった。
軽い気持ちで自分の食事に割り込もうとする軟弱者に対する、絶対的な冷酷さ。
ナギサの背筋に、氷のような戦慄が駆け抜ける。
「(ひっ……!?)」
だが、ここで引くわけにはいかない。ここで「やっぱり無理です」などと日和れば、ヒナからの絶対的な失望を買うばかりか、ヒナから『本当の地獄』を味わわせられることになる。
「え、ええ……! も、もちろんですわ!! 私はティーパーティーの桐藤ナギサ! あなたのすべてを受け止める覚悟など、とうの昔に完了しております!!」
必死に胸を張り、言い放つナギサ。
ヒナはフッと鼻で笑うと、麺の端を掴んでナギサの目の前に突きつけた。
「いいわ。……ただし、もし残したら『あんたのケツを引っ叩く』から」
「ヒュッ……!?」
ナギサの喉から、情けない呼吸音が漏れた。
空崎ヒナに、尻を叩かれるということ。
キヴォトス最強の破壊力を持つ彼女の拳で尻を叩かれるということ……それ即ち、ナギサの尻が物理的に消滅することを意味していた。
「(や、やばいですわ……! 拒否すれば失望と死…! 受け入れても死……!!)」
だが、ナギサの歪みきった愛の回路は、すでに正常な判断力を失っていた。
「……望むところですわぁぁぁ!!」
ナギサは叫ぶと同時に、直径5cmの極太ナポリタン麺の端を口に含み、猛烈な勢いで啜り始めた!
ズゾゾゾゾゾゾゾッ!!!!!
強烈なケチャップの酸味と、灼熱のラードの脂分が、ナギサの粘膜を容赦なく焼き尽くす!
しかしナギサは止まらない。麺を口に押し込み、ソーセージを噛み砕き、そのまま店外へと飛び出した!
「ほう……いい食いっぷりじゃない」
ヒナもまた、もう1本の麺の端を口にくわえると、優雅な足取りでナギサの後に続いた。
「だけど……ペースダウンしたら、どうなるか分かってるわよね?」
ヒナの冷徹な声が、背後から追いかけてくる。
右手をヒラヒラと揺らしながら、絶望的な脅迫を告げる風紀委員長。
ここに、ゲヘナから他自治区を股に掛ける、狂気の『ナポリタン・デスレース』が開幕したのである。
――店内。
1人静かに残されたサクラコは、胸の前で深く手を組み、涙を流しながら神に祈りを捧げていた。
「(神様……ありがとうございます……。
ゲヘナ自治区の街道を猛スピードで爆走する2人の少女。
ナギサの喉と胃袋は、すでに1キロ地点で限界を迎えていた。
直径5cmの太麺は、胃の中でズシリとした鉛の塊へと変化し、過熱されたラードが食道を逆流しかけている。
「(げ、限界……! もう1mmも入りませんわ……!)」
だが、止まれない。
後ろを振り向けば、余裕の表情でズルズルと麺を吸い上げながら、ブンブンと右手をスイングさせているヒナの姿があるのだ。
「ナギサ。少しペースが落ちてるんじゃないかしら? 私の右手が、うずうずしてきたわ」
「ひぃぃぃぃっ……!! 落ちておりませんわ! まだまだ加速できますわぁぁぁ!!」
これは愛の証明。己の尊厳をかけた聖戦!
ナギサは白目を剥きかけながら、足を進め、麺を喉奥へと力任せに押し込んでいった。
そうこうしてる内に、両者はゲヘナ自治区を突破!
トリニティ総合学園の目抜き通りを、口から赤いケチャップと極太麺を撒き散らしながら爆走するナギサの姿に、お嬢様生徒たちが「キャーッ!? ナギサ様がまた謎の奇行をー!?」と悲鳴を上げる。
さらにミレニアムサイエンススクールの自治区に突入!
計算され尽くした都市の路面を、2人の少女が猛烈なダッシュと咀嚼音と共に駆け抜けていく。
「(止まったら……死ぬ……! 諦めたら……尻が消える……!!)」
ナギサの頭の中からは、すでに思考という概念が消滅していた。
あるのは、ヒナへの歪んだ愛と、絶対的な生存本能のみ。
――そして。
スタートから数時間後。キヴォトスの中心地、
ナギサは、ついにゴールの『100km先』に繋がっていたナポリタンの『最後の一片』……巨大なミートボールを、涙と鼻水を撒き散らしながら飲み干した。
ズゾッ……ガツン!!
「……ぷはぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
完食。
奇跡の完食であった。
ナギサの胃袋は、通常の数千倍の質量と脂質によってパンパンに膨れ上がり、その体型はまるで樽のように歪んでいた。
そのすぐ隣で、ヒナもまた、最後の麺を余裕の表情でスマートに吸い尽くし、ペーパーで口元を拭った。
「……ほう。口だけじゃないのね、ナギサ」
ヒナは、驚きと微かな感心を含んだ瞳で、倒れそうなナギサを見つめた。
「傍観者ヅラして撮影ごっこをしてる時よりも、ずっと良い顔をしてるじゃない。……見直したわ」
ヒナはそう言い残すと、満足げに鼻を鳴らし、夕映えの街並みへと颯爽と歩き去っていった。
その背中を、ナギサは膨れ上がった顔で、最高の笑顔で見送った。
「(……勝った……。私……ヒナさんに……褒められましたわ……)」
ヒナの小さな背中が、街の曲がり角へと完全に消えた、その瞬間であった。
パタン。
ナギサのピンと張っていた精神の糸が、プツリと切れた。
彼女は震える手でポケットからスマートフォンを取り出すと、意識が途絶えるギリギリのところで、救援ダイヤルを押した。
「救……救急車…を………」
ドサッ!!
トリニティの最高権力者は、D.U.の広場の大理石の上に、力尽きて大の字に倒れ伏したのであった。
――その後。
救急車で急送された桐藤ナギサは、トリニティ総合医療センターの最奥にある集中治療室へと搬送された。
診断結果は、「急性胃拡張、重度の消化不良、および消化管の過剰拡張による全治1ヶ月の重傷」。
三日三晩にわたる不眠不休の大手術の末、なんとか一命を取り留めたナギサであったが、医師からは「今後1ヶ月間の完全絶食、および点滴生活」という長期入院が言い渡された。
点滴のチューブに繋がれたベッドの上で、ナギサは満足げな笑みを浮かべ、胸元に抱いたスマートフォンを見つめていた。
画面に映っているのは、あのデスレースの最中、命がけで撮影した『ナポリタンを吸い上げるヒナの神々しいお姿』であった。
「……ふふ。入院など、安いものですわ……。ヒナさん……またすぐに、追いついて差し上げますからね……」
トリニティの最高権力者のその愛の巡礼は――入院患者となってもなお、潰えることは一切ないのであった。
ここまで見てくださりありがとうございます!
ヒナちゃんは、大食いぶってるのに、料理を残す輩が野菜と同じぐらい嫌いです。