深夜2時。草木も眠る丑三つ時。
深い闇に包まれた、人気のないゲヘナ自治区の中央通り。その冷え切ったアスファルトの上を小さな影が悠然と闊歩していた。
風紀委員長、空崎ヒナである。
彼女は鼻歌交じりに、実にルンルンとした上機嫌な足取りで夜道を歩いていた。
「(……ふふ。これでよし、と。部下どもの私用端末からバックアップサーバーに至るまで、すべてのログからママの連絡先データの消去完了ね)」
そう、彼女はたった今、極めて重大な一仕事を終えてきたばかりであった。
昨夜、焼肉屋『おいらが肉大将』にて、アコたちが突きつけてきたピーマンの恐怖に耐えかね、自らの愛銃デストロイヤーで頭部を粉砕して気絶を選んだヒナ。
しかし、数時間後に医務室のベッドで目を覚ました彼女は、持ち前の超常的な新陳代謝によってたんこぶの激痛をねじ伏せると、その足で深夜の風紀委員会本部へと単身潜入したのだ。
そして、セキュリティ網を紙屑のようにすり抜け、アコ、イオリ、果ては古参メンバーたちの全端末をハッキング。
短縮ダイヤル一番に登録されていた母・空崎ヒナコの直通電話番号、モモトークのアカウント、果てはクラウドに保存されていた通話履歴の残骸に至るまで、1文字残さず消し去ることに成功したのである。
「明日からは、いつもの平和な毎日が再開するわ。不敬な部下どもを鉄拳制裁し、誰もが私の足元に跪く……あの王の日常が帰ってくるのよ」
うふふ、と口元を緩め、スキップを踏むヒナ。
ヒナにとっては栄光ある日常の再開。ゲヘナの全生徒にとっては暗黒世紀の再来である。
だが、下々民の事情など知ったこっちゃないヒナは、意気揚々と自宅への帰路についていた。
まさに、その時であった。
クンクン。
「……ん?」
夜風に乗って、微かに漂ってきた暴力的な芳香。
ヒナの脳内図書館から、該当する記憶データが瞬時に引き出されるまで――わずか0.00001秒。
「……っ! この、過熱された牛脂とパティ、そして特製マヨネーズが混ざり合ったジャンクの極み……『モモドナルド』のジャイアント・モモ・バーガー……!!」
ピーンと、背中の悪魔の翼が歓喜に跳ね上がった。
それもそのはず、ヒナの大好物の1つである。数時間前の焼肉屋では、アコの裏切りによる野菜テロのせいで、ほんの数切れのカルビしか胃袋に収められず、今の彼女は猛烈な飢餓状態に陥っていたのだ。
「(このまま店舗へ直行しようかしら……いえ、ダメよ、この匂いを嗅いでしまった以上、一秒たりとも我慢できない……! この先の角から漂ってくる、あの出来立てのバーガーを食べてからよ!!)」
それが誰かがテイクアウトした私物である可能性など、今のヒナの頭には1mmも湧き上がらない。
香ばしい脂の匂いに釣られ、ヒナの歩幅はみるみるうちに広がっていった。
そして、ヒナが勢いよく路地の角を曲がった先――。
そこには、目当てのジャイアント・モモ・バーガー『は』確かに存在した。
――湯気を立てるバーガーを、片手に持った『人物』とともに。
ヒナは歩みを止めない。
「……『狐坂ワカモ』。指名手配中の大物が、こんな夜更けのゲヘナで何の用かしら?」
そこに佇んでいたのは、キツネの面を傾け、妖艶な着物に身を包んだ少女。
キヴォトス全土を震撼させる凶悪な七囚人の1人にして、『災厄の狐』の異名を持つ大罪人、狐坂ワカモであった。
世の一般生徒やヴァルキューレ警察学校の警備部隊にとっては、直視するだけで失禁するほどの恐怖の象徴。
だが、キヴォトスの恐怖の大王たる空崎ヒナにとって、そんなものは道端の小石と同義であった。
「その右手に持っているジャイアント・モモ・バーガーを、今すぐ私によこしなさい。そうすれば……今夜は見逃してあげてもいいわよ」
深夜の路上における、あまりにも堂々たる恐喝。
当然、ヒナの前において拒否権などという生温い選択肢は最初から用意されていない。
ヒナは速度を落とすことなく、2mの距離まで真っ直ぐに詰め寄った。
スッ。
ワカモは、バーガーを握った右手をヒナの前へと差し出した。
「ほう……賢いじゃない」
無駄な抵抗をしない素直な奴は嫌いではない。
ヒナは小さく口角を上げると、ワカモの目の前でそのバーガーを奪い取ろうと手を伸ばした。
その瞬間――。
「ようやく会えましたわ……私の『バブちゃん』❤︎」
ギュッ……!
