桐藤ナギサが、かの恐ろしきナポリタン・デスレースを奇跡の完食で走り抜き、その代償として救急搬送され、不眠不休の大手術を経て全治1ヶ月の長期入院生活へ突入していた頃。
ゲヘナ学園風紀委員会の執務室では、相変わらず地獄のような日常が続いていた。
バガン! バガン! バガン!
空崎ヒナは、右手に持った風紀委員長の公印を、デスクに積み上げられた決裁書類へ機械的な速度で叩きつけていた。
そして左手には、一切の野菜を抜き去り、肉と大量のハラペーニョ、そして煮詰まったラードだけを挟み込んだ激辛の巨大タコス。
それを豪快に食らいつきながら、壁掛けの大型モニターをじっと見つめている。
画面に映し出されていたのは、キヴォトス全土を震撼させる凶悪な七囚人の一人、『災厄の狐』こと狐坂ワカモの姿であった。
ヴァルキューレ警察学校の警備部隊を嘲笑うかのように、華麗な身のこなしで蹴り散らし、銃弾の雨を打ち込んでいる映像。
「ワカモ」
呟くヒナの唇には、タコスから溢れ出た赤黒いサルサソースと油がべったりと付着していたが、本人がそんなものを気にするはずもない。
ヒナはチラリと背後へ視線を向けた。
そこには、あのゲマトリアのマエストロからかすめ取って栽培に成功した『マエストロ特製・
「ワカモ…」
アボカド。ワカモ。
ワカモ。アボカド。
ポク ポク ポク チーン。
ヒナの脳内で、ひらめきの電球が点灯した。
「……チナツ、明日は付き合いなさい」
唐突な指名。しかし、巨大な医療鞄を抱えて書類を整理していた1年生の火宮チナツは、1秒の迷いもなく背筋をピンと伸ばし、元気よく声を張り上げた。
「もちろんです! 委員長!!」
行き先も、目的すらも一切明かされていない。それなのに二つ返事で従うその姿。
デスクで瀕死になりながら書類を処理していた天雨アコと銀鏡イオリは、ヒナと目を合わさないように静かに心の中で思った。
「(……蛮勇ではなく、ただの狂信ですね……)」
「(……チナツ、あんたの骨は後日拾うからね……)」
翌日の土曜日。
異国情緒あふれる朱色の建造物と、香辛料の香りが漂う山海経高級中学校の自治区。
その賑わう街並みの真ん中に、ヒナとチナツの2人が立っていた。
だが、その光景はあまりにも異様であった。
ヒナの背中には、高さ5mを遥かに超える、特大の登山用リュックサックが背負われていたのだ。中にギチギチに何かが詰め込まれ、パンパンに膨れ上がっている。
後ろから見れば、巨大なリュックが2本の足で勝手に歩いているようにしか見えず、まさに怪奇現象そのものだった。
「……あの、委員長。今日はなぜ、山海経まで?」
チナツが巨大リュックの横から顔を覗かせ、素朴な疑問を口にした。
ヒナは前を見据えたまま、平然と答える。
「栽培したアボカドちゃんの調理を、信頼できる『友人』にお願いしに来たのよ」
「友人……ですか? 委員長がそこまで評価される料理人が、山海経に……?」
「うるさいわね。着けば分かるわ」
一行は山海経高級中学校の敷地内へとズカズカと踏み込んでいく。周囲の警備生徒たちが「な、何あの巨大な荷物は……! ゲヘナの風紀委員長!?」と銃を構えて警戒姿勢をとるが、ヒナは一ミリも気に留めず堂々と歩くこと10分。
たどり着いたのは、山海経の食と商を牛耳る巨大組織『玄武商会』の本店前であった。
バガアァアン!!!!!
毎度お馴染みヒナの容赦ない前蹴りによって、最高級の漆塗りの大扉が派手な音を立てて木っ端微塵に砕け散る。
「来たわよ」
いつもの暴力的な不法侵入。
すると、店内から1人の女性が、チャイナドレスの裾を揺らしながらカラカラと陽気に笑って歩いてきた。玄武商会の会長、朱城ルミである。
「やぁやぁ、ヒナっち! 相変わらず豪快な登場だねぇ! 扉の修理代は後でツケにしとくね!」
「ハッ、美食に比べたら、礼儀なんて
ヒナが不機嫌そうに鼻を鳴らした、まさにその時であった。
「くぉらあああああああああああ!!!!!!!! 空崎ヒナアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」
奥の階段から、床を叩き割らんばかりの重厚な足音と共に、凄まじい怒号が響き渡った。
般若のごとき憤怒の形相で駆け降りてきたのは、ルミの護衛兼本店マネージャーの鹿山レイジョであった。
「またルミ会長を誘拐しに来たなあぁ!!!? 死ねええええええええええええええええ!!!!!!!!」
レイジョは走った勢いをそのまま乗せ、右足に全身の体重をかけた必殺のドロップキックを、ヒナの顔面目掛けて放った!
