美食研究会。
それは、主に『トリニティ総合学園の自治区』を中心に暗躍する、ゲヘナ学園屈指の異端にして恐ろしき非公認部活動である。
彼女たちの主たる活動は、キヴォトス全土に広がる無数の飲食店を自らの足と舌で巡り、独自の崇高なる美学に基づいて料理の真価を評価し、SNS上で詳細極まりないレビューを発信すること。
彼女たちのお眼鏡に叶い、五ツ星の賛辞を贈られた飲食店は、『味に間違いなし』という絶対の保証を得て、翌日から連日連夜の超満員と空前の大盛況が約束される。
故に、料理界隈において美食研究会に取り上げられることは、料理人にとって一つの至高の栄誉であり、同時に己の命運を賭けた審判の瞬間として囁かれていた。
もっとも――無作法な接客、不衛生な管理、客を舐め腐った手抜き、あるいは素材への冒涜など、彼女たちの美食の掟を微塵でも損ねるような無礼を働いた店は、その日のうちに厨房ごと、建物ごと跡形もなく爆破されて綺麗な更地にされるのだが、それは界隈におけるご愛嬌というものであった。
トリニティ自治区の閑静な高級住宅街。緑豊かな木立の奥にひっそりと佇むのは、完全紹介制の超高級レストラン『
純白の大理石で磨き上げられた床には深紅の豪奢な絨毯が敷かれ、壁一面を飾るステンドグラスからは柔らかな午後の陽光が万華鏡のように降り注ぐ。
燕尾服を着こなしたギャルソンたちは足音一つ立てず、銀のトレイを掲げて寸分の隙もない優雅なサービスを提供していた。
すべてにおいてトリニティの最高峰を誇るその空間の特等席に、美食研究会の4人が腰掛けていた。
「ふふふ……素晴らしいですわ。きめ細やかな隠し包丁、火入れの完璧なグラデーション……まさにシェフの技と魂が光ってますわね」
銀のフォークを優雅に操り、芸術的なシャポンのテリーヌを口に運ぶのは、美食研究会部長の3年生、黒館ハルナ。
「量より質……僅かな量であっても、人はこれほどまでに深く感動できるものですね。素材の命が、舌の上で歓喜の歌を歌っておりますわ」
豊満な胸元を微かに揺らし、蕩けるような笑みを浮かべる副部長の3年生、鰐淵アカリ。
「これ、すっごく美味しーーーー!!!! おかわりちょーだい!! このトリュフのソース、バケツ一杯分持ってきてパンにドバドバ浸して食べたーい!!」
口の周りを高級トリュフソースで真っ黒に染めながら、大皿を両手で掲げて無邪気に叫ぶ2年生の獅子堂イズミ。
「ふわあぁ……舌がとろけちゃうぅ……もう死んでもいいわぁ……。今まで私が引いてきた無数のハズレくじの不運が、この一口で全部チャラになるくらいの多幸感よぉ……」
両手を頬に当て、天を仰いで恍惚の溜息を漏らす1年生の赤司ジュンコ。
美食研究会の面々は、次々と運ばれてくる繊細にして完璧なフルコースの数々に、心ゆくまで舌鼓を打っていた。
そして、運命のレビュータイム。
ハルナは手にしたシルクのナプキンで上品に口元を拭うと、銀のカトラリーを皿の端へ静かに揃えた。
「――星、5点満点ですわ!!」
ハルナが高らかに宣言する。
「決まりですわね。このお店の気品、素材に対する真摯な敬意、そして完璧なる調和……我が美食研究会の舌に相応しい至高の名店です。アカリさん、SNSへの公式レビュー発信は任せましたよ?」
「もちろんですわ、ハルナさん。極上の賛辞を書き連ね、今夜中に全キヴォトスのトレンドの頂点へと押し上げて差し上げますわね」
大満足の笑みを交わし合う部長と副部長。至福の余韻がテーブルを満たしていた。
その完璧な調和の空気を、トリュフソースを顔中に塗りたくったイズミの、無垢でつぶらな瞳が容赦なく切り裂いた。
「そういえば部長ー、なんで私たちって『ゲヘナのお店』に行かないの?」