突然、柔らかな着物の感触と共に、ワカモの両腕がヒナの小さな身体を力強く、そして慈愛に満ちた抱擁で包み込んだ。
そして耳元でねっとりと囁かれた狂気の甘い声。
ドッゴオオオオオオオオオオオン!!!!!!
ワカモの視界が、音速を超えて天地逆転した。
抱きしめられたコンマ1秒後、ヒナは一切の躊躇なくワカモの胴体をクラッチし、後方のアスファルトへと渾身のジャーマンスープレックスを炸裂させていたのだ。
頭から路面に突き刺さるワカモ。
ヒナは宙を舞った瞬間に掠め取っていたジャイアント・モモ・バーガーの包み紙を破り、一口で半分を豪快に頬張った。
モグモグ、ゴクンッ!
「言っている意味が、1mmも理解できないわね。そこで永遠に寝てなさい」
ヒナは冷たく吐き捨てると、残りのバーガーを胃袋へと流し込み、再びモモドナルドの店舗へと足を向けた。
しかし――。
「それだけじゃ、全然足りませんよねぇ……バブちゃん?❤︎」
ボゴオォンッ!!!!
背後から響くはずのない声に、ヒナは振り向きざまに神速の右ストレートをその顔面へとお見舞いした。
大気を切り裂く轟音。しかし――。
「バブちゃんの小さなおてて……いただきまぁす❤︎」
ヒナの拳の表面を、ペロリと湿り気を帯びた熱い舌が這い上がってくる耐え難い生理的嫌悪感。
ゾゾゾ……ッ!!
ヒナは全身の毛穴を開き、バックステップで一気に10m以上の距離を取った。
そこに立っていたのは、顔面から摩擦の白煙を噴き上げながらも、頬を朱に染めてうっとりと佇むワカモの姿であった。
「可哀想な私のバブちゃん……。お義母様や、生意気な部下の子たちから野菜を食べさせられそうになって、お尻を叩かれて……本当に可哀想……」
「なっ……!? お前、なぜそれを……!?」
「……だけど、もう大丈夫ですわ。この私が……『ママ』が、助けてあげます。ワカモママが死ぬまでバブちゃんを、た〜んと甘やかして、おっぱいも美味しいご飯も、無限にあげーーーー」
その先の妄言が紡がれることは、二度となかった。
ドババババババババババババッ!!!!!!
ヒナの超高速インファイトラッシュ!!
かつて数々の巨大戦車や要塞の装甲板を微粒子へと粉砕してきた音速を超越する拳の乱舞。
彼女がこの理不尽な破壊の舞を生身の生物に対して解き放ったのは、その生涯で初めてであった。
「(何だか知らないけれど……コイツは今ここで、細胞レベルで完全に消滅させておかないと、私の人生が終わる気がする……!!)」
麻○中毒者の戯言だろうが、精○異常者の妄言だろうが、そんなことはどうでもいい。
今夜、空崎ヒナと狐坂ワカモは『出会わなかった』。ワカモは『人知れずキヴォトスの外へ消え去った』。
そんな公式記録へと歴史を強引に収束させるため、ヒナはラッシュのギアを限界まで引き上げた!
50…100……200………500発ッ!!
ドガァァァァァンッ!! と最後のアッパーを叩き込み、ヒナは息を乱すことなくパンパンと両手を払った。
「……チッ。夜中に余計な運動をさせやがって」
消費したカロリーを補填するには、モモドナルドの店舗を10軒ハシゴしなければ到底割に合わない。
ヒナは溜息をつき、再び背を向けて歩み出そうとした。
――しかし。
「あらあら、まぁまぁ……❤︎ バブちゃんとのスキンシップは、魂が蕩けるほどに心が安らぎますわぁ……❤︎」
ワカモはその目の前に、立っていた。
避けられたのか? と一瞬疑念がよぎったが、ヒナは即座にそれを否定した。
なぜなら、500発の拳の直撃によって生じた超高圧の衝撃波により、ワカモの着物や帯、装身具のすべてが粉々に吹き飛び、彼女は今、月明かりの下で完全に『生まれたままの姿』になっていたからだ!
「バブちゃん、たくさん動いてお腹が空いたでしょう? すぐにワカモママが、世界一美味しいご飯を作ってあげますからねぇ❤︎」
全裸のワカモは、四次元空間から取り出したかのように、巨大なガスコンロと特注の鉄板をアスファルトの上に展開した。
そして、直径2mはあろうかという巨大な牛豚合挽き肉のパティを豪快に鉄板へ叩きつける!
