七つの大罪:暴食のヒナ   作:ていん?が〜

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あの人の久しぶりの登場と改めての紹介です。


第27話:正義の鶏皮チップス

「ご利用ありがとうございました。またのご利用を心よりお待ちしております」

 

 私は、武装したスケバングループの首領から代金の詰まった封筒を受け取ると、地面に転がっていた棗イロハを台車の上へと乗せ直しました。

 息を整える暇など微塵もありません。この仕事は1分1秒を争う過酷極まりないタイムアタックなのです。

 

 秒単位で緻密に組まれたスケジュール表を遵守しなければ、後続の予定がドミノ倒しのように崩壊します。

 しかも、利用客はキヴォトス全域の表社会から裏社会、正規の学園組織から路地裏の反社会的勢力に至るまで多岐にわたるため、常に大陸横断級の超長距離移動を強いられるのです。

 

 

 ……あぁ、申し遅れました。

 私、キヴォトスの外側から神秘の探求のためにやってまいりました。ゲマトリアの黒服と申します。

 

 皆様、覚えていらっしゃるでしょうか?

 そう、10話・11話で登場したあの黒服でございます。

 

 あの悪夢のような夜、マエストロが全財産と芸術研究費を注ぎ込んで開発した『マエストロ特製・融解動物性脂肪果実(プロトタイプ・アボカド・カルマ)』を空崎ヒナに差し出すことで、私たちは辛うじて破滅の淵から生還を果たしました。

 そして魔王が立ち去ったコンマ数秒後、私たちは涙ぐましい速度で荷物をまとめ、痕跡を完全に消去して新天地へと拠点を移転させたのです。

 

 その甲斐あってか、それ以降、空崎ヒナによる理不尽極まりない襲来は完全に途絶えました。

 これ以上ないほどの福音。実に喜ばしいことです。

 

 ……喜ばしいこと、なのですが――。

 

 

 致命的な問題が発生いたしました。

 

 

 組織の『全資金』が、完全に底をついたのです。

 

 度重なる拠点の破壊に伴う莫大な損害賠償、夜逃げ同然の引っ越し費用の累積、そして極め付きはアボカド開発に投じられた天文学的な研究費。

 先立つものがなければ、崇高なる神秘の研究どころか、日々のパンや水、電気代の支払いすらままなりません。

 

 このままでは、キヴォトスの外側の偉大なる知性体が、路傍で野垂れ死んでしまう。

 そこで私たちは、プライドをドブに捨て、生活費を稼ぐための『アルバイト』を始める決断を下したのです。

 

 マエストロは道端で奇怪な現代アートを売り捌こうとして即座に不審者として通報され、ゴルコンダとデカルコマニーは額縁を使った大道芸で日銭を稼ごうとして子供たちに石を投げられる始末。

 必然的に、五体満足で動ける私が、インターネットの求人サイトや求人雑誌と睨めっこをする羽目になりました。

 

 しかし、世知辛い現代社会。高時給を謳う求人はどれも身元不明の反社会的組織による危険な案件ばかり。

 昨今では闇バイトなる凶悪な罠も横行していると聞きますから、慎重な見極めが求められます。

 

「ふぅ……。どれもこれも、割に合わないものばかりですね……」

 

 顔面の亀裂を明滅させ、疲弊した発光部を指先で揉みほぐしていたその時でした。

 画面の片隅に表示された、ある1つの求人広告が私の目を射抜いたのです。

 

 

【急募! 棗イロハ・レンタルサービス 専属運搬係!】

 

 

「……棗イロハ? 確か、ゲヘナ学園の最高意思決定機関たる万魔殿の要職を務める生徒ですが……レンタルサービス? いったい何を貸し出すというのです……?」

 

 不審に思いながら視線を下へスライドさせた瞬間、私は思考を完全に停止させました。

 

 

【給与:時給5000クレジット(即日日払い可・交通費全額支給)】

 

 

「なっ……!?」

 

 破格。あまりにも破格すぎる超高待遇。

 私は目を疑い、顔の亀裂を激しく瞬かせながら何度も画面を凝視しました。

 

 

【給与:時給5000クレジット(即日日払い可・交通費全額支給)】

 

 

 0が1つ多いといった誤植ではありません。

 悪質な釣り広告かとも疑いましたが、募集主の欄には堂々と『ゲヘナ学園・万魔殿』と記載されており、記載された連絡先電話番号も間違いなく万魔殿の公式代表回線でした。

 

「いえ……最近の知能犯は、公的機関の電話番号を偽装して表示させる技術を持っていますからね。油断は禁物です」

 

 私は慎重を期すため、記載された番号へと通話を発信いたしました。

 

 

 プルルル……ガチャッ!