その瞬間。
「…………………………………」
「…………………………………」
ピタリ、と。
ハルナとアカリの時が、完全に静止した。
給仕のギャルソンが注ぐワインの音すら掻き消えるほどの、絶対的な沈黙。
だが、恐れを知らないイズミは、首をコテンと傾げながら、残ったバゲットをソースに浸して呑気に言葉を重ねた。
「私たち、ゲヘナ学園の生徒なのにさー。なんで毎回毎回、わざわざ遠いトリニティまで来るの? ゲヘナにも美味しいお店、いっぱいあると思うんだけどなー。あっちの方がお肉もドカンと大きそうだし!」
イズミの純真無垢な疑問だけが、凍りついた空間に虚しく響き渡る。
横に座っていたジュンコは、瞬時に背筋へ走った尋常ではない悪寒を察知し、顔面を蒼白にしてイズミの口を手で塞ぎにかかった。
「ちょ、ちょっと! イズミ先輩!! 私たち、トリニティでこんなに美味しいご飯をお腹いっぱい食べてるんだから、文句なんてないでしょ!! それに……ゲヘナにはあの『風紀委員長』が運営してるイカれた店が居を構えてるんだから……近づかない方が身のためよ!!」
「風…紀」
「委員…長」
ハルナとアカリの、血の気の引いた乾いた唇から、その忌まわしき二つの単語が紡ぎ出された。
それが、合図だった。
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ!!!!!!!!
「わひゃあ!? じ、地震!?」
突如としてテーブルを襲った凄まじい振動に、イズミとジュンコは悲鳴を上げてテーブルクロスを跳ね上げ、床下へとダイブした。
「……ん?」
頭を抱えて縮こまっていたジュンコは、ふと異変に気づいた。
テーブルの下から恐る恐る周囲を見渡すが、天井の豪奢なシャンデリアも壁の絵画も隣のテーブルの客も一切揺れていない。
給仕のギャルソンたちも涼しい顔で立っている。
揺れているのは、自分たちの座っている『このテーブルだけ』であった。
ジュンコがゆっくりとテーブルの上から顔を覗かせると――。
ガタガタガタガタガタガタガタ!!!!!!
そこには、完璧な淑女の笑顔を顔面に張り付けたまま、奥歯をガチガチと激しく鳴らし、全身の筋肉を痙攣させてテーブルごと激震させているハルナとアカリの姿があった。
「……イズミさん、ジュンコさん」
張り付いた笑顔のまま、ハルナが地獄の底から響くような声で口を開く。
「『あの魔物』の名は……二度と我が部の前で口に出さないでくださいまし」
「は、はいっ!」
笑顔が固定されたアカリもまた、目が一切笑っていない死神の表情で宣告した。
「我々美食研究会がゲヘナ自治区内で活動することは……未来永劫、天地がひっくり返ろうとも『絶対にありません』わ」
「うん、わかったー! あ、店員さーん! このお肉美味しかったから、同じやつもう10皿おかわりお願いねー!」
空気を読まないイズミの元気な声が店内に響く中、ハルナとアカリは虚空を見つめる。
ハルナとアカリが何故これほどまでにゲヘナでの活動を頑なに拒むのか。
その原因は、2年前の春にまで遡る。
2年前。
ゲヘナ学園に入学したばかりの、ピカピカの1年生であった黒館ハルナと鰐淵アカリ。
食に対する飽くなき情熱と探求心で瞬時に意気投合した2人は、自らの理想を具現化すべく『美食研究会』なる部活動を立ち上げた。
「アカリさん! 私たちの手で、この世の至高の美食を発掘していきましょう!」
「えぇ! ハルナさん! どんな美味しいものが眠っているのか、私、楽しみで胸が破裂しそうですわ!」
無垢な一年生たちの夢の道。
【それいけ! 美食研究会!】
彼女たちの広大な食の旅が、今、希望に満ちて幕を開けたのだ!