しかし。
「うるせ」
ヒナは視線すら合わせず、かるく右の裏拳を振るった。
ドカァァァン!!
「ぶっ!? ぎえええええええええええええええ!!!!!!!」
C l e a n H i t ! !
レイジョの身体は音速を超えて天井を突き破り、雲を突き抜けて真昼の空に眩しく輝く星となって消えていった。
その光景を目の前で見ていた店内で作業していた玄武商会の生徒たちは
「あっ、マネージャーが今日もヒナさんにぶっ飛ばされた。今日で何回目だっけ?」
「え~っと、3485戦、0勝3485敗……と。マネージャーが卒業するまでにヒナさんに1勝できるか、賭ける?」
「無理無理ww賭けとして成立してないじゃん笑」
彼女たちは作業の手を止めることなく冷静に会話を交わす。日常茶飯事の光景であった。
ルミはあはは、と頭を掻いた。
「いやぁ〜、ごめんねぇヒナっち。毎度毎度レイジョには注意してるんだけどさ、どうにもヒナっちが絡むと頭に血が登るらしくってねぇ」
「別に。アイツをしばいて、ようやく山海経に来たって実感が湧くわ」
ヒナは手を軽く払うと、ルミの後ろに控えていたチナツに目をやった。ルミもまた、興味深そうにチナツを見つめる。
「おろ? そこにいるのは誰だい? 珍しいねぇ、ヒナっちのことを怖がってない子を連れてきてるなんて」
「うるさいわね、ルミ。この子はチナツ。風紀委員会の期待のエースよ」
ヒナ(※独自基準)のお墨付き。チナツは即座に直立不動の姿勢をとり、胸を張った。
「火宮チナツです。風紀委員会にて前線医療および救護を担当しております!」
「チナちゃんだねぇ、よろしく〜。私はルミ。『玄武商会』の会長やってんだ。あと、ヒナっちの幼馴染ね」
ルミがさらりと口にした爆弾発言。
「……えっ!?」
流石のチナツも、衝撃のあまりその場で垂直にポーン! と3mほど跳び上がった。
「お、幼馴染……!? あの委員長の……!?」
「そうそう。ヒナっちとは幼稚園の頃からの長い付き合いでねぇ。食のこだわりは昔から微塵も変わってないけど、あの頃は『ルミちゃん、ルミちゃん』って、私の後ろをちょこちょことついてきて、本当に可愛かっ――」
「ルミ。無駄口はそこまでにして、本題よ」
ヒナが青筋を立てて言葉を遮る。ルミはごめんごめん、と手を合わせて笑った。
「それで、どったの? その背負ってる巨大なリュックの食材で、何を作って欲しいんだい?」
ヒナは背中の5mリュックをドスン! と床に下ろすと、パチンと金物の留め具を外した。
その瞬間。
ドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!!!!!!
リュックの口から、数千個に及ぶ漆黒の『プロトタイプ・アボカド・カルマ』が、まるで土石流のような勢いで溢れ出してきた!
あまりの質量に、広大な玄武商会の店内が一瞬にして緑と黒の果実の海によって埋め尽くされていく。
アボカドの海に首まで埋もれたヒナが、ぷはっと顔を出して言い放った。
「……このアボカドちゃんたちで、ワカモレを作って欲しいの」
そう。ヒナは昨日のニュースで見たワカモの映像から、「ワカモレ(アボカドをつぶしてディップ状にしたメキシコ料理)」を連想し、猛烈にそれが食べたくなったのだ。
同じくアボカドの波からひょっこり顔を出したルミは、満面の笑みで親指を立てた。
「オーケーオーケー! そんじゃあ、『ヒナっちカスタム』で作るからちょっと待ちなね!」
店員総出で回収されたアボカドを抱え、ルミが厨房へと消えた後、ヒナとチナツは用意された椅子へドカッと腰掛けた。
チナツは、密かに深い感銘を受けていた。
これまでヒナに対峙してきた料理人たちは、誰もが彼女の圧倒的な覇気と過剰な要求に恐怖し、命乞いをしながら奴隷のように料理を出してきた。
しかし、ルミだけは違った。ヒナの理不尽な暴虐を前にしても、あっけらかんと笑い、対等な『友人』として接している。
そんなチナツの思いを見透かしたかのように、ヒナがぽつりと口を開いた。
「……ルミは昔から、料理を作るのが好きだったのよ」
「……委員長?」
「私のこの極端な偏食を……お母さんや『そらさき屋』の店長以外で、嫌な顔一つせずに受け入れて、望む通りの料理を作ってくれる数少ない存在。……はぁ、この世の料理人が全員ルミなら、世界平和なんて1秒で叶うのにね」