 

『はーい! 万魔殿経営顧問のイブキでーす! ご用件はなーにー?』

 

 受話器から飛び出してきたのは、思わず鼓膜が蕩けそうになるほど底抜けに無邪気で愛らしい幼女の声でした。

 私は完全に面食らいながらも、ビジネス用の慇懃なトーンを崩さずに応対いたしました。

 

「あ、恐れ入ります……。私、求人サイトにて『棗イロハ・レンタルサービス運搬係』の募集を拝見し、ご連絡させていただいた者なのですが……」

 

『あっ、バイト応募の人ー!? 面接するから、いつ来れるー?』

 

「え、あ、はい。私といたしましては、いつでも対応可能でございますが……」

 

『それじゃあ履歴書用意して、1時間後に万魔殿の執務室まで来てねー! ばいばーい!』

 

 

 ガチャリ! ツーツーツー……。

 

 

 暴風雨の如き一方的な展開とともに通話は切断されました。

 一瞬、我が身に何が起きたのか理解できませんでしたが、声の主は間違いなく万魔殿の頭脳たる丹花イブキ嬢。

 

 少なくとも架空の詐欺組織ではないことだけは確認できました。

 

 私は大急ぎで偽造した履歴書を懐にねじ込むと、ゲヘナ学園の本校舎へと向かったのです。

 

 

 

 

 ゲヘナ学園、万魔殿執務室。

 

 豪奢な扉を開けた先で私を出迎えたのは、応接ソファーの上で小さな足をパタパタと揺らしながらジュースを飲む丹花イブキ嬢と――その足元に置かれた工事用台車の上で、死体のように完全に横たわっている棗イロハの姿でした。

 

「おじさん、いらっしゃーい! 求人載せたばっかりなのに、もう応募が来るなんてびっくりだよー!」

 

 カラカラと無邪気に笑うイブキ嬢。しかし、私の視線は台車上の異様な物体へと釘付けになっておりました。

 

「あ、あの……イブキ嬢。そちらに転がっていらっしゃる彼女は……その……『生命活動を維持』されているのでしょうか……?」

 

 見れば、執務室内を飛び回っていた丸々と太ったハエが、棗イロハの開かれたままの右眼球の上にピタリと静止したのです。

 しかし彼女は、瞬きひとつ、筋肉のピクつきひとつ見せることなく、ただ虚無の視線を天井へと投げ続けていました。

 

「んー? イロハ先輩はナマケモノさんだから大丈夫だよー! それでおじさん、体力には自信ある方ー?」

 

「え、えぇ……神秘の探求のためでしたら、不眠不休で1ヶ月以上フル稼働できる程度の自己修復機能は備えておりますが……」

 

「わぁ、すごい! 採用決定ー!! それじゃあイロハ先輩、採用にあたって新しい仲間へ何か一言どうぞー!」

 

 イブキ嬢が元気よく台車の上の肉体へと声をかけました。

 

 

「………………………………………………んあー……………………………………………」

 

 

 静寂。

 

 チクタク、チクタクと壁の掛け時計が冷酷に時を刻む。

 

 

 1分……2分……3分……。

 

 

 実に5分間という永遠に近い沈黙が室内に横たわった後、イブキ嬢は何事もなかったかのようにパンと手を叩きました。

 

「はい! 素晴らしいご挨拶でしたー! それじゃあ今日から早速働いてもらうね! これが本日のスケジュール帳だよー!」

 

「え!? 今の『んあー』だけで終わりですか!?」

 

 突っ込みを入れる暇もなく、私の両手にドンと押し付けられた厚さ5cmのスケジュール帳。

 

 そこに記された文字列を目にした瞬間、私の背筋に冷たい電流が走りました。

 

 1秒の狂いもなくビッシリと書き込まれた『レンタル先の一覧』『貸出予定時間』、そして目的地までの『最短進行ルート』。

 

「それじゃあおじさん、しっかり稼いできてねー! いってらっしゃーい!」

 

 背中をポンと押され、私は台車の手押し棒を握りしめたまま、ゲヘナの荒野へと放り出されたのでございます。

 