「アカリさん、早速ですが、この自治区の裏通りに大変美味しい洋食屋さんがあると聞き及びましたの。記念すべき第1回目の活動は、そこにしませんこと?」
「いいですわね、ハルナさん! 私、ジューシーなハンバーグが大好きですわ!」
スタスタと軽やかな足取りで歩き、目当ての洋食屋を見つけた2人。
ハルナが誇らしげにガラガラと引き戸を開け放つ。
――しかし。
そこには、摩訶不思議な光景が広がっていた。
テーブル席に座る、ゲヘナ学園の生徒2人組。
そのうちの1人――小柄で白い髪の少女の前には、大型自動車のタイヤほどもある分厚いハンバーグが何重にも重なり、天井近くまで到達していた『ハンバーグ二十重の塔』がそびえ立っていたのだ。
「……ねぇ、『空崎』。いつも思うけど、あんたのその細っこい体のどこにこんな肉の塊が入ってるわけ? ミレニアムの最先端医療センターで身体検査してきた方がいいよ、割とマジで」
「先輩、無駄口を叩かないでください。この肉たちは今、私の血肉となってるんですよ」
「やっぱり食が絡んでるあんたとは、根本的に話が通じないわね……」
そこにいたのは情報部時代の1年生の『空崎ヒナ』と、その先輩であった。
普通であれば、情報部の黒い腕章を見た瞬間に、ゲヘナの生徒は関わりを恐れて即座に逃げ出すのが鉄則である。
しかし、今回は事情が違っていた。
「――そこの、あなた!」
ザッ! と、ヒナのテーブルの前へ影が立ち塞がる。
そこにはハルナと、必死にハルナを引き止めようとしているアカリの姿があった。
「ハ、ハルナさん…! やめましょう! あの腕章は情報部ですよ…!」
「アカリさん、気持ちは分かります…! でも…あそこにいる店主を見てください!」
ハルナが悲痛な面持ちで指差す先のキッチン。
そこには、無理やり巨大な肉の塔を作らされたのか、ブツブツと何かを呟きながら虚空を見つめ、魂の抜けた顔でフライパンを握り続ける店主の姿があった。
「食とは、食べ手と作り手の共同作業であり、お互いが笑顔になる神聖なる儀式…! それを踏みにじる者は、たとえ神であろうと私は許しませんことよ……!!」
足が震えるハルナだが、その瞳は微塵も怯えていなかった。
純粋に食の幸せを信じている彼女だからこそ、立ち向かわなければならないと己の正義に突き動かされていたのだ。
だが。
「は? 死ね」
ドガアァァァァァァンッ!!!!!!