ヒナの言葉には、確かな信頼と、どこか幼い温もりが宿っていた。
そうこうしているうちに、厨房の扉が開き、ルミと店員たちが巨大なワゴンを引いて戻ってきた。
「お待たせ! ルミさん特製、ワカモレとタコスにハンバーガー、ステーキ、ガーリックシュリンプ、その他諸々だよ!!」
テーブルの上に並べられたのは、満漢全席すらも軽く置き去りにする、凄まじい皿の数々であった。
特に大皿に盛られたワカモレの山は、一切の玉ねぎやトマト、レタスといった野菜類を完全に排除しつつも、プロトタイプ・アボカド・カルマの持つ黒毛和牛の飽和脂肪酸とバターの旨味をニンニクと数々の特製スパイスで極限まで引き出した、狂気の逸品であった。
ヒナは待ちきれない様子でタコスを掴むと、ワカモレの山に深々と突き刺し、そのまま口内へと放り込んだ。
ガブリ……モグ、モグ……ッ。
その瞬間。
普段は絶対に感情を表に出さないヒナの顔が、あり得ないほどにトロりと綻んだ。
「……パーフェクトよ、ルミ。私好みの100点の味」
「ハハハ! 何年幼馴染やってると思ってんのさ!」
ルミが胸を張って笑う。
チナツもその手料理に手を伸ばそうとしたが、ルミが「おっと、チナちゃんはこっち」と、別の小さめの皿を差し出した。
そこには、同じように見えて微かに色の違うワカモレと、ジューシーなハンバーガーが載っていた。
不思議に思いながらも、チナツはワカモレを少量つけてハンバーガーを一口かじった。
「――ッ!!?」
チナツの目が、見開かれた。
口の中に広がったのは、極度な塩辛さでも、胃を焼き尽くすようなラードの重圧でもない。
爽やかなライムの香りと、心地よいクリーミーさ、そして絶妙なスパイシーさ。それが肉汁と完璧なハーモニーを奏でている。
まさに、チナツ自身が『一番美味しい』と感じる、完璧な味付けであった。
バッ! とチナツがルミを見つめる。
周りで振る舞われた手料理をガツガツと美味そうに食べている玄武商会の店員たち。
その視線に気づいたルミは、チナツに向かって「シーッ」と、人差し指を可愛らしく口元に当てて微笑んだ。
そう。ルミは、ヒナ用の極端な『脂質と塩分の塊』とは別に、食べる人間一人ひとりの好みに合わせて、味付けを完璧に微調整して提供していたのだ。
それを知ってか知らずか、ヒナはワカモレを豪快に喰らいながら言った。
「ねぇルミ。今からでもゲヘナに転校しない?」
「ハハハ! ごめんねヒナっち。ありがたい申し出だけどさ、私はたくさんの人たちの『美味しい』っていう笑顔が見たいからねぇ」
明るく笑うルミの横顔を見つめながら、チナツは深く納得していた。
食べる人の笑顔のために、分け隔てなく鍋を振るう本物の料理人。この人だからこそ、あの絶対的な怪物の幼馴染として、長年寄り添い続けることができたのだと。
数日後。風紀委員会執務室。
山海経から帰還したチナツの手には、ルミから持たされた『お土産のワカモレ瓶』が大量に抱えられていた。
それぞれの瓶には、可愛らしい文字でラベルが貼られている。
『アコちゃんへ』
『イオリちゃんへ』
チナツからそれを受け取った2人は、最初「またあのバラムツのような劇物ではないか」と怯えていたが、チナツの強い勧めに押され、その日の夜、それぞれの自宅で口にすることとなった。
――その夜。
自身の部屋で、カリカリに焼いたトーストにルミ特製のワカモレを塗って口にした天雨アコ。
「あびゃああああああああああああ!!!!!! 美味すぎるうううううううううう!!!!!!!!」
あまりの美味と、己の好みに完璧に調律された旨味の衝撃により、彼女の顔面は完璧に崩壊した。
一方、モモ・ドナルドで買ってきたノーマルハンバーガーにワカモレを挟んで食した銀鏡イオリ。
「ほんぎゃあああああああああああああ!!!!!!!! 美味おぎゃあああああああああああああ!!!!!!!!」
あまりの多幸感に脳の回路がショートし、幼児退行を起こした。
ゲヘナの夜の静寂を切り裂いて、それぞれの家庭から阿鼻叫喚の美味賛称が響き渡ったとか、なんとか。
翌日も幼児退行してるままのイオリは仕事にならなかったとかなんとか。