 

 

 

 「ぜぇ……ぜぇ……はぁ……はぁ……ッ!」

 

 己の浅はかさを呪いました。体力の問題などという生温い次元ではありません。

 

 

 最初の現場はトリニティ総合学園の工学部でした。

 

「待っていたわ! これが噂の『絶対不可侵の生体装甲板』ね! さぁ、新型対戦車榴弾のゼロ距離斉射テストを開始するわよ!」

 

「よろしく頼むわね、運搬のおじさん!」

 

 台車から降ろされた棗イロハは、射撃場の標的台の上に無造作に立てかけられ、数十発の徹甲弾と大口径榴弾の直撃を正面から浴びせられました。

 轟音と爆煙が晴れた後、射撃場の防壁は完全に粉砕されていましたが、彼女の肌にはスス汚れひとつ付着しておらず、「んおー」と間の抜けた声を漏らすのみ。

 工学部の生徒たちは「素晴らしい耐久度だわ!」「論文のデータが取れたわ!」と歓喜の悲鳴を上げ、私は急いで彼女を台車に回収して次の現場へと疾走しました。

 

 

 続いて向かったのは、ミレニアムサイエンススクール。

 

「計算通りです。彼女の質量中心と異常な細胞密度は、我が部が開発した大型粒子加速器のビーム偏向シールドとして完璧な数値を叩き出しています」

 

 理系生徒たちが冷徹にキーボードを叩く中、彼女は超高エネルギーレーザーの直撃をその胸板で平然と受け止め、反射光で室内の観葉植物を青々と光合成させていました。

 

 

 さらに山海経では、

 

「助かったよ! 厨房の超特大中華鍋の油返しをするための『耐熱撹拌棒』が折れて困っていたの!」

 

 料理人たちによって足首を掴まれた彼女は、200度に熱された油の海に頭から突っ込まれ、豪快に野菜と肉をかき混ぜる調理器具として大活躍。

 

 

 百鬼夜行では、

 

「お祭りのお神輿の頂上に乗せる『魔除けの御神体』として、これ以上の存在感はありませんわ!」

 

 神輿に縄でガチガチに括り付けられ、町中を練り歩く彼女。

 

 

 ハイランダー鉄道学園では脱線した装甲列車の車軸代わりに線路へ敷かれ、ワイルドハント芸術学院では彫刻科の生徒たちから無数のノミと金槌で力任せに打ち据えられる『不壊の生体モデル』として酷使される日々。

 

 それだけではありません。

 

 

「野郎どもぉ!! 万魔殿から棗イロハが届いたぞぉ!! これでこの抗争、ワシらの完全勝利じゃあああああ!!!!」

 

「うおおおおおおおおおおおっ!!!!!!」

 

 ゲヘナ自治区の裏路地で行われていたヘルメット団と悪徳ギャングの血生臭い抗争現場。

 巨漢の首領が彼女の両足を掴んで豪快に振り回すと、迫り来る敵の装甲車やバリケードが、まるで紙屑のように次々と粉砕されていきました。

 

 

 ドガァン! バキィッ! ボゴォッ!!

 

 

 振り回されるたびに響く「んあー」「んおー」という気の抜けた声。

 敵兵たちは「悪魔だ! 万魔殿の人間兵器が暴れ回っているぞ!」と恐慌を来して逃げ惑い、抗争はわずか数分で鎮圧されました。

 

 

 そして極め付きは、山奥の寒村。

 

「ありがとうねぇ、運搬のお兄さん。イロハちゃんの重みで漬けた白菜のお漬物は、塩の回りが均等で本当に美味しいのよぉ」

 

「ぜぇ……はぁ……ど、どういたしまして……おばあ様……」

 

 標高5000mの切り立った獣道を、台車を押して往復した私の肉体は、過熱したサーボモーターのように悲鳴を上げておりました。

 

 

 

 

 そして、現在。

 

 

 ボボボボボボボボボボボボ……ッ!