そんな正義も、力がなければただのゴミ。
ヒナの容赦ない拳の一発で、ハルナとアカリは瞬く間に洋食屋の天井を突き破り、真昼の空へと射出された。
あぁ、哀しきかな。
今よりも気性が荒く凶暴だった頃のヒナと遭遇してしまった、絶対的不幸よ。
そして大気圏を抜けて軌道上の人工衛星に深々と突き刺さった彼女たちは、宇宙の静寂の中で固く誓ったのだ。
二度とゲヘナの店には行かない、と。
【それいけ! 美食研究会!】完
そんな黒歴史から早2年。
活動拠点を治安の良いトリニティや、効率重視のミレニアム、伝統と侘び寂びが息づく百鬼夜行、そして歴史ある中華の技が咲き誇る山海経へと広げつつも、去年入部した旺盛な食欲を誇る獅子堂イズミ、そして今年入部した常にトラブルに見舞われがちな赤司ジュンコを加えて、日々華麗なる食の旅路を続けてきた美食研究会。
母校たるゲヘナの地を捨て、逃げるように去った黒館ハルナと鰐淵アカリであったが――。
「(……最高ですわ。ええ、本当に、これ以上ないほどに最高ですわ……!)」
大満足であった。これまでの苦難やトラウマがすべて洗い流されるかのような、圧倒的な多幸感と達成感。
それもそのはずである。ただでさえ治安が最悪なゲヘナ自治区では、利益至上主義の安かろう悪かろうの店や、暴力的な油と塩分を無秩序にぶちまけただけの野蛮なジャンクフード店が路地裏に乱立している。
とどのつまり、豚のエサの一言に尽きる。
それに対して、ここトリニティ総合学園の自治区はまるで別天地であった。一皿ごとの金額こそ目玉が飛び出るほどに跳ね上がるものの、由緒正しい歴史に裏打ちされた格式、洗練された空間演出、そして何より素材の命を極限まで引き出す調理法に至るまで、すべてにおいて一級品のクオリティが約束されている。
さらに言えば、他の自治区もそれぞれに素晴らしい魅力に満ち溢れていた。
「ねぇハルナさん、先週ミレニアム自治区でいただいた『完全栄養管理式・低温真空調理のシャトーブリアン』も格別でしたわね。あちらの生徒さんたちは味気ないカロリー計算ばかりと侮っておりましたが、分子レベルで計算し尽くされた旨味の抽出は、まさに現代科学の生んだ芸術でしたわ」
アカリが細い指先でグラスのステムを揺らし、蕩けるような笑みを浮かべて語りかける。
「ええ、本当に。効率化の極致でありながら、決して素材への愛を忘れていませんでしたわね。それに、先々月に訪れた百鬼夜行の老舗料亭『八咫烏』の会席料理も見事でした。出汁の一滴にまで四季の移ろいと侘び寂びの心が宿り、一口含むごとに魂が洗われるようでしたわ」
「山海経の満漢全席もヤバかったよねーっ! あの『龍神壺焼きフカヒレ姿煮』! スープが濃厚すぎて、アタシ、お皿まで舐め回しちゃって店長さんに笑われちゃったもん!」
イズミが口の周りに残ったトリュフソースをペロリと舌先で舐め取りながら、両手をぶんぶんと振って割り込んでくる。
「イズミ先輩、お皿を舐めるのは本当にやめてくださいっていつも言ってるでしょ! ゲヘナの恥晒しなんですから! ……でも、確かに山海経の胡椒饅頭は美味しかったわね。あそこのお店で食べた時だけは、私の頼んだお料理に蛾が飛び込んできたり、爆竹が誤爆したりする不運が一切起きなかったし……奇跡みたいな平和な時間だったわぁ……」
ジュンコが手元のカトラリーを愛おしそうに撫でながら、過去の数少ない幸福な記憶を噛み締めてうっとりと目を細めた。
はっきり言って、大満足。脂臭いゲヘナから活動拠点を移したのは賢明な決断であったと、つくづく己の選択を誇らしく思う部長と副部長であった。
「ふふ……そうですわね。
ハルナが優雅な手つきで革張りの伝票フォルダーを手に取り、席を立とうとした。
まさに、その時であった。
「――ナギサ、こんな気取った小洒落た店で、私の胃袋を満足させられると本気で思ってるわけ?」
バタン! と店の豪奢なエントランス扉が開け放たれる音と共に、静寂に満ちていた店内にあまりにも聞き覚えのある気だるげな声が響き渡った。
シュバッ…! シュババッ……!!