ジュワァァァァァァッ!!
さらにその横で、同じく直径2mにまで継ぎ合わせた特厚サーロインステーキ(※パンの代わりのバンズ)と、分厚いチェダーチーズの塊を手際よく焼き上げる。
仕上げに、煮えたぎる濃厚BBQ背脂ソースをドバドバと回しかけ、肉と肉でチーズをサンド!
「さぁ……特製『ワカモバーガー』の出来上がりですわよ、バブちゃん❤︎」
ボゴオォンッ!!!!
その刹那、ヒナの渾身のドロップキックがワカモの顔面を捉え、彼女の身体は真後ろのビルの外壁へと深々とめり込んだ。
そして、完成したばかりの熱々の巨大ワカモバーガーを強奪したヒナは、それを両手で抱えてかじりつきながら、脱兎のごとく全速力でその場から逃走を開始した!
ガツガツ、モグモグ、ゴクン!
「(……っ! 認識したくない……絶対に認めたくないけれど……!!)」
走るヒナの額から、冷汗が吹き出す。
「(……アイツ、『
背後にいる露出狂は、全肯定で無限に甘やかしてくるママ。
実家にいるのは、厳しくお尻をシバいてくるママ。
方向性に違いはあれど、その根底にある本質は全く同じ――『どれだけ殴っても絶対に死なない理不尽な耐久力』を持ち、狂気的な母性の圧力によって己の上に君臨しようとする絶対の魔物!
勝てるわけがない。ならば、『逃げて撒く』しかない!
一方、粉々になったコンクリートの壁から、ズボッと抜け出したワカモ。
顔面には強烈な打撃痕が残っていたが、その表情には一切の苦痛はなく、むしろ法悦の笑みが浮かんでいた。
「待ちなさい、私の可愛いバブちゃん……❤︎」
全裸のワカモは、コンロ付きの鉄板を抱え上げると、凄まじい脚力で夜のゲヘナの街を疾走し始めた。
なぜ、彼女はこれほどまでに空崎ヒナへ異常な執着を見せるのか?
答えは極めて単純明快であった。
『一目惚れ』である。
数ヶ月前、矯正局からの脱獄を果たした直後、路地に落ちていた新聞の片隅。
そこには、他校の拠点を破壊し、何十キロもの肉を貪り食う空崎ヒナの凶悪極まりない暴食と暴虐の記録が写真付きでデカデカと掲載されていた。
普通の人間であれば、その蛮族の如き所業に眉をひそめ、恐怖するところである。
しかし、この狐坂ワカモという女の脳内回路は、根本から狂っていた。
「……あぁ……」
新聞の写真を見つめた瞬間、ワカモはその場に膝から崩れ落ちた。
頭上から巨大な金槌で殴りつけられたかのような、雷光の衝撃。
そうか。
これが、天啓。これこそが、真の悟り。
――私のこれまでの人生は、この子を……この愛しい『バブちゃん』を育てるためにあったのだ、と。
当然間違っているのだが、己の悟りが必ずしも他者の真理とはなりえない。
各人にとっての正解が異なるという分かりやすい例である。
そしてそこからのワカモの行動は、恐ろしいほどに徹底していた。
目立ったテロ行為をピタリと止め、表舞台から完全に姿を消した彼女は潜伏先の廃墟の壁一面にヒナの盗撮写真を数万枚貼り巡らせ、毎日写真のヒナに向かってミルクを作り、語りかけながら愛でる日々を送っていたのだ。
これこそが、彼女の
そして今夜、日課である超長距離盗聴器のモニタリングによって、最愛の娘が実母にお尻を叩かれ、部下たちに野菜を強要されて精神的トラウマを負ったと知ったワカモは、母性という名の狂気に背中を押され、夜のゲヘナへと馳せ参じたのであった。
【七つの大罪:色欲のワカモ】
大型コンロ付き鉄板でパティ、バンズ、チーズを同時焼きしながら、時速100キロで追走してくる全裸のハンバーガー屋さん。
彼女は最愛のバブちゃんをこの腕で抱きしめ、よしよしするまで止まる気など微塵もなかった。
「来るなクソロリコンがああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
ヒナの魂を削るような、物理的にも精神的にも完全な拒絶の絶叫!
「うふふ、バブちゃんったら照れ屋さんなんですから❤︎ おかわりのワカモバーガーはいかがですかぁ?」
だが馬耳東風。聞かなければ、ぜーんぜん効かないのだ。
トトトトトッ……!
ヒナは巧みにステップを踏んで一瞬だけスピードを落とすと、ワカモが差し出してきた焼き立ての2個目のワカモバーガーを力任せに強奪!