 

 

 波飛沫を上げながら、私と台車、そして棗イロハを乗せた小型連絡船が、沖合に停泊するオデュッセイア海洋高等学校の巨大クルーズ船へ向けて航行しておりました。

 

「……………ひとえに……………………………人の争いというものは……………………………………」

 

 船首に横たわる棗イロハは、相変わらず気の遠くなるような超低速で言葉を紡いでおりました。

 驚くべきことに、彼女が現在喋っている内容は、初日の面接時にイブキ嬢から求められた『採用にあたっての一言』の続きなのです。

 

 一言と言われたはずなのに、内容は哲学的な社会風刺から昨日の朝食の感想へと脱線し、出勤から丸3日が経過した今になっても、全体の3割程度しか進行しておりません。

 

「……そうですね。争いは、実に不毛で愚かしいものです」

 

 私はハンドルを握りながら、穏やかに相槌を返しました。

 24時間体制で寝食を共にしていれば、どれほど無機質な怪異であっても情の1つや2つは湧くというもの。

 

 そして、この過酷な3日間を通して私の胸中にはある奇妙な感情が芽生えておりました。

 

「……イロハ嬢。あなた……本当に酷い使われようですね」

 

 神秘の探求のために数々の非人道的な実験を主導してきた私が口にするのも滑稽な話ですが、彼女の扱いはあまりにもあんまりです。

 行く先々で武器、防具、実験体、あるいは日用品として、奴隷よりも酷い扱いを受ける彼女。

 そして皮肉なことに、それによって周囲の生徒たちには満面の笑顔と幸福がもたらされている。

 

「………いったい、何があなたの本当の幸せなのでしょうね」

 

 ポツリと零れ落ちた私の独白は、カモメの鳴き声とエンジンの爆音の中へと静かにかき消されていきました。

 

 

 

 

 

 オデュッセイア海洋高等学校ダイビング部による、水深1万mの超深海における水圧測定実験(生体沈降用ウェイトとして海底へ投下され、無傷で引き揚げられる工程)を無事に完遂したその日の夜。

 

 私は再び台車を押し、ゲヘナ自治区の暗い夜道を歩いておりました。

 

「次のレンタル先は……ヴァルキューレ矯正局での凶悪囚人鎮圧用ストッパー、ですか。本当に、この街は争いの種が尽きませんね」

 

「…………ミケランジェロは……かつてこう言いました………んあー……………」

 

「えぇ、ミケランジェロですね。彼は何と言ったのですか?」

 

 取り留めのない会話を交わしながら、街灯の乏しい路地裏を抜けていく。

 

 その時である。

 

 

 バリィッ!! バリボリッ!! ドンドンドンドンドンッ!!!!!!

 

 

 夜の帳を引き裂くような凄まじい咀嚼音と、局地的な直下型地震を思わせるリズミカルな地響きが、前方の暗闇から轟いてきたのだ。

 

「うわっ!? じ、地震ですか……!?」

 

 黒服は慌てて台車を押さえ、イロハが転落しないよう両手で支えた。

 

 

 ドォン! ドォン! ドォン!

 

 

 心なしか、凄まじい質量を伴った振動が、こちらへ向かって一直線に接近してきているような気がする。

 

「(……嫌な予感がします。ゲマトリアとしての長年の直感が告げている……ここは直ちに回れ右をして、全速力で迂回するべきです……!)」

 

 私が台車の向きを変えようとした、まさにその刹那。

 

 

「…………あ? あんた、黒服?」

 

 運命の神は、どこまでも残酷だった。

 

 

 暗闇の向こうから姿を現したのは――この世で最も出会ってはならない死神、空崎ヒナ。

 

 

 しかも、その表情は過去に類を見ないほど『極限の不機嫌』に歪み切っていた。

 

 その小さな両手には、巨大なハンググライダーを彷彿とさせる『鶏1000羽分の皮』を継ぎ合わせて純度100%の鶏油でカリカリに揚げ固めた『グライダー型・超巨大鶏皮チップス(全幅3m)』が握られていた。

 それをバリボリと凶暴な音を立てて噛み砕きながら、足先でアスファルトを踏み鳴らし、激しい貧乏ゆすりを繰り返していた。

 

 読者の皆様なら、すでにお察しのことだろう。

 先日、空崎ヒナコ(ママ)によって執行されたお尻ぺんぺんの屈辱と痛みが未だに引いておらず、八つ当たり用の獲物を血眼で探していた最悪の精神状態であったことを!