一瞬の疾風。
大理石の床を摩擦する微かな衣擦れの音と共に、テーブル席の上からハルナとアカリの姿が、まるで空間ごと消滅したかのように完全に掻き消えた。
「あれれー? 部長ー? 副部長ー? どこ行っちゃったのー?」
イズミが不思議そうに首を傾げ、テーブルから垂れ下がっている深紅のテーブルクロスをペラリとめくった。
そこには、冷たい大理石の床の上で正座をし、膝を抱えてカタカタと生まれたての子鹿のように震え上がりながら、互いの肩を寄せ合ってうずくまるハルナとアカリの無残な姿があった。
「部長、副部長ー。なにしてるの? さっきの地震ごっこの続き?」
「イズミさん……ッ! お黙りなさい……ッ!!」
ハルナは両目に涙をいっぱいに溜め、人差し指を唇に当てて必死の形相で囁いた。
その額からは滝のような冷汗がダラダラと流れ落ち、完璧に整えられていた銀髪が乱れている。
「いいですこと……!? 私たちは今、何も見ていない、何も聞いていない、この店に足を踏み入れた記憶すら存在しなかったのですわ……! 返事は!?」
「よくわかんないけど、はーい!」
「ちょ、ちょっと待ってよ……! なんでトリニティの最高級レストランにまで、あのゲヘナの歩く災害魔王が湧いて出てくるのよぉぉぉ……っ!! 私の平穏なグルメライフを返してぇぇぇ……っ!!」
ジュンコが頭を抱えてテーブルの下へ滑り込み、四つん這いになってガタガタと震え出す。
そんなテーブルの下の極限状態を余所に、店の入り口付近ではキヴォトスの二大巨頭による尊大極まる会話が繰り広げられていた。
「あんた、退院祝いだって私をこんなところまで連れてきたけれど……集中治療室にぶち込まれてから、まだ10日しか経ってないのに本当に大丈夫なの?」
ヒナが心底気だるそうに、隣に立つティーパーティーの桐藤ナギサを見上げる。
その手には、どこから持ち込んだのか、すでに半分ほどかじり取られた骨付き肉の塊が握られていた。
対するナギサは、退院直後とは思えないほど優雅に微笑み、手にした高級扇子をパチンと鳴らして胸を張った。
「ふふ、ご心配には及びませんわ、ヒナさん。世の中というものは、マネーさえあれば大体のものは手に入れられますの。トリニティの最先端医療センターに巨額の特別寄付金を投じ、最高峰の再生医療チームを24時間体制で稼働させましたわ。マネーパワーで細胞の修復速度を極限までブーストさせるなど、この私にとっては造作もありませんことよ」
金さえあれば、健康すらも一瞬で買い戻すことができる。実に素晴らしい時代になったものだと、ナギサは誇らしげに目を細めていた。
「まぁいいわ。あんたがこんな小洒落た、皿の上に絵の具を塗ったような料理しか出さない気取った店に私を連れてきたということは……当然、私の舌と胃袋を唸らせるだけの『本物』を用意しているんでしょうね?」
「ええ、ご明察ですわ、私の愛しいヒナさん。今宵、あなたのために用意させた至高の逸品……それは、トリニティに古くから伝わる伝統の肉料理――『ローストビーフ』ですわ」
自慢げに、これ以上ないほど自信満々に言い放つナギサ。
だが。
「……『ローストビーフ』?」
ピクッ、と。
ヒナの右眉が深く、そして鋭く吊り上がった。
ナギサが頭の中で思い描いていた『歓喜の雄叫び』や『感謝の抱擁』とは完全に真逆の、絶対零度にまで凍りついた不快感。
その強烈な落差に、ナギサの完璧なお嬢様スマイルがピキリと音を立てて硬直した。
結論から言おう。
空崎ヒナにとって、『ローストビーフ』という料理は――人間の浅知恵と軟弱な妥協によって弄ばれ、散々におもちゃにされた挙句、命の尊厳を無残に奪われた『最も哀れな肉の死骸』以外の何物でもなかったのだ。
低温でじっくりと加熱する。そこまでは神の如き慈悲深き心で百歩譲って許してやろう。
だが問題は、『その後に待ち受けるすべての工程』だ。
余分な脂を落として、冷ましてから薄くスライスして提供する。
余分な脂?
薄くスライス?