そのまま即座に最高速度へと再加速し、バーガーを丸呑みにしながら走り続ける!
モグモグ、ゴクンッ!
「(……っ! コイツ……本当に撒けるの……!?)」
現在の総走行距離、すでに80km。
それなのに、後ろのスッポンポン狐は息一つ乱さず、ジュージューと軽快に肉を焼きながら背後にピタリと張り付いている。
それどころか、この深夜のデスレースを微笑ましい親子の追いかけっことして楽しんでいるようにすら見えた。
私を捕獲するまで、永遠にどこまでも追いかけてくる気か……!?
このままでは、いくらヒナの超高効率燃焼炉であっても、先に精神力と体力が限界を迎えて捕獲されてしまう。
チラリと後ろを振り返ったヒナの視界。
ワカモの手元で、鉄板の脇に用意されていた『あるアイテム』を、ヒナは見逃さなかった。
――巨大なピンク色の『おしゃぶり』と、特製コンデンスミルクが満載された『哺乳瓶』を。
「(……捕まったら、今度こそ死んでしまう)」
やるのか?
「はぁ……はぁ……!」
やるしかないのか……!?
ヒナは深く、深く息を吐き出した。
そして――。
キュッ!!
路面を焦がすような急ブレーキとともにヒナは反転し、真正面からワカモと対峙した。
「こいやあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
空崎ヒナ17歳。
ママとの親子喧嘩以外で、その生涯において初めて『真の覚悟』を決めて腹を括った瞬間であった。
翌朝、午前9時。ゲヘナ学園、風紀委員会執務室。
「……まぁ、色々昨日の夜のことを振り返ってみたんだけどさ」
イオリがデスクの上で腕を組み、気まずそうに視線を泳がせながら口を開いた。
「やっぱ、委員長に対してやりすぎたかなぁ……?」
「本当ですよ、イオリさん!!」
バンッ!! と、チナツが涙目でデスクを強く叩いた。
「委員長を追い詰めて、自決にまで追い込むなんて……風紀委員会の幹部が率先していじめを行うなんて、最っ低です!!」
「うっ……ごめんってば、チナツ……。反省してるよ……」
しょげるイオリの横で、アコもまた深々と溜息をついた。
「ごめんなさい、チナツ。流石に私たちも度が過ぎたと猛省しております。……委員長が登校されたら、お詫びとして大好物のジャイアント・モモ・バーガーを50個差し入れるつもりなのですが……」
アコは最奥の空席を見つめる。
「まだ、頭のたんこぶで寝込んでいらっしゃるのでしょうか……?」
チナツがギロリと冷たい視線を向ける。アコが目を逸らし、医務室へ安否確認の連絡を入れようとした――まさにその時。
バタンッ……!
執務室の重い鉄扉が、力なく押し開かれた。
「はぁ……はぁ……」
空崎ヒナ、登校。
「…………勝ったぞ」
フラフラとした足取りで、一歩、また一歩と絨毯を踏みしめるヒナ。
「勝ったぞオラアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
その姿に、アコ、イオリ、チナツの3人は息を呑んで絶句した。
軍服はビリビリに引き裂かれ、露出した白い肌や顔中には無数のキスマークと、大量の『他人』の唾液の跡。
首元にはなぜか無理やり装着されたレース付きのピンク色のよだれ掛け、そして長い髪には、巨大なおしゃぶりと空になった哺乳瓶が複雑に絡みついていた。
傷だらけの辛勝。
だが――彼女は確かに、あのママを名乗る怪物に打ち勝ったのだ!
【暴食 VS 色欲 ―― 暴食の勝利!】
同時刻。ヴァルキューレ警察学校、本部裏口。
「きょ、局長おおおおおおおおおお!!!!! 早く来てください!! 大変な事態ですうううううううう!!!!!!」
登校直後、血相を変えた公安局の部下に腕を引っ張られ、裏口へと案内された尾刃カンナ。
「どうした、朝から騒々し――」
裏口のゴミ捨て場を見た瞬間、カンナの時が完全に静止した。
そこには極太の鉄製ワイヤーで何重にもグルグル巻きに拘束され、頭上に高さ2mにも及ぶ巨大な二十連たんこぶタワーを聳え立たせた狐坂ワカモが目を回しながら転がっていたのだ。
「……あぅ……バブちゃん……❤︎ ママが……今すぐ迎えに行ってあげまちゅからねぇ……❤︎」
それが彼女の寝言なのかどうかー――それは神のみぞ知る。
ヒナちゃんは毎日のように連邦生徒会へとワカモの極刑嘆願書を出しましたが、当然んなこと呑めるわけないのでことごとく却下されているのでした。