 

「……あんた。先日、私が拠点を訪ねてあげた時、もぬけの殻だったわよね? 私の訪問を無視して逃亡するなんて……いい度胸じゃない」

 

 ズカズカと、足音とともに地面を陥没させながら詰め寄ってくるヒナ。

 理屈など存在しない。目の前に動く物体があるから殴る。ただそれだけの、スケバンより酷い思考回路。

 

「い、いえ……! 私どもにも、組織としての都合や予定というものがございまして……!」

 

「問答無用よ。1発殴らせなさい。……いえ、死ぬまで殴るわ」

 

 ヒナは左手に持った鶏皮チップスをバリッと一口かじると、右の拳に一切の予備動作なく超絶的なエネルギーを収束させた。

 

「ひっ……!!」

 

 絶対的な死の気配に、黒服は反射的に『目の前にあった遮蔽物』の背後へと身を滑り込ませた。

 

 

 ガッ……ギイイイイイイイィィィンッ!!!!!!

 

 

 夜のゲヘナに、戦艦の装甲板がへこむような重厚極まりない金属衝突音が木霊した。

 

「……え?」

 

 黒服は恐る恐る目を開けた。

 

「〜〜〜〜〜ッッッ!!!! いっ…たいわねぇ!!!」

 

 目の前にいたヒナは、殴りつけた右手を痛そうにブンブンと振り回し、顔をしかめていたのだ。

 

 そして、黒服の正面――彼の盾となってその一撃を完全に受け止めていたのはーーーー

 

 

【万魔殿の最終兵器】

 

  【も と い】

 

 

「んおー」

 

【七つの大罪:怠惰のイロハ】

 

 

「(……なっ……!? あの空崎ヒナの全力ストレートを正面から受け止めて、傷ひとつ付いていない……どころか、空崎ヒナにダメージを与えている……!?)」

 

 レンタル先での超常的な耐久性は散々目の当たりにしていた黒服だが、まさかキヴォトス最強の魔王の暴力すらも無効化するとは夢にも思わなかった。

 

「……あんた、やってくれるじゃない。もう、ごめんなさいは通用しないから」

 

 しかし、拳を弾かれたヒナの怒りは頂点に達した。

 額の青筋は限界まで膨れ上がり、全身から黒いオーラが立ち昇る。交渉の余地など完全に消滅した。

 

 

 ドッ……!!

 

 

 アスファルトを蹴り砕き、音速で肉薄してくるヒナ!

 

「ひ、ひいいいいいいいいぃぃぃぃぃっ!!!!」

 

 迫り来る終焉の恐怖に、黒服の理性は完全に吹き飛んだ。

 黒服は無我夢中でイロハの両肩を掴み上げ、己の肉体の前面へと掲げた!

 

 

 ガギィッ! ギイィン!! ドギャギャギャッ!! ボガアァンッ!!!!

 

 

 空崎ヒナの神速の連打ラッシュ!!

 

 黒服は必死の形相でイロハシールドの角度を微調整し、四方八方から降り注ぐ破壊の雨をすべて彼女の頑強な肉体へと誘導し尽くした。

 

 一撃でも撃ち漏らせば、ゲマトリアといえど頭部など一瞬で粉微塵である。

 

 そして、数十秒に及ぶ嵐のような猛攻が止んだ時。

 

「ハァ……ハァ……ッ……!」

 

 ヒナは肩で息をしていた。

 そして彼女の両の拳――度重なる神の硬度への激突により、皮膚が裂け、うっすらと赤い血が滲んでいたのです。

 

「(信じられない……! あの怪物を、ここまで消耗させるとは……!)」

 

 ようやく冷静さを取り戻した私の視界の先。

 ヒナの攻撃を全身で受け切った棗イロハは、擦り傷ひとつない綺麗な顔のまま、相変わらず虚空を見つめていた。

 

「んあー………錠二の鞄の中に……………ハリセンが2本入っていて………んーーあーー………」

 

 スピーチは未だに迷走を続けているままである。

 

「(……イロハ嬢には申し訳ありませんが……これは、千載一遇の好機……!)」

 

 ゲマトリアの拠点を破壊され、恐怖に怯えながら夜逃げを繰り返させられた屈辱。

 あの忌まわしき怪物を、今ここで討ち果たすことができるかもしれない!

 

「覚悟なさい、空崎ヒナァッ!! これぞ我が起死回生の一撃――『イロハァックス』!!」

 

 黒服はイロハの両足首を力任せに握りしめると、彼女の頑強な身体を巨大な両刃斧のように頭上高くへと振りかざし、ヒナの脳天目掛けて渾身の力で振り下ろした!

 

 

 ブオオオオオオンッ!!!!