「侮辱すんじゃねぇぞイギリス野郎がァァァァァァッ!!!!!!」
ドゴォォォォォンッ!!!!!!
ヒナの小さな軍靴が、容赦なく店内の最高級白大理石の床を踏み砕いた。
凄まじい衝撃波がフロア全体を突き抜け、大理石の床に深々とした亀裂がクモの巣状に広がっていく。
破片が天井のステンドグラスを直撃して甲高い音を立て、ナギサが「ぎゃあっ!?」と悲鳴を上げて亀裂に足を取られかけるが、そんな周囲の被害などヒナの知ったことではない。
「肉は脂が本体だっつってんのに、その命とも言える脂をわざわざ削ぎ落とすなんて正気かぁぁぁ!? 牛が死んだ後まで辱めを与えんじゃねぇよ!!」
ヒナの全身から、キヴォトス最強の暴力装置たるヤンキー染みた獰猛な覇気が爆発的に噴出する。
「肉本来の旨味だぁ? 赤身の芳醇な香りだぁ? 散々弄り回して一番美味い脂をドブに捨てた挙句に、ありもしない幻想に浸んじゃねぇぞボケがァ!! そして例の如く薄切りスライスだと!? ペラペラの紙切れみたいにしやがって、牛さんが可哀想だろうがぁぁぁ!! 牛さんが一体何をしたって言うんだ!! 死刑囚だって刑務所の中でこれよりマシな扱いを受けてるぞオラァ!!」
これは、肉を愛し、肉の脂に愛された空崎ヒナという怪物の魂の底からの慟哭であった。
ただでさえ味の薄い赤身肉(※ヒナ基準)を、焼いたと思えば放置し、余熱でゆっくり火を通すという無駄極まりない工程を経て、パサパサのミイラに仕立て上げる。
そんな哀れな犠牲者を、目の前にいるこの紅茶女は、ドヤ顔で自分に食わせようと言うのか。
一方、理不尽極まりない怒号を浴びせられてキレ散らかすヒナに対し、体勢を持ち直したナギサは、動じるどころか不敵な笑みを取り戻していた。
「……ふふ。そうおっしゃると思いまして、特別に開発させましたのよ。……この私自らが大枚を叩き、ティーパーティーの専属料理長と科学技術班を総動員して作り上げた、『ヒナさん仕様』の真のローストビーフを」
「……あん?」
ヒナの地団駄がピタリと止まる。
「……分かってるとは思うけれど、もしも奥から出てきたものが、少し脂を塗っただけのペラペラの紙切れ肉だったら……あんた、今夜中に集中治療室へ逆戻りすることになるわよ」
不機嫌さを隠そうともせず、ヒナは近くのアンティークチェアを足先で引き寄せると、ドカリと乱暴に腰掛けた。
「ええ、覚悟の上ですわ。今宵、あなたはローストビーフの歴史における『奇跡』を目撃することになりますわ!」
ナギサはパチンと優雅に指を鳴らした。
ガラガラガラガラ……ッ! ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
厨房の頑丈な二重扉が油圧で押し開かれ、床をミシミシと軋ませながら運ばれてきたのは――人類史上、あまりにも奇怪で巨大な超構造体であった。
四方全てが10m。高さも10mに達する、部屋の天井を丸ごと塞ぐほどの巨大な正方形の要塞。
しかし、その外壁は全面が特殊強化耐熱ガラスによって覆われており、内部の凄絶な光景が完全に可視化されていた。
そのガラスケースの内部には、牛丸ごと一頭分から切り出された特大の赤身と極厚バラ肉の塊(1個あたり50kg)が、1段につき60個、隙間なくギチギチに敷き詰められていた。
さらにその上には頑丈な軍用グリル網が渡され、そこにも60個の巨大肉塊。
それが天井に向かって整然と計6段――隊列を組むように積み上げられた、合計360個(総重量約18トン)の肉の軍隊!
そして、最上段に設置された無数の高圧ノズルから、超高温で加熱されて沸騰した純度100%の牛脂と濃厚極まる特製グレイビーソースの混合液が、まるでナイアガラの滝のようにドバドバと凄まじい勢いで流れ落ちていたのだ。
黄金色に煮えたぎる混合脂の激流は、360個の肉塊たちを余すところなく包み込み、テカテカとした分厚い脂の膜でコーティングしながら下段へと滑り落ちていく。
最下層のドレンプールに溜まった余剰脂は、四方の壁面に張り巡らされた超大型マグネットポンプによって瞬時に天井へと吸い上げられ、再び肉の上へと降り注ぐという、完全無欠の『牛脂の無限循環機構』!
この巨大な立方体の内部を循環する前代未聞にして正気など存在しない『脂の循環システム』がそこにあった!
さらに、前後左右、上下斜めの全方位360度から、軍用の超高出力赤外線ヒーターが容赦ない熱線を照射。
内部の肉汁を一滴たりとも外へ逃がさず、絶え間なく降り注ぐ牛脂とグレイビーソースの濃厚な旨味を、赤外線の熱圧力によって強制的に肉の最深部にまで浸透させながら、同時に外側をカリカリの脂の衣で焼き固め続ける狂気のオーブン!
「これこそが我が最高傑作――『
ナギサが大枚を叩き、トリニティの財力と権力を注ぎ込んで用意させた肉と脂の輪廻転生システム!
流石のヒナも、その禍々しいまでの油煙と熱気を放つ威容を前にして「ほぉ…」と、感心したように歩み寄った。
「……あんた、少しは見所があるじゃない。物分かりのいい奴は嫌いじゃないわよ」
「きゃっ❤︎ ヒナさんに褒められてしまいましたわ……!」
ナギサが両手を頬に当て、蕩けた顔でデレデレと悶えているのを完全に無視し、ヒナは装置の正面にある大型取り出しハッチのロックレバーを力任せにバコンと引き下げた。
プシューッ!! と灼熱の蒸気が吹き荒れる中、ヒナは手にした巨大な銀のフォークを迷わず構えると、循環する脂の滝を突き破り、一段目に並んでいた50kgの異形ローストビーフへと深々とブッ刺して一気に引きずり出した。
ジュワァァァァッ!!
引きずり出された肉塊は、薄切りスライスなどという軟弱な概念を完全に嘲笑う、1個丸ごとの巨大な岩石の如き質量。
表面にまとわりつく牛脂とグレイビーソースの重厚な鎧が、シャンデリアの光を乱反射して怪しくギラギラと輝いている。
「いただきマンモス」
ガブォン……!!
フォークに刺されていた50kgの肉塊が一瞬で空間から消失した。
代わりに、顔だけが数倍に巨大化したかのような空崎ヒナが、口を限界まで膨らませ、モムモムと重厚な音を立てて咀嚼する姿がそこにあった。
ゴクンッ! と、喉を鳴らして50kgの肉をわずか5秒で胃袋の燃焼炉へ落とし込むヒナ。
「……これこそが本物のローストビーフね。食べ終わったら、すぐに特許庁へ行って実用新案の申請を出しに行くわよ、ナギサ」
「ええ、喜んでお供いたしますわ!」
無駄な予定が1つ増えたところで、ヒナはもう片方の手にも別のフォークを構えた。
両手にフォークを構えたヒナは、巨大オーブンのハッチから肉を刺しては一口で喰らい、刺しては一口で喰らいを繰り返す。
その神速の手返しは、まるでヘヴィメタルのライブで猛烈な連打を叩き込むドラマーのスティック捌きの如く軽やかであり、50kgの巨大な肉岩たちが、次々と胃袋という名のブラックホールへと消滅していった。
ズバッ! ガツガツ! ゴクンッ!
ズバッ! ガツガツ! ゴクンッ!
遠く離れたテーブルの下にて――。
「あ……あぁ……お肉が……お肉たちが、命の尊厳を奪われて吸い込まれていきますわ……あは……あはは……」
アカリは2年前のトラウマが完全発症し、口から白い魂を吐き出して完全に幽体離脱していた。
「もうやだ……あんなの生物じゃない……もう帰らせてください………」
ジュンコは目の前で繰り広げられる常軌を逸した捕食ショーに完全に茫然自失となり、全身が真っ白な灰と化してサラサラと床へ崩れ落ちかけていた。
「美味しそ〜! いいなぁ〜! アタシもあのお肉の滝に飛び込んで、体中ギトギトになりながら丸呑みしたーい!」
イズミだけは、目をキラキラと輝かせながら指を咥えて見つめている。
そして――。
我らが美食研究会部長、黒館ハルナは。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……ッ!
笑顔が顔面に張り付いたまま、全身の筋肉を小刻みに震わせていた。
だが、その震えは、もはや恐怖によるものだけではなかった。
「(あの肉……あの、醜悪極まりない肉の冒涜ぅ……!!)」
笑顔とは、本来、野生動物が外敵に対して牙を剥き出しにし、威嚇するために行う原初の戦闘行為に由来している。
目の前で行われているのは、美食への敬意も、料理人の技術も、素材への感謝もへったくれもない、純粋なる肉の虐殺ショー。
ただひたすらに過剰な脂を浴びせかけ、己の底なしの欲望のままに胃袋へと放り込むだけの、悪趣味極まりない金持ちと怪物の道楽。
過去において、かの暴虐に対して己の肉体は完膚なきまでに敗北した。
だが――我が胸に宿る、崇高なる美食の魂まで屈したわけではない……!
さぁ、怒りの炎で、あの冒涜者を焼き尽くせ!!
「死ねや空崎いいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!」
ハルナはテーブルクロスを力任せに跳ね上げ、ドレスの裾からどこからともなく取り出した軍用対戦車ロケットランチャーを肩に担ぐと、一切の躊躇なく引き金を引いた!
その発射口が向かう先は、もちろん、無防備に肉を貪り食うヒナの後頭部一直線!
ドシュウウウウウウ!!!!!!
店内に凄まじい白煙が立ち込め、音速を突破したロケット弾が一直線にヒナの顔面へと迫る――!
スコーン。
「へ?」
間抜けな声が漏れた。
ヒナは咀嚼の手を止めることすらなく、飛来したロケット弾の先頭信管を僅かに外した側面を、手にした銀のフォークの背で軽く小突いたのだ。
クルリ。
信管を狂わされることなく、ロケット弾は空中で綺麗に180度ひっくり返り、完璧な推進力を保ったまま逆噴射。
元の射出軌道を猛スピードで逆走し、テーブルの下から顔を出していたハルナたちの眼前へと迫る!
ボガアアアアアアアアアアアアアアン!!!!!!!
2年ぶりのおかえり、ただいま天井!
今回もまた、木っ端微塵に吹き飛んだレストランの天井を突き破り、イズミとジュンコを加えた美食研究会カルテット。
凄まじい爆風と噴煙に乗って、満天の青空を突き抜ける優雅な空の旅へと強制射出されたのであった。
突き破られた天井の大穴から、パラパラと白大理石の粉塵とガラスの破片が落ちてくる中――。
テーブルの下に素早く避難していたナギサが、恐る恐る顔を出して口を開いた。
「い、いったい何だったのですか……? どこかで見たような気がしますが、ヒナさん、あの方たちとはお知り合いなのですか?」
「さぁ? 知らない」
2年前のワンパンなど記憶の片隅にすら存在しないヒナは、平然と言い放つと、巨大オーブンの3段目を完全に平らげ、そのまま何事もなかったかのように4段目の肉塊へとフォークを突き立てたのだった。
翌日、ハルナとアカリはミレニアムの大人気商品『空崎ヒナ探知レーダー』(定価:50万クレジット)を買いに行ったのだった。