 

 

「んおーーーーー」

 

 イロハの間抜けな咆哮とともに、絶対硬度の質量兵器が振り落とされる――!

 

 

 

 

「引っかかったわね」

 

 

 

「……え?」

 

 振り下ろした切っ先の先に、ヒナの姿はなかった。

 彼女は紙一重の神速のフットワークで斧の軌道をすり抜け、完全に私の背後へと回り込んでいたのだ。

 

 

 ドゴオオオオオオオオオンッ!!!!!!

 

 

 行き場を失ったイロハァックスがアスファルトを直撃し、半径数十mに及ぶ巨大なクレーターを穿った。

 地面に深々と突き刺さったままピクリとも動かないイロハ。

 

 そして、私の背後から響く、冷酷極まりない嘲笑。

 

「武器がどれだけ最強でも、使い手が雑魚なら意味がないのよ」

 

 バキボキと、痛むはずの拳を力任せに鳴らすヒナ。

 

「あ、空崎さん……! 拠点で……極上のステーキとコーラをご馳走させていただけれb――」

 

 

 ドゴアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!!!!!!!

 

 

 黒服の弁明が最後まで紡がれることはなかった。

 

 ヒナの怒りのアッパーカットが黒服の顎を正確に捉え、音速の壁を突破して夜空の彼方へと打ち上げられ、満天の星々の仲間入りを果たしたのだった。

 

「……ふぅ。スーッとしたわ」

 

 ヒナは満足げに息を吐き出すと、地面に突き刺さったままのイロハを一瞥もすることなく、残りの鶏皮チップスをバリボリと咀嚼しながら夜の闇へと消えていった。

 

【暴食 VS 怠惰(with黒服)ーー黒服のみ負け!】

 

 

 

 

 

 一方、その頃。ゲヘナ自治区、羽沼マコトの自宅。

 

「キキキキキッ! さぁて、今夜のディナーは特製ノンオイル・グリーンサラダボウルと、有機栽培ナッツのヴィーガンケーキだ!」

 

 食卓の上には、鮮やかな緑一色の野菜山と、カシューナッツやアーモンドが美しく散りばめられたヘルシーなケーキが並んでいた。

 マコトは舌なめずりをしながら、両手を合わせる。

 

「大地の恵みに感謝を! いただきます!」

 

 フォークをサニーレタスへと突き立て、まさに大口を開けて頬張ろうとした――その瞬間。

 

 

 ピリリリリリリリリリリリリリリリリッ!!!!!!!!

 

 

 テーブルの上に置かれたスマートフォンが、けたたましい電子音を鳴り響かせた。

 

「あん? 誰だ、こんな夜遅くに……」

 

 不機嫌そうに画面を確認するマコト。ディスプレイには見覚えのない非通知の番号が表示されていた。

 せっかくの至福のヴィーガンディナーを邪魔された怒りから、マコトは乱暴に通話ボタンをスワイプした。

 

「なんだ貴様!! いったい今が何時だと――」

 

『もしもし!! おたくの棗イロハさんが、予定時刻を30分過ぎても到着しないのですが、いったいどうなっているのですか!!!』

 

「…………はぁ?」

 

 受話器から鼓膜を突き破らんばかりの怒声が響き、マコトは鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まった。

 

『「はぁ?」じゃありませんことよ、羽沼議長!!! こちらは1年前にやっとの思いで入れられた予約を今か今かと待機していたのですよ!? とにかくっ!! 大至急イロハさんを現場まで届けてくださいまし!!!!』

 

 

 ガチャッ!!!! ツーツーツー……。

 

 

 一方的に切断される通話。

 マコトが呆然と立ち尽くしていると、間髪入れずに再び着信音が鳴り響いた。

 今度の画面には『イブキ』の名前。

 

 マコトが慌てて通話に出ると、

 

『あっ、マコト先輩ー! アルバイトのおじさんが星になっちゃって配達できなくなっちゃったから、代わりにお願いねー! 行ってらっしゃーい!』

 

 

 ブツリッ……。

 

 

 静まり返った部屋の中に、2度目の切断音が虚しく反響した。

 

 状況を1mmも理解できないまま、羽沼マコトはサニーレタスを突き刺したフォークを握りしめた姿勢のまま、冷めゆくヴィーガンケーキの前で、ただただ硬直するしかなかった。




黒服が退院するまでの間、棗イロハ・レンタルサービスの運搬はすべてマコトが代わりに行いましたとさ